説明する文章をブログだと思って書いてみた

2018-07-06 ぼやき

 仕事でのことだけど,自分から提案したことに対するコメント・質問というものがメールで回ってきた。なんでも,7月X日までに回答してくださいと。

 ぼくが提案したことは,まぁ本人も認めるくらいに「そもそも不備があるもの」だったのは確かで,もっといえば不備がいっぱいあるのだが「ともかくも提案するほうのが大事」かなと思って出したのだった。見逃せないくらいの不備があれば落とされてもしかない。だから相手も「なるべくいいところをみようかな」という方針で読んでくれたわけで,質問があったということ自体が,大変ありがたい知らせだった。

 なので,「これじゃぁ,さすがに駄目なんじゃないですかね?」という内容の批難があるよな,と予想していた。だから,実際にコメントを受け取ってもショックを受けなかった。だめだしされることって何度やってもなれないもので,誰でもそうだろう。自分の提案にケチがつけられるとがっくりくる。自分勝手なことだとわかっているが,ぼくが他人の提案を読んでケチつけることはあるし,そういうケチつけるときは「クールに,ロジカルに,文脈に即して」いればむしろよいことだ,と思っている。自分が受け取ったケチはそういうものだったから,悪い気分はしなかった。

 そして,これまでだと,手短に,要求された方向にそった形で定量的に情報を補足する,という回答方法をとってきた。それはクールな対応だと思っているし,論文の査読のようなときはふさわしい方法だと思っている。ところが今回は変えてみた。もちろん,論理的な説明と定量的情報を補足を行った上で,「そもそも,どうしてこのような提案をし,不備がある状態のまま提出したのか」について,言葉で語ってみたのである。言い訳ではなく,説明としてである。

 採用を狙っての提案ならば,普通そんな回答はしないだろう。しかし,大胆ににもぼくは「言葉で説明したいなぁ」と思ったのだ。おそらく,「この提案は別に採用されなくてもいいんだし」と思っていることが理由だろう。

今の時点で何ができるのかの棚卸し

2018-07-01 ぼやき

 どうやったったところで自分の年齢から逃れることはできず,期待を期待のままに維持して生きていけばとても危険な目にあうだろう。そう思っている.

 頭に浮かんだことは,あれもこれも「そのうちできるかもね」とその場では思ってみるが,思ったことのリストをつくるわけではない。だから,そういうことを気にした思いついた,という事実自体をそのうち忘れちゃう。これって,「まぁそういうことはあるよね」と同意していただける人はいるだろうと思っている。この一見無害な忘却グセだが,こっれは実は」結構危険なこと」じゃないかな.そう思い始めるようになった.

 そろそろ,現状の自分ときちんと向き合う必要があろう。つまり,自分には今何ができて,今後なにができそうなのか。そして何はもう無理だから「できそうなことリスト」から落とす必要があるのか.なんでもかんでも未来でなら可能かも,という考えを捨てる,シビアに判断していく作業が必要だよな。そう自覚している.

 身体的な意味で歳を取る前に,情報処理的な意味で歳をとった状態を想像し,それに体を慣らしていくことととも言える.もはや過度な期待を自分にはかけないでおくようにしたい.でないと,今後は寂しい気分ばかり味わう人生になってしまうだろうから.自分には期待をかけないで,淡々と生きていく.ある意味これは大変寂しい作業だが,しかし自分に一定の知性がある存在ならば「来し方から行く末」を推定するくらいはできるはずだろう。寂しくても「それくらいやれ」と思っている.そろそろ本腰をいれてこの作業を普段の生活に組み込んでいこうか。そう思っている.

 多くの爺さんを通勤電車,とくに帰宅時の中でみかける.その人達を1,2駅分だけでもなにとはないし観察していると,人の精神的な老化にはいくつかのタイプがありそうだなと気づく.べつの根拠はないのだけど,そう観察できる.

 一番多いのは「これまで通りの日々が続くとおもっている」というものである.それは,自分たちはある一定の年齢以後は加齢しないと考えている人たちである.この特殊な例として「以前よりもより若くなっているとでも思っているのではないか」人もいる.次に「年齢の呪縛から逃れているが,ただ単に精神的に不調をきたしているようにみえる人」である.例えば,普通の人なのに自分が重要人物だと勘違いしている人,単に不機嫌な人というもの.これは漫画みたいな人たちだけど,実際にいる.最後に,ぼくが見ててほっとするのは「そのままの人」.つまり年齢通りの風貌と挙動を無意識のレベルからできている人.おそらく,周りの人からすれば,このようなタイプの人が一番付き合いやすいだろうと想像される.

 自分の服装や挙動を他人からとやかく言われる必要はない.それは本当にそうである.おしゃれをする必要はないし,ある意味清潔なものを身につける必要すらない,といえる.それこそ,その人の裁量である.

 にもかかわらず,どうしてそういう服装なんだろう,と思うことがある.わりとよく見かけるのは,無理した若作りである.いや,本人はそんなつもりはないのだろう.昔からそういう服装だし,というものを身につけるだけかもしれない.しかし,昔から身につけている人の姿は,正直それとわかるものだ.着慣れている人の服装は,大抵はその人の存在に溶け込んでいるもので,だから「気にならない」のである.しかし,意図している服装は身体から浮いているのですぐにわかる.その爺さんが若かったときにはそういう服装が流行っていたのだろうな.それならわからなんではない.若いが進んで,たぶん本人も意識していないのかもしれないが,少年の服装になっている人がいる.帽子のかぶり方,シャツやパンツの着方,そして車内での挙動である.静かに佇んでいるだけだかから,特段問題はない.問題はないのだが,人生の最後に近づいてそれはないだろうよ,ということいなっている.

インターネット上の無料サービスはやっぱり,ということ

2018-05-27 おしゃべり

 もう何年も前だけど,Flickrという写真のクラウドサイトを利用していた.無料でアップロードできる枚数が少なかったので,年間で5000円だったかな,Flickrの有料会員になった.自分の写真をアップすることを目的にしたというよりも,他の人の写真を見せてもらう機能が面白かった.有料だからか,Flickrはちょっといい質の写真が多かった.

 写真をアップロードできるクラウドサービス,その数年後にはどこでやっている普通のサービスとなり,だからわざわざ有料オプションに加入するメリットはなくなった.だから通常の無料会員もどした.そしていつのまにか使わなくなった.アップロードしてある写真は,そもそもそんなたいしたことがないものばかりだったし,そのままクラウドにほっておいた.事実上パブリックドメインとなったようなものだ.

 数日前にFlikrからメールができて,Flickrのオーナーが変わるからどうのこうのという内容だった.そのメッセージは英語だったから,結局Flickrは日本語はしなかったと知った.Flickrの写真はなかなかよいものが集まっていたはずだが,インスタグラムのほうが人気がでちゃったのか流行らなかったわけだ.シリコンバレーのいわゆるスタートアップ企業だったずだから,まぁ持ちろ主がかわっていくのが普通だが,いかにもそれっぽい.Flickrにぼくはもうアカウントを持っていないと思う(というか,事実上捨てアカ),メールへの応答はしなかった.べつに損するわけでなし,画像はどうだっていいし,重要な情報は載せていないし.

 ここで思ったのだが,ネットのサービスは継続するものだと期待してもいいが,実際は所有者が変更されたり頻繁するだろうし,そのときに登録ユーザの個人情報がまとめて売られたりするんだろうな,とよくわかった.カード情報はもちろん,住所やメールアドレスなんかも,もう情報としては売る対象でしかない.これからわけのわからないところからジャンクメールがくるのだろう.メール程度で済むことを祈る(よりないが).

 会社って,とくにネット上でのサービスのスタートアップ企業って,長く続くようなところはすくない.続けるつもりがないようなところとはかかわらないほうがいい.これば僕の予感だけど,会社,とくに利益目的の会社って,結局は信用なんて気づけないまま倒産するだろうから,個人情報なんて売られるにきまっている.だから結局のところ関われば関わっただけ一方的に損になるのだよ.これは間違いない.この事実から身を護るすべは,関わらないことしかない.たいして新しいサービスを積極的に利用しようとする開拓者精神がある方ではないが,既存のものも解約し,新しいのには参加しないことにした.

 これだけ日本の政治がおかしなことをやって,その影響が日々の生活に現れない「わけがない」.できるだけゆっくり下降してもらいたいが,さてどうだか.そうゆうときになって初めて,法整備もおかしなっているし,いろんな情報は「あとからどうにでも変えられちゃう」こともはっきりした.ならば,どこかへ売られた自分の個人情報がいつか災いを招くことになることは必至.スカベンジャー的な企業は,それが僅かな利益であっても,ゴミからエネルギーを抽出するように,個人情報を換金する工夫をしつづけるだろう.用心するに越したことはない.

通勤で読む本について聞かれたが

2018-05-20 おしゃべり

 5月になったからか,今年から職場に入ってきた若い人と顔を合わせるようになった.新人といっても研究者だったり学生ったりとあるので年齢はまちまちだが,まぁ30歳前という程度になる(大学各部新卒の人と顔を合わせる機会は僕にはない).きっと考える事すべてを「物事はうまく転がる,自分は結果的にうまくやれる」と思って疑っていない人の目はキラキラしていると感じる.逆に言えば,目をキラキラさせるには,なんだっていいから「幸福の女神が横にいる」と体感的なレベルで信じて行動することなんじゃないかとも思う.

 通勤の話になる.すると,時間はかかるけど行き帰り座っていけるし週末は自分の行きたいところへ行けるし,だからお金も逆にかからないし,気分良く過ごせてるよ,という話をする.家賃は高いけど,運がよければ良いところを見つけることはできるものだという話をする.まぁ,偶然の要素が多いけど,それでもぼくの生活パターンを構築するうえでは住む場所はとても大事だよねと.

 通勤時には本を読むようにしているし,そうしたいからこそ電車を選んだのだけど,結果的に年間100−200冊くらいの新書・文庫本が読めると話す.今はもう冊数をカウントしていないが,本を読まなかった時期の読書量を取り返す必要があると感じていた頃はなるべく多く読みたいと思っていた.しかし,そうそう目論見通りにできるわけでもないが,普通の人よりは時間を割り当てているはずである。

週末の楽しみは地味でよい

2018-05-19 おしゃべり

 さぁ週末だ.

 週末だからといって何か特別なことをするわけではない.単に,毎週末やっている行動を今日もとるだけである.昼ごはんにラーメン,喫茶店でコーヒー,そして本屋をはしごして新書と文庫本を買う.録画してあるビデオを見て,夕ご飯を食べて,本を読んで寝る.たまにコンピュータをいじっているうちに眠くなることもある.要するに,どうということのない過ごし方である.

 普通の人は普通に過ごせばいい.普通に過ごすためにお金はかからないし時間もかかわらない.だから「長く」続けられる.気づくとその人の人生を形成しているくらいの影響力をもってしまっていることもある.ぼくは今のこの普通の過ごし方ができてよかった.そう思っている.この生活パターンは比較的意図的に準備した.もちろん偶然できた要素も大きいが,大筋はこうなったらいいなという希望の方向に進んだと思っている.

 決定的なことは住む場所の選択だろう.仕事をもってからは職場に近いところに住んだり,ちょっと電車に乗れば通えるところに住んだ.他に選択肢がないようでもあったし,普通そうするだろうと.また,一週間の殆どは職場に行くのだからそこを中心にして生活すればよい.そう考えた.ところが,この考え方は間違いだなと1年してわかった.

 結局楽しいことは何か.自分だけではなく奥さんはどうしたいのか.あれをしたいなぁ,という希望と同じくらいあそこに行きたいなぁと思うもので,その場合は住んでいる場所が決定的になる.東京ならば,山手線近傍ならば10分あるけば地下鉄の駅がある.そいうところに住めば,行きたいところには行けるもので,場所によっては電車すら使わず自電車で行ける.こういうところに住めば良い.そして,ブラブラと探すとそういう物件はあるものだ.

 今は通勤時間が2時間半かかるが,電車の方向は逆なので行き帰り座って本を読んでいる.奥さんは好きなお店でパートをしている.週末は自転車でお気に入りのラーメン,本屋,喫茶店に行く.気候が良いときは皇居前の芝生でゆっくり過ごす.こうすることすると,行楽費用はかからず,付き合いで過ごすこともなくなり,やりたいことだけに時間を費やすことができる.20年ちかく続けているが,未だに幸せな日々を送っている言えるわけだ.社会的にはごく普通の市井の人で,ごく普通の場所に住んでいるだけだけど,気分良く過ごすには工夫があればなんとかなるようだ.

 さて,今日も昼はラーメンで,夜は焼きそばとビールから.スーパーでかう焼きそばなんて安いけど,相当贅沢な時間を過ごせることがもうわかっているわけだ.

 

いまの政治ニュースはどうみるのがいいのか

2018-05-19 おしゃべり

 それにしても,もうどうしようないニュースが政治面社会面に連日踊っている.大変気分が悪い一方で,あきらかに「頭がおかしな人間が要職にいるんだな」とコミカルな気分にもなる.いいおっさんなのに,なんであんなアホな言動をつづけているのだろうか,そう不思議になる.が,これは笑いごとではない,といって市政の人が今すぐどうにかできるわけでもない.
 
 嘆くことよりも,問題はなぜそんな連中が権力の中枢に「ずっと居残っていられるのか」である.現実的な意味で自分の生活を脅かす危機だといえるのは,おかしな首相がいることでも大臣が発生したことではなく,そいつらが何年も居座っていることだ.社会的には非難を浴びているが,賞賛する人もいるらしく,それが理由で居座っているのだろうか.

 いや,賞賛があるよという程度の話ならば普通やめるだろう.単に,彼らは「彼らをやめさせる主体,仕組み,前例」がないから続投が続いている.そういうコメントなり解説を目にすることはある.しかし,あの連中の行動・発言の異常さのグレードは「さすがない」レベルなのだが,本人がその仕事を希望し,選挙で選ばれ,党のなかでリーダーとみなされれば現在ような官邸の風景が維持されてしまう.やめるやめないは本人の希望もあるだろうという味方が与党内の希望なんだろうと想像できる.

 現在の状況は,いってみれば政治システムのバグであり,タイルの目地にいついたカビのようなものである.

 権力は腐敗する.専制的権力は徹底的に腐敗する.この言葉を思い出すが,「ありゃ,本当だな」と腹の底から感じる.腑に落ちるというが(本当は「腑に落ちない」しか辞書的な使い方は存在しないことは知っている),この言葉が腹の底に当たった内蔵感覚がするくらいはっきりと理解できた.この現象を集約するとこの文章の冒頭の言葉になる.極めて適切なものだ.

 権力についてはわかった.権力とは,本来ならば権力がない存在のはずでも,僅かな謙虚をもっている人が大勢「すりよってくる」ことで権力が発生され,おかしな連中が権力をもつことができるようだ.証人喚問や参考人招致での発言を聞いていると,見ている人は「だれもあなたのことが事実を語っているとは全く思っていない」状況下で,嘘をついている.猿芝居である.そこから考えて,この連中は「エリートの自覚」を持っている人なんだろうな,とわかる.というのは,おそらく「自分以外は全員バカであり,そんな人に何かを伝えるつもりもなく,ともなく,ここで喋っている私はすごい人なんだ」としか考えていないだろう.そういう,ある種の宗教的な信念がないと,まともに生活できないだろうと思う.いつの世も信仰をもった人を相手にするのは大変で,可能な限り相手にしないで生きていくべし,という気分を思い出す.

 明治以後太平洋戦争敗戦まで,いや半戦後においても日本人は宗教的な動物だったといえる.それはキリスト教や仏教のような形をしていないが,明治政府が人工的に植え付けた観念である国体護持ようなもの,戦後は天皇制というものを自分の上にあるものとして行動したわけだ.一連の半藤一利さんの著作を読んでいるが,たぶん戦前のある時期の帝国陸海軍から政治家,あるいは一般の人とすら,いまのぼくとは「会話が成立しない」だろうと思う.これらの人は現在の過激なイスラム教徒の人たちとなんら変わりないだろう.宗教のような「自分より上の存在が絶対である」とした社会規定をもっている人たちの行動は,歴史書をみていると事例にことかかない.

 行く末はもう見えた.ただし,歴史を知っている人は少なからずいる.皆が皆頭が悪いわけでも,俺が偉い病ということもない.バカとまともがどうせめぎ合っているのか.まともな人が少しでもまともに生きていくためにはどうしたらいんだろうなとは思うが,そうこうしている間でもおかしな法律が続々通過するようで,どうにもならない的な気分はある.これからの人は,実にかわいそうだなと思うが,社会のおじさんがほぼリーマンで占められた段階で,こうなる状況になることは確定いたのだろうなとも思う.

どんなことをここでやりたいのか

2018-05-12 おしゃべり

 どんなことをここでやりたいのだろうか,と漠然に考える.いや,そんな一大決心や目的のようなものはないだろうが,ずっとやっているからにはなに理由があるんじゃないかね,という疑いがあり,それを知りたい.自分の行動の理由だ.こうして,文章というものを作り出す練習を地味にやっているが,その目的地・ゴールはどこに設定しているのか,そんなものをそもそも設定しているのだろうか.自分のことだから自分で考えれば良いはずで,よくよく考えみたが,答えは「そんなものないよ」である.自分の行動の動機が掴めないでいる.

 草野球が好きだとして,休日の隙間時間に空き地でコツコツ練習(どんなものができるのかはわからない)をするとして,その人に一大決心があるのだろうかね.そう問われれば,多分ないんじゃないかと答えるだろう.暇なので,なにとはなしにやってしまう.それに目標や意味などあろうかね,とも思う.ただ,それをやらないと気分が収まらない.それをやること自体が目的であり,その先は視野にない,せいぜい迷惑をかけたり,直接的な害を生まないことだから,ならば目的ないけどやろうという程度だろう.一人カラオケというのがあるらしいが,まさにそれだろう.カラオケが好きな人に,その行為の目的などを聞かれても,そんなもんあるかい,と言われるだろう.

 考えたことを文字にすること,それが綺麗な形で表示されること.これがブログの目的といえば目的だろう.落書きや張り紙は迷惑になろうこともあるが,自分で準備したサーバに自分でアップするだけで,どこにもPUSHされないページなのだから,これはちょうど一人カラオケと同じだろう.カラオケと同じで,それ自体は楽しいし,一人だったら一般的な意味で上達するかどうかは怪しいが,別の上達はあくまでも「まぁしたらいいよね,しなくてもやるけどね」という程度の評価になろう.いいじゃん,別に.そういう気分でつけている.

 意味があるブログとないブログという判断は可能だと思う.調べ物をしているときに,実に丁寧に教えてくれるブログというものはけっして少なくない.それはレシピであっても,何かの使い方とか歴史とは,ある種の趣味に関する十分と立派な情報ページというものは,ほんとにたくさんある.企業が収入目的で紹介している雑誌の記事のようなページもたくさんある.そちらのほうが信用がありそうな気もするが,必ずしもそうではないが.そして,個人の趣味ブログと企業雑誌ページの中間のようなものもある.いろいろある,というのが編集がないインターネット上のブログなのである.それはそれでいいじゃないかと.

SNSとブログと

2018-05-12 おしゃべり

 TWは気軽に投稿できるから,自分の意見表明の場として使われている.そう見える.もちろん,ぼくのフォローしている範囲からの想像であって,ぼくがフォローしているのはニュースサイトとマスコミで発言していたもおかしくない人たちだから,全部のユーザーが意見表明プラットフォームとして使っているわけではない.それはわかっている.

 TWをLINEのように使っている人もいるだろう.グループのようなものが定義できるのだろうか.まぁ,それだったらLINEを使うだろうから,結局仲間内の情報メディアとしてはLINEで,有名人やニュース速報のようなレーダーとしてはTWをつかう.これが素直な使い方だろう.ほんとにそうかは知らないけど.そして,意見表明についても,ちょっと長くなるようなものはブログなのかなぁという気もする.

 有名人といっても,その作品が文章中心ならば,TWでの発言は文章になるはずだった素材ようなものかもしれない.そして,その作家の作品が好きな人は,そういう素材についても喜んで読みたがるはずで,だからTWでアカウントを見つけたら喜んでみてしまう.ぼくはそれが理由でフォローしている.しかし,文書とは直接つながらない人の場合は,今何処で何をしてるのかなぁという片鱗ついて知るだけで,からなずしもTWを覗く必然性はない.でも,見ちゃうけど.

 とくにつねに連絡をとりあっていたいような,高校生時代での友人のような人が社会人となってなって以後必要でもなくなるはずで,となるとLINEは真っ先に必要なくなる.TWもフォローはニュースソースと有名人だけになる.この状態ではTWに書き込むのは,基本的に「備忘録」とか「体調記録」とか,そういうものでしかなくなっていく.まとまった話はできないし,かといって誰に伝えたいという内容など頭に浮かんでこかないので,そもそもそれをTWで飛ばす行為が面倒だから.自然ブログスペースを使うほうが気が楽になる.そして,今こうしているわけだ.

 ちょっと考えてみればわかるのだけど,あまり知らない人の話はそもそも興味深くないし,面白いとも思わないだろうと身構えている.駅の雑踏でたまたま話す必要ができたときを想像してみるといい.ブログは検索結果,それも,Googleの検索結果の10ページを超えたあとにリストにあがるようなブログとして表示され,そこからジャンプしてくる人しか,すくなくとも誰も見ないはずで,その状態のブログが面白いことはない.ただし,コンピュータ関係などの「操作方法の体験記」のような,個人的な取説を上げてくる人はほんとうにたくさんいて,いつも困ったときはそれだのみになる.だから,特定の興味をもっている人でもない限り,ブログは参照されないし,また期待もされないし,メディアにはなりえないだろう.

 では,ぼくは何をやっておるのだろうか.いや,けっきょくのところあまり意味はないだろう.それはわかっている.ただし,ただなんとなく考えたことを言葉にしてみようかなと思っている.そして,せっかく書いたものは「検索可能」な状態にしておきたいなとも思っている.PCだと「スポットライト」があれば検索可能だけど,他の端末でも普通にさがせるようにするのは,まぁネットに上げてしまうのがよかろう.秘匿情報はなし,どうでもいいような画像ばかりだし.

 こうして,ほぼどうでもいいようなことをしつつ,日曜日の朝を過ごす.

本を読んだあと

2018-05-06 おしゃべり

 以前は本を読んだあとには内容の感想メモをつけていた.一体何冊くらい読んだのだろうか.読んだ本を数えることが最初で,表題,せっかくだから感想を.そうやって綴っているうちにブログというものを始め,最初はブログが手段だったのが,手段が目的化してしまった.本を読んだ感想はおまけのつもりだったのが,いつのまにやら目的化したために,ブログのためにサーバを設置し,ブログのための本を定常的に冊数をこなす努力をするようになった.しかも,誰に頼まれたわけでもくなく,また誰も見ていないのにもかかわらずやっていた.まったく,遊びというものはあるとき真剣になってしまうものだ.今にして思えば,実に健全なことだと思うのだけど.

 本を読んだあと,その本の内容について誰かに話したり,何かの折に引用めいた事をすると,何もしないより内容を忘れない.そりゃそうだ.読むだけでは読み終わった端から忘れてしまうことがある.ひどいときは午前中に読み終わって,夕方あたりに「あれ,今朝読み終わった本ってなんだっけ?」と思うことすらある.えーっとえーっとと考えて,そうだそうだと思い出す,こんなときは「読むだけでは端から忘れるもんだな」と自分の記憶力が少し心配になった.

 本を読んで,その内容を全部覚えてしまう.そんなことがあるわけはないだろう.絶対にない,とはいわないが,まずもって思い出す可能性はほとんどない.本の内容について,なんからの関わりが自分との間にないと,自分とは結局のところ無関係で終わってしまうのだ.読んだだけではだめ.せめて,その本を2回3回と読むか,あるいは内容についてあれこれ考えて人に話すか文章にする.こういう作業を経ないと,とくに一回読んだだけでは,内容なんて忘れてしまう.

 では,読んだ本をを忘れてしまったら,読んだ行為自体が無駄になるのか.それはわからない.無駄だったということもあると思うが,そもそも「なにゆえその本を読むに至ったのか」次第ではなかろうか.「単に読みたい」と思って読んだのならば,「それは読むこと自体が目的だった」ということになる.読んだ後のことは,そもそも目的に含まれていない.ならば,本の内容を覚えていようが忘れようが,そんなことはどうでもいいはずだ.目的に含まれていないことをさも関係があったようにやり玉に上げて非難しているよなもので,実にアホくさい.つまり,「そもそも,その本をよむ目的は何だったのか」,これをまず最初に考えて,それから無駄かどうかを判定しようかという行為に入ることだ.

 歴史を知りたい,技術を知りたい.そういう理由ならば,流石に内容自体を覚えていないとまずいかもしれない.知るために読んだのだから,知った状態を維持しないことにはよんだかいがないではないか.推理小説などは,読むこと自体が楽しみなのであって,トリックなどは知ってしまったらもう終わりである.トリックをきれいサッパリ忘れれると,いつまでも推理小説を味わえるが,どういうわけか人は便利にできておらず,鮮やかなトリックほど忘れられない.すべての本がそうだったらいいのにね,と思うのだけど.

少し先のことを考えてみると

2018-05-06 おしゃべり

 人は歳をとるし,歳をとったらどうやって生きていくのか心配する.芥川でも太宰でも,ある種の不安から自殺しているわけだが,その理由は老人となったときの生活を想像してのことではない.今年のお正月に大物の哲学者が多摩川に入水したが,その直接の理由は「老人となって,自分でいろいろなことができなくなるまえに」ということがあるだろう.単なる自立性を失うことへの不安ではなく,毅然とした生活が送れなくなる前に自分が主体的に自分の生死を左右しておきたかった.そういうことが理由なんだろう.そう思っている.病気になって辛いという現実ではなく,予想している世界へいくことの拒否したのだろう.

 どんなに頭が良い人でも健康な人でも,家族がいて面倒を診てもらうことや経済的なことの心配はさほど大きくないだろうな,という人でさえ自分で自分の人生を終わりにしてしまう.だったら普通の人なんか,いったいどうすりゃいいのだろうか.その種の問題がそろそろ地平線から上がってきてぼくの視野に入ってきた.ならば少し考えてみることは必要だろう.結局結論は出ないのだとしても.

 ぼくは標準的?な家庭を営んでいると自分では思っている.もちろん,人の生き方は多種多様であり,自分を取り巻く人も多種多様だろうから,結果的にその組み合わせは「すごい」多種多様になる(はずである).いわゆるドラマや小説で登場する「日本の東京に住んでいる普通の(中流)家庭」というもののはずだ.ともかく,そう仮定してみる.

 この先はどうなるのか.とくに立派なことを成し遂げることもないだろうから,このままいわゆる定年がきて,その先の収入源はどうするかから考え始める.まぁ公的年金は「ほぼ完全崩壊」しているだろう.いわゆる保険という仕組みは機能していないか,一部の人のためにだけ機能しているにとどまっているはずだ.現在の「つけ」がこの先で回収されるだろうことと,人口動態の歪の問題が顕著になっているだろう「10−20年後」は,生きていて楽しい時代なはずがない.なので,日本のシステムに依存しようと考えていたら「不愉快な日々」となることは確実である.ただし,セーフネット的なものは機能していないから,とても嫌な社会が露呈しているはずで,そのときどう生きるのかが問われたとしても,この問題にはおそらく解はなく,衛生も医療も不備な世界で長生きできるわけもなく,わりとあっさり死んでいくのだろう.まぁ,正直いまから結果がわかっているわけだ.

 未来に対してどう準備するのか.通常なここで「お金を確保する」ことを考えるはずだ.それが個人年金や保険,その他あらゆる手段での資産形成である.数学的に予測できるように世界が推移するのならば,現時点で計算するような方法で準備しておけば,計算したような恩恵をそのまま受けることができるはずだ.でも「年金の記録がないとか,役人が使い込んじった」という事件は現実にいくつも発生しており,その後も置き続けているだろうし,最近の財務省・首相まわりの一連のニュースをみてれば,役所もシステム通りに機能しているはずだ,などとは期待さすがにできない.例えば,天引きされている税金が支払われたことになっているかどうかすら,この先「システム的に維持できるかどうかは不明」だと思っている.人が馬鹿になれば,システムもそれに合わてバカ用になるわけで,だから数学的な予想や防御は,現実の前にはまったく無力と化すだろう.そう思っている.要するに,資産形成によるリスク回避は「無駄だな」ということだ.

 10−20年後では,現在基準で「ふつうに生きていく」ということですら相当困難なことになるだろう.頭のいい人は自分のための多くの「犠牲」つぎ込むはずだ.古代からそうだったので,だからこの先にもそれが生活に表面化するはずだ.高級役人や政治家,上場企業なんて実際いまそうしているわけで,それが日々のニュースに漏れ出ている.今後,どういう形でそういう「醜悪な現実」が表出するのかはわからないが,よくみれば「それって奴隷じゃん」という生活の方法しか残されないという人が,街を歩けばあの人もこの人も,という具合に観察できるくらいの割合になっているだろう.そして,それは今現在から進行しているはず.現在,教育をまっとうに受けるチャンスがなく,だからといって技術職につけるわけでもない状態の人は,今現在から未来はつながっていると思って良い.現在のあらゆる青春映画のような世界にいられる人びとは相当ラッキーな状態のはずなのだ.

 21世紀末の日本の人口は6000万人だそうだ.現在から7000万人減.人口の歪みがないとすれば,高齢化という問題はクリアしているはず.その頃の世界はどうなっているだろうかと気になる.例えば,人口が減った状態で日本語の本の出版はどの程度維持できるのだろうか.現在でも人口が少ない国で母国語で出版される本の割合は低いところがある.それは自国の人だけでは出版事業が成立しないからで,英語だのフランス語だの本をまぜるよりない.そもそも母国語ではない本を読める人は,そもそもからして多いはずもなく,時間がたっても母国語の本の割合を増えるかどうかはわからない.知識階級が自分たちの優位性確保のためにそれを望まない,ということは普通にあるので,一度そういう状態に陥ったらもう自国語での出版の向上など望めないはずだ.ならば21世紀末に今のような形での出版や本屋が日本に残っているのかどうか,わからない.全部電子化されているのかといわれるとそれもわからない.

 ちょっと考えただけでも,いわゆる明るい未来なんぞとても考えられない.また,これらの想像は「自分の身体がとくに問題を抱えていない場合」に限っての想像だが,果たしてそんなにうまく歳を取るものだろうか.とても疑問だ.歳をとるとは身体も脳も不調になっていく.もちろんずっと健康な人もいるが,そうでない人もすくなくないだろう.自分にとって都合よく生きていけるように歳を取るなど,とても期待できるものでもない.また,自分が大丈夫でも家族や知り合いが問題を抱えることはあるし,住んでいる地域が災害にあったり,国がおかしくなったりすることだっておおいにありえる.7年前には東日本の震災があり,90年前くらいには関東大震災があった.70年前は空襲があったし,その後もいろいろな公害もあった.交通事故はいまでも少なくない.多くの人は自分が健康でそのまま数値の上だけ歳を取ると考えているが,そりゃひどく楽観的な読みだろうよ.そんなわけないじゃないか.

 こうしてちょっと考えても,なんとも「困難なこの先」があることがよくわかる.現在の市井の人の半分以上はおそらくこういった蓋然性の高いことを考えることはしないだろうし,話をむけても不機嫌になるだけで,そんなこと考えないだろう.それは太平洋戦争時代の普通の人々と同じであって,そういう人に意見を聞いたり同調したりしても生きていく上で「有効な話はきけない」.ぼくはそう思っている.ならばどうするか.当たり前だが,自分で自分の身の振り方を考えるよりない.そして,その問題には解が存在するかどうかも怪しい.考えたところで安心できるべきゴールなどないだろうな,とわかっている状態で,それで何をどうするのかを考える.なかなかこれは相当タフな行動だよなと思うわけだ.たぶん,普通の人はそんなことやらないだろう.自分がやらないから,人がやることを勧めないだろうし,やっている人をみたら邪魔するだろう.

 さて,こんな状態から一歩を踏み出すとすれば,まずはどこからか.一歩目は比較的考えやすい.それは,現時点での「予想される未来」について,学ぶこと.なにがどうなるのか.もちろん正確な見通しを持てるものではない.それでも,いろんなところで「こうなるだろうかね」と考え,それを発表している人は結構いる.それは学者さんかもしれないし,小説かもしれない.その発表されたものに含まれる情報も世界全部かもしれないし,金融機構の一部かもしれないし,社会性制度存続が成立しないことを証明している期間のスタディーかもしれない.いろいろな形があるはずで,それを集めて自分の頭で調合するよりない.もちろん,そうしたところで「意味はない」という評価を出してくる人もいるが,べつに自分がどう予想してどう生きるかを人から評価される必然はないし,これこそ「足を引っ張る」典型的な人のやることだから,ともかくそういう状況からは逃げるほうがいいだろう.

 GWの最後の日に,少しはまともなことを考えるかと思っていたら,もう日が傾き始めた.こうして普通の日は暮れていくのだよね.