世の中には本当に面倒な人間っているもので,自分と同じ人間だろう,と思って接すると大変にバカをみるような事があって困る。人であるからには見た目は「人間」なのだが,頭の中がどんだけずれているのか。これは見た目からはわからない。まともな組織で職を得ているからといって,感覚もまともだ,ということが当てにならないことがある。だから,ほんとに嫌になってしまう。

 基本的に,そういう人とは関わらない,できるだけ遠くに離れること。そういう災害のような人に近寄る結果となるのは,電車で同じ車両にの居合わせた人のようなものである。数分〜数十分後にはどちからが先に車両から降りてもう会うことはない。そういうものだと考えて,また,そういうものと同じになるよう心して「可能な限り離れる」ことである。放射能のようなものがでているので健康にわるい,くらいしか方法がないのである。

 それでも,全く関係がないことにはなりえなく,仕事上のやりとりがあったりするし,連絡事項で自分のことをどう評価されることもある。まぁ,そんなことは「見なければいい」わけなのだが,なんの因果か回ってくることがある。情報網からながれてくるものは,インターネットに転がっている情報と同じで玉石混交といわれるが,玉なんてねぇ,とぼくは思っている。下水道に網をしかけて「玉」がとれるのだろうか,玉を探す間にどれだけゴミを網から除去しなければならないのか。ちょっと想像すると,想像しただけで「そんなものにはちかよらない」と決心したくなる。

 関わりたくな人から「あれこれ評価」されるのは,それだけでおぞましいくらい腹立たしい。そもそも関係ないのになぁと冷静には思えるのだが,ネガティブな(しかも,それは誤りだろうと立証できる素材をもっている)ことを吹聴されると叶わなん。はたら出しいし,ほんとに腹が立つが,「人の口に戸は建てられぬ」という言葉を体感することになる。ほんと,そうですなぁ。

 この腹立たたしさは何につながっているのか。考えるに,他人の持つのぼくの認識が「違っているよ」ということに尽きる。本当はそうじゃない,ちがうんだ。そう言いたいのである。が,これは難しい。論文として成立するくらいに反証を持っており,科学的な意味で「違う,本当はこうだ,その人の言うことはその人の希望であるが,そいつはろくでもない人から話を聞くのを止めておけ」と他人に向かって言いたいのである。が,これって可能だろうか?意味があることだろうか? ぼくは,無駄なことだ,と諦めている。

 ネットで取得した情報,噂話,こういうったものから得た認識は,所詮人から得たお話である。そのお話のどこまでが正しくて,どこまでが間違っているのか,聞いた人が決めることである。どんな情報に対してもこの割合が0:100ということにはならない。10:90とか40:60とか,ブレがある。で,その信用度の設定が,情報を受け取る人の「リテラシー」と言われるもので,この設定のスマートさが,その人が世の中で生き延びられる時間を決めているのである。

 まともな人は,情報を受け取るときにその情報の真偽比率を適切に設定する。100:0といような値を決して設定しない。つまり頭がいい。だから,そういう人についてはいささかも「物事が悪い方向にずれていく」とは思っていない。しかし,問題は,この真偽比率設定に信頼できるひとは,正直さほど多くないということである。自分だって怪しいと思うくらいなので。

 すると,ぼくの「イライラ」行き着く先は,おかしな人からのガセネタによって,自分の行動ややってきたことが「おかしな評価を受けてしまうこと」にある。やったことは文字通り過去のことなのだが,それについて改竄することはできないと思っている反面,人の気分でどうにでもなってしまうようなところがあるとも思っている。記録文書を突き合わせて事実と異なることを立証することができたとしても,そういうことに相手が付き合って判断を修正してくれるかという期待は,実はほとんど持てないと考えている。

 つまりは,相手がもつ自分に関する認識が事実と反する場合,実際のところ何ができるのかが問題である。そして,結局は何もできないかもしれない,という現実がある。それに苛立ちを覚えるのだ。これは,世の中では珍しいことではない。むしろ頻繁にあるといってもいいくらいだ。

 で,どうするか。これはもう相手の認識については,諦めるよりない。そう思っている。相手の認識は相手のものである。それが事実として扱われ,自分に多大な不利益をもたらすとしても,相手が勘違いしており,誤解による判断をし,それがまかり通る状況ならば,もうしょうがないのである。

 ただ,相手の誤解はこちらに不利益をもたらすが,相手には結果的にもっとすごい不利益をもたらす可能性が高い。なぜなら誤解をもとに行動しているのから。山道で標識に不備があり,そちらの道を行くと遭難する可能性が高い,という状況のようなものである。本来ならば誤解は遭難と直結しているのだが,それが日々の生活では見えにくい。見えにくいこととないこととは違う。誤解をもとに行動するタイプの人は,なんどかそういう状況に陥ったあとに,最後には遭難するわけである。

 相手の誤解をどう解くのか。これは重要なもんであるが,他人からはあまり口出しできない。相手自身が「自分が誤解をしているかもしれない」と思うかどうかでしかない。そう思わないタイプの人は,結果的に相談する。だから,誤解を解くのは己のためなのだ。人がとやかくいうことではない。自分は自分でしっかりと誤解していないか身の回りを確認することである。