ブログをつけることの効用について,つらつら考えてみる。

 文章を書くことついての,なんらかの訓練になる,これは間違いない。たとえ指導してくれる教師がこの場に存在していなくともとも,十分に学習できる。もちろん,書いたものを読む人はいないければならないのだが,すくなくとも「書いた本人は熟読する」ことができるはずで,そならば意味がある。それに,文章ではないものを文章化するのだから,それなりに考える時間をとるわけで,よくよく考えること自体が,日々の生活において持つことが難しいよいことだと思っている。

 一人でべらべらとしゃべることは,普通しないだろう。例えば電車の中で,あるいは駅まで街を一人で歩きながら,誰に語るわけでもなくべらべらと喋っている人を見かけたら,こりゃちょっとおかしな人だ,と見られても仕方がないだろう。ぼくだってそういうおじさんが近くにいたら歩くスピードを早めてさっさと離れる。だって,そんな怖そうな人に近寄ったとしても,いいことなんてないから。

 しかし,電車のなかでパソコンのキーボードをパチパチやっていても,この人はおかしな人だ,ということにはらない。あまりにパチパチとキーボードを叩いていたら,電車ないで電話をしている人のように「あぁ鬱陶しい」と思われるかもしれない。その意味で,周りから人が離れるかもしれない。ただし,この人は気持ちが悪い,とか,なんだか良くないことに巻き込まれそうだから,という理由で人が近寄らないということはない。そこが話すことと書くことの大きな違いである。だから,一人でやるならば書くこと(パチパチとPCのキーボードを動かすこと)を取るべきだ。スマホでもいいけど。あぁ,音声入力でやると微妙なことになるが,そこはちょっと考えないでおく。

 文章として「自分の考えていること」をかいてみる。自分が問題していることを「これ問題でしょ?」という意図で表現する。そうそう簡単なことでは決してなく,実のところ時間も知力も相当使う。だからこそ文章書きは,それ自体が知的な訓練になる。

 ただし注意しなければならないのことがある。それは,訓練になるのは「行為自体」であって,成果物の品質ようなことにはつながらない。つまり,PCでパチパチと文章書きをつづけたところで,その結果,文章が上達する,ということはないかもしれない。あまり期待しないほうがいい。成果物をよくするには,成果物自体にフィードバックをかける必要があるはずで,それにはやはり上手な人に成果物たる文章を添削してもらうのが一番手っ取り早い方法だろう。もっとも,その方法は機会に恵まれないと難しい。というわけで,書くことについていえば,上達を目指すことは難しく,だからそれを目指さないい。そう思っている。

 ところで「ものを考えること」ってなんだろうね。ものを考えている状態って,よくよく考えるとなんだかわからない状態である。僕の場合,「眠りの浅いときにみる夢」みたいなものである。明日やらなければならない作業があって,あれをしてこれをして,という感じで夢のなかでその段取りをしている自分のイメージがうかん出ることがある。しかし,そこには視覚的な意味で詳しい工程は存在していない。ただ,そういうことをやっている自分の感覚があるだけなのだ。これが,ぼくの「考えているという状態」である。おそらく,これは人によって激しく違うものだろう。だから,他人のと比較しても参考にはならない。ただ,あぁ,いろんなものがあるんだ,というだけである。

 ぼんやりと考える癖しかない人は,上のようなことにはならない。単に,嫌なことを考えてしまったり,悲しいことを想像してしまったりするだけで,それがはじめるとそこから抜けられなく。そんなふうにして過ごしているのだろうと思う。なんとつまらないことだろう。なんと嫌なことだろう。こんなことを考え続けていたら,座っていてもストレスが貯まるので使えてしまうし,うつ状態になってしまうよ。わるいことは言わない。そこから早いところ抜けたほうがいい。で,どうやって? そんなときに,「書くこと」だと思う。

 書くためには,相当きちんと頭をつかわないとけない。だから,妄想に付き合っていられないのだ。あるいは,その妄想を言葉に表現することもありだと思うが,その場合でもかなりきちんと追いかけて言葉に敷く必要があり,結果的に頭はフル回転になるだろう。これをつづけていると,つまらん妄想に頭をつかっていられる場合ではなくなるのだ。この意味で,文章書きは正気を保つ強制的な方法だ。そう思っている。