普通に生きていたらどうしても避けがたい不愉快さを味わうものである。そして,その原因はたいてい人であり,どうしてそうなんだろうか,と思うのだけど不愉快を撒き散らす人はいるもので,だからから普通の人はいかにしてその不愉快さから逃げればいいのか,にかかってくる。

 猫の番組を見ていると猫同士が唸り声を上げるのは縄張り問題のようである。それに,たいていは強さに序列がついており,餌を食べる順番が決まっているのも「なんとも悲しい」風景を眺めることになる。野生動物は弱肉強食だと言われるが,それは全く嘘であり,結果的に「全肉全食」であるという解説を読んだことがあり痛く感心した。つまり,病気や加齢を考慮すれば,生きている間をおしなべて観察すれば,弱肉強食に見えるのはある一時的な状況でのスナップショットでしかなく,時間がたえばボスだって弱り,死に,あるいは餌になるということだ。

 人と人の関係も似たようなところがある。平家物語において表現されていることは,現在今この習慣においても有効である。ぼくらの認識も時間的に限らた期間での定常状態でのスナップショットでしかない。実にきれいに「奢れっるものも久しからず」になる。自分の人生というスケールが長いようで短い,短いようで長いのでスナップショットでトリミングされた時間の外を見ることが難しく,だから今でも平家物語を理解しにくいのかもしれない。それに,「感覚に訴えれば」,弱肉強食が事実であり永遠に見えるのはそのとおりなのだし。

 なんでこんなことを考えたのかといえば,それは職場でのメールに苛ついているからである。過去については事実が確定しているものだとおもうのだが,ところがそれを少しずつ変えようとする人はいるもので,そういうのを知ると実に嫌な気分になる。今の政治状況のほうがよっぽどひどいのだけど,それでも雑草レベルので改ざん,あるいは勘違いをしか得ている人がいて,なんともやりきれない気分である。

 過去のことであり,また記録もあるので改ざんは有効なことではない。そう思うのだが,これも今の政治とおなじで,証拠を証拠とするには「まともなあたま,まともな認識」がどうしても必要である。その努力を払わない,あるいは能力的にできない人は,どんなにきちんと積み上がった事実であっても理解できないので,結果的に過去の経緯の改ざんができてしまうのである。

 こう考えると,結局過去を記録として残しても,それは結局「まともな認識能力の人向け」でしかないことに思い当たる。つまり,そういう資料なり証拠なりは,「社会への贈り物」にはならないのである。単に,どの時代にも一定する存在している「まともな人」同時の手紙のやり取りでしかない。証拠の存在=社会への道具,ということにはならないのである。その社会がどのような人から構成されているのかによって,過去の記録が全く意味をなさないこともありえるのだ。

 こう考えると,個人的なレベルで感じるこの不愉快さを拭うことは,生きている限り続ける必要がありそうである。暑くてジメジメしている日に作業するようなもので,汗があとからあとから出で来るときは拭っても拭っても終わりがない。脱水症状で倒れるまで,熱中症で運ばれるまで拭い続ける必要があるのである。不愉快さも同じである,体の中にたおめておくと毒にしかならないのだから,とにかく汗と一緒に出しつづけることが絶対に必要。だから,終わりのない不愉快さを感じるのは,あるいみ,毒素を体からそとに汲み出せているという明るい話なのかもしれない。