どういうわけか,もっと便利なものがあるにもかかわらず,不便なものをあえて選んで,古いものをわざわざちょっと高いにもかかわらず購入して使うという趣味がでてきた.とりわけ,文具やPCにその傾向が強い.どうちゃったんだろうおれ,という疑問がわく.

 懐古趣味ということはない.レトロ趣味というものでもない.というのは,自分が知りもしないほどに古いものを,古いからという理由でもちだすことはないから.自分が知らないものは,それが古いということで惹かれることはない.だから懐古趣味に染まったわけではない.骨戸品やに通うことはないし,蚤の市に顔を出すこともない.

 たんに,自分が向かし欲しかったものを手に入れたい.昔はまったく手に入れられる状況にはなかったが今ならば買えるというものがある.とくに,子供の頃でなくとも,10年前,20年前というレベルの中途半端な古さのものにそういう気分を抱く.たんなる家電製品ならば,単に古いというだけで,それを欲しくなることはない.まったくない.しかし,万年筆だったりPCだったりすると,バカみたいな値段で中古がウリに出ているわけで,だから失敗してもいいような金額なので買ってしまうのだ.

 そもそもジャンク品のようなものだから失敗も少なくない.買ったはいいが,結局使い物にならなかった.あぁ失敗.そういうものは多い.無駄使いだった,本でもかっておけばよかった.そうなるものが多い.それでも,なかには当たるものがある.今こうして使ってるPCもその一つ.もっと性能がよく使いやすいものをすでに複数手元にある.それでも,一番不便で性能もよくないものを磨き修理し部品を交換してなんとかまだ使えるようにしてている.この作業は週末やるわけだが,今はいろんな部品がアマゾンで手に入る.だから,ほとんど趣味としてやっているわけで,これが時間が経つのも忘れて楽しいのだ.

 そんな古いものを平然と使っているおじさん,という一面をまわりの人に知らしめたいのかもしれない.高いものは無理だし,みすぼらしいものもなんだ.だから,一見普通でどちらかといえばちょっと疲れたような品を使い込んでいるという一面を自分の属性値として知らしめたいのかもしれない.かっこつけとして,ある種のファッションとしてやっているのかもしれない.そういう気分が自分にもあるといえばある.ただし,極めて「そう評価されることは,ほとんどない」ということも分かってやっている.だから,楽しくやれるのだけど.

 何かの専門家もっといえばプロというレベルに達するまでには,その対象と長い時間を過ごす必要がある.練習としてずっとやっている必要がある.そして,一般的には,1万時間という時間が必要なのだそうだ.一日3時間で一年でだいたい1000時間,ならばその生活を10年続けて1万時間となる.つまり,なにかをそこそこできるようになるには,それを10年間せっせとやる必要がある.そうでもしないと,脳自体が切り替われないのだ.終日練習していれば,それこそ5年くらいでなんとかなるかもしれないが,集中力が続くのか,それで生きていけるのかは,その人の置かれた状態によるわけだ.

 そうかんがえると,ぼくにはあと一回その時間スロットがあるかもしれない.これまでなんやかんやと時間を過ごしてきた,今の職について20年だから,プロ的なものが2つは身についていないとダメなはずだが,正直失敗していると思う.つまり,ぼくはこれのプロで,だからそれで生きていけます,というようなものが浮かんでこないのだ.そのときどきに,流されてきたということがはっきりしたわけだ.すでに二回失敗したが,これで終わりということもないようで,あと一回分のチャンスが残されている.ただし,それは今のような生活が続けられた,という条件で.昨今のニュースをみるに,果たして世界も日本もぼくの生活も,現在のような状況をどれだけ継続できるのかはわからないのだが.

 このさき10年,どうなるか分からない.天変地異の可能性は常にある.ぼくも身体的に壊れることもありえる.この生活がいつまでの意地できるかわからない.そこであえて10年計画での訓練に取り組むわけである.これは,もはや未来のために,という理由ではない.単に,それをやってみたいから,以外の理由はない.そして,やってみたいから以外に理由がないことをやれる,という幸せを噛み締める幸せを十全に味わっておくことにしよう.

 こういうブログをつけはじめて10年はたっている.もちろん,一日3時間の時間をかけているわけではないので,一日1時間ならば30年かかるわけで,それいかの時間しかかけていない.それでもいろいろと文章の勉強にはなっていて,だから10年前のものに比較すれば少しは成長のあとがしのばれる.もちろん,1万時間未満なので,評価の対象にはならないのだけど.

 何かをする以上,そのみちのプロを目指すことは正しいとは思うが,絶対にその目論見は全員が果たされるわけではない.目論見というものが成功する確率はそもそも低いのだ.成功しないならば意味がない,ということを吹き込まれるかもしれない.しかし,そんなことは決してないだろう.成功がプロになり評価されることだというのならば,そもそも1万時間をかけることが前提であり,その上で品質の競争となり,そこではじめて運だの生まれだのという,本人にはどうにもならないものが理由で序列化されるわけである.そんなことを目的として「人生をすりつぶす」ことなど決してない.ただ,その1万時間のなかにいる事自体に幸せを感じるほうが,生命としてはずっとたちがいいように思う.だって,それができれば歩確実に幸せになれるからね.

 そんなんことをコーヒーを飲みながらぼんやり考えていてた.