お金の問題は生きている限りについて回るものだけど,ぼくはあっさりと「諦める」という態度を身に着けてから,お金に悩まされることはなくなった.

余裕があるというよりも,なにかがほしい,必要だと思うことじたいに無理があるのだと思うようになったのだ.そもそも今になって必要になるのものは,もともとぼくの範疇にあるものではない外来の理由によるものだから,対応できなくても「しょうがない」と思ってやりすごす.もちろん,医療や住居など払わないと現状維持が困難になるもは心理的な態度でどうにかなるものでもない.しかし,やるだけやってだめなら仕方ないという「気分」で当初から事態に臨み対応している.こうすると良いことがある.それは焦りとか恐怖とか絶望ととかとは無縁のまま事に対処できるのだ.難しいことほど,無心で対処するほうがよいことはこれまでの経験上から言えることで,焦ったり恐怖したり怒ったりと,いわゆる「ネガティブな」感情が励起されたままでの「判断」などは,もうほぼ必ずといっていいほど「だめな結末へつながっている」ものである.だから,難しいことほど「なんの感情も持ち出さず対応する」,あるいはそうするように自分を仕向けたほうが絶対に良い.

もちろんぼくも「あれがほしい,これがほしい,こうなったらいいい,それにはお金が必要だな」という考えが頭に浮かぶことはある.いや,しょっちゅうアマゾンのサイトで「これを買ってああしたらいいだろうな」という妄想を電車の中で寝る前に布団のなかでしているが,それでも購入にまで至るのは「本」に限るようにしている.パソコン用具などは,時間を少しとっておくことにしている.ただし,本は「数千円で学べることだ」と思って買うことにいているのだが.さて,パソコン用具など妄想をもって購入したものの行方がどうなるのか,長く生きているそれも知っている.そう,大抵は「思った通りに使えない」ものであって,「結局使わない」ことになるものが半分以上あるように思う.つまり,勝ったいいがホコリをかぶるのが半分だ.そして,かりに使っているものでも,かなり無理して使っているような状態で,純粋に「思った通り十全に使えている」ものなど,10%程度であろうと思う.これは,これまで購入した本のうち,読んでみて「あたり」と思ったものの割合に近い.つまり,世の中にあるものでほしいなと思うものは一定の割合以下であり,そのうち購入までするものは三分の一以下であろうし,そして勝ってはみたが「よかった」といえるものは10%程度という事実があるのならば,ぼくが「ほしい」と思ったもののうち,実際にぼくにとって役に立つのは数%程度でいはないかなという身体的な実感をもっている.だから,ほしいな,買えないな,じゃぁ諦めるかという「あっさり」した態度が取れるのである.これは,年を取ったことで可能になったことだ.

ここからアナロジーが暴走する.物品について「ほしいな」と「よかった」の間の乖離が身体的に理解できる,この関係はおそらく物品以外にも適用できるだろうなと想像することになる.つもり,買う買わないの対象以外,何をする何かをできるようになる何らかの地位につくなど,お金では買えない対象についても一定のあこがれを持つものだって,「ほしいーよかった」関係論が適用できるのではないか.そうなると,おそらくだが「あー,そうらないかな」と思うことの数%しか意味がないのだとしたら,「あー,そうならないかな」なんて思ったところで,そんなのどうだっていいように思うことができるようになる.つまり,「あー,そうなりたいな」と思ったところでなってたところで「よかった」とならないことがほとんどなんに,ないゆえそんなことに努力する必要があるんだろう.そう,答えは「ない」である.だから,日常生活のなかで,普通に生きていくときに,本当に必要なものは,じぶんが必要と感じるものの数%程度なのではないか,と拡大解釈,過度の一般化をしてみたら,なんだ「世の中かなんて,自分が思ったことと関係がないように進んでも,たいして困らないじゃないない」と思うようになるんですよね.そう,そして,これが「ぼくなりの悟り」だと思っている.どうかな.