最近,タレコミ市民が増えて来たよな,と感じることが多くなった.
ほんとに.
どうしてなんだろう,というくらい.

道徳的な意味から,いわゆる正義感から,あるいは自分を過度に被害者だとする主張から,いろんな理由で精神的な苦痛を訴える人は昔からいた.
ゴミの捨て方が悪いとか,近所の幼稚園・学校がうるさいとか,横断歩道を渡らないとか,そういう文句の話は「あるある」として共有できるし,しかもそれらの半分は笑いとりの気分で,そして半分は精神的に困った人の話として膾炙されてきた.

商品の不備や店員の対応に不満に感じただけでその会社にクレームを入れる.
これ自体は悪いことではない.
クレームに「至極まっとうな」ものはあるし,クレームをつけることが悪いとは全く思わない.
缶詰やカップ麺に虫の残骸が入っていたらイヤだろうから,そういう話は新聞沙汰になる.

それと同じ意味で,猫やカラスが食い散らかして道路にゴミが散乱しているは迷惑だし,ギャーギャーと騒がしい幼稚園児の声を不愉快に感じることだってあるのから,それに文句をつける人がいてもおかしくはない.
ぼくだってそうする,そんな目に会えば.

だがこういう場合,誰に文句を言えばいいのかにわかにはっきりしない,という問題がある.
怒りの元凶であるカラスも幼児も,社会に対して気遣うことなんてできないのが普通であって,それにあれこれ怒っても仕方ないだろう.
つまづいた石に文句をつけてもはじまらないのと同じで,それでも誰かにケチをつけられないことはない.

一方で,なにを怒っているのかわからないが,いやに文句をつけてくる人もいて,しかもいやそれあんたの感覚だろうよ,という状況も結構ある.
文句をいう人の怒りの原因は「なるほど」と思えるものもあるが,全くそうでないものもある.
まぁ人間だから,自分の生活とは無関係な正義感からの主張だったり,ことさら被害を拡大して吹聴したりすることだってあろうだろう.
単なる体調不良によるイライラしていたのかもしれない.
あるいは,そもそもそういう成長をしてきた「嫌な人」なのかもしれない.
家族であっても,見ず知らずの人であっても,他人が主張していることならば,怒りの原因がなんなのかなんて見分けつかない.
それでも,あんたおかしんじゃないか,と思ったことは誰にも体験はあるだろう.

このような,何かをめぐるやり取り自体が明確だと,怒り合うのは困ったものではあるが心配な気分には全くならない.
世の中怒りっぽい人が多くても,そうでない人もいるし,要するにその人達から離れてしまえばいいからだ.
物理的に逃げてしまうことが簡単であり,それで問題は解決してしまう.
この方法をとれれば,世の中渡っていくのは「たいして大変ではない」わけだ.

どの社会でもどの年代でもどの組織にも,およそ「いじめ」というものは存在している.
これが単なる「喧嘩という困った問題」と違うところは,「逃げ道があまり」ことになる.
いじめが社会問題になっているのは,「じゃぁ逃げればいいじゃん」という正解を行動に移せないところに原因がある,ほんとに.

たとえば,小学校・中学校でのいじめを考える.
人が寄り集まれば,かならず「自我の強いもの」「俺が一番だ」と主張するものが湧いてくる.
そして,いじめは「強い」と自己認識している存在が物理的にそれを証明しようとして弱いものに危害を加えることで発生する.
子供の行動にはあまり論理性がないものだが,それでもいじめているときは論理性がないなりに「不条理な理由と方法で」危害を加えることになる.
論理的な説明から遠ければ遠い方が,それだけ「俺は強い」を証明することになるからなんだろうと思う.
そもそも論理的な行動ではないいじめには,論理的な解放は存在しない.
つまり,どうしたらいじめがなくなるか,ということに対する解は「人の集団をつくらない」ことでしかないと思っている.

したがって,いじめに遭遇した人への一番のアドバイスは,そこから逃げること,である.
話し合うとか,より強くなって見返すとか,仲間に支援を求めるとか,こういうことは意味がない.
子供が急に物分りがよくなったり,身体能力が向上したりすることはないのだから,逃げるにしかずである.
いじめが深刻化して,病気になったり自殺しちゃったりという結果となるのは,要するに「逃げられなかった」からだ.
学校やら地域やらが,そういう子供の駆け込み寺のようなものをつくったり制度を準備したりしても,それが利用されないことがあるとしたら,
それはひとえに「真剣な場面では子供から信用されなかった」だけである.
ニュースではおなじみに風景である,学校やら教育委員会やらが「いじめは確認されなかった」という表明をすることがあるが,そんなことをやっている集団はそれ以前に「信用される」わけがないので,だから逃げ道がなくなり犠牲者がでる.

ならば,いじめによる犠牲者をなくすことは簡単なのではないか?逃げ道があればいいのだから.
確かにそうであり,完全に正解である,とぼくは確信している.
でもね,現実にはそれができないか,難しいことが多いだろう.
例えば,逃げるったってどこへ?逃げたあとどうする?その先に何が待っているのか?
こういう不安なことに回答が得られないだろうし,それでも逃げると決心できる人は少ないだろうから,結局は逃げないで終わるだろう.

そもそも,小学生から高校くらいまではとくに,「逃げる」ことを教えていない.
むしろ,困難には立ち向かえと,諦めるなと,そう教えて賞賛している.
諦めるな,という教育は礼賛されているのだが,それは「生きて虜囚の辱めを受けず」が今でも教えられているのかもしれない.
だから死んじゃう人が多いんだろうなと,ぼくは思っている.

だいたいにおいて,世の中「思ったことが実現した」例は多くないだろうよ.
たいていは思ったようには物事はうまく運ばない,あるいは,思ったような結果が得られない.
だからこそ失敗や失敗に至る前に逃げることは,現実に生きている人には必要な知恵であり工夫のはずだろうに.
ところが少年ジャンプをはじめ,新しい形式の「戦陣訓」を教え込まれた子供は,逃げることに抵抗を感じる.
たぶん,逃げることは犯罪を犯すことと同じで,一生ついてまわると思っているはずだ.

子供はものを知らないこともあり,生きていく道筋はだいたい決まっていると考えるものである.
中学をでて高校をでて大学をでて就職して,という具合に人生にレールようなものが敷かれているという具合に.
だから,休学したり転校したり,あるいは別の道を探したりすることは,人生から脱線するように感じるはずだ.
ならばいじめを受けている人が自ら「逃げる」を選択することは難しいだろう.
そもそも「弱い」とみなされている人がいじめられるわけであり,また逃げ道のないところへ追い込んで危害を加えることが「いじめ」の定義でもあるわけだから,逃げる=脱線ように考えているいじめにあっている人が「逃げる」を選択することは相当難しいだろう.

このような問題に出口を示してくれるのは,図書館の人であったり動物園の人であったりする.
学校にはとても行けない切羽詰まった気分ならば,図書館も動物園も待っているよ.
そう社会に向けて発信している人たちが,そういうところにいる.
図書館も動物園も「競争」とは距離をおいた,静かなマインドの人が生息できる場所だからなのだろう.

週に何度か目にするいじめ原因の自殺のニュースを目にしたとき,なんで逃げなかったんだろうかな,とため息をつく.
同じ記事を目にしても,自分はもう大人だから関係ないか,と思う人は多いだろう.
本当にそうなんだろうか.
逃げ道がない場所にいる人は,必ず同じ状況に陥ることはあるんじゃないだろうか.

ぼくは最近になって,とくに多くの人はこれからいじめに遭遇することになると予想している.
それは今の政府が躍起になって進めている監視社会・隣組の復活がありえると考えているから.
一番身近な意味で進行しているいじめは,禁煙問題だと思う.
屋外で吸う,ベランダで吸う.
こんなことすら禁止しているが,その理由が副流煙だということだ.
これが車が頻繁に行き来している大通り沿いでもそれが適用されているところに,この禁煙行為は「いじめ」だということがわかる.
人々が,逃げ場のない方向へ特定の人たちを追い詰めて,その抹殺を狙うという「道楽」に興じているだけである.

禁煙問題を追い詰めたあとでつぎに起きるのは,隣組だろう.
禁煙問題で味を締めた人は,それを別の人に向けはじめるのは確実だ.
このときに批判の根拠となるのは,ゴミ捨てのマナーか,子供の騒ぎ声か,そのような「口うるさい人のクレーム」だったものが使われることになる.
だから,現時点で口うるさい近所の人などは,確実に隣組の主要メンバになるだろう.
昭和初期から敗戦までの間,ごく普通の人の行動を縛ってきたのは,こうした普通の人たちだったのだ.

では自分について考えている.
市井の人であるぼくは,社会の中で生活するよりない.
そして,これは文字通り逃げ道はない,と思っている.

あの人の素行がおかしいと警察権力に通報し,それを取り締まるということは共謀罪によって再び可能になった.
これによって互いが互いを信用できない,大変恐ろしいものになるドアを開けてしまった.

その先頭を切っていく人々が,冒頭に述べた「クレーマー」である.
だから,「たれこみ」を良いことだと信じている人からは最大速で離れるよりない.
もちろん,自分がそういうことをしない.

こんな簡単なことしか対応できないこと自体が,「逃げ場がない」ということを言っているわけだ.