全く予定も必然もない締切りを想定し、それにあわせてなんとか文章を紡ぐ.
そういうトレーニングをしている.
べつに物書きごっこをしているのではなく、そうでもしないと文章を書く機会がないからで、だから無理やりそういうことを自分に課している。

締切り自体は空想であり、それに合わせてなんとか文章こ書く行為は、ようするにごっこでしかない。
しかし、それなりに意味がある、といいなと期待している。

なんでもそうだが上達には一定の練習量が必要になる。
そして、ただ練習量が多いからといって上達するわけではなく、行為時の週中度や達成結果の品質が上達量の決め手になる。
だからおそらく文章もそうだろうが、練習しないとはじまらない。

誰からも要請されないから書かない。
これでは文章が上達するわけがない.

だから自分で自分に依頼している。
そういうごっこみたいなことをやってみるもありかなと、時間に余裕がある休日の朝にぼんやりと思っている。
そして今日は休日の朝だ。
なので、これはもやはそういう休日の遊びである.
そして,その遊びをこなしていくと今までできなかったことが出来るようになったりする,かもしれない.

文章にはテーマがあり、具体的な内容は知っていることに限られる。
誰からも頼まれていない文章であっても,これらを設定しないことには文章に意味を持たすことが出来ない.だから無理やりにでも設定する.
普通の人はそんなに多くを見聞きする機会はないので、それを補うために読書がいる.

習い事の場合、先生が目的を設定してくれる。
良い先生ならば、現在のレベルに合わせて課題を見つけてくれる。
発表会用の課題曲を一年間かけて練習するのは、そんな行為である。
しかし、同じことを独自の趣味にたいして設定するのは、自分自身でかない。
先生がいない習い事がなかなか成立しないのは、課題の設定が実質困難ということだろう。

よく、そんなの自己満足ではないか、という言葉を批判的に使われることがある。
ご飯を食べるのは、とくにおいしいご飯を選んで食べることは、自己満足に過ぎないのだが、それは批判の対象になるのだろうか?

自己満足はその人が満足することを意味する言葉であって、それ自体なんの問題もない。
自己満足をマイナスの意味で用いるのは要するに「俺にはまったくいいことがないじゃないか」という怒りの表明である。
その人だけが満足し、自分にはメリットがないことを「自己満足ではないか」と言っているのである。

ちょっと考えればわかるのだが、自己満足がマイナスの意味となりうるのは、公金横領のようなケースだけである。
複数の人から集金し、それを個人的な使い道に使用する。
こういうときに「自己満足に使うな」という批難が成立する。
これは状況によって犯罪であるし、犯罪にならずとも次から仲間に入れてもらえない結果になる。

一方で、給料の使い道としてブログを立ち上げてあれこれ書いてみる、というのは他人から批判される理由が全くない。
たとえば、単にチェロを弾いてみたいということからチェロ教室に休日通って、年に一度の発表会で演奏することは、究極的には自己満足である。
しかし、「だれからも批難されようがない」自己満足であるし、どっちかというと「社会における活動」としてプラス評価されるべきものだろう。

SNSで不要な発言をして、まわりからいろいろ批難される人がいる。
これは「自己満足」な行為ではなく、単に誰かを攻撃しているだけである。
自己満足とするには、行為の対象は他人ではなく、その行為の評価するのが自分である場合だ。
ちょっと手残った料理をつくって食べてる、という具合に。

文章が上手になりたいな。
そういう素朴な思いから練習として文章を書く。
そしてそのための時間をなるべく多くする。
他人にとっては意味がない行為だけど、それでも自分で自分に締切りを設定し続け、エントリーを一つでも多く増やす。
簡単なようでいて、結構難しく、だからおもしろい。