20年ぶりに近い。卒業した大学に行く機会があり、 学生の頃に通った経路で行ってみる。これはこれで懐かしいような気分がするだろうと期待したが,朝の慌ただしい雰囲気と混み合う車内が暑くて汗だくになったことで,しみじみ思い出す,という感慨にふけることはできなかった.

ただし,駅の外にでて建物なり道路なりお店なりを目にすると,20年の歳月の経過を体感することができた.あの店まだる,ありゃマンションになっているなどなど,どんな人だってそういうことをいろな機会で感じているはずで,それを久々の通学路を辿って感じたに過ぎないわけだ.

通学路の風景は何年も(10年ちかく)日常的に目にしていためか,20年ぶりであっても「新鮮味」というものはなかった.全く無かった.これが不思議だ.1年程度しかいなかった場所に舞い戻ったときのほうが,あぁ,という感慨はずっと深いように思う.10年という成長過程で日々浴びた風景と1年という短い期間接した風景とは,経過した時間を同じにして比べても「同じように感じない」のだ.

 懐かしく思うのでことは、実はそれほど自分の内部に近いものではなく、すこし間を置いて鑑賞できるようなものなのかもしれない。成長の段階で日々浴びていた風景のようなものは、思い出したところで感覚的に「当たり前」であって、だから思い出しても当たり前の感覚的が変わらないというように。一方で異邦人的な気分で接していた風景などは、そもそもからして異邦人なのだから、思い出した時はその異邦人的な気分の続きを追体験するわけで、だからこそ奇妙な気分が沸き起こる。これをなつかしさというように。

意外に感傷的な風景ではなかったので,まぁ次の機会があってもここは通らないなぁと思った.