月別: 2018年7月

加齢による影響

2018-07-19 おしゃべり

 奥さんが偏頭痛で倒れている。両親の一人は入院中で,実家で一人いる親が大丈夫なのか毎日顔を出して確認している。これが春か秋ならば,まぁしょうがないな,で済む話だろう。が,どういうわけか熱波に襲われている日々であり,外ではなく家にいても冷房なしならば危ないと言われている状態である。なんだかついてない。

 仕方ないので仕事を休みにして,自宅で作業をする。休日なのだから仕事をする必然はないのだが,自分の仕事内容は「好きな行動」でしないので,何をやってもいいとなると仕事として会社でやっているだろう内容も含まれてしまう。なんともうまい生活の過ごし方だなと感じる。一方で,苦しみがないことが,ちょっとした不安につもつながっているのだが。

 寝室でエアコンが付いている。なのでリビングにいるぼくがエアコンを付けるのは忍びない。隣のマンションが日陰をつくってくれているので,部屋の窓をあけて扇風機をつければとりあえずサウナにはならない。座っていても汗がでてくるが,汗がでて扇風機の風があたると「実に涼しい」わけで,なるほど汗をかくのはいいことだなと実感する。近所で風鈴が鳴っているが,これがまた清涼感というものを実感できて楽しい。総じて,いまのところ動かなければ体調を壊すことはないだろうとわかる。

 隣の建物の屋上にかもめが巣をつくりひなをかえしたようで,ちょっと前は一日中ギャーギャーとカモメとひながないていた。ところが最近は鳴いていない。ひなが成長したためか,ひょっとしたらだが,この週末の暑さでやられたかの可能性があるのではないか。実はよくわからない。カモメが近所で巣を作ることは毎年あるが,毎年いつのまにやら声がしなくなっている。だから,今年もそうして巣立ったのかもしれないが。

 歳をとると身体能力が落ちるもので,高齢者になるともうしょうがない。昔はどうしてたんだろうか,と思う。これから一人暮らしが増えるというが,そういう人たちも確実に高齢化する。そのときに「普通の人」はどういう社会をみるのだろうかと気になる。空襲後に生きた経験はないが,この先の東京を生きるのは,結局似たような風景を見ることになるかもしれない。

 昨日は夜遅くの帰りになったため,奥さんともどもご飯を作る気力がなく,駅前の弁当屋さんで夕食用の弁当を買った。お店で注文したときにスタッフを確認したが,厨房には白髪のおじさん二人,レジはおばあちゃん?一人だった。三人とも高齢者である。今のバイトは,フリーターでも外国人でもなく,60歳以上の高齢者で回している状態なのか。これから始める「高齢化社会」の幕開けを見たような気がする。次の干支が始めるとき,ぼくも高齢者となる。どんな社会になるのかにわかには想像できないが,このお弁当屋さんのような社会となるのだ。

 人が歳をとること自体に問題は感じない。そういう人たちでサービス業が締められることも当然だと思う。ただし,これだと「犯罪に極端に脆い」社会になるだろうことは見えている。窃盗や強盗への体制は極端に下がる。一方で,へんなクレーマーとかにたいしてもお店側の体制は落ちるだろう。というか,昔の不良中学生のようなのが来ただけで,お店は立ち行かなくなるかもしれない。つまり,社会悪にたして極端に脆い社会になるのだと想像できる。

 なるほどとわかった。それはつまりのところ,長続きしない社会,となるかもしれない。

災害時と平時が両立するとき

2018-07-14 ぼやき

 西日本は先週の大雨で多くの人が災害に見舞われている。洪水で生活の場が泥まみれになってしまい,片付けようようにも35度を超える暑さである。しかも断水しているところが多く,避難場所も体育館だったりするわけで,高齢者はもちろんのこと,身体的にも精神的にも厳しい夏になる。

 こんなことがニュースを見ているとわかる。ニュースでは,実際よりよく見えてしまう部分と悪く見えてしまう部分とがあるし,また,そもそも身体的な感覚については,メディアでは全くつたわってこない。35度の場に30分ほど何もしないで外にいる,という行為は映像的には「そんなにひどい状況」としては映らない。しかし,自分の身をその場におけば,これがかなりしんどいことがわかるだろう。30分経てば冷房のかかった部屋に逃げられるわけではない,夜には風呂で汗を流せるわけでもなく,収入どころが家財も,場合によっては家族も失った人がうける苦痛というのは,結局は映像では全く伝えられないのである。

 じゃぁ,といって東京にいる自分は何ができるのかと妄想する。若い人だったら,片付けボランティアとかが可能かもしれない。しかし,あれは現場の近くにいて,作業だけを提供できる人にはふさわしいだろうと思うが,遠くから駆けつけて何かを行うことになる人にはハードルは高い。もっとも,災害時の復旧作業を実施するのだから,なんにせよハードルは高いのだが。それでも,一大決心をして現場に向かう必要がある。大学生ならばわからんでもないが,おっさんではどうにもならんところもある。だから若い人を学生を,とは「決してやっていけない」。これは,要するに「学徒動員」である。学生は学費を払って教育を受ける機会を確保しているのだから,それを「ボランティアとして動員すればいい」などと軽々しく言ってはいけない。だったら,役所か年金受給者を動員すればいい,というのと同じことだ。そんな簡単に問題は解けないのである。

 じゃぁといって支援金を送るのか。これは一つの手である。ただし,どこに送ればいいのか。赤十字みたいなところならば確実だと思うけど,タイムラグが大きいだろう。大震災のようなときは衣料品や医療チームの派遣の費用に使われると思うが,今回のようなときには後日義援金が支給される程度であろう。かといって,NPO/NGOに送るにも見分けがつかない。ある種の詐欺が横行することは予想できる。人の不幸につけこんで詐欺をする人の感覚は正直「よくわからない」のだけど,それをやる人は実際大量にいる。なかなか難しい。では,マスコミで報道されるようなところに義援金を送ればいいのか。これもわからない。NHKでも民法でも,これだけ政治についておかしなお手盛り報道をしているのに,この部分だけちゃんとする,ということは「全く期待できない」と思っている。ここへ来て詰まってしまう。

 連休初日の今日は外は暑いので,そとに出ないことにした。家にいたほうが結果的にいいから。お金も使わないし,移動するよりエネルギーをつかないし,記録的な猛暑になるかもしれないと天気予報で報道しているのからが,それを参考にするほうがいいだろう。が,これは結果的に西日本の災害に対してなんのアクションも取らない,と言っているわけである。さて,どうしたらよいものか。

研究にお金は必要かと考えると

2018-07-14 おしゃべり

 研究職というものをやっている。だから研究することが自分の生活のエンジンで,これでうちが回っているわけである。研究というのは,へぇ知らないどうなっているんだろうか,からはじまり,こうしたらどうなるんだろうか,が行動を決めて,たぶんこうなるはずなんだが,が当面の目標となる活動である。対象は「なんだって」いい。その対象によって活動形態が決まってくる。個人だけでやることもあるし,私的な組織,あるいは公的な組織であるという具合に。あるいは,学生として,趣味として実施する,お金をもらって活動することもある。いろいろある。

 この職業も,何年かやっているうちにいろいろ方針が変わってくる。最初は言われたことをやる,その次は,少しずつ自分が興味をもったことを混ぜて行動する,なれてくると,次第に自分が面白いと思うことだけをやる,という具合に。だらけていくように,自分の興味を優先してくる。つまりは,あることを実現するための行動の道には,いくらでも脇道があるし,同じ道にも道幅があるし,ということである。当面の目標とそこに至るためのパス,この違いが明確になると気分が揺れて,楽しい方向に吸い寄せられるがままに動くわけである。

 すると,自分の興味を優先するか,組織目標を優先するかでいろいろな関わり方が選べるようになる。これはわりと重要な問題であって,それによってどういう社会的な地位や報酬をえられるのかも決まってくるから。どういう方向に進むのか。それ自体がその人の生き方となるのは,研究活動をしてないときの自分の様相,つまりは社会的な位置づけが「どういう形態で研究をしているのか,教授か,プロジェクトリーダーが」とう地位が日常生活でどの程度効力を発揮するのかはわからない。ただ,同業者の間の関係では威力を発揮するのはたしかだけど。

 そんなわけで,歳をとってくると,偉くなる方向に行く人と面白いことに行く人とが「自然に」分かれる。多くの人は偉くなりたいのかもしれないが,なかなかそも行かないと思う。自身の才能だけでなく機会も必要だから。ただし,出身大学?によってその歩みかたは似通っているように思える。ぼくは全くの平なのだが,自分一人でやれる能力を身に着けてきたので,お金はないが人はいらないので,一人で好きなことを(自分で)提案して,(自分で)遂行している。一方で,まわりには足踏みしているか考えあぐねている人が結構見受けっれる。というか,みなさん偉くなりたいのかもしれないけど,そううまく行かない人も多いだろう。

 みなさん頭が良いといわれてきた人たちだ。そういう人たちの中に紛れて,普通でしかない自分ができることは限られている。ぼくが心がけていることは,「とにかく競争しない,同じ方向を目指さない,嫌なことはやらない,乗らない,手伝わない」である。これだから,残りの時間をこれまでと同じように過ごすことが精一杯で,それで消えていくことになるだろう。そう,自分ではわかっている。でも,特段恐怖感はない。だって,そもそもからして普通なのだから。

 思ったことをやってみる。やれる範囲に変換して作業してみる。ここにお金も人もなくてできる形態まで変換する。これが,今のぼくのやり方である。これは,ある意味つまらないという人がほとんどだとわかっている。しかし,生きている喜びって,行動している最中に,感じるものだと知っているので,他人からの評価はあまり気にならないし,参考にもしない。行動しない人は楽器を弾いていない,作品を作成しない人なので,人の作ったものを集めて評論することしか原理的にできない。その方法では味わえない面白さというものが世の中にはあり,それを知っている人は,他人から羨ましがられたいとは思わないし,羨ましいとも思わないものなんだけど。まぁ,これこそ同意してくれる人はあまりないだろう。

世の中の動きに根拠なき不安

2018-07-08 おしゃべり

 なんだか世の中の動きがこれまでと違った方向に滑っているように感じる。悪い方向へと。

 そう感じる人がどのくらいいるのだろうか。なんの根拠もない感じなので,一般的なものではないだろう。それでも,日々のニュースをみてて,おぉ,これからいいことがありそうな予感がするなぁ,っていう人がどのくらいいるのか知りたい気がする。そういう人は少数派何じゃないかと思うのだけど,実際はどうなんだろうか。

 引き金になっているのは,今の官邸を中心とした政府だろう。あらゆる会見をみてみればいいが,ろくな回答をしていないし,そういう人がずっと役職に居座っている。それを追求するはずの記者は,従順に腕されてしまっている家畜ような状況で,もっとまともに「おかしいだろう」ってことを権力に突きつけてることが期待されているのに。まぁ,これが原因で頑張っている記者さんがいる新聞以外は全部やめたが。

 災害は人が起こすわけではない。が,その結果の被害をいかようにでも変えることはできる。先手先手をいっているのたまう政府は,ほぼ何もしていない。気象庁発表で盛んに警告を出している一方で大臣たちは飲み会で浮かれている写真をネットワークに上げ,翌日は過去最高の12人の死刑執行をし,そのままなんの動きこも見せず,これまた数十人の犠牲者を第している水害に対しても「なにもしていない」。どころか,この状況においても私邸からでてこないという状態である。何もしなさ加減がすごい。

 これまたNHKを中心に,この動きを一切報道しないようで,状況はSNSで流れてくるものを拾って集めるよりない。しかし,どうしてこんな連中を支持する人がいるんだろうなぁと腹立たしく思うと同時に,そんな時代になってしまったのはどうしてんなんだろうかと底なしの不思議な気分になる。一体何が起きているのだろうか,普通の人は一体どこへ行ったのだろうか。

 官僚はその地位をできるだけ上げて退職することが人生の目的であるようだ。他人の価値だから,へぇと思うしかないのだが,その結果あなた達は「どういう社会に生きることになるのか,おわかりだよね?」と腹の底から疑問に思う。高級官僚ならばこの先のもろもろの予測は持っているはずで,それはそんなにぼくらと違ったものを見ているとは思えないのだ。それでも,そんな社会で行きたいのだろうか,彼らは?

 一方で政治家については,人によっての違いが激しいので一般論は成立しないが,それでも与党側の人は,おそらくだが,自分たちがスーパースターである不思議な世界の住人となっているので,世の中については良くなるか,悪くなっても自分たちとは無関係だと考えている。結局,歴史書を鑑みるに,権力機構の中で育ってきた人は,多分物理法則すら「自分たちの側にある」と素朴に信じて疑っていないのだろう。なので,交渉や話し合いや現実観察によって,何かを共通に理解する,ということは無理なんだよね。

 で,こういう社会で翻弄されるのは民衆である。これはいつの時代もそうだった。だから,周りの人と同じように考え同じように行動したら,かならず「ろくな目に合わない」ことが確定している。せめて,そういう人たちとは「違うものを見て,違う行動をとる」ことがせめての防御なんだろうと思っている。全くもって面倒な世の中になってしまったと思う。

誤解からの中傷に対する身構え方

2018-07-07 おしゃべり

 世の中には本当に面倒な人間っているもので,自分と同じ人間だろう,と思って接すると大変にバカをみるような事があって困る。人であるからには見た目は「人間」なのだが,頭の中がどんだけずれているのか。これは見た目からはわからない。まともな組織で職を得ているからといって,感覚もまともだ,ということが当てにならないことがある。だから,ほんとに嫌になってしまう。

 基本的に,そういう人とは関わらない,できるだけ遠くに離れること。そういう災害のような人に近寄る結果となるのは,電車で同じ車両にの居合わせた人のようなものである。数分〜数十分後にはどちからが先に車両から降りてもう会うことはない。そういうものだと考えて,また,そういうものと同じになるよう心して「可能な限り離れる」ことである。放射能のようなものがでているので健康にわるい,くらいしか方法がないのである。

 それでも,全く関係がないことにはなりえなく,仕事上のやりとりがあったりするし,連絡事項で自分のことをどう評価されることもある。まぁ,そんなことは「見なければいい」わけなのだが,なんの因果か回ってくることがある。情報網からながれてくるものは,インターネットに転がっている情報と同じで玉石混交といわれるが,玉なんてねぇ,とぼくは思っている。下水道に網をしかけて「玉」がとれるのだろうか,玉を探す間にどれだけゴミを網から除去しなければならないのか。ちょっと想像すると,想像しただけで「そんなものにはちかよらない」と決心したくなる。

 関わりたくな人から「あれこれ評価」されるのは,それだけでおぞましいくらい腹立たしい。そもそも関係ないのになぁと冷静には思えるのだが,ネガティブな(しかも,それは誤りだろうと立証できる素材をもっている)ことを吹聴されると叶わなん。はたら出しいし,ほんとに腹が立つが,「人の口に戸は建てられぬ」という言葉を体感することになる。ほんと,そうですなぁ。

 この腹立たたしさは何につながっているのか。考えるに,他人の持つのぼくの認識が「違っているよ」ということに尽きる。本当はそうじゃない,ちがうんだ。そう言いたいのである。が,これは難しい。論文として成立するくらいに反証を持っており,科学的な意味で「違う,本当はこうだ,その人の言うことはその人の希望であるが,そいつはろくでもない人から話を聞くのを止めておけ」と他人に向かって言いたいのである。が,これって可能だろうか?意味があることだろうか? ぼくは,無駄なことだ,と諦めている。

 ネットで取得した情報,噂話,こういうったものから得た認識は,所詮人から得たお話である。そのお話のどこまでが正しくて,どこまでが間違っているのか,聞いた人が決めることである。どんな情報に対してもこの割合が0:100ということにはならない。10:90とか40:60とか,ブレがある。で,その信用度の設定が,情報を受け取る人の「リテラシー」と言われるもので,この設定のスマートさが,その人が世の中で生き延びられる時間を決めているのである。

 まともな人は,情報を受け取るときにその情報の真偽比率を適切に設定する。100:0といような値を決して設定しない。つまり頭がいい。だから,そういう人についてはいささかも「物事が悪い方向にずれていく」とは思っていない。しかし,問題は,この真偽比率設定に信頼できるひとは,正直さほど多くないということである。自分だって怪しいと思うくらいなので。

 すると,ぼくの「イライラ」行き着く先は,おかしな人からのガセネタによって,自分の行動ややってきたことが「おかしな評価を受けてしまうこと」にある。やったことは文字通り過去のことなのだが,それについて改竄することはできないと思っている反面,人の気分でどうにでもなってしまうようなところがあるとも思っている。記録文書を突き合わせて事実と異なることを立証することができたとしても,そういうことに相手が付き合って判断を修正してくれるかという期待は,実はほとんど持てないと考えている。

 つまりは,相手がもつ自分に関する認識が事実と反する場合,実際のところ何ができるのかが問題である。そして,結局は何もできないかもしれない,という現実がある。それに苛立ちを覚えるのだ。これは,世の中では珍しいことではない。むしろ頻繁にあるといってもいいくらいだ。

 で,どうするか。これはもう相手の認識については,諦めるよりない。そう思っている。相手の認識は相手のものである。それが事実として扱われ,自分に多大な不利益をもたらすとしても,相手が勘違いしており,誤解による判断をし,それがまかり通る状況ならば,もうしょうがないのである。

 ただ,相手の誤解はこちらに不利益をもたらすが,相手には結果的にもっとすごい不利益をもたらす可能性が高い。なぜなら誤解をもとに行動しているのから。山道で標識に不備があり,そちらの道を行くと遭難する可能性が高い,という状況のようなものである。本来ならば誤解は遭難と直結しているのだが,それが日々の生活では見えにくい。見えにくいこととないこととは違う。誤解をもとに行動するタイプの人は,なんどかそういう状況に陥ったあとに,最後には遭難するわけである。

 相手の誤解をどう解くのか。これは重要なもんであるが,他人からはあまり口出しできない。相手自身が「自分が誤解をしているかもしれない」と思うかどうかでしかない。そう思わないタイプの人は,結果的に相談する。だから,誤解を解くのは己のためなのだ。人がとやかくいうことではない。自分は自分でしっかりと誤解していないか身の回りを確認することである。

正気を保つためのブログというのもあろう

2018-07-06 おしゃべり

 ブログをつけることの効用について,つらつら考えてみる。

 文章を書くことついての,なんらかの訓練になる,これは間違いない。たとえ指導してくれる教師がこの場に存在していなくともとも,十分に学習できる。もちろん,書いたものを読む人はいないければならないのだが,すくなくとも「書いた本人は熟読する」ことができるはずで,そならば意味がある。それに,文章ではないものを文章化するのだから,それなりに考える時間をとるわけで,よくよく考えること自体が,日々の生活において持つことが難しいよいことだと思っている。

 一人でべらべらとしゃべることは,普通しないだろう。例えば電車の中で,あるいは駅まで街を一人で歩きながら,誰に語るわけでもなくべらべらと喋っている人を見かけたら,こりゃちょっとおかしな人だ,と見られても仕方がないだろう。ぼくだってそういうおじさんが近くにいたら歩くスピードを早めてさっさと離れる。だって,そんな怖そうな人に近寄ったとしても,いいことなんてないから。

 しかし,電車のなかでパソコンのキーボードをパチパチやっていても,この人はおかしな人だ,ということにはらない。あまりにパチパチとキーボードを叩いていたら,電車ないで電話をしている人のように「あぁ鬱陶しい」と思われるかもしれない。その意味で,周りから人が離れるかもしれない。ただし,この人は気持ちが悪い,とか,なんだか良くないことに巻き込まれそうだから,という理由で人が近寄らないということはない。そこが話すことと書くことの大きな違いである。だから,一人でやるならば書くこと(パチパチとPCのキーボードを動かすこと)を取るべきだ。スマホでもいいけど。あぁ,音声入力でやると微妙なことになるが,そこはちょっと考えないでおく。

 文章として「自分の考えていること」をかいてみる。自分が問題していることを「これ問題でしょ?」という意図で表現する。そうそう簡単なことでは決してなく,実のところ時間も知力も相当使う。だからこそ文章書きは,それ自体が知的な訓練になる。

 ただし注意しなければならないのことがある。それは,訓練になるのは「行為自体」であって,成果物の品質ようなことにはつながらない。つまり,PCでパチパチと文章書きをつづけたところで,その結果,文章が上達する,ということはないかもしれない。あまり期待しないほうがいい。成果物をよくするには,成果物自体にフィードバックをかける必要があるはずで,それにはやはり上手な人に成果物たる文章を添削してもらうのが一番手っ取り早い方法だろう。もっとも,その方法は機会に恵まれないと難しい。というわけで,書くことについていえば,上達を目指すことは難しく,だからそれを目指さないい。そう思っている。

 ところで「ものを考えること」ってなんだろうね。ものを考えている状態って,よくよく考えるとなんだかわからない状態である。僕の場合,「眠りの浅いときにみる夢」みたいなものである。明日やらなければならない作業があって,あれをしてこれをして,という感じで夢のなかでその段取りをしている自分のイメージがうかん出ることがある。しかし,そこには視覚的な意味で詳しい工程は存在していない。ただ,そういうことをやっている自分の感覚があるだけなのだ。これが,ぼくの「考えているという状態」である。おそらく,これは人によって激しく違うものだろう。だから,他人のと比較しても参考にはならない。ただ,あぁ,いろんなものがあるんだ,というだけである。

 ぼんやりと考える癖しかない人は,上のようなことにはならない。単に,嫌なことを考えてしまったり,悲しいことを想像してしまったりするだけで,それがはじめるとそこから抜けられなく。そんなふうにして過ごしているのだろうと思う。なんとつまらないことだろう。なんと嫌なことだろう。こんなことを考え続けていたら,座っていてもストレスが貯まるので使えてしまうし,うつ状態になってしまうよ。わるいことは言わない。そこから早いところ抜けたほうがいい。で,どうやって? そんなときに,「書くこと」だと思う。

 書くためには,相当きちんと頭をつかわないとけない。だから,妄想に付き合っていられないのだ。あるいは,その妄想を言葉に表現することもありだと思うが,その場合でもかなりきちんと追いかけて言葉に敷く必要があり,結果的に頭はフル回転になるだろう。これをつづけていると,つまらん妄想に頭をつかっていられる場合ではなくなるのだ。この意味で,文章書きは正気を保つ強制的な方法だ。そう思っている。

不愉快さの拭い方

2018-07-06 おしゃべり

 普通に生きていたらどうしても避けがたい不愉快さを味わうものである。そして,その原因はたいてい人であり,どうしてそうなんだろうか,と思うのだけど不愉快を撒き散らす人はいるもので,だからから普通の人はいかにしてその不愉快さから逃げればいいのか,にかかってくる。

 猫の番組を見ていると猫同士が唸り声を上げるのは縄張り問題のようである。それに,たいていは強さに序列がついており,餌を食べる順番が決まっているのも「なんとも悲しい」風景を眺めることになる。野生動物は弱肉強食だと言われるが,それは全く嘘であり,結果的に「全肉全食」であるという解説を読んだことがあり痛く感心した。つまり,病気や加齢を考慮すれば,生きている間をおしなべて観察すれば,弱肉強食に見えるのはある一時的な状況でのスナップショットでしかなく,時間がたえばボスだって弱り,死に,あるいは餌になるということだ。

 人と人の関係も似たようなところがある。平家物語において表現されていることは,現在今この習慣においても有効である。ぼくらの認識も時間的に限らた期間での定常状態でのスナップショットでしかない。実にきれいに「奢れっるものも久しからず」になる。自分の人生というスケールが長いようで短い,短いようで長いのでスナップショットでトリミングされた時間の外を見ることが難しく,だから今でも平家物語を理解しにくいのかもしれない。それに,「感覚に訴えれば」,弱肉強食が事実であり永遠に見えるのはそのとおりなのだし。

 なんでこんなことを考えたのかといえば,それは職場でのメールに苛ついているからである。過去については事実が確定しているものだとおもうのだが,ところがそれを少しずつ変えようとする人はいるもので,そういうのを知ると実に嫌な気分になる。今の政治状況のほうがよっぽどひどいのだけど,それでも雑草レベルので改ざん,あるいは勘違いをしか得ている人がいて,なんともやりきれない気分である。

 過去のことであり,また記録もあるので改ざんは有効なことではない。そう思うのだが,これも今の政治とおなじで,証拠を証拠とするには「まともなあたま,まともな認識」がどうしても必要である。その努力を払わない,あるいは能力的にできない人は,どんなにきちんと積み上がった事実であっても理解できないので,結果的に過去の経緯の改ざんができてしまうのである。

 こう考えると,結局過去を記録として残しても,それは結局「まともな認識能力の人向け」でしかないことに思い当たる。つまり,そういう資料なり証拠なりは,「社会への贈り物」にはならないのである。単に,どの時代にも一定する存在している「まともな人」同時の手紙のやり取りでしかない。証拠の存在=社会への道具,ということにはならないのである。その社会がどのような人から構成されているのかによって,過去の記録が全く意味をなさないこともありえるのだ。

 こう考えると,個人的なレベルで感じるこの不愉快さを拭うことは,生きている限り続ける必要がありそうである。暑くてジメジメしている日に作業するようなもので,汗があとからあとから出で来るときは拭っても拭っても終わりがない。脱水症状で倒れるまで,熱中症で運ばれるまで拭い続ける必要があるのである。不愉快さも同じである,体の中にたおめておくと毒にしかならないのだから,とにかく汗と一緒に出しつづけることが絶対に必要。だから,終わりのない不愉快さを感じるのは,あるいみ,毒素を体からそとに汲み出せているという明るい話なのかもしれない。

ブログの効用をちょっと感じた

2018-07-06 おしゃべり

 個人的なブログの効用というものがあるのかどうか。

 ずいぶんと長いこと事あるごとに考えてきたことだ。ぼくは,そういうことって「あるかもしれない」と思ってきた。しかし一般的には「誰も読まないのなどは自己満足でしかない」という決まり文句で否定する人が多いはずだ(もっとも,この認識はブログを始めた10年以上前のことであり,現時点ではどういう評価が支配的なのかは知らない。変わっているかもしれない)。

 ココ最近のことだけど,ブログつけに意味がないとは言えない,と思わせることがあった。それは,「ぼくは,こんなふうに文章をかけないんですよね」と同僚言われたのだ。お互い理科系で,同じように作業したことを文章にする必要があり,文章書きがマストではない状況においてもぼくは面倒がらず技術レポート・論文の形式にしてしまう。が,同僚はそれをやらない。どうして文章にしないのか?という問いに対して,同僚は「文章がかける人はいいですよね」と言ったのだ。

 ぼくは文章がうまいわけではない。が,情報を文字にして残す,人に伝えることが目的ならば,うまい文章は求められていない。だから下手でいいから「さっさと書いて」しまえばいい。そう思っているし,実際そうしている。考えてみれば不思議な気もする。「あれ,どうしてそんなことをするようになったのだろうか,ぼくは文章嫌いだったはずなのに。」べつに名文を求められていない,だれでもできる程度のところしかやればいいのなら同僚だってできるだろうに。

 ぼくは理科系であり,文章なんて書く癖はなかったし,そもそも読む癖もなかった。だから学校に通っていたとき,とにかくレポートというものが苦痛だった。論文を準備するのなんてホントに嫌だった。計算したりグラフにしたりするところまでは人並みにできたが,文章がつけられないでいた。現在と昔のこの違いはどうして生じたのか。つらつらと考えれば,プログくらいしか思い当たらない。ただ単に年齢があれば文章を準備することが楽になるわけでもないようだから,ならば「だれも読まなくてもブログつけ」は一定の効果があったといえるだろう(もっとも,10年くらいやればなんでもそうだろうけど)。

 人から求められたので文章をかく,という文才に恵まれた人は結構いる。他人の文章をみていると,プロのものでもないのに「上手だなぁ」と感心することがよくあった。それが仕事の上での文章であってもだ。そういうのを読むと,相当にぼくが文章は下手くそなんだと再認識させられた(昔,教授にそう言われたことを思い出した,君が文章をかけないということを論文を読んでわかった,と)。

 だから書くのは嫌だったが,記録を残す,結果を伝える,そのために文章を書く必要があったのだ。それでも辛くて嫌で,だから極力やらないでいた。だいたい楽しくないし。

 「書く必要がない,あるいはだれからも頼まれていないような文章を書く,しかもそれを楽しく」。これを「だれも読まないブログ」をつけていくうちに体得したようである。誰も読まないならばだれも批評しないのだから,いくらやっても上達しないから意味がない。そのように普通の人は教えてくれる。確かに,その通りだと思う。が,べつに「効率」って学習には必要なく,どんな経路であれできるようになればいいのである。
 

今できることを基準にする

2018-07-06 おしゃべり

 で,今できることにはどんなことがあるか?

 あるようでない。
 しかし生活していけているのだから,ないようでいてあるんだろう。

 こういう自問自答をする。普通の会社員であれば,社内での位置(課長とか部長とか)が,ある種の客観的指標として使えるし,実際多くの人はそう思っているはず。会社員でなくても,あらゆる「組織」には「役割」というものがあって,その役割はつねに「階層化」されているはずで,結果的に組織に関係する人は「階層」のどこかの箱に収められている,はずである。だから人には階層がいつもついて回るし,その階層によって「できることできないこと」がおおよそ決められてしまう。これは一つの「見方」つまりじじつの解釈方法であるので,どのくらい正確なのかは,いろいろな評価がありえるだろう。

 で,自分はどうか?
 まぁドラマにでてくる「会社員」ではないけれど,もちろん階級づけはされてて,それによって給料が決まっている。それによって期待される役割もある。ちなみにぼくは最下層である。ぼくがいる組織での見た目の階層は3段くらいしかないのだが,だからステップが大きくてとても階段を上がることには縁がなかったし,べつに不都合もないので上がろうとも思っていない。

 で,そういう人はこの先どういう憂き目にあうのだろうか?
 わからない。満期になればやめるだろうし,その先は社会システム的にいく分かの費用が用意されているような「期待を抱かせる」仕組みがあるように勘違いする人もいるけれど,自分の親をみて,世の中の状況を報道や本などで知るにつけ,社会保障というのはある種の空想であり,悪いことにいま着々と壊れつつあるのでぼくのころには「え,なに?」って話になっているはず。結構な金額を税金でピンはねされているだけで終わる。そうわかっているから,こんなつまらないことを考えているわけである。

 未来に何が起きるのか。ある種の「ぼんやりとした不安」というものは誰しもあるし,ぼんやりとしていない未来というのは,要するに予定であって,もっといえば「現在」の延長にあることだ。ならば,およそ「未来」などと言えないよ。

 不安なことは不安なままでよく,これは要するに「腹減ったなぁ」とか「眠いなぁ」とか「なんかつまんねぇなぁ」という程度の感情と同じで,それがあろうがなかろうが,そういう感情の海の中でただよっているのが「ふつう」なんだ,と発見するよりないと思う。だからこそ,「なんかやって気を紛らわす」ものなんだと思っている。

 そして,この季を紛らわすための一つの方法が「生きてる」ってことだから,ただ生きてても紛れることはない。昔から多く人が忠告してくれているように,「面白ろがる」のが一つの方法なんだろう。どんな状況でも「うわぁ,でも,それって面白いな」と認識できるようになればいいのである。そしたら,いついかなる時でも「おもしろい」だけになる。これを考えているうちに,なんだ,生きていくうえでの「正解」って,もうわかっているのか。そう思ってしまった。以外にあっさりしている。

 

説明する文章をブログだと思って書いてみた

2018-07-06 おしゃべり

 仕事でのことだけど,自分から提案したことに対するコメント・質問というものがメールで回ってきた。なんでも,7月X日までに回答してくださいと。

 ぼくが提案したことは,まぁ本人も認めるくらいに「そもそも不備があるもの」だったのは確かで,もっといえば不備がいっぱいあるのだが「ともかくも提案するほうのが大事」かなと思って出したのだった。見逃せないくらいの不備があれば落とされてもしかない。だから相手も「なるべくいいところをみようかな」という方針で読んでくれたわけで,質問があったということ自体が,大変ありがたい知らせだった。

 なので,「これじゃぁ,さすがに駄目なんじゃないですかね?」という内容の批難があるよな,と予想していた。だから,実際にコメントを受け取ってもショックを受けなかった。だめだしされることって何度やってもなれないもので,誰でもそうだろう。自分の提案にケチがつけられるとがっくりくる。自分勝手なことだとわかっているが,ぼくが他人の提案を読んでケチつけることはあるし,そういうケチつけるときは「クールに,ロジカルに,文脈に即して」いればむしろよいことだ,と思っている。自分が受け取ったケチはそういうものだったから,悪い気分はしなかった。

 そして,これまでだと,手短に,要求された方向にそった形で定量的に情報を補足する,という回答方法をとってきた。それはクールな対応だと思っているし,論文の査読のようなときはふさわしい方法だと思っている。ところが今回は変えてみた。もちろん,論理的な説明と定量的情報を補足を行った上で,「そもそも,どうしてこのような提案をし,不備がある状態のまま提出したのか」について,言葉で語ってみたのである。言い訳ではなく,説明としてである。

 採用を狙っての提案ならば,普通そんな回答はしないだろう。しかし,大胆ににもぼくは「言葉で説明したいなぁ」と思ったのだ。おそらく,「この提案は別に採用されなくてもいいんだし」と思っていることが理由だろう。