月別: 2018年4月

結局は長くやっていたことを今後もやればいい,ということだろうと

2018-04-29 おしゃべり

 GWの時期は暑くなく寒くもなく,雨もふらず湿度も低く,なにより日光が眩しく青葉も青空と一緒に見れるのが気持ちよく,そしてちょっとした木がある公園からは森林浴の香りが(場所によってはムンムンと)してくる.これが春の幸せというものだろう.毎年毎年嬉しくなる.

 そしてこの時期は午前中に自転車で皇居まででかけ,内堀通り沿いの芝生でお弁当を食べることにしている.お弁当は東京駅大丸地下の惣菜売り場に山ほどあるので選ぶことが快楽.そのお弁当を皇居前の芝生の上で食べるのが悦楽.一般に開放されている芝生なのだけど,それほそ多くの人は来ないので,場所取りに心を砕く必要が一切ない.リソースの奪い合いほど気分を暗くさせるものはないのだが,ここでは場所取りなんてする必要がないほど「開いている」のだ.おそらく,東京23区ないではこの場所くらいだろう,場所取りしないでもいい気持ちのよいフカフカの芝生は.

 この時期の2週間,そして秋ぐちの2週間だけ,この幸せの窓が開いている.GWが終わると,もうちょっと暑かったり曇っていたり,昆虫が増えたりして「気持ちよく芝生でお弁当を食べる」という目的にはそぐわなくなる.一年でも数回しか体験できない贅沢であり,しかも「無料」なんだよね.

 このランチタイムの過ごし方をかれこれ20年近く続けている.続けられたのは環境が変わらないからで,さすが皇居周辺.近隣のビルは激しく更新されているけど,この一角は無傷で変化なし.嬉しいのだよ,街の中で変わらない場所があることはね.そして,そこへ行く楽しみがずっと維持されていることも.幸せになる方法なんて,結局こういうことだよね,何処かへ行く必要なんてないんだよ.

 いつまでも続けられることはないだろう.あるとき突然変わってしまうだろう.まぁ,それまでは続けられるといいなと思っている.

日誌を面白く

2018-04-21 おしゃべり

 面白い報告書だな.そう思ったのはこれである.

https://www.asahicom.jp/news/esi/ichikijiatesi/iraq-nippo-list/20180416/370/060306.pdf

 ないないと言っていが実際はあったイラクでの自衛隊活動時の報告書である.戦場での活動なのだから,えらく厳しい内容の報告書であろうと想像するのが普通.いつどこでだれが何をしたという基本をベースに無機質な状況描写と数値および因果関係というもので梅つくされていると考えるのが普通だろう.

 しかし,実際はそうでも内容で,報告書の中身の一部が紹介されていた.
https://twitter.com/ojizou_strike/status/985864290472157190

 へぇ,おもしれーじゃん.バクダッド日誌,これを書いた人は「戦場での日報」というものを見たことがなく,またそれを意識しないで書いている.通常の会社などの組織でも,こういう日報ってないよなぁと想像する(しらないけど).

 おそらく,日報著者は「ブログ」をつけたのだと思う.ブログは日常での出来事,旅先での思い出の記録という目的をもっているが,このときの日報はその流れにある.これは,そういう人,が書いたのかもしれないし,あるいは,努めて日常での出来事,としてブログをつけたのかもしれない.とくに,自衛隊は戦場には行かないし,また行ってはいけない.だからつともて「海外出張」として「面白く」日報をつけたのかもしれない.仮に後者があたっていたら,この人は相当「気がきいた人」だと思う.およそ世の中に,戦場に赴いた兵が報告としてつけた日報がこんな「のほほん」とした世界感を伝えているものがあるのだろうか.死ぬか生きるかの状況下ではあり得ないようにも思う.とはいえ,派兵されて帰還した人は必ずしも何事もなかったわけではない.多くの人が「よくない」思いをしているわけである.わざわざそういうところに派遣する必要はないよなぁとつくづく思う.

 一方で,こういう日報をつけるのってありだよな,と思うようになった.ぼくは日報をつけることはないのだが,論文くらいは作成することがある.よし,今後は「面白い論文」となるよう努力してみよう.つまらない論文なんて意味がないじゃないか,と研究批判をされることがある.だからだ,面白い論文,というものを内容を同じままで書いてやろう,出し続けてやるか.そういう工夫を残り時間の間つづけてみたい.

言葉を発する,その楽さ

2018-04-21 おしゃべり

 頭の中で何やら考えるだけで,それを言葉として発しないでおくと,腹はふくるる.「頭の中にある」という状態はすでに言葉になっていると思ってしまうかもしれない.が.考えることは「言葉」でしかできない.頭にあること考えること,言葉にすること,これらの違いに注意しないといけない.考えるときには常に言葉を使っていると感じるかもしれないが,実際は使っていないだろう.言葉は単語をつなげることえ出現してくる生成物だが,単語だけでなにがしかの意味を持つ場合もあるかもしれないが,実際は言葉は「感情の名札」としてしか機能していない.

 たとえば「青空」「政治」,といくつか単語を思い浮かべてみる.単語の意味は自然と想起されるだろうし,印象も感情も過去の記憶も同時に想起されてくる.一方で,単語と単語をつなげて意味を構成しようとしたとたん結構頭をつかう必要がある.印象や感情に浸かるだけならば「頭を使わない」といっていい.頭を使わないことは楽だし,早いし,しかも同時に複数できる.だから考えているような気がして,ふっと気づくと印象や感情に浸かっているだけだったということが結構あると思うのだが,いかがだろうか.

 自分が抱く「印象や感情」を操作する.できそうでいて,そんなことは実際にはできないのだとぼくが思っている.単に「浸かる」だけで,よくもわるくも「なされるまま」でいるよりない.その流れには抗えないのだ.

 印象や感情が流れていくさまを観察していることが心地よく,そのときは頭はフル回転で動いているはず.だが,精神力はゼロで過ごしている.印象や感情に身を任せてしまう魅力の理由には頭を使わないからであって,最大限にご用心したいと思っている.

 ゆく川の流れ絶えずして・・・,という情景を思い浮かべるとよい.川の流れ,あるいは燃え盛る火を眺めるときでもいい.意識があるようでない,生きていることは自覚している,確かに眼前の水も炎も見ている.それでも頭の中で考えていることは全く別なのだ.これが言葉にしないでの思考の実態であり,それは実質妄想に浸っているときと同じ状態である.妄想中には画像姿勢,画層処理,こういった頭脳の回路はMAX速度で動いているはずなのに身体はリラックしている.不思議なことだけど,実際脳は忙しく動いているのだから仕方がない.

 言葉にしない思考って,内実は風呂にでも浸かっているようなものだろう.そこでは頭脳の論理回路は動かないし,知識をつかった判断も行われていない.だから妄想では他人を納得させることはできないし,他人どころから未来の自分すら相手にしてくれれない.そういうことしか言えない.

 この状態から脱却する有効な方法は,それを文章にすること.まともに頭を働かせ,そして実際自分は何を考えているのかを知るには文章を書くよりない.こうして.

楽な文章というものは,あるな

2018-04-21 おしゃべり

 どうにも文章書きが苦手で苦手で,どうしたものかと思ってくるしまぎれに訓練の意味で始めたこのブログだけど,もう結構な年月を断続的だけど続けている.続いているといっても,やめていないことでしかないのだけど.

 こういうものは,読者が存在してはじめて「意味がある」と一般的に言われる.読む人がだれもいないならば,そんなブログに意味はないぞ,単なる自己満足だ.そうブログをつけている人は非難されてしまうこともある.

 いやいや誰にも読まれることはないのだから,誰も読まないブログをつけたってべつにいいじゃないか.そう思って批判や嘲笑を聞き流すのがよいと思うけれど,そうは強がっても少しは反省してしまうときもある.一体おれは何をやっているのだろうかと.

 おもしろ文章を書ける人なんてどう時代に僅かしか存在しないだろう.ぼくはブログを商業的にしようという意図はそもそもなく,たんに文章書きの練習をしている.人気のない河原でトランペットの練習をしているようなものだろう.いいじゃねえか,誰の領域でもない川で練習したって.そういう気分である.そもそもだれの迷惑になるような場所を独占して文章書きの練習をしているわけではない.自分で道具と場所を自分の費用から準備して,細々とつづけている.この庶民の行為に一体だれが物申せるというのだろうか.そういう気分がつねにある.人とのトラブルはたいてい「リソースの奪い合い」に還元される.ならば,だれのリソースをも奪わないのだから,ブログ書きに全く問題はない.そうあためて認識して,こうして続けている.

 下手くそな文章であっても,下手なりにいじっていると,自分の「下手さ加減」というものが見えてくる.面白いし,それはそれなりに自分にとっての勉強になる.「教師がいない」にもかかわらず,学習が可能かという問にはYESと答える.教師も学習機会もなにより才能もないという事実と,一人で何かを試みること.この両者に関連した因果を考える必要はないだろう.

 個人的な努力を避難する人は,おそらくは人の価値をその生産性で判断する人だ.そういう人は,おそらく人の存在自体,ひいては自分自身の存在価値も生産性で考えるようになるもので,そんなことを考える人は大抵ヒマなんだろうとも思うが,そういう人は結果的に自分を含めた世界が暗く見ているのだろうな,と想像している.こういう人につける薬はないので,近寄らないに限ると思っている.

 で,どうして自分の文章を書いていて,それを繰り返していて,文章の良し悪しについて,どういうところに気づくのだろうか.下手な文章である.それはわかっているが,下手にも一様に色が塗られているわけではなく,文章自体に色むらがあることに気づくのだ.文章のできを色で例えれば,光るものがない黒一色の文章だなとおもっていた文章にも,よくよくみていると色ムラがあり,ところどころに灰色の砂粒らしきものがあるもので,「あれ光の加減か?」と思わせるグレームラのようなものがあることを発見するものだ.これを意識的に捉えれば,「あぁこれは良いのか,これが悪いのか」と自分一人でもそれなりに発見がある.この色ムラの認識はだんだん感度があがっていく.べつに先生についているわけではないので,決して効率的に上達するようなことはない.だけどそれでも文章書きの結果に「変化」は生まれている.変化することは.これはそれ自体で面白いもので,だから文章書きも続けてしまう.

 上手い人のエッセイを読むと「うわぁうまいなぁ」と思う.読みやすい文章を読むと「なんでこんなにスルッと頭にはいるんだろう」って感じる.格調高い文章を読むと「頭がいいよなぁ」と憧れをいだく.このあたりの感覚は普段生活しているなかでは味わえいないものだから,せっせと本を買って読むことになるが,それでも誰の本でもいいというわけにはいかない.自分なりに好き嫌いというものがでてくる.

 とくに好きだというわけではないが,気づくと何冊も読んでいるよなという著者に五木寛之があって,新刊が並ぶと確実に買って読んでいる.文章で書かれる世界がいいとか,内容に共感するとか,そいうことが理由なのではない.タブロイドや週刊誌に連載しているエッセーがもとになっている本なので,徹底的に「日本語が読みやすい」ことが理由で読んでいるのだと思っている.週末,ハッピーアワーの時間帯にサラダをつつきながらビールを飲むときに手にしたい本が五木寛之なんですよな.ある種の,吉田類の酒場賛歌をここちよく耳にしているような感じがするのが理由なんだろうと思っている.

 実は五木寛之の本が好きな理由をつい最近まで意識していなかった.たんに,高齢に近づいてきたので先人の人の話を伺う,酒場で隣の爺さんのよもやま話を聞くと話に聞いてしまう.そういうことが理由で五木さんのエッセーを読んでいるのだと思っていた.が,違うな.いや,あの日本語の理解しやすさに惹かれている.あの句点の入れ方が,ぼくの感覚に合っているから,だから読み始めたら坂道を転がっていくかのように吸い寄せられて読んでしまうのである.そう,あこれが文体というものの効果なのか.初めて理解に至ったのだろう.

 ぼくが文章を練習しているときに気がつく不得意な点.それは「,」を入れるタイミングである.複文,重文,という「構造」を視覚的にはっきりさせるために「,」を入れるのかなと考えていた.もちろん,息継ぎの意味もある,ということは語義から理解していた.文章の上手な人の本を読むと意外にも「,」が少なく,読みやすさと「,」はあまり強く結ばれてはないのだと知った.そうおもって自分で真似してもうまくいかない.ああ,未だに「,」の入れ方がわからないよ.そう思っていたのだけど,五木さんの文章の「,」のいちは,文章構造でも生理的な息継ぎでもなく,「理解ための処理時間」を調整するための「,」なのだろうと発見した.

 文章なので単語が順番に頭に入力され,それらから意味を吸い取る作業を頭のなかでしている.一連の単語から意味が用意に変換されるものと,全くできないものがある.前者は読みやすく後者は読みにくいとなる.ならばそうか,「理解のための時間」を文章側で調整してやればいいのか.それが「,」の役割なのではないか.「,」一つに10msec-50msecくらいのポーズをいれているようなものだと捉えることもきる.これが読みやすさのための工夫であり,しかも著者・読者を含めて,まったくもって個人的な好みにという名のもので決められるパラメータの招待なのだ,と気がついた.

 しらばくは,構造よりも読者の頭での解釈の時間を調整する指令として「,」を使ってみよう.そう思っている.

すこし気分も変わってきたので,なにか始めるかと

2018-04-15 おしゃべり

 春になってしばらく経ったから,何か新しいことを始めてみようかな.そう前向きな気分がしてくる.これはもう,自然とそういう気分がしてきたのだからしょうがない.個人の素質とかの問題ではなく,人はそういう生き物なのだろう.ぼくはそう思っている.おそらく,最後の氷河期を乗り越えた頃の人類の記憶というようなものが,頭のどこかにインプリメントされており,その感覚をつかさどる頭の部分がこの時期に活性化されるのだろう.そう勝手に納得している.気分がノアの方舟のノアが鳩を放ったときのような気分だ.

 で,一体何を変えるのかと考えてみたところで,自分の采配で決められることはあまりないから,とりあえずこの自分のWEBサイトの中身の更新をやってみることにした.いや,そんなの意味にないだろう,と思われるかもしれない.確かに意味はないよねとは思うのだけど,それが一番確実にぼくが変えられることなのだから,それを選ぶことに一体なんの問題があろうか.どうでもいいことを自由にやる自由があってぼくは幸せだという気分もしてくる.さぁ,何から始めようか,と春のせいか前向きになれる.

 本当にどうでもいいことだけど,まぁどこに発表しても「意味ないじゃん」と言われそうな地味な活動記録の結果を,ある種のレポートとして作成し,それを地味にアップデートしてみるか.このあたりがちょうどよい.自分の考えていることをつらつらとブログに書き並べるよりも,実際活動した記録を紹介し,その結果どうだったのかまでを示す.それらは事実が「確定」しているのだから,情報としてもいいのではないか.そう判断した.そして自分でやったことなので,だれの許可をとる必要もない.自分で撮影した写真や図ならば,だれの許可もとる必要がない.だれの肩にものらないでやったことを「備忘録」としての文書を残す.これ,とても文化的なことだといえると思っているのだが,さてどうであろうか.

 結局自分でやっていない人,自分がやったことでないから開示する前に組織の許可を取らなければらない人.こういう人の割合がどのくらいなのかはわからないが,おそらく「偉い人」というのはほとんどこの範疇に絡め取られるはずである.つまり,偉い人って結局自らはないも産んでいない人であり,せいぜい指示したという言い張るくらいしかできないだろう.オーケストラの指揮者は楽器を弾かないけど一番えらいわけで,そのオーケストラの演奏結果は指揮者に帰するような認識が普通だし,それでいいと思っている.一方で,古典的な問として「大阪城は秀吉が作ったのか」というものがある.それに対するぼくの答えはNO(秀吉が何かできるわけないじゃん,建築については能力なんかないだろう)だが,一般にはおよそ同意されないことくらいはわかっている.そして,ぼくがこれからレポートにしたい内容は,指示でも構想でもなく,単なる大工の工夫日記のようなものである.似たような人がみたら,少しは「そうそう」と言ってくれるかもしれないこと.これを書いてみる.

 このレポートは,作ること自体ががぼくにとってある種の練習であり,また準備でもある.文書って書かないと上達しないのよ,ほんとに.何がだめで何が良かったのか.それを知ることで向上を図るという,いわゆるフィードバックで能力向上を図るためには具体例が必要なの.しかもそのためには「実際に無から有をつくりだす作業をしたところだけ」が対象になるんだ,とぼくがこれまでの人生を振り返って結論づけている.人の活動をみてそれをヒントするのは大いに意味があるが,それは必ず「あとで自分でやるときのパラメータ振りのバリエーション作成の一助」としての利用において意味があるのであって,人のやった一連のことを記憶する・知識化することでは「たぶんその人は何もできないままだろう,テストなんてないぜ」ということである.いや,今の人にそれを言っても理解できないかもしれないが.

日々使うものに対しては効率などの合理性は求めなくなる

2018-04-15 おしゃべり

 毎日使うもの,あるいは肌身離さずもっていたいもの.そう思わせるものに対して,あまりなぜそれを持ちたいのか,その合理的な理由を求めないし,求められても無理な気がしている.

 これはぼくだけかもしれない.他の多くの人は,別にそんなことは考えていないかもしれない.いいもの,便利なものこそほしい.そう思うのは自然なことだし,それで「仕事・作業の効率がアップする」からと答える人は多いだろう.でも,本当だろうか.合理性を理由にする回答に嘘はないとは思う.が,深層心理にまでいたって真相を探ろうとしてみたとき,それが本当に理由なのかな.そう訝しく思ってしまう.ねぇ,本当に合理的な理由でそれを選んだの,効率が理由なのと問い返したくなる.違うでしょと.

 いわゆるファッション的な意味合いをもつ道具,例えば服でもバックでもそうだが,これだと決める理由に合理性はない.機能対費用=コストパフォーマンスを指標とし,それが最大のものを選んだ,ということは普通しない.服やバックは,その見た目,メーカー・販売店,あるいは「たまたま」だったりが理由だろう.バックを買うとき,全体の大きさとは袋底のマチがどうだとか縫製がしっかりしているとか,一応は確認する.だけど,それは決定を「後押しする」ための理由を探しているにすぎない.縫製がしってているからこれでいい,と決心する理由を探している.ちがいますかね.

 合理性を重視しないで,見た目やブランドだけで購入するかどうかを決める,という極端な意味ではない.何かを選ぶとき,その決定的な要素は,意外なほど些細なことでしょ,といいたい.この結論はあくまでも自分の行動を観察した結果なので,他の人に適用できるほどの一般性があるかどうか自信はない.単なる趣味の問題だろ,で片付けられることかもしれない.それであっても,ぼくの結論は一つのサンプルにはなるし,なによりも「ぼくはそうしている」.これに気がついたので,ここに記録しておく.

 今こうしてこの文章を入力している道具はMacBookPro2012である.もう5年前の製品であり,箱なし,ACアダプターなしで買った本体のみの中古品である.新品を購入するほどのお金をぼくは持っていないし,発売後数年しかたっていない中古品は高くて手がない.まぁこれならいいか.そう思えるぎりぎりの古さとして2015とした.このMacBoookPro2015を買って,ちょっと調整したところ,それなりに使えるようになった.やった,いい買い物だったじゃん.そう感じてから気づいたのだけど,このMacBookPro15は,1年前まで愛用していたMacBookPro17インチと同じタッチであることに気がついた.その17インチはずっと愛用していのだけど壊れちゃた.17インチの後続版は販売していないし,なにより新品を買うおかねがなかった.だからしばらく別のPCをつかっていたのだが17インチのように心底気に入ることはなかった.このMBPは17インチとは性能や画面の大きさが違っている.が,今時にしては「重くて丈夫な作り」であって,だからキーボードを叩いていると石の厚めの板にパカパカとキー入力している気分がしてくるのだがこれが気持ち良い.「そう,これ17インチの感触と同じだよ」と今気がついた.つまり,自分が本心から気になるものは,そういう「無意識が気に入っているところ」が原因だったりするのではないか.なるほど,このMPB2015を妙に気に入った理由を自分で発見したみたいだ.そう,決定打は無意識なんだ.

 言葉によって他の人に説明する「好みについての話」は,そのほんとんど間違っているのではなかろうか.何かを気に入った本当の理由は,自分の無意識が握っており,だから意識がそれれと気づくことはできないのではないか.全部ではなくとも,そういうケースが多いのではないか.もっといえば,なぜそれを気に入ったのかの理由など,本当に自分が分かるものなのだろうか.自分が深く反省し内省すれば自分のことがわかる,と考えたくなるし,それはそうだろうと自然にそう思う.いや,そう思いたいだろう.しかし,本当になんだろうか.自分が何を好きなのかなど,自分にはわからないのではないだろうか.たまたま無意識で捉えている感覚を意識がつかめたときにしか,なるほどぼくはそんなことを考えていたのか,と気づくことはできない.そんなことができる機会は,ほとんどないのではないか.

 たんに文章の練習をしているだけななのだが,そんなことを考えた.

生々流転、を見られた

2018-04-14 おしゃべり

 竹橋の近代美術館で横山大観展を開催しており、今回の目玉はなんといっても「生々流転」の一挙公開だろう。全長50mちかくある巻物の絵なのだけど、端から端まで一気に見ることができた。こんなチャンス、そうそうはない。だいぶ前に美の巨人たちで紹介されてぜひとも見たいと思って機会を見つけては美術館に通ったが「部分」しか見ることができなかったのだ。そりゃそうだ。50mちかい「展示ケース」は普通ない。そのために準備しないと行けないわけだが、展示ケース、展示室、設営場所の管理などの運営を考えても「常設でちらっと」みせるのが精一杯なのはわかっていたので、まぁしょうがないと諦めていた。それが、今回一気公開だもの、行かない手はない。そして、見られた。

 巨匠の絵をぼくがあれこれ言ったところでしょうがないのだけど、それでも後半から最後にかけての展開は「流転だよなぁ」と身の毛がよだつものだった。これははじめのほうからゆっくりみているからこそ沸いて出て来る感想なのだろうと思っている。時間の流れも、季節も明るさも、そしてその変化と方向性、予感といったものがアニメーションを見るのとは全く別の形式で絵によって表現されている。これはすごい。工夫の塊である。ぼくはこういう「工夫」にはいつも感動してしまうのだが、これはこれはと思った。こんな工夫をして見たことがない絵を作り上げた大観って人が日本にいて良かったと思った。ただ、上手、センスがある、技術があるというのではなく、ほぼ素手と工夫で堂々と世界にはれる作品を残した人がいた、ということにいたく歓心したのだ。いてくれてよかったと。

 昨今の政治のバカニュースをみるにつて、日本の人間って「ほんとにバカばっか」と思ってうんざりしていたので、大観のような人がいたのだという事実が救いになった、ホッとした。

中古を見直したのだけど

2018-04-14 おしゃべり

 中古でものを買うのは怖い.とくに,技術が高速で新しくなっていくコンピュータやカメラは数年のちがいで見事に陳腐かまだ使えるかが決まってくる.よほど詳しくないと,トレンドについていっていないと中古商品は買えない.また,まだつかえる中古が売りに出ていても高いので,ちょっと無理してでもその次代の新品を買ったほうが良い.そう思っていたが,これがちょっと覆されたなと思った.

 買いたいなぁと思ってもお金がないことはよくあるわけで,そこで昔は諦めていた.来年まで待つかといってほっておけた.ぼくも最近までそうしてのらりくらりとやり過ごしてきたのだが,急なめまいで倒れ救急車で運ばれ即入院というものを体験してから,いや,そろそろ終わりが見えてきたなと思うようになり,だからなんでも「待つ」ということができなくなってきた.まっている間にもやろうとしていることができなくなってしまうことがありうる,それはそんなに悲観的なことではなく十分ありえる冷静な判断だ.そう考えるようになったのだ.なので,やりたいことはやれる範囲でやったほうがいい.単に待つのではなく,もうちょっと工夫してみようかな.これが中古にも目を向けるようになった原因なのだ.

 まずはデジカメ.一眼レフのカメラはすでに持っている.ただ,結構高価だったのでそうそう持ち出して壊したりしたくない,という気分が先にでてしまう.だから,自然と持ち歩かなっくなるのだが,これはちょっともったいない.そこで,10年位までの中古を買い直すことにした.そしてネットで探すと意外にいろいろある.本体だけでなくレンズもある.これは見る人からみれば「ちょっとどうかな」というものなのだとは思うが,今は「壊してもいい,でも10年前はハイスペックだったもの」を探しているので,由来さえしっかりしたものならばぼくが使う上では十分に思える商品がいろいろ並んでいる.早速よさげならものを買ったのだけど,これが「あたり」である.状態がいいし,「レモン」といわれる中古車とはぜんぜん違う.市場が飽和しているのかどうかわからないが,ちゃんとした業者さんはたくさんいるようである.

 で,つぎにノートPC.Macのノートがほしいのだが,仕事用に一台手元にはある.が,仕事用ではなく純粋に「モンブランの万年筆」を買うように,それを大事に楽しく使うようにというPCがあるといいなと.ネットやオークションのほうがいろいろあるのはわかっているが,それでもこの分野なれば「みればわかる」程度の見識を自分ではもっているので,現物をみて買うことにした.ひさびさにアキバのジャンクショプのようなところをみてまわった.あのへんに店があるはずだよなぁとおもって歩いても店がだいぶ入れ替わっているのでうろうろした.うろうろしているとメイドさんの客引きに会うわけで,なんだか場末感がすごい街になったなとしみじみしてしまった.で,駅前のじゃんぱらの店頭にわりとよいMacBookProがあったのでそれにした.

 まだメモリもHDDも交換できるころのMacBookProで,表面に傷はなく,画面も液晶も大丈夫.バッテリーは,まぁしょうがいないだろうなと思って購入.ぼくは英語キーボードでないとだめなのだが,JISでもキーレイアウトを変更するソフトがあるだろうと思ってともかく購入.2012MIDが54,000円ならばまぁいいかとおもったが,ACアダプターがないと.純粋に本体のみ.それでもいいやと思って購入し,後日アマゾンでメモリを16GにしたりSSDにしたりと手をいれたので,実質8万くらいになったがそれでもいいや.いろいろ調整してモンブランの万年筆のように手元において使えるようなところまでもってこれた.今はこれが相棒として毎日生活している.

 BSD/Linux/Win/Chromebookならばもっているのだが,これではCocoaをつかえない.やっぱり10年位前にCocoaを学んだのだが,最近になってまたObjective-Cに興味をもっていろいろ調べ,普段の解析コードなどをつくるようになった.いや,そんなことをする必然はまったくないのだけど,「やってみたい」のだよ.ただそれだけ.幸い自由な研究者という身分なので,なにをどうつかうのかという裁量は一切がぼくにある.もちろん,だれかと結果勝負をしていたら間に合わないのだけど,そういうレースには一切顔をださないことにしているので,もはや何をやってもいい身分になっている.その代償として地位と予算は「ほぼ」ない.でもいいじゃねぇかと思っている.だって,こういう日々を送れるのだから.

 OSがだいぶ進化したのでソフトが追いつかないようである.というか,有料で購入したソフトウエアが軒並みサポート外になっている.5年も経っていないのになぁと思うのだが,インストールさえできないのだよ.だから,この新しいMBPには有料ソフトがほとんどいれられない.AdobeCS/Matlab/BiND・・・ライセンス的には有効なのでサポート外なんだよなぁと.確かにObjective-CやXcodeのバージョンアップも激しいようで,数年前の教則本もアマゾンで1円という値段でてているくらいで,だから市販のソフトウエアもついていくのが辛いのかもしれない.そんななかEGWordが再発売されたのは大変うれしいニュースだったが.

 さて,このような個人のページについてもBiNDがつかえないので,こうしてWPに頼るよりない.それでも,ちょっと前にいろいろと整理したのでWPだけで十分さまになったものができている.ものごとが時間のあるときにつねて手をいれておくと長く使えるものだなとこんなときに感心する.まさに「手入れの思想」である.リファクタリングともいえるかもしれない.MBPにデフォルトのメールを以降したが,これはこれで大変だった.メールなどはすてちゃっていいものがほとんどなのだけど,まぁぼくもあと何年もないかもしれないから,それだったら「全部のこしておけや」という気分にもなる.なんでもそうだが,これからはリファクタリングでいろいろ長生きさせて,それらと一緒に歳を取ることにしようかな.