月別: 2018年3月

日常的に本を読む人について

2018-03-23 おしゃべり

 ぼくは通勤中に本を読むことにしている。都心側に賃貸を借り、職場は相模原。なので通勤電車は混雑する方向と逆にした。
これは意図的にそうした。借りるときに、実家の近くで隅田川近くという条件でさがしていたらたまたまこの文献が見つかった。
もう結構長いこと借りているが、今しばらく借り続けたい。いつまで住めるのかぼくはわからない、未来については知り得ないが。

 行きも帰りも席に座れて1時間半くらい、あとは歩のだけど、それでも往復で最低でも3時間、場合には4時間の読書時間が確保できる。
家で過ごすときこれだけの時間を読書に確保するのはたいへだが、そこは電車だ。強制的に一日3時間は取れる。

 この方法をはじめてもう15年は経った。それで読めた冊通数は1500−2000くらいだろうと思っている。
以前は正確に数えるためにメモをつけていた。が、10年経った際にやめてしまった。
もう冊数を追う段階は終了しただろうと重い、本を読んだあとにつけるメモの更新を止めたのだ。
その段階で1000冊ちょっとだった。
が、実際には、メモを書いたがアップロードしなかったもの、そもそもメモを書いていないものがあり、実際には1500くらいはいっただろと思っている。

 たいした冊数かと言われると、はなはだ心もとない。10年で1500冊ならば、1年で150冊。2,3日に1冊のペース。
数万冊を読んだという人がいるが、あの領域にぼくは入れるとは思わない。全く思えない。
どう頑張っても2倍の冊数は読めない。ましてや10倍読むなんて不可能だ。
たぶん、読むという行為が今の僕とは違っているのだろう。

 昔は速読に憧れたが、今はまったく興味ない。というのは、どんなに読むスピードを上げても頭の中がついていかないと悟ったから。
文字をデータ・ストリームとしてインプットできるよう視覚というデバイスを10倍強化したところで、データ処理系たる頭の中が本の内容を10倍早く処理することはできない。
速読によって文章を目から10倍速で入力しても、全部のデータが頭から潰れて(おそらく)熱になって無駄になるだけだろう。そう思うようになったやめただのだ、速読は。

 頭のいい人はできるのだろう。僕が通勤時間に本をよむことを意識的に真似をした(目標とした)人のエッセイを読んだら、
その人は読んで理解するというデータプロセスが決定的にぼくと違うのだ。記憶力・メモリ・バッファサイズが常人とは違うのだろう。
読んだ本の内容を数時間かけて「思い出して読む」ことができるようなのだ。しかも、本を閉じたあとであるきながらとかそういうときなどに。
すごい、そんなことひっくり返ってもできはしない。

 自分とは頭の出来が違う人の真似をしても仕方がない。
 いい年になったらそのあたりはさっと妥協できるようになった。
おれ、そんなに頭良くないし、とすっと認めることができるのである。
若いうちはそれを認めず、さらに頑張ってしまったかもしれないが、ぼくはもう若くない。

 いい加減自分の能力を思い知ったほうが良い年になると、自然と「さっぱりとたいしたことがない自分」をやぁやぁといって受け入れられるようになる。
なぜなんだろうか。女性が必死になってお化粧やダイエットや洋服や美容院に投資するののと動機は絶対に同じはずなのだ。
まぁ、あるがままを認めると、世の中はすごい楽しくなるのだ。

 で、本の話。
 結構努力して本を読んだみたとして、では普通の人はどうしているのだろうかと気になる。
とくに、一般的なサラリーマンでよい。そもそも彼らはどのくらい本を読むのか?

 おそらくだが、ほとんど読めないはずだ。電車の中で読むのは辛いだろうし、今はスマホをいじるはずだ。
自宅に帰ってからゆっくり本を読むことができればよいが、その習慣をキープできる人は多くないだろう。ならば休日はどうか。
休日ばかりはゆっくりとするか、ビールを飲むか、だって休日なんだから。
買い物かもしれないし、出かけるかのかもしれない、行楽には書店は含まれているのだろうか。

 一般的な働き方をしていたら本は読めない。本を読めないのならば正直今の世の中を把握することもむずかしい。
ワイドショーやニュースショーをどんなに見ていても、だれかの政権につながりのある、あるいは広告代理店にとって都合の良いストーリを見せられているだけだ。

 なるほど、だから今のような政治家が跋扈し、おかしな事件が立て続けにおき、そわりにだれも責任をとらず、ものごとが崩れおていくばかりなのだろう。
リーマン社会であるかぎり、今の世の中は良くなることはなく、しかも長く続かないだろう。

 ぼくのような冊数の本しかよまない人であっても、単行本でなくとも新書を手にとっている人ならば、今の世の中のおかしさは体感できる。
そして、どうしてこれをおかしいと思う普通の人が少ないのか、頭を抱えてしまうニュースをみるたびにため息をつく。

 最初は「普通の人ってそうとう馬鹿なんだな、ぼくの学校生活ではあまり合わなかったような人が多いんだなぁ」と単純に思っていたが、
そうではなく、「まともな情報がない、まともに考えてそれを語る人の言葉に耳を傾ける機会がない人」は、
何も現代に生きているのにお気の毒だなという状態に必ずなるのだろう。怖い。本当に怖い。

 本なんて10万部いったら相当売れた部類に入る。それでも10万の人しかその内容を理解しないわけだ。
野球はプロレスの観客が何人いるのだろうか。0.1%の視聴率でも何人の人が視聴したのか。
そう考えると、本を読んでいる人の全体における相対比がおそろしく小さい。つまり、まともに考えることができる人は全体に対して無二近いような気分になるわけだ。

 だからテレビ・ラジオというものの影響力には目を見張るわけだ。ネットの元ネタは新聞だったりするので、テレビ・ラジオとダブル。
あれは、情報を伝える装置ではあるが、人を制御する装置だ、とみるほうがいい。とくにメディアから言われたように動くようと人々の感情を煽ってコントロールするための装置である。
良質な番組なんぞ作る必要がない、それですら「人を制御するためには邪魔なもの」でしかないから。

 そして実際リタイヤしたリーマンあがりのおじさんは、終日テレビをみるようになる。そして、「いっぱしの論を語る」ようになるわけだ。
が、そんなものは見ていたテレビの制御入力を自分なりに翻訳して語っているだけでしかない。テレビが情報源の人のいうことは「信用してはあらない」わけである。
人生の最後にさしかかって、そんなふうに操られて終わるのかとおもうと、他人事ながら気の毒になる。しかし、しょうがないじゃないか、考える訓練をしてこなかったかのだから。

自分の来し方(かなり近傍)を振り返ること

2018-03-23 おしゃべり

 来し方と行く末という語は対になっていいる。
意味するところとして、過去と未来のことであり、対にすることで現在を挟んで両方を含めている。

 それでもって、どういうわけかこの言葉を口にするとぼくは遠い目になってしまう。
たいした過去も、愉快な未来予想図もないのに。
イベントとして何か理由があるわけではない。
ならば、この言葉にはなにかしかのからくりがあるような気がするので、少し考えてみる。

 単語の意味にはなにも不思議はない。
ニュアンすというものが人の記憶に触れる場所が違っていくるからだと仮設を立ててみる。
来し方と過去とでは、なにか「ため息がもれる」ような感じの違いをもって、頭に入ってくる場所が微妙に違っている。
つまりだ。過去はT<0みたいな、どちらかと言えば自分とは関係がないことを紹介するときの時間軸を設定している。
一方、来し方といえば、自分が歩いてきた道、楽しさ悲しさを伴った思い出の場面設定を行うときの時間的方向を示している。

 来し方と言われたら、おそらく、「この人の話はちゃんと聞かないと相手は不機嫌になるぞ」と身構えてしまう。
からなずしもそうではないかもしれないが、自分の経験から身につけた反射であり、ほぼ無意識に待受モードになる。
同時に、自分が来し方といったら、自分の過去を語るぞ思っているわけで、だから誰にでもかまわずする話をすわけではない。

 行く末についてはちょっと対象範囲が狭まる。
末ということからか、可能性が狭まっていくような、もっといえば死んでいく様子を語るような気分がする。
確実に、楽しいことが待っているという話がでてこない。
どちらかとえば真面目で、しかも面白いくないことを話す可能性が高い。
これもぼくの経験による待受態度だが、他の人は違うのだろうか。
ちょっと気になるところではあるが、ちょっと知りようがない。

 ぼくの場合、普段はずっと一人で作業をしている。
だから人と話す時間はわずかである。
会議でもやれば違うが、会議がないならば、独り言を言うくらいである。
しかし、言葉を使わないわけではなく、メールは文章書きのときは、ひたすら言葉を紡いでいる。
無言で作業するが、頭のなかでずっと音読しているのだから、脳のなかには言葉が響きつづけているといってよい。
だから、意味を伝えることに集中するあまり言葉の響きをおろそかにする、ということはしない。
言葉はその響きをも考えて選択して使っている。
そのつもりだ。

 言葉のもつ意味と響き。そして響きは意味を解釈する部分とは別の脳の部分をタッチし、記憶や感情を引き起こす。
この2つの操作をねらって言葉を選んでいるはずである、それも高速に。
この上手下手の違いは、確実に存在する。
話がうまい人下手な人という違いをうむのではなく、いい人悪い人、もっといえばスマートな人、下劣なやつくらいの違いを生じさせる。
そう思っている。
だから、言葉は選ばないといけないし、それに十分に配慮することは決しておかしなことであはない。

 閑話休題。
 さて、来し方と過去との違い。
ニュアンすとして、来し方といってしまうと、人格形成に影響を与えたイベントの集合体を指すように思っている。
だから、あんなことがあったら今の自分になった、という話であり、それは感謝する人であるが、恨めしいやつらである。
いずれにせよ今の自分に繋がった出来事である。
 一方で、過去。これは、自分と関係あろうがなかろうが、ニュースになったもの歴史的イベントなどすべてをひっくるめての事象を指す。
どちらかといえば、自分が含まれている、自分を飲み込んでしまう、天蓋を含めた世界のことである。

 さて、正解はどっちなのか。
いや、一般的にはどちらの意味なのだろうか。
広辞苑の7版をつかって調べたいところなのだが。
ジャパネットで電子辞書をかうか、平積みになっている辞書を買ってくるか。

一日の時間は短い,それが平日でも休日でも

2018-03-21 おしゃべり

 休日の一日が始まると,さぁ無駄にしてなるものかと布団のなかで意気込む.が,同時に休みだからゆっくりしてようかなという気分にもなる.結局,早くもなく遅くもない時間に起きて身支度をする.だから思ったほと長い時間は残されていない.これがまず事実である.

 ご飯をたべたり,ニュースをみたり,本を読んだり,パソコンをいじったりと「いつもとは違う時間にいつもやらないことをやる」.そして気づくと,もうお昼だったりする.そして,休みが休みたる時間的なマージンを使い尽くしたことに気づく.あとはもう,明るい時間は転げ落ちるようになくなっていくだけだと感じる.夕方まで何時間もないわけだ.

 何をするにせよ自分が行うことだ,漫画の中のようなスピードでこなすことはできない.ちょっとしたことをやるにせよ,その準備に時間がかかり,とりかかったとしても出だしのスピードは遅い.したがって,大して進まないうちに時間がすすみおやつの時間になってしまう.休日なんだからゆっくりやるかと余裕を楽しむためにお茶を飲む.やっていたことにとりかかったらもう夕方である.さて,ハッピーアワーだな,ビールでも飲むかとなる.

 こうして休日は過ぎてしまうのだ.もちろん,ご飯をたべビールを飲み,読みたい本をめくり,やろうとしていたことにとりかかることはできた.が,その過程のどこにも「達成」というものがない.つまり,何もできなかった,わけである.達成しなかったならば,満足感は味わえない.もちろん,心地よさは十分に味わえたとしてもだ.

 もうだいぶ昔から気づいていたが,休日をつかって何かを成し遂げよう,ということはしないことだ.それは実際問題「できない」のだ.何かを成し遂げるためには,休日ではなく平日に行うべきだ.仕事をしている時間を割り当てて,それを成し遂げるべきだ.そうでもしないと「絶対に達成」するところまで何かをすることはできない.これは断言できる,ぼくの経験からだけど.

 当たり前のことだが,休日に何かをしようとしてはいけない.休日は何も予定しないほうがいい.そして,自分がやりたいことは「平日」にやるべきだ.それは寝る前の1時間かもしれない.しかし,生きている時間であり,何かをやるために残された空間はそこにしない,と思った方が良い.つまり,定常的な社会人生活をしている人は「何かを成し遂げる」ことは,その仕事の中以外には全くないのである.だから,仕事について考えるべきだし,仕事にその隙間がないようならば変えるべきだし,生活を壊して変えるより,自分で考える何かをすることはできない.そのパターンを変えないであたらいことを始めることはできないのだから,最初からやらないほうがいいとさえ感じている.

 つまりは,生きているときに何でもできるなんてことはなく,すくなくとも定常状態にいる間に非定常な要因をいれることは,その生活に定常的な要素が多ければ多いほど難しいだろうと思うわけである.

 まぁ,この辺のことは,どんな人でも20年は社会人をやっていれば自分の身に照らし合わせてそれぞれ発見していることだと思うのだけど.

どちらかといえば不便なものを使うようになる

2018-03-17 おしゃべり

 どういうわけか,もっと便利なものがあるにもかかわらず,不便なものをあえて選んで,古いものをわざわざちょっと高いにもかかわらず購入して使うという趣味がでてきた.とりわけ,文具やPCにその傾向が強い.どうちゃったんだろうおれ,という疑問がわく.

 懐古趣味ということはない.レトロ趣味というものでもない.というのは,自分が知りもしないほどに古いものを,古いからという理由でもちだすことはないから.自分が知らないものは,それが古いということで惹かれることはない.だから懐古趣味に染まったわけではない.骨戸品やに通うことはないし,蚤の市に顔を出すこともない.

 たんに,自分が向かし欲しかったものを手に入れたい.昔はまったく手に入れられる状況にはなかったが今ならば買えるというものがある.とくに,子供の頃でなくとも,10年前,20年前というレベルの中途半端な古さのものにそういう気分を抱く.たんなる家電製品ならば,単に古いというだけで,それを欲しくなることはない.まったくない.しかし,万年筆だったりPCだったりすると,バカみたいな値段で中古がウリに出ているわけで,だから失敗してもいいような金額なので買ってしまうのだ.

 そもそもジャンク品のようなものだから失敗も少なくない.買ったはいいが,結局使い物にならなかった.あぁ失敗.そういうものは多い.無駄使いだった,本でもかっておけばよかった.そうなるものが多い.それでも,なかには当たるものがある.今こうして使ってるPCもその一つ.もっと性能がよく使いやすいものをすでに複数手元にある.それでも,一番不便で性能もよくないものを磨き修理し部品を交換してなんとかまだ使えるようにしてている.この作業は週末やるわけだが,今はいろんな部品がアマゾンで手に入る.だから,ほとんど趣味としてやっているわけで,これが時間が経つのも忘れて楽しいのだ.

 そんな古いものを平然と使っているおじさん,という一面をまわりの人に知らしめたいのかもしれない.高いものは無理だし,みすぼらしいものもなんだ.だから,一見普通でどちらかといえばちょっと疲れたような品を使い込んでいるという一面を自分の属性値として知らしめたいのかもしれない.かっこつけとして,ある種のファッションとしてやっているのかもしれない.そういう気分が自分にもあるといえばある.ただし,極めて「そう評価されることは,ほとんどない」ということも分かってやっている.だから,楽しくやれるのだけど.

 何かの専門家もっといえばプロというレベルに達するまでには,その対象と長い時間を過ごす必要がある.練習としてずっとやっている必要がある.そして,一般的には,1万時間という時間が必要なのだそうだ.一日3時間で一年でだいたい1000時間,ならばその生活を10年続けて1万時間となる.つまり,なにかをそこそこできるようになるには,それを10年間せっせとやる必要がある.そうでもしないと,脳自体が切り替われないのだ.終日練習していれば,それこそ5年くらいでなんとかなるかもしれないが,集中力が続くのか,それで生きていけるのかは,その人の置かれた状態によるわけだ.

 そうかんがえると,ぼくにはあと一回その時間スロットがあるかもしれない.これまでなんやかんやと時間を過ごしてきた,今の職について20年だから,プロ的なものが2つは身についていないとダメなはずだが,正直失敗していると思う.つまり,ぼくはこれのプロで,だからそれで生きていけます,というようなものが浮かんでこないのだ.そのときどきに,流されてきたということがはっきりしたわけだ.すでに二回失敗したが,これで終わりということもないようで,あと一回分のチャンスが残されている.ただし,それは今のような生活が続けられた,という条件で.昨今のニュースをみるに,果たして世界も日本もぼくの生活も,現在のような状況をどれだけ継続できるのかはわからないのだが.

 このさき10年,どうなるか分からない.天変地異の可能性は常にある.ぼくも身体的に壊れることもありえる.この生活がいつまでの意地できるかわからない.そこであえて10年計画での訓練に取り組むわけである.これは,もはや未来のために,という理由ではない.単に,それをやってみたいから,以外の理由はない.そして,やってみたいから以外に理由がないことをやれる,という幸せを噛み締める幸せを十全に味わっておくことにしよう.

 こういうブログをつけはじめて10年はたっている.もちろん,一日3時間の時間をかけているわけではないので,一日1時間ならば30年かかるわけで,それいかの時間しかかけていない.それでもいろいろと文章の勉強にはなっていて,だから10年前のものに比較すれば少しは成長のあとがしのばれる.もちろん,1万時間未満なので,評価の対象にはならないのだけど.

 何かをする以上,そのみちのプロを目指すことは正しいとは思うが,絶対にその目論見は全員が果たされるわけではない.目論見というものが成功する確率はそもそも低いのだ.成功しないならば意味がない,ということを吹き込まれるかもしれない.しかし,そんなことは決してないだろう.成功がプロになり評価されることだというのならば,そもそも1万時間をかけることが前提であり,その上で品質の競争となり,そこではじめて運だの生まれだのという,本人にはどうにもならないものが理由で序列化されるわけである.そんなことを目的として「人生をすりつぶす」ことなど決してない.ただ,その1万時間のなかにいる事自体に幸せを感じるほうが,生命としてはずっとたちがいいように思う.だって,それができれば歩確実に幸せになれるからね.

 そんなんことをコーヒーを飲みながらぼんやり考えていてた.