月別: 2018年2月

松尾豊『人工知能は人間を超えるか』を読んだのだけど

2018-02-16 本のメモ

最近はずっとDeepLearningのことを勉強しているのだけど,一通り知ったはずだがそれを「体感」できるところまでは行っていない.だから「DeelLearningを理解したぜ」は言い難い状態にある.経験的に,何かを実感するところまで理解するためには,「どれだけ真剣に考えた」とか「連続して学んだ」とかいうこと以上に,「その活動をしたあとにどの程度時間が経過したか」あるいは,「それを自分の問題に使ったって結果を得たか」のが決定的だ.なので,ぼくは両者がまた足りていないのだろう.今はあるい意味「体得できた感がないのはどうしようもない,時間が経つのを待つよりない」.そう思っている.そう思っていはいけど,なにか違うことをやる気にはなれないので,とりあず普通の本を読むことにした.それが表題の本である.

一読し,本として面白い.自分の知っていること,あるいは対象を理解しょうとして考えついた形式を「上手に」記述している.よく,「自分の言葉で説明する」と言われるが,それは少なくとも自分の言葉で理解する,あるいは,学んでいるとき,対象について理解しようと努力しているときに「自分がどのように理解すれば,一番腑に落ちるのか」に力を尽くすことができる人かどうかで決まってしまう.それは日本語の文章の上手い下手以前の問題であって(そういうのは出版社が手がける以上だいたいなんとかっているだろうし),本書のようなレベルの本は,著者が「本当に理解したいとあがいた軌跡」のようなものを感じてしまい,だから多くの読者の理解を得られたのだろうと思う.結構売れた本だろうなと思う.だって,僕も他人にこの分野の本を聞かれたらこの本をすすめるもの,真っ先に.

この本は前半中盤後半に別れているが,あきあらかに後半は面白くない.ある意味,表面的な予想が記載されているようで,著者はこれを書きたいとは思っていないことが現れちゃっている.おそらく,編集の人と話していて,どうしても「これからの世の中,予測といったことを書いてください」とかなんとか言われたのかなぁと想像する.それに対し,著者の一番書き高かったことは前半であって,これれは論文には書けないことであり,講義かなにかでその片鱗を話されているかもしれないが,現在機械学習とは何だろうかなぁと学んでいる人にとっては大変よいガイドになっている.その流れで中盤もある.まぁ,たち読むするにしても数十ページは読めばいいように思う気もする(読んだら多分買うだろうし).

著者のDeepLearningの理解の形式は「なるほどなぁ,そういういうふうに考えるのか」と愉快な気分になった.ずっと考えていた人って,とくに「自分が理解したい,これはなぜだろう」が学ぶ現動力になっている人は,かならず本書にあるような「工夫」をしている.教科書的なものをそのまま記憶することはない「だって,それは納得には結びつかない」からだろうと思うが.ぼくもこれまで入門書を4,5冊読んでいたが,本書にあるような理解の形式が紹介されているものはなかった.サラッと書いてあったのかもしれないけど,結局はPythonコードやグラフのほうに目が行ってしまったのかもしれない.ただ,本書を読んだあとに,これから読む教科書や,すでに読んだ本を読み返すときに,本書での理解の形式がぼくにかなり影響してくるだろう.そう,面白いですね,勉強って.ちょっとした考えや図が,その後のものの味方に大きく影響を与えるから.

書店員さんのブログエッセイー本を読んだのだが

2018-02-10 本のメモ

新井見枝香『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』という本が書店で平積みされていたものをたまたま目にしたので手にとり,書き出しが面白かったので購入し,その日に一読した.この本は書店員さんのブログエッセイのようで,人に読ませる文章が書ける女性店員さんの日常(仕事を含めて)思うことが綴られた本であり,書き出し以上に面白いとかゲラゲラ笑うとか,同業のために共感できるなぁとか,そういうところは全くなかったのだが,ともかく短期間に全部読んでしまった.なのでこの本はブログエッセイ?として十分に基準に達しており,買って失敗したとは思わない.そういうことを考えながら仕事をしている人なんだな,と自分の知らないことを理解できた.ただし,タイトルに関連するようなエッセイが収録されていない?ように思って,あれ,おれ釣られたか?感もちょとしたのだけど.

人に読ませる文章力は,単語と単語の関連性,理解しやすいような単語の並び,かつ黙読でもリズムをもっている,あるいは情景が浮かびやすい言葉の使い方にある.素人だと,なかなかそういうものは書けない.文法を基軸とし,論理的な記述の連続ならば勉強することで身につけることはできるが,かといってそれだけで読みやすい文章には決して至らない.記録として,行政文章や論文として文章ならば努力すればなんとかなるだろうと思っている.それは外国語で文章を書くようなもので,正しい正しくないがきちんと判定できるし,伝わる伝わらないも検証できるような作業能力だから.が,読んで楽しんでもらうというものを書くには,そのための具体的な方法はわかっているようでわかっていないように感じている.だから,これはもう才能が必要,としか言えないような気がする.したがって,ブログエッセイであろうとも,著者自身について興味をもっていない人が一冊を読み通せたという事実は,この著者には「その才能がある」ということの証拠であると言える.ぼくも,そう思う.が,正直作家というところには行けないだろうなぁとも感じてしまう.なぜだろう.

ブログエッセイに特徴的なものは,その言葉のリズムである.人の動きを想像させる会話や行動,心理描写というものがブログではあつかわない.考えていること(・・・すべきだろう的な思想),感じたこと(・・は良かった,悪かった)が記述される内容のメインになる.そうなると,それを記述しただけでは単なる「作文かよ」となってしまうので,言葉の使い方にスパイスを聞かせ,ちょっと乱暴な,普段耳にすることも目にすることもないような文体を登場させてしまう.そして,普段見慣れない文体だから,ちょっと読むと「あれ,ちょっとおもしろいな」と感じ,短いものならさっと読み通してしまう.これが,人気ブログの特徴かなぁ?と勝手にぼくは思っている.ただし,そこのは罠がある.そのような「ちょっと乱暴なスパイスのきいた文体」は,長く読んでいると気分が悪くなる.それはそうだ,身体に馴染みやすくない文体にしたら注意を払われたのだ,その文体を長く摂取していたら,気分は絶対に萎える.スパイスばかりきいたご飯を3日つづけてたべたら,なんか味噌汁とご飯でいいです,という気分になるようなものだろう.文体で読ませるブロブは書籍化すると,たいていつまらなくなり,その印象がその作家を印象づけてしまい,先にいけなくなる.つまり,本をよんでげんなりしちゃったら,ブログはもういいやとなってしまう.と,まぁぼくは想像してしまう.

ブログが面白くて,お仕事でもいろいろと企画をされるような人ならば,ここは一つ「作品」といえるようなものを書いたほうが良かったんじゃないなかぁと想像する.つまり,ブログが人気があったのでブログを出版しましたみたいなことは,やってもいいいけどやったら一回で終わりになるということだ.ブログを書くことをつづけてもブログから先に進めないとしたら,自分の思っていること感じたことを自分が語りそれを記録するというブログではなく,それを取り巻く世界を設定し,人を設定し,その世界をすべて文章で構築するとう「作品」と呼べるものをつくっていったらどうだろうかと思うのだ.つまり,ブログはどうしても実際に存在している著者と紐で繋がっている必要がある.細かいこと記述されていないことは実在の著者が担保しているようなもので,だからブログは地域も時代も超えていくことはできない.ブログ単体では必要な情報が足りていないからだ.ところが,ブログの内容が元になっていたとしても,必要な正解をすべて文章で内容に織り込んでしまえば,「すべて内容にある」ということからそれは「作品」と呼ばれるものになる.その作品には必要なものが内包されているので,地域も時代も超えて作品として時空を漂うことができるようになる.ブログ本はどうしても,単体で時空をさまようことができないので,読んだ瞬間は面白いけどそれが未来の自分に登場することがないので,ちょっと残念(損した)気分がするんだろうなぁ.

世の中によくある障害への態度

2018-02-09 おしゃべり

お金の問題は生きている限りについて回るものだけど,ぼくはあっさりと「諦める」という態度を身に着けてから,お金に悩まされることはなくなった.

余裕があるというよりも,なにかがほしい,必要だと思うことじたいに無理があるのだと思うようになったのだ.そもそも今になって必要になるのものは,もともとぼくの範疇にあるものではない外来の理由によるものだから,対応できなくても「しょうがない」と思ってやりすごす.もちろん,医療や住居など払わないと現状維持が困難になるもは心理的な態度でどうにかなるものでもない.しかし,やるだけやってだめなら仕方ないという「気分」で当初から事態に臨み対応している.こうすると良いことがある.それは焦りとか恐怖とか絶望ととかとは無縁のまま事に対処できるのだ.難しいことほど,無心で対処するほうがよいことはこれまでの経験上から言えることで,焦ったり恐怖したり怒ったりと,いわゆる「ネガティブな」感情が励起されたままでの「判断」などは,もうほぼ必ずといっていいほど「だめな結末へつながっている」ものである.だから,難しいことほど「なんの感情も持ち出さず対応する」,あるいはそうするように自分を仕向けたほうが絶対に良い.

もちろんぼくも「あれがほしい,これがほしい,こうなったらいいい,それにはお金が必要だな」という考えが頭に浮かぶことはある.いや,しょっちゅうアマゾンのサイトで「これを買ってああしたらいいだろうな」という妄想を電車の中で寝る前に布団のなかでしているが,それでも購入にまで至るのは「本」に限るようにしている.パソコン用具などは,時間を少しとっておくことにしている.ただし,本は「数千円で学べることだ」と思って買うことにいているのだが.さて,パソコン用具など妄想をもって購入したものの行方がどうなるのか,長く生きているそれも知っている.そう,大抵は「思った通りに使えない」ものであって,「結局使わない」ことになるものが半分以上あるように思う.つまり,勝ったいいがホコリをかぶるのが半分だ.そして,かりに使っているものでも,かなり無理して使っているような状態で,純粋に「思った通り十全に使えている」ものなど,10%程度であろうと思う.これは,これまで購入した本のうち,読んでみて「あたり」と思ったものの割合に近い.つまり,世の中にあるものでほしいなと思うものは一定の割合以下であり,そのうち購入までするものは三分の一以下であろうし,そして勝ってはみたが「よかった」といえるものは10%程度という事実があるのならば,ぼくが「ほしい」と思ったもののうち,実際にぼくにとって役に立つのは数%程度でいはないかなという身体的な実感をもっている.だから,ほしいな,買えないな,じゃぁ諦めるかという「あっさり」した態度が取れるのである.これは,年を取ったことで可能になったことだ.

ここからアナロジーが暴走する.物品について「ほしいな」と「よかった」の間の乖離が身体的に理解できる,この関係はおそらく物品以外にも適用できるだろうなと想像することになる.つもり,買う買わないの対象以外,何をする何かをできるようになる何らかの地位につくなど,お金では買えない対象についても一定のあこがれを持つものだって,「ほしいーよかった」関係論が適用できるのではないか.そうなると,おそらくだが「あー,そうらないかな」と思うことの数%しか意味がないのだとしたら,「あー,そうならないかな」なんて思ったところで,そんなのどうだっていいように思うことができるようになる.つまり,「あー,そうなりたいな」と思ったところでなってたところで「よかった」とならないことがほとんどなんに,ないゆえそんなことに努力する必要があるんだろう.そう,答えは「ない」である.だから,日常生活のなかで,普通に生きていくときに,本当に必要なものは,じぶんが必要と感じるものの数%程度なのではないか,と拡大解釈,過度の一般化をしてみたら,なんだ「世の中かなんて,自分が思ったことと関係がないように進んでも,たいして困らないじゃないない」と思うようになるんですよね.そう,そして,これが「ぼくなりの悟り」だと思っている.どうかな.

結構な頻度で息詰まるのだけど

2018-02-08 おしゃべり

絶望というほどたいそうなことではないけれど,それでも心理的に行き詰まることは一日に何度もある.何度もあるので,冷静に考えると「さすがにありすぎる」ような気がするのだが,普通の人はどうなんだろう.「行き詰まる」のと「やり場のない不機嫌さから無気力さに落ちいる」のとは心理的過程が同じであるので,両者ともに「行き詰まる」と呼んでさしつかえないと思うので,その言葉の定義によって数え方が違ってくるだろうし,だから一月に一回とか,あるいはそこまでに至ったことはないとかのバリエーションは人によっていろいろあるだろう.ぼくのは場合は軽めの定義なので,一日に何度もという言葉がふさわしく,込んだ電車のっただけでもそう感じるくらいであるので,だから毎日といえてしまう.

新聞を読んでいて,いや厳密にいえば見出しを眺めていて,政府はだめだなぁ,高級官僚はだめだなぁ,東京都はどうして築地やオリンピックを扱えるのだろう無理じゃねぇか,上位チームでもないボブスレーチームの人からも「遅いから使わない」とつっぱねられる下町ボブスレー,一体どこが技術なんや,ただの迷惑なだけじゃねーか,なにが訴訟だよばかかよ,という気分になる.政治家や役人が腐敗していくのか,とくに今のような独裁色が強くやればみな無責任になるし,だから「そういう現象が多くなる」のは,自然現象ではある.しかし,この下町ボブスレーの連中の厚かましさだけは許しがたい.「遅い」という結果資料がでているのだら,技術を売りするのならば「それで負け,謝るのが筋」だと思うのだが,今の下町の工場の人はもやは技術屋を名乗らないでほしいよ,ほんとに.使ってくれないならば損害賠償って,正気の沙汰とは思えない,消えてほしい.

そう,絶望するのはこのようなニュースを目にしたときである.だから,自分の身の振る舞いとか能力とか運だととか,そういうことはあまりに気にならないので,だから新聞を閉じて普通に夕飯をたべてお風呂につかれば「生きてるって素晴らしいなぁ」としみじみ感じることができる.だから暗い気分からの脱出はわけがないので,精神的には安定なのだけど.

手に余る数のPCが手元にあるのだけど

2018-02-07 おしゃべり

用途別にノートPCを準備している.最近は安価なPCもあるし,そこそこの性能のものでもネット直販店で購入すれば買えない価格ではないだろう,というものも選べる.だから,ちょっと無理する程度で購入できるのならば購入して,何らかのために使ってしまうことにしている.

一昔前ではそんなことはできなかった.買わないで済ませるのならば,他で無理が生じてもしかないと思いあきらめていた.が,今は,無駄遣いの疑いがあるかな,とう状態ならばお財布と相談して多少の無理はしてしまうことにした.もう,ぼくだって現役であれやこれやできる時間の出口が見えたからだ.今我慢して数年して状況が良かったら購入して,その後頑張ればいいだろう.そういう余裕がないのだ.決してお金の余裕があるからではなく,時間の余裕がないのだ.これは「忙しいから」ではない.何年か先では,それまでの何年かでできたはずのことが「消えてしまう」からで,それがお金よりももったいないと感じるようになったのだ.要するに,歳を取ってしまった,ということである.

今やれることは数年後に回さない.これは,生活全般に言えることで,あらゆることにおけるぼくの判断基準になってしまったようである.休日に出かけたときにお昼ごはんを食べるのだが,そのとにきに「何を食べるのか,どのビールを飲むか」という選択をする瞬間には,この「いまやれることならばやってしまえ」という気分が選択肢に影響している.買い物で度の本を買ううのか,ひと月後にするか,ということにすら「今から読めるのならば,読んだほうがいい」とぼくの中でささやきが聞こえるようで,だから一昔前よりも本を買う量が増えてしまったくらいである.

身体的な能力低下を感じたことがきっかけではない.たしかに,最近は人の名前が思い出せないという経験を良くするようになったのは確かだ.しかし,手が震えるとか,足がもつれて転んでしまうということはない.目に見えて老人化した特徴を感じることはまだない.しかし,一月ほど前に職場でめまいがとまらなくなり,そのまま救急車で病院に運び込まれ入院したことがあり,これがひどく自分を「体調管理」に注意を向けるようになった.体によくないことはしない,寒いなら雪がふるなら「さっさと有給を取って休む」ということを当然のごとくし始めるようになったのだ.はっきりとした体調変化を感じてはないが,ただ,そろそろだなということがもう「わかっている」のだろう.むしろ,待ち受けているのかもしれない.

思えば,職場で現役でやれるのって,あと10年くらいだろう.そう十年.今から新しいことを初めているくらいのなのに,もう出口表示が見えてしまったわけだ.残り時間を腕時計で頻繁に確認しながら,テスト問題に取り組んでいるような,あの懐かしい緊張を日々の生活で感じている.たしかに,ぼくも「リアルな動物」だったことを身にしみて理解した.

もっとも,あと十年をこのままの状態で過ごせるとは思っていない.体調変化があるだろうし,家族やその他の生活環境変化に対応するため,あるいは自然災害や政治・歴史などの影響を被っていまのような生活を維持できなくなる可能性は決して低くないだろう.頭のなかでは「諸行無常」ということを理解してはいるが,自分の普段の生活を突然変えなければならないような変化が訪れるとは実は思っていないのだけど.現実と折り合うための心構えはちゃんとしておかないといけない.そう思ってはいるのだけど.