月別: 2017年10月

保守的であることの良さ

2017-10-15 おしゃべり

歳をとったせいなのか、あるいは「もともと」そういう性格なのか。
自分は保守的だなと感じる瞬間を何度も体験し、また奥さんからもそう指摘されることが多くなった。

保守的といっても、政治の話ではない。
生活パターンがマンネリ化していることを指す。
いつもいつも同じことの繰り返しを平然と、どちらかといえば喜々として続けている自分。
そういう人に向かっての「評価」である。
「あなたは保守的ね」という具合に。

例えば休日の過ごし方。
そのほとんどは「同じ」ような繰り返しになっている。
毎週毎週違うことをしていたら、その計画だけで疲れてしまうだろうに、休日なのに。
そう考えてしまうくらいだ。
若い頃はともかく新しいことを求め、なるべく違う行動をとれるよう意図的に努力をしていたかもしれない。
今週はあそこへいったから、来週は違うところへ行こう、という具合に。
どんな本を買うか、どんなご飯を食べるか、どんな場所へ行くか、全部に共通した行動指針だったかもしれない、今思い返せば。
とはいえ、今から10年前、20年前、自分はどういうことを考えて行動していのかなど、もはやわからない。
あるいは、その頃から「お気に入りの場所へ出かける」ことを楽しみにしていたマンネリ人間だったかもしれないし、新しい場所を探していたかもしれない。

とはいえここ数年、いや10年くらい、いやもっとかもしれないが、週末の行動パータンは同じだと思っている。
お気に入りのラーメン屋へ昼ごはんを食べ、お気に入りの喫茶店でコーヒーを飲み、本屋を循環して、スーパーで夕飯の材料を買って帰る。
土曜と日曜とで買い物の場所が違っているが、やっていることは同じなのだ。
しかもこれを春夏秋冬ずっと同じことをやっている。
それでいて、週末が楽しみだし、そしてウィークデーには週末を楽しみにしている。
何をやるのかについては「同じ」であるのに、にも関わらず、ワクワクしながら週末を待っている。

保守的であることは、エネルギー最小の過ごし方をしているようにぼくには思える。
長い期間ずっと同じことをしているので、これから何が起きるのか、だいたいわかっているのだ。
したがって、落ち着いて行動できるし、時間もお金もどのくらい使うのかかなり正確に予想できるし、また実際にそうなる。
ぼくはこの先ずっとこの週末の過ごし方をしていてもいいと思っている。
もちろん、身体も社会もどんどん変わっていくし、訪れる先も改装したり閉店したり、あるいは味や値段が変わったりして同じことを繰り返しやり続けることができないこともある。
そういう変化があっても、週末の過ごし方全体としては「同じ生活」を続けられるよう工夫しているわけである。

あぁ、そうかと気がついた。
これは「動的平衡」そのものだなと。
そして、これが「生きている」という状態そのものだなと。
身体としての自分や社会としての街は変化しているのだが、過ごし方、あるいはそれを気にっている自分は「留まっている」わけである。
つまり、過ごし方という「ある種の生命体」はそれを維持しょうとしているわけである。

これって生きていることそのものだな。
そんなことを発見したわけだ。

SNSから身を離す

2017-10-13 おしゃべり

SNSは相当怖いツールだろう.
SNSで流れてくる情報に怖いものがあるではない.
SNSに時間を奪われてしまい,まるで廃人状態になってしまう,という危険があると言いたいのでもない.
もっと単純に,気軽に発言できてしまうならば自分の馬鹿な部分を増幅させて社会に発信させてしまう可能性が非常に高いから.
気軽=感情であり,感情表現の,とくにネガティブな感情のはけ口になりやすい装置だよな,という意味で怖い.

少し前に,バカッターなる現象が若い世代を中心に流行していた.
コンビニやファーストフードのアルバイト店員が,衛生的に本来すべきない,普通の人なら「するわけがない」ことを実行し,それを勇敢な行為として写真にとってツイッターにアップしていた.
当時は,どうしてこんなことをするのだろう,と疑問に思った人は多かっただろう.
隠れてやるならば「いたずら」だろうけど,それを「あえて」公衆にさらして多くの人に見てもらうことをわざわざやっていたわけだ.
だから「まともな」人は驚き,自然とネットで話題になり,そのコンビニなりファーストフード店が謝罪する(ひどいものは閉店する)ことまで行われた.
この流行によってツイッターはバカ発見器としての絶大な効果を人々に知らしめたわけだ.

しかし,どうして「わざわざ自分の愚かさを公衆にんさらすのだろう」と今でも不思議だが,そういう人はまったくいなくなったわけでもなく,今でもたまにニュースで取り上げられている.
ならばおそらく今後も消えないだろう,と予想している.
これはつまり,そういう人は一定の割合で社会に存在しており,ツイッターという装置のおかけで誰かの「妄想」が「現実化」してしまいやすい,ということが今後も続くだろう.

あえておかしなことをしてまで自慢するつもりなどぼくはないが,言葉だけならば似たようなことをしまいがち.
そう自覚している.
写真投稿をするつもりはないが,それでも「ニュース」などで「おかしなこと」や「腹立たしいこと」を読んだときは,その感想をついついツイッターに入力していたのは事実だ.
今はもうツイッターのアカウントを廃棄したが,ツイッターのアカウントをもっていたときは実際そうしていた.
それに,なんだよこれ,と思ったツイートも,メモ代わりにお気に入りにしていた.
ほっておくとロボットがやたらフォローしてくるので適宜削除してフォロワーはほぼゼロに維持していた.
ロボットがフォローしてくる理由は,新聞記事についているツイートボタンでついつい感情的な感想を入力してしまっていたことだろうと思っている.

ツイートすること自体,とくに自分の感情を文字にしてツイートすることは,それはそれで「いいことだろう」と最初は思っていた.
というのは,フォロワーは2,3にしていた(あとはブロックしていた)ので,ぼくがツイートしても「だれも読まない」とわかっていたし,それが検索エンジンに記録されたたまたま誰かに読まれたとしても,1,2人だから「結果的にどうでもいいこと」でしかないから,悪いことには作用しないと考えてのことだ.
それにくわえ,文字しておくことは「自分で自分を観測する情報」になるわけで,あとあと自分で読み返すこともあるかもしれないし,言葉にして入力することはある種の訓練になっている.
ならば,マイナスはなく,プラスは期待できるので,ならばツィートすることが悪い方向に働くことはないはずだ,と考えてたのである.

が,あるときに気がついた.
それは違う,ツィートとして感情表現を入力することは「自分の時間を潰し」かつ「自分の馬鹿な部分を増幅させるだけでしかない」だろうと気づいた.
良い表現であれ,悪い表現であれ,表現することでその回路は自分の中で「強化」される.
一時的な感情ならばすぐに忘れてしまっていたが,言葉にしてしまうと「それが残って」しまい,それを繰り返すと「強化」してしまうので,悪感情をいだきやすい人になってしまう.
自分から「ネタ」を発信できる人は,そもそもからして「悪感情」を発射することはしないように思う.
ネガティブなことを考え,それを発信していると,精神的に「沈む」わけで,そんなことを繰り返すとそのうちうつ病にでもなってしまうだろう.
あるいは周りが敵ばかりに見えてきて,社会生活を継続できなくなる.

おお怖い,これはやめよう.

そう思って,もうスマホ自体をやめてしまった.
そういう身になって通勤していると,車内でも歩きながらでもラインやスマホの画面をいじっている人が多く,身震いしていまう.
何かの教義を植え付けているわけではないから洗脳とはいえないかもしれないが,それでもスマホでSNSをしている人をみると,その人はしっかりと教化されてしまった人だよなぁと思ってしまう.