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共謀罪がやってくる

2017-05-20 おしゃべり

2017年5月19日.これは日本史にとっての一つの事件の日となるだろう.

共謀罪が法務委員会通過.しかも,見た目も専門知識も人格(想像)も「だめ」な金田法務大臣の下での通過だよ.

たぶん通過するだろうなと思っていたが当然気になっていたので中継メディアに注意をしていた.NHKは中継なし.中継がないことだけでもおかしなことなんだけど,中継しないで放送していた番組が「埋め草」みたいな,なにも今放送しなくても全く問題ないものだった.国会中継のほうが「絶対」視聴率も取れただろうし,人々が日本の(近未来の)行く末を覚悟する上で重要な法案だっただけに,NHKの「犬っぷり」に嫌気がさした.NHKも一つの役所だとは思っていたが,もう広報番組は付き合わないことにした.きっと「原爆の光を見ないようにしましょう,失明の危険があります」的な,愚かな情報を得意げに放送をする人たちしかNHKには残っていないだろうし.

この後,衆院通過で,参院も通過するだろう.それで,晴れて日本も「昭和10年代」の続きを再開する道に戻るわけである.この日を待ち望んでいた人たちは喜んでいるだろう.しかし,しかし喜ぶ人のほとんど,そうでない人と同じ一般人だとういうのがこの話の悲劇たるところ.人口が一億を超えて,食料自給率が40%しかない,しかもエネルギー源はゼロに近い日本が「昭和の続きをやれるわけがない」ので,賛成した人も悲惨な状況で死ぬことは確実である.共謀罪を応援した自民・公明・維新支持者だったと主張しても,一般人には不幸な未来しか来ない.絶対にこない.「エネルギー保存の法則」を破ることができないことからくる当然の帰結である.

この法案施行後,若い人も,中年も老年も同じように急速に不幸になるわけだが,これから青春を謳歌するつもりの人はとくに気の毒である.大正から昭和初期生まれの人と同じか,より悪い世界が待っているわけだから.なんとも同情してしまう.中年から老年の人は,悪くない「自由社会」「監視のない気分がいい社会」での人生を満喫できたはずだ.すくなくとも,監視される社会に日本が陥るなどとは「考えたこともなかった」わけだ.しかし,事実は小説よりも奇なりである.共謀罪から市民による私刑の反乱,そして思想警察,特高というものが,法案成立後にあっという間に登場してくる.現在の「国体明徴運動」である東京オリンピックが終わればいろいろなボロがでてくるので,経済が一気に破綻し,治安維持のために「治安維持法らしい」ことが矢継ぎ早に行われるだろうから,そりゃだれだって生活実感として「どうやら状況が変わったらしい」と思うことになる.

そもそも治安維持法だって,当時は「反対」を押し切って強引に通過させたものだ.当時と今とでは政治制度が違うのだが,違うにしても「同じようにしかやれない」ところが治安維持法が「治安維持法」たるところである.こんなリンクが参考になるかもしれない.

https://twitter.com/hamemen/status/865526633872015361/photo/1

古今東西,過去も未来も,内政がおかしくなったときの為政者は国外へ「戦争」を仕掛ける.安倍政権でさえも「雰囲気作り」はずっとやってきている.ある種のスピン(撹乱情報)を投げて国内危機の情報を撹乱する程度のことは常時やっているが,相手国はその脅しにいつまでものんびりと付き合ってはくれないものだ.しなくていいことをやり始め,大勢の人に迷惑をかける結果となることが起きる.これは歴史の「一つの定形」なのだが,これを打ち破るような「想像力」を日本の役人や宗教家は全く持ち合わせていないので,やるだろう.

「なんて馬鹿なんだろうなぁ」と思うのだが,実際のところ多くの人は「バカ」だから仕方ない.そして,バカが集まっても幸せにはならないし,それどころか生き延びることもままらない.だから結果的に「バカ」は消えてなくなる.だったら,それはそれでいいような気がする.日本にも多くの「まともな人」がいたのだが,戦時中に軍部というバカたちが生き延びるために普通の市民として殺されてしまった.一方で,軍部要職にあるひとの家族・子息は徴兵免除か,あるいは前線には行かないなどの方法で「ほぼ」全員生き延びたので,死んだ人の数は東京裁判をもって処刑された人の数など全体に比べたら「なにもなかった」程度の数でしないでしかない.もちろん,今の安倍もだからこそ存在しているわけだ.

今の日本にはいろいろ問題があるが,メンテナンス活動をしていけば,またまだ歴史の中で存在感をたもちつつ「多くの普通の人が自由社会で生きている,安全と水はただの国」でいられた.そこに,戦後一貫してくすぶり続けていた日本会議的なものと安倍一派によって圧倒言う間に破壊されてしまった.内閣法制局や内閣人事局と政府の実務を上から制御し始めたのである.この2つを抑えたら,そりゃ「政府を生きたまま制御できる」わけで,それを実際にやった.これはこれでスゴイといえる.ただ,褒められることはではない.バグを狙って実行した人は「ハッカー」として大変に有用であったわけだが,ハッカーはハッカーでしかない.

法律もプログラムの一種だから,当然ほころびがある.そこを一気に攻撃してシステムに穴を作ろうと考える人はいるし,実際やれれることもある.だから日常使っているPCには定期的な「セキュリティー・パッチ」が必要なんだ.冷静になって考えてみれば,「そもそも」国会って,そういうパッチを生成する機関だと言える.そして政治家ってのは,憲法の概念を守るために構成された「法律」のほころびを探して周り,見つかったら直す人たちなんだよね.セキュリティー・パッチを提供するはずの人が,システムのバグを探して広げてクラックしようとするんだもの,そりゃできるよ,安倍くらいにバカだって.

一旦開いた穴は,いろんな有象無象が押しかけて広げていく.だから,共謀罪を手がかりにいろんな詐欺師が「おれもおれも」と押し寄せる.ただし,最後に残るのは「権力」というか「暴力」を持った集団である.それは警察なのか自衛隊なのか,あるいは,ほんま者の暴力団なのかもしれない.法律的なところをクリアしたら,気づいたら指定暴力団が役所を乗っていた,ということだって考えられるだろう.結局,何を共謀とみなすのかが「恣意的」であるがゆえに,担当者の能力がモロに出てしまう法律だ.だから,「ずる賢い」人が勝つ.安倍はそうそうに蹴落とされると思う.したがって,10年後は今とは全く別の社会になっているだろう.そして,それは「全く自由度のない」社会として.当然経済なんてろくなものになっていない.ただ,権力者が1300兆をガツガツと食べているだけの社会だよな.

現時点での未来予測はこうなっている.これがどこまで実現されちゃうのか,全くわからないけど,当たらずとも遠からずだろう.僕の想像力も大したことがないので,今気づいていないことが起きて,その都度予想を変える必要があると思っている.だから,その都度予測し直すことにしたい.

不便という状況の選択

2017-05-14 おしゃべり

歳をとってきたことによる余裕なのか,もう先がないから諦めが入っているのか,自分が不便な状況に置かれてしまうことに対して以前ならば強く感じたような嫌悪感やそれにつづくそこからの脱出への衝動にかられなくなったことに気づいた.

村上春樹の新刊と幾つかの関連本

2017-05-13 本のメモ

2月に出版された村上春樹の新刊を読んでみた.発売されすぐ購入し読み始めた.電車などで誰にうっかりネタバレの話をされることが嫌だったからなんだけど,でもちょっとミーハー的な気分もあった.「もう読んだ?」「うん,読んだよん」っていうやりとりをすることがあるかもな,と想像してたが,実際それを2回ほどすることがあった.

ぼくは村上春樹の熱心なファンではないと思う.全作品を読んだわけでもないし,好きな作品について誰かと語り合うほどの知識も持ってない.それでも有名どころは何冊も読んでいるし,何回か読んでしまった作品もある.だからといって,ハルキストとあれこれ語りたいとは全く思わない.いや,全くない.

小説は自分で読んで面白いぞと思えたら「その任務完了」であり,何かのときに「本歌取り」をしてニヤッとする程度の効用があればもう十分だろう.そう思っている.それをハルキストたちは宿題の答え合わせをするかのごとく集まって内容について語り合うらしい。なんでまたそんなことが楽しいのか、ぼくにはさっぱりわからないでいる.

『騎士団長殺し(顕れるイデア編)』『(「遷ろうメタファー編)』は一人称小説で,へぇ昔に戻ったのかと思っていたら一気に読んでしまった.高い純度で「村上春樹だよなぁ」と感じるものだった.一部二部の2冊で4000円くらいしたし,だから結構厚い本だ.「どうせ世界でも売れるだろう本」を早い段階で読んちゃったよ,という小さな優越感が駄菓子のおまけの当たりを引いたような,ちょっと良い気分にさせてくれた.

読み終わったらもう終わりである.次の本はどのくらいででるかねぇ、7年先かな,なんて考えていた.著者の年齢から考えて,本当にそれがあるのかどうかもわからないし,またぼくが読むにたる興味を抱くかどうかもわからないし.そう思っていたとき,書店で平積みになっている川上未映子によるインタビューをまとめた本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を見かけた.早速購入し読んでみた.うほい,これも村上本だなぁと感心した.川上未映子は村上春樹の小説に出てきそうな感じがするよなぁ、美人は得だよなぁと思いつつも,村上春樹の創作方向についていろいろと話を聞き出してくれて,その機転にありがたく感謝した。.

村上春樹の作品については,内田樹の『村上春樹にご用心』が一番スッキリした解説だと僕は思っている。この本を読まなければ実は村上春樹を読み返すなんてことをしなかったかもしれないくらいだ.著者である内田樹は著者の意図についてを推定しているのだが,この川上未映子がしたインタビューの本は村上春樹本人が回答している.本人が語ればそれは真実に近いはずだ.本当か?といわれると必ずしもそうではないとは思うが,しかし推測よりは信用してもいいだろう.両者ともに小説のコアの部分は無意識に近いところから発掘しているという趣旨だったので,そこはお互い矛盾していない.そして確認できたことは「小説は設計しないで最初から規則正しく書いていく」という行為だ.小説を書く前に小説の設計図面があるわけではないのだ.村上春樹の小説はプロットがあってトリックがあって,というような「設計された話」ではないのだ.

本人も結末を知らないで,例えば「騎士団長ってなんなのか」も知らないで小説を書き始めらた.著者である村上春樹ですら「読者」の視点をもって小説に臨んでいるわけだ.書いている人が「この先どうなるんだろう(わくわく)」という感覚を感じながら書いている.こうなると「小説の書き方」なんてものがHOWTOになり得るわけがないだろうに,と納得する.「小説を書ける状況を整理し準備する」ことは可能だが,なぜそれで書けるようになるのかは実のところ誰もわからないことになる.本人もわからないのだから,他人が同じことをしても書けるかどうかはわからない.

そういえば坂本龍一が「メロディーづくりは,ただ降りてくるのを待つだけ」という話をしていたことを思い出した.アレンジなどは技術であり構成することが可能だが,メロディーはともかく「降りてくる」としか言いようがないのだと言っていた.久石譲は,作曲できるても出来なくても毎日決まった時間に起きて,走って,シャワーを浴びて,ピアノの前に座り曲作りをすると言っていた.もちろん大抵はなにも浮かばないので,数時間してだめならば仕事は終わり.もし浮かんだらそのままやると.そんなことが著作に書いてあった.結局想像物の創作の肝心のところは「本人もわからない」ってことなんだと思う.その得体の知れない発生原因とどうやって付き合っていくのかを皆さん研究し,実践しているわけだ.

村上春樹の小説は構成されたものではない.どうしてかわからないがそうなっている.そういう書き方をしている.ならば分析や比喩の解析をして,それで一体どんな意味があるんだろうかと疑問になる.ハルキストたちは村上春樹の深層心理の解析を試みているだけだろうに.素人が集まってあれこれいうのって,テレビ番組でやっている相性や占い,あるいは心理学みたいな「エンターテイメント」でしかないように思う.それはやっている人は面白いかもしれないが,作品と関係ない.そう思っている.

本人も結末をしらないで書いている小説なのだから,これは小説全体は「作者の夢」なんだと考えればいいだろう.何かを表現したいから書くではなく,作者も自分の深層心理,井戸の底,地下2階に降りていって「夢を見る」わけだ.だから伏線の回収なんかあるわけがないし,それでいいように思う.

ハルキストとおなじく,この本を「伏線が」とか「メタファーが」とか「どこどこが矛盾している」とかいう指摘をして,それでこの小説を評価しようとしている人いる.素人がするのならば,まぁ仕方ない.しかし,プロの書評家たちがそれをしている.店頭で川上未映子のインタビュー本のとなりに豊崎・大森の『村上春樹「騎士団長殺し」メッタ斬り!』もがあったので買って読んでみたが,これがなんだかピントハズレに思えた.なんですかこれ,売り物?という出来に感じた.どうして普通に読めないんだろうか.ハルキストは謎解きの答案作成,豊崎・大森はだめ出し,という感じなのだ.内田樹は村上ファンだが「楽しみたい」というファンであって「解析の対象」としてはしていない.つまり内田樹は「ここが楽しい」ってところをいろいろと教えてくれる.何を読めばいいのか,迷う理由がない.

『ノルウェーの森』を読んだのはもう30年くらい前なのかと気づいた.一度しか読んでいないが,読んだことは読んだ.ただ,その多くを忘れている.楽しい本ではなかったはずだが,また読み返してみるかなぁという気分がしている.小説自体は変わっていないが,ぼくが大きく変わった.それで小説の面白さが変わったとしたら,果たして本の属性値として良い悪いをつけられるものなんだろうか,と当たり前のようなことを思った.

表と裏,というか,ハレとケ

2017-05-13 おしゃべり

思いつきを入力するにはWORDPRESSは都合が良い.「WORDPRESSは」というより,「ブログシステムは」というべきかもしれない.これまでブログ作成には専用ソフトを使ってサーバーにデータをアップロードしていた.しかしプログシステムでは,PCやスマホのブラウザからいきなり入力できて,それが十分きれいにレイアウトしてくれ,更新処理もしてくれる.なるほど10年経ったよな,としみじみ感じるのだ.しかもWORDPRESSは無料なので気兼ねなく使え,実験もできる.いろんな意味で「すごいな」と思う道具だ.

このサイトは誰か特定の人に向けた情報ではないので,思いついたことを自由に言葉で入力している.言葉遣いを気取らなくてよいし,内容を気遣わなくてもよい.自分の中から湧き上がってきた言葉を日本語で書き出すだけ.そこには著作権とも縁がない.まだ日本には表現の自由は存在し,認められている.今のうちにこの空気を存分に吸い込んでおきたいという焦りも今は感じている.この自由はたぶん親と同じで,いつまでも存在し続けることはないだろう.今から一週間後には,もう無意識下での忖度が起動しちゃっているかもしれないのだから.

市井の人であるぼくが自由に書く内容は必然的に,というか作家でもないから創作もできないので,日常生活についてのおしゃべりになる.人から聞いた話やニュースを見て考えたこと,ちょっとした出来事の報告を文章にし,アップロードしている.なにせ人に見せることが目的ではない文章だし,「そもそも」書くという行為を「癖」として身につけるさせるための練習だと思ってやっている.市井の人なのだからこうでもしないと文章を書く機会などない.そして内容はとくにイベントが含まれない,つまり「褻(ケ)」になる.

一方で,他人に見せる(見てもらう)ことを想定した文章にするなら,内容はともかく,身だしなみを整えて丁寧な物言いの文章しなければならない.道案内の看板ですら丁寧語でなければならない.その理由は,読む側に沸き起こる余計な心情を事前に消却しておくため.そして「晴れ(ハレ)」の内容が中心になる.といっても,自慢話とか立派な事件など身の回りにないのでそういうことを書き込めない.だから無意味な紹介文になってしまうのだが.

これらハレとケの内容を一箇所で同時に提示するとおかしなことになってしまう.プラスとマイナスを一緒にするというか,熱いものと冷たいものを混ぜ合わせるようなことをしており,両者の特性が際立たなくなってしまうからだ.ラフ普段着なのか正装なのか,どちらともいえない変なサイトの印象が残るだけだろう.本来分けるべきものを分けておかないと両者はクラッシュし,両者ともにダメにしてしまうのだ.これは避けたい.significa.jpはケのサイトだから,新しくするbsd.tokyoはハレのサイトにしなければならない.

Lineやツイッターなのにある「裏アカ」というものがある.一人の人が別人格を装って別のアカウントを独立して取得し,表立って言いたくないことを裏アカで言いまくることをするそうだ.なんだかインチキっぽい行為なのでぼくは嫌なのだが,ハレとケとがあると「裏サイト」と勘違いされるかもしれないが,両方共に「本名」を名乗っておき,きっちり連絡先を載せておけばそういう問題は起きないだろう.両者が扱う内容はそもそも違うし,ハレは「丁寧語・ですます」を採用するので紹介文のようなページになる.ある意味別人格の発言とも取れるが,社会人なんだからそのくらいの使い分けを上手に行うことに問題はない.

ハレのページがないことで,それなりに不便に思う機会がこれまで何度かあった.情報を貼り付けて他人にリンクを連絡したいが,ケのサイトでは「くだけすぎ」のところがあるし「ぼやき」や「しょうもない写真」もいろいろあって,ほとんど面識のない人に「このサイトに貼り付けておきます」という目的に使えなかったのだ.significa.jpは実験場であり,個人用なので人に見せる必要がない.だからbsd.tokyoを別途取得した.そして,会社の人にも学生さんにも「ここに貼り付けておく」ということ中心に使っていく.

この切り分けはやろうやろうと思っていが,今日やっと作業を開始できた.気づけばぼくも還暦まで干支が一周回の歳になっている.もう,無限の可能性なんてないし,それを望むべくもない.地面をゆっくりと歩くことしかできない普通のおじさんであることを重々理解している.だからこそ,今のうちに「越し方と行く末」をきっちり残しておくことは必要だろうと考えるようになった.今まで悪い人生を歩いてきた気はしていないし,どころか普通の人?よりも「面白いなー」と感じる日々を過ごしてきた.やってきたことが他人に評価させることはないのだが,自ら体験してきた感情の履歴を思い返せば,健康だったし,嫌なことを強いられることもなく,嫌いな人とは会わない・避けて通ることができてきたし,いろんなことがわかるようになったし,できるようにもなった.その意味では満足いく結果を得ていると思っている.だから,その満足したものの一部を少しずつだが還元していくことも必要かなと考えるようになっていたのだが,それをやっと始められる.

ちょっと高尚な動機で始めれば,なんでも物事はうまく転がりはじめる,ということは絶対にない.だからハレのサイトをつくっても,それで「第三者からみて有益なもの」が最初からできるとはさすがに思っていない.最初はしょぼい内容だろうし,ダメな結果しかできないだろう.とはいえ,なんか始めないと先にすすまない.しょもくても実態がないと「改良」プロセスを動かせられない.惨めな気分がするものであっても,一歩目を出す必要がある.これは,なんだかきれいに思えるけど,実体験の積み重ねと,それで結果的に意味のある結果に繋がったという経験から学んだことで,だからそれをbsd.tokyoというサイトに適用してみようと思っている.さぁ,どうなるか.

行動パターンを少しいじってみる

2017-05-05 おしゃべり

基本的に自分でやりたいことだけをやる,という方針でいたのだけど,今年はちょっと「頼まれたことを引き受ける」ということもしてみようかと考えるようになった.とくに理由はなく,ただ,そういうこともありかな,と思ったのだ.ただし,誰からのタスクでも引き受けるということはない.信用取引ができる,つまり「この人は悪い話はもってこなかった」という実績のある人からの依頼は受ける,ということだ.初めての人とか,知らないととか,好きではない人からの話は受けない.

しかし,こういう方針で生きていけるのって,なんだが名を成した芸術家のような感じがする.ぼくには業績などなく,また今後も期待できるところがなく,さらに現在でも職責は最底辺である.それでも,やりようによってなのだけど,好きなことだけをやって生きることが出来てきたし,現在もそうできている.これはこれで大変ありがたく,とても感謝している状態である.しかし,それじゃぁ申し訳ないかな,とも思うことがあるので,じゃぁ今年というか,今年度はちょっと安請け合いでもしてみようかなと思いついた.