月別: 2017年3月

最新ばかりが「よい」わけではない典型

2017-03-18 おしゃべり

最新のPCが欲しい,という衝動にかられることがある.ただ,いつも必ずそうなるわけじゃない.

気に入ったものを手にいれると,しばらくはそれをいじくり回すことになるのだが,手に入れたものはいずれ「あたりまえ」なものと感じるようになり,その扱いが雑になってくるもので,しまいには「カバンにいれたまま忘れる」ことになる.
すべてがそうなるわけではない.が,万年筆とかカバンとか,それらを使うことで自分の能力を拡張してくれそうなものには最初憧れを強く抱き,だから手に入れようと努力するのだが,いざ手に入れてしまうとそのもの対する憧憬は下り坂になるもので,これはもう子供のころからずっとそういうものだった.

もちろん態度の人もいるだろうし,ぼくの場合も飽きずに「手元にあることが前提」のように使うようになったものもある.だが,多くのものは未だに「飽きる」という状態へと流れていく.

いまこうして使っているこのPCも「万年筆」と同じような意味合いで購入した.購入当初半年以上「うまく使えない」でいた.それがあるとき「うまく動いて」くれたので,その後も忘れないで定期的に使えている.うまくいった事例の一つになっている.

飽きずにずっと使えているものには特徴がある.まず,「直ぐにはうまく使えない」こと.使うためには工夫が必要であり,その工夫も「マニュアル」のようなものがあるわけではないもの.人それぞれ,といえるくらいに使い方に多様性があること.そして,ある程度時間をつぎ込むとコップから水があふれるごとく「使い方のレベルが一段向上する」ものであること.

手に入れて直ぐに使えるようなもの,つまり,手に入れる前に想像していたのと同じようなものは結果的に飽きる.手に入れて直ぐに使えるのだから楽しくてしょうがない,という意味ではお手軽なのだが,だからこそ直ぐに飽きてしまう.たぶんテレビの通販ショッピングで宣伝しているようなものはクレームを避けるために,宣伝したとおりのことは直ぐにできるようになっているだろう.だが,それで終わり.結局直ぐに捨てられる.

楽器のようなものとまでいかなくとも,例えばPCでもいいのだが,直ぐに使えないものは結局使えるまでにそれと格闘する.頭をつかって時間を過ごすことになる.この時間が長いと投げ出してしまうが,短いと飽きてしまう.その間の時間をどう過ごすのか,どれくらい待てるのかでそのものとの付き合いの長さが決まってくるわけだ.ぼくの場合,うまくいかなくて放り出すまえに,一旦時間をあけるというコツを得てから,ずいぶんと色々なものに付き合えるようになった.じゃ,来週末にやるか.2,3ヶ月前に中断していたが再会するか.こういう感覚が自然と身についたことで,結果的に自分で取り扱えることが増えたのだ.

このPCは半年という時間を費やした.だからこそこうしてブログの入力に使っている(ここにくるまでに色々と知らなくてはならないことがたくさんあったのだが,一つ一つクリアしていったので,それはそれで振り返れば楽しい思い出といえよう).そして,現在でも「宙ぶらりん」のまま停止中のものがいくつかある.歳をとるにつれ時間スケールが伸びてくるようで,一月二月くらいならば待つことが気にならなくなっているわけで,自然と宙ぶらりんの案件が増えているような気もする.こうして,一人一人ものを獲得し使えるようになるまでのコツを獲得するのだろうと考えるようになった.

欲しいものを獲得する間での待ち時間,書くとしてからの学習期間,結果的に使えるようになったときのうれしさ.こういうものをひっくるめて「自分の道具を増やすうれしさ」がある.逆に言えば,この手順を踏めないものは,それが高性能で高価で直ぐに便利な機能を教授できると分かっていても手に入れたいとは思わない.だから新製品の広告を見かけても「へぇほしいな」とはなかなか思わない.昔から一貫してファンだったようなもの,たとえばAppleやソニーの製品であっても「新製品を欲しい」とは思わないし,もっといえば「新製品の情報」にすら興味がわかない.新しいのが良いわけではないと思っているから.

人よりも早く手に入れてそれを自慢したいという欲望がない.持っているもの使っているものを人に示すことが,自分の存在の形容詞だと考えなくなったというべきか.まぁいいじゃない,こなれた製品になったところでぼくも試してみるよ,と思うわけである.あるいは,まったく新しくないものであっても「別の使い方」を思いつくと興奮してしまい,つい買ってしまうということはある.他人へ見せるための道具にはほぼ興味がなくなったということだ.

端末の微妙な変更

2017-03-04 おしゃべり

ipadを使っているのだけど、まとめて文字を入力するにはどうしてもキーボードが欲しくなる。時間をかければタッチパッドで文字を入力することはできる。とくだん不便とうことはないが、時間をがかかるのだ。ちょくに画面ば微妙に広いので片手でスムーズにというわけにはいかないのだ。だからキーボードを買ったわけで、机がある状態では大変都合が良い。 

iPadはタッチパネルが優れており、Apple Pencilで気軽に記号入力できるのからいいのだ。とくにpdfファイルにガンガンメモをとってくにはこれ以上に便利はないツールだ。そして実際そうであることを自分で使ってみて納得している。一方で、文章を入力したいなとおもったら行きなるへたる。日本語の文法にそった文字れるとを入力していくにはちょっと不便だろう、本当に。あれこれ良い方法がないのか考えたのだが、キーボードで落ち着くことにした。これで iPad にすることが全部ダメになったということにはならないだろう。

簡単なキーボードだけど、日本語のメモをとるには十分だろうとおもっている。メモパッドとしてつかうのはちょっと無駄なので、それ以上のことができないだろうかと使いながら考えるよりないだろう。

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2017-03-03 おしゃべり

20年ぶりに近い。卒業した大学に行く機会があり、 学生の頃に通った経路で行ってみる。これはこれで懐かしいような気分がするだろうと期待したが,朝の慌ただしい雰囲気と混み合う車内が暑くて汗だくになったことで,しみじみ思い出す,という感慨にふけることはできなかった.

ただし,駅の外にでて建物なり道路なりお店なりを目にすると,20年の歳月の経過を体感することができた.あの店まだる,ありゃマンションになっているなどなど,どんな人だってそういうことをいろな機会で感じているはずで,それを久々の通学路を辿って感じたに過ぎないわけだ.

通学路の風景は何年も(10年ちかく)日常的に目にしていためか,20年ぶりであっても「新鮮味」というものはなかった.全く無かった.これが不思議だ.1年程度しかいなかった場所に舞い戻ったときのほうが,あぁ,という感慨はずっと深いように思う.10年という成長過程で日々浴びた風景と1年という短い期間接した風景とは,経過した時間を同じにして比べても「同じように感じない」のだ.

 懐かしく思うのでことは、実はそれほど自分の内部に近いものではなく、すこし間を置いて鑑賞できるようなものなのかもしれない。成長の段階で日々浴びていた風景のようなものは、思い出したところで感覚的に「当たり前」であって、だから思い出しても当たり前の感覚的が変わらないというように。一方で異邦人的な気分で接していた風景などは、そもそもからして異邦人なのだから、思い出した時はその異邦人的な気分の続きを追体験するわけで、だからこそ奇妙な気分が沸き起こる。これをなつかしさというように。

意外に感傷的な風景ではなかったので,まぁ次の機会があってもここは通らないなぁと思った.