月別: 2016年12月

どうして長くともまとまった内容の文章がかけるんだろう

2016-12-29 おしゃべり

読み応えのある文章は面白い。知らないことがあり、読んでいるうちに人に説明したくなるようにわかり、何より長いのに長く感じない。文章を作る芸に秀でていると感心する。素朴な感想だけど、なんでまたそんなことが出来るんだろうな、と羨ましくなる。

文章が上手い人に対する憧れは、絵が上手い人に対する羨望であり、楽器を使える人に対する尊敬であり、なんでそんなことが出来るのだろうかという謎、こういうものが混ざった感情に近い。そのどれもは自分には無い能力なので、持っている人の気分をさっぱり想像出来ない。

こうして考えていることを言葉に変換しているが、なんとかひねり出した文章をみて、これ以上は言うことはないと思ったところで短いものしか書けない。それは書くことに対しての思索量が少なく、簡単にいえば内容がないからだと理解している。

だから、どうして深く広く思索できるのだろうか、という馬鹿みたいな疑問をもつ。思索できるできないは生まれつきなところがあるのだろうか?努力しても無駄なんだろうか?

なんとも情けないことだが、ぼくにはわからない。ホント、日暮れて道遠し。

年末になって、去年と同じことをまた考える

2016-12-28 おしゃべり

この時期になるとどういうわけかやろうかなと思う企画が湧いてくる。持て余しているウェブサイトのコンテンツについて。一応あるからということでサーバが動いているが結局意味のあるものがないのが気なっている。もう10年以上そう思っているので、多分もうダメなんだろうとは薄々思っているが、まだ生きているので飽きずに今年も模索する。

考えたことを言葉にする。ともかくこれを習慣化する。言葉にさえしておけば、自分が何を考えたのか具体的に検証できるのだから。良い悪いの感情的な記憶ではなく内容の記録なので、時間が経ってからでも十分に自分で検証できる。これが重要なのであきらめきれず細々と続けている。

こういう動機で書かれたものをエッセイと呼ぶにかどうかはわからないが、ぼくではとても枕草子のようにはならないのだし、徒然草のような境地に達することも無いまま死ぬだろうから、贅沢言わず分相応のブログを付け続けれるよりない。

それにしても「あるある」ネタでおしている枕草子を読むと、これが千年前にかかれたとは思えない。細かいところはいろいろ違うが、本筋としてトレンディーなテレビドラマにでてくる女性のキャラとして今でも普通に通用している、というか探せばいるだろう。こういう息の長いキャラクターには世界性があるのか、それとも日本的なのか興味がある。

最近の情報を記録したエッセイは半年後からその価値が劣化しはじめ、3年経つと歴史的な資料になってしまう。10年立って読み返しても、ノスタルジアを思い起こさせるものでしかない。しかし、人についての記録は、それがいきいきしたまま文章に封じ込めることに成功すれば、1000年というスケールでも色褪せることがない。別に立派なことをいう必要すらない。

書こうと思って書かないことで枕草子のようなエッセイが実現できたのだろうか。読者を想定したのだろうか。どういう形で読まれていたのだろうか。どんな興味や教養をもった読者層だったのだろうか。いろいろと気になる。

 

身の丈に合わないことは

2016-12-27 おしゃべり

身の丈位合わないことはしないほうがいいと言われるが、それは本当だ。歳をとってやっとわかった、というか実感した。「身の丈」には能力だけでなく、育ち、家柄のような、自分にはどうにもならない歴史のようなものも含まれる。およそ世の中にある面倒なものをひっくるめ、分を知ることが最も快適に時間を過ごせるコツなんだ。

こんなことをいえば若い人から反論されるし、自分が若い頃でも白眼視しただろうなと思う。が、そうは言っても人の社会という、あるいは日本社会という枠の中でぼくは生きてるわけで、そこは理想郷ではないのだから、現実的な身のこなしを知っておくほうが結果的に不幸にならなくてすむはずだろう。

勘違いされたくないのは、奴隷に生まれたら奴隷でいろ、という話とは違うこと。というのは、身分制度は物理とは違うから、そんなもので我が身を粉飾し続ける必要はない。問題は、自分がそう行動することではない。相手に自分を認めさせることはやめたほうがいい、ということだ。

背が低いとか、子供の時に何をしたとか、そういうことは自分の好きには出来ない。過去のことはどうすることもできない。そしてそれらは事実なんだから、どうにかしようと頑張ってもあまり効果がない。

一方で、すごい人に自分もなりたいとか、仲間に入りたいとかは、事実をどうこうとは違って他人から見た印象であって、だから他人の意思次第。人の感じ方を自分の思うように変えること出来ない。何をどうやろうと実際問題影響しないのでやるだけ無駄だ。

だからですね、他人のことはほっておくよりない。

職場での人の群れ型を見ていると、はっきりとその人の所属している社会を反映していて、人ってこういう動物なんだなとはっきりとわかる。それで、改めてそういう生き物だなと悟ったのだった。

自分がいる隙間について

2016-12-27 おしゃべり

朝目覚めると、腰を痛めていることに気がついた。起き上がれない、体を曲げると激痛。

なんだ、何が起きたんだ?夜中にトイレに行った時はなんともなかった。昨日もその前も運動してないし、大掃除もしていない。筋肉痛になる理由はない。全くおかしなことだ、と疑問と不安と同時にさいなまれた。

動かなくなってみて初めて、どうやら俺にも身体があるようだと気付く。どう言うわけか、俺も死ぬべき生命だったなと、やけに広い視野で自分をとらえる。どうした、そんなに修行など積んでおらんぞ、と思うが、そう言うことを実感したのだから仕方がない。

腰がいたい。上半身は結構重いし、それを腰で支えているのだなと改めて感じる。こうして書いていて思うが、全く当たり前じゃないか。こう言う文章そのものがステレオタイプなんだよな、と思いつつ、ステレオタイプな表現をする。そうするよりないんだよな、と。

俺って、自分の身体のある場所に存在するのだなと実感する。背中とお腹の間の、わずかな隙間に「いる」わけか。自我というと随分と分厚いものに思えるけど、うっすいものなんだなぁ。

腰が痛いだけでいろんなことを悟ったような気分だ。

自慢したがりがエッセイを書くということらしい

2016-12-25 おしゃべり

先日、徒然草の現代語訳についてのトークショーを聞きに行ったら、その中で、エッセイというものは基本的に自慢なんだ、という発言があって少し驚いた。

自慢なのか、エッセイは。ぼくもこうしてエッセイというレベルのものではないが、自分の気晴らしのためにブログをつけている。果たしてこれは自慢のために書いているんだろうか。なんだか不安になってくる。

誰だってそうだと思うが、人に自慢されるのは嫌なものだし、だから自慢もしないように生活しているつもりだったが、こうしてブログをつけることが人に自慢を伝えることが影の目的なのだとしたら、自らの戒めが「ザル」だったことになる。なんとも反省をしないといけない。

言葉にして人に語りたい。そう思うのはどういうときなのか。たいていは「ねぇ、聞いて聞いてよ」が動機になっているのは確かだ。でも、それは自慢というよりグチかもしれない。あるいは、すごいもの見ちゃった、というゴシップかもしれない。自慢はどちらかといえば少ないように思うのだけど。

では、どういう時人に何かを伝えたいと思うのだろう。それを聞いた人が驚く場面を想像するからだろう。一刻も早くそうさせたい。こんな具合に、情報伝達の素朴な動機は人のに変化を与えることだ。

一方で自慢話は、ヘェ〜と言わせることで、人から尊敬されたいことが動機だ。人の頭の中にある自分の像を立派にすることだ。人ではなく自分の像を変えることが目的だ。

でも、ちょっと考えると、エッセイも自慢話も、どうでもいいことを伝えていることに違いはない。そして、どっちもあえて人に言わなくてもいいいいのにいう。その理由は、媒介者としての自分の存在を人に再確認してもらいたいという希望の表れなんだろうな。急に自分のやっていることがバカくさく思えてきた。

春菊が好きなように、共栄堂も好きになるのかも

2016-12-08 おしゃべり

エチオピアや共栄堂のカレーを全く美味しく思えないでいる。どうしてこれが神保町を代表するカレーなのか、さっぱりだという疑問を持っていた。が、これについては解決したと思っている。

共栄堂のカレーに旨味はない。そも意味では美味しいとは言えない。だからダメなカレーかと言えば、そうではない。そう、気がついた。

言葉の意味を正確に捉えていなかったのだ。美味しいとは旨味が多いということだけではない。

寒い冬には湯豆腐が美味しくなる。豆腐と出汁醤油が美味い。タラもホクホク惜しいし。そして綺麗な緑色の春菊。京都のものなら最高だ。春菊って、鍋にはよくあって、美味しいよね。

そう、この意味での美味しいには、旨味が多いということを意味しているのだろうか?

それはない。春菊には旨味はない。でも、出汁醤油で食べると、美味しいとしか言えない。そして、美味しいの使い方は間違っていないだろう。

そうなんだ、共栄堂のカレーは湯豆腐の春菊の意味での、美味しい、という意味なのではないだろうか?

カレー

2016-12-04 おしゃべり

神保町で有名なカレー屋さん、共栄堂とかエチオピアとか、おいしいと思えない。どうしてこれらの店の人気が高いのかわからないでいる。

ウェブでカレーのお勧めの店を探すと神保町では共栄堂やエチオピアがランクインしてくる。ボンディーの味は、カレーに詳しくない僕にでもおいしいなと納得する。しかし、共栄堂とエチオピアではおいしいと思えないカレーが出てくる。にもかかわらず、これらの店はいつも混んでいる。

味の評価は普通の人がつけているはずだ。しかし、ぐるなびなどの評価サイトで高得点をマークしているお店に行ってみるとがっかりすることは少なくない。という事は、評価サイトは素朴な感想が束ねられたものではなく、評価行為は広告の1つであって、誰かが調整しているのかもしれない。あるいは、アルバイトで評価をしている人が束になっているのかもしれない。真偽はわからない。

ただし、そんなに味覚って人によって違うものなんだろうか。としたら、おいしいもの、などは存在しないような気もする。大筋でカレーはおいしいという事は共有できているはずで、だからおいしくないものをおいしいと評価することはないように思う。すごく美味しいか、まぁまぁ美味しいか。程度の差が議論になっているだけだろう。

先日、エチオピアの開店直後のお店を通り過ぎた。1階のカウンター席は満員だった。本当に開店直後の時間だっただけに、開店前から並んでる人がこれだけいたと考えて良いだろう。しかし、と思ってカウンターの人たちを眺めるに、神保町に来る人たちの風貌ではなかった。神保町ではなく、御茶ノ水小川町でもなく、秋葉原の人かなという印象を持った。

そうか、どこにも評価サイトに高評価を入力する人はこういう人たちなのか。そうすると、共栄堂やエチオピアの味を好む人もこういう人たちのはずで、これで評価の合点がいった。

丸の内インディアンカレーと言うお店がある。関西では有名なチェーン店だと言うことだが、これを食べてびっくりした。これ、失敗じゃねーのかと思った。

関西の食べ物、ぼくは美味しいと感じるものは多い。だから基本的な味覚は共有していると考えて良い。しかしある種の好みは全く別の評価になる。ぼくにはインディアンカレー、全くおいしくないのだ。どうしてだろう。お店にはお客さんが途切れることなく入ってくるので、このお店は流行っており、このカレーはおいしいということになる。しかしどうして。

味覚には個人差よりも地域差が強くでるものがあるのではないか。どういう場所に住んでいて、どういうところに行くのか。この違いの方が個人の違いよりも大きく影響するタイプの味覚があのではないだろうか。それがインディアンカレーや共栄堂やエチオピア一のおいしさを強く特徴づけているのではないか。まぁ思いつきの仮説だけど。

電車の中のオヤジリーマンについて

2016-12-04 おしゃべり

この時期の週末の夜の電車にはあまり乗りたくない。おじさんのサラリーマン、比較的若そうなサラリーマンのくだらない話を聞きたくもないのに聞かされるから。

帰りだからそれなりに疲れている。学生もお母さんもOLも多くの人が乗り合わせている。にもかかわらず、オヤジリーマンは高らかに自分たちがすごいことをしてきたと周りの人に聞かせたくはっきりとした口調で話しているところに居合わせてしまうから。

オヤジリーマンの考えてる事は大抵同じ。男は、とか、女は、とか。普遍的な日でも諭しているかのような、実に稚拙な人間観察の結果である。男はは組織の中で、と言う話しかしない。そして、女はそんな話はつまらない、と批難するというグチである。

こうしたおじさんの自慢、グチを聞かされると、確かに女性は正しくものを見ているなと判断するわけだ。おじさんである僕が聞いたとしても、お前の話はつまらん、とい気分になるのだから。

しかし、なぜとも同じことを違う電車の中で聞く羽目になるのだろうか。そして、こういうおじさんたちは例外なくネトウヨのような信念の持ち主であることが推察できることが面白い。周りの人に対する虚勢は、自分の内容のなさを薄々感じている表れで、その払拭を意識してのことかも知れない。snsで話題になるネトウヨは、その辺にいる普通のサラリーマンだと思っていいのかもしれない。特別な思想信条を持った熱狂的な愛国者ではないのかもしれない。

あまり愉快な経験をしたことがない帰りの電車の中では、なるべく乗り降りが不便な車両に乗るようにしている。そうはいっても自由度はあまりない。この時期帰りの電車はもう年会のサラリーマンで混み合う。まぁ、これも年末。

飽きることについて

2016-12-04 おしゃべり

新しい技術に飛びつくが、すぐに飽きてしまう。

新しく文字を入力する道具として音声入力を使い始めた。革命的なツールになり得ると感じているが、僕はうまく使えないでいる。誰でも初めて使う時はそれをうまく使えないものだ。当たり前だ。そう感じながらも、時間をかけて新しいツールに慣れていく。自分の体をツールに馴染ませていく。こういった、自分を変えていく努力が必要になる。

が、これができない。面白いうちは使い、飽きてしまうと使わなくなる。どんな道具でもおもちゃでもこうなる。これは仕方のないことだと自分では思っている。興味がある、それはすなわち面白いことがあるに違いないと直感しているからである。だから、知ってしまえば面白さが半減することもあるのは承知の上だ。もちろん、道具についてあれこれ知ってしまったとしても、それが入口でしかないことに気づけば、興味を失ってしまうほどつまらなくはならない。どちらになるのかは、それを使い始めたときの自分状態、つまり何ができて何がしたいかどのくらい明確なのか、にある。

キーボード入力をしなくて済むツールとして、音声入力は非常に優れた手段であると直感している。こうしてつまらない文章を入力することだってできているんだから、もうちょっとまともな内容のある文章入力する道具に当然なり得る。

ここで1つ問題が起きる。入力に値するほどの内容がない時に道具が自分に代わって内容を考えてくれる事は全く無い、そういう当たり前のことである。

しかし、どういうわけかよい内容を道具が考えてくれそうな気がしていまう。だから皆、新しい高級なしかも高価な道具は自分の能力を増強させてくれると勘違いさせられる。それで悩んだ挙句、道具に高額なお金を支払ってしまう。そして使えもしない道具をあれこれいじり、飽きてしまい、道具を買ったことすら忘れてしまう。

こういうことが自分の人生に一体何回あったのか、歳をとればとるほどこの全く同じ失敗を繰り返していることに気がつく。

音声入力には重要な前提があることに気がついた。音声入力を使うためには、誰もいない部屋で孤独に作業するときに限られるのだ。したがって、自分1人の部屋を持っている仕事をする人、詳細を自宅に持っている人、つまり普通の人にはあまり縁がない状況にある、そういう人でないとうまく使えないのだ。これは、ある意味わかっていたことだが、やはりそうだったのかという体験をすることになった。失敗に近い心情にあるの深く納得することになる。こんなこと買う前からわかっていたのに、なんで買ってしまったのだろうと後悔するわけだ。

本当に本当に同じ失敗を繰り返している。我ながら歳をとるだけでちっとも賢くなっていない。そう同意せざるをえない。人は歳をとるだけでは頭が良くなるわけではないのだわ。

テレビの視聴を変える

2016-12-03 おしゃべり

テレビを見る生活をやめたい。

やめたいのだけど、子供の頃からテレビっ子であったのでそう簡単には足を洗えない。無理をすると逆に気になることもある、気にするという時間も取られたくない。

テレビ離れをする簡単で確実な方法は、一旦ビデオに録画し、時間が経ってから見ること。ものすごく効く方法で、たいていの番組は見なくなる。大事なものだけ見るようになる。だからこれで止めることは出来る。

確かに出来るのだが、なんかこう、寂しいのだ。だから見る必要なくてもニュースを見ちゃう。特番も見ちゃう。そして時間を失っている。そう、これをやるのをやめたいのだけど。ぼくだって残り時間は無限にあるわけではないのだから。