ここ10年ほど休日はお決まりの書店をはしごするという生活をつづけ、だから巡回する書棚などもお決まりになり、自然と目にする本、購入する本の分野は狭まってくる。

別に悪いことではない。とはいえ、なんだか固まってしまった感もあり、少し変えたいと思うのだが、長年にわたって築いてしまった慣習はそうそう壊せるものではない。したがって、自分の好みというより慣習に指示されて本を買っているようなところがある。

これではいかん。そう、たまに思うのだけど、いざ書店に行くと「いつものコース」をめぐってしまうことになり、マンネリからの脱却は難しい。

購入した本の1/2から1/2は読めない。食卓テーブルのぼくの椅子の周りにも、今のソファーの周りにも、ベッドの枕元の周りにも、そういった本が危なげなタワーをなしている。これらの本を全部読むことはないんだろうな、と思っている。でも、それでも買ってしまうということは、ぼくはまだ死なないと思っていることの現れだと思う。

あぁもっと早く読めればいいのにな。そう思うことも多い。これはほぼ「誰もがそう考える」ことで、たくさん本を読んでいる人は相当に読むスピードが早いのだろうと「勘違い」をすることになる。が、そんな訳はない。入力スピードを早くしても処理部分が遅いならば情報はすれてられるし、そもそも楽しいとか悲しいとは驚きとかの感情は「加速」できるものではない。読むスピードは没入度、つまり集中度によって対象変わるが、だからといって3dBずれることはない。

いま食卓テーブルに積まれている本を眺めると、現時点での自分の興味の方向性がわかる。ほとんどは歴史に関わることだ。要するに過去何があったのか。王朝や戦争について知っても仕方がないのだが、昭和史や古代史などが多い。日本、ギリシャ、中国の古代がぼくの感心のようだ。

歴史を語るようになると、いよいよおじさんになったなと自分でも感じる。ただし、ぼくは戦国武将には全く興味がなく、だから有名人くらいしか知らない。司馬遼太郎も幕末について結構読んだのだが、最近はほとんど読まない。有名人とかヒーロー、あるいは偉人というものに興味がわかないのだ。

英雄伝をつい読んでしまう心理は、おそらくだが、自分もそうなりたいと考えているからだ。ぼくもかっこ良く生きたいなぁ。そういう心理が英雄伝を読み進める推進力になっていると思う。それは戦国武将でも同じ、偉人でも同じ。

しかし、やがて「ぼくは普通の人だな」と感じることになる(例外もあるけど)。そのとき興味を持つのは「今」はどうして「こうなっているのか」だと思う。なんでまたこんなことが「決まっている」のだろうか、おかしいだろう。現在が成立した理由をたどりたくなるが、それはすわなち歴史を知るということである。

ただし、現在の直接の理由である現代史、近代史と進むことはなく、どういうわけか「古代」に一気に戻ったりする。大化の改新とかヘロポネソス戦争とか、どう考えても今には関係ないのだが。しかし、そうはいっても「根本的なことがいつ決まったのか」を考えるにはそこまで戻ることにおかしなことはなく、最初から辿ってみよう、という意志の現れてでもある。社会の発展を頭のなかでシミュレーションしたいということのなので、これは是非ともやりとげたほうがよいことだが、実際は難しい。

歴史を知りたいというのは、教養主義の心理からの同期ではなく、謎を解きたいという心理からくる。おそらくは、今が成立したメカニズムを追いたいわけで、それは「自分はなんでいるんだろう」という永遠の問題を扱いたいと無意識に感じているのではないかと思っている。結局、人は歳を取ると、何をやっていてもその動機は皆同じのようだ。