おしゃべり

自分でも気づかない自粛

2017-08-16 おしゃべり

共謀罪が成立・施行されてしばらくたった.
自分でも気づかないレベルで,確実に内容を自粛をしている自分に気づくことが何度かあった.
自分でも情けないと思う反面,程度の違いはあれ,どんな人にもその影響が確実にあるのではないか.
そう疑っている.

普通の人が普通に生きている限りにおいて,特段犯罪に巻き込まれることなど日本ではなかったし,これかもそうだ.
そう一般には説明され,それをマスコミが報道している.

いや,本当にそうなんだろうか,共謀罪制定前後で何も変わらないなんてことがありえるのだろうか.
これからは違うだろう,と無意識レベルでも感じている.
BSなどでは一部報道されているが,多くの人が目にする地上波ではきちんと警戒感をもった報道はないようだ.
あったとしてもスポットでしかなく,だからその報道がきっかけで人々が疑いはじめるということはないだろう.
共謀罪前に(誰もが)予想した展開通りに,物事が進行しているわけだ.

見かけ上,つまり統計などの数値の上では「治安は改善されている」「気にする必要がない」とマスコミを通じて政府はプロパガンダするだろう.
証拠がないように細工しているのだろうから,単純な説明をもって反論することは難しいだろうし,だからマスコミでは取り上げないはずだ.
だから人知れず冤罪天国となっていくだろうし,そうなることを肌で感じていても反論は報道されない(つまり皆さん自粛をするのだから)見かけ上の治安は今後もよくなりつづけるだろう.

これって「大戦前」になったということ.
共謀罪成立前にはいろいろとニュースに取り上げられたし,市民によるデモもあちこちだったと思うのだが,今はすっかり落ち着いてしまっている.

一方で,ニュースをマメにみていると「一般の人による一般の人の行動を通報する」行為があちらこちらで推奨されていることを目にすることが多くなった,本当に.
禁煙だろうがいじめだろうが,一般には表立って反論できない,「いいこと」に分類されるような「ルールを守りましょう」という目的の下に監視社会の始まりをぼくは目撃しているわけだ.
「はじめは大したことがなかった.だれ気にもかけなかった.でも,ちょっと変化なと思うことはあった」
そう,振り返るようなコメントをする人のインタビュー番組の一場面が頭の中で再生される.
そんなYouTube動画はすでにアップされているんじゃないかな,と思いつく(確かめる気にはならないけど).

私事に忙しい素人とたいして変わらない政治家が何人も閣僚という肩書をつけていた.
インチキなことをし続けた完了はイタリアに栄転になった.
こんな茶番劇をまともに実行した内閣が現在もやりつづけている行動の結果は,これらか十分に思い知ることになる.
外見(見た目)を取り繕っても「だめなものはだめなんだな」と昨日今日の新聞をみていればわかる.
この状態はこの先もしばらく続くのだろうから,もはや「前の続き」という状態に社会が戻ることはないとぼくは覚悟している.

あまり良いことが起きそうもないのは,国内,海外ともにニュースの内容が「おかしい」からだろう.
そして,これらの疑問は「なぜこんな人が国のトップやトップ集団に君臨しているのだろうか?」である.
だれが脚光を浴びるのかは,そのときの「たまたま」だということはわかるけど,それにしても本当にそうなんだなと,ニュース映像を見ながらため息をついている.

共謀罪がやってくる

2017-05-20 おしゃべり

2017年5月19日.これは日本史にとっての一つの事件の日となるだろう.

共謀罪が法務委員会通過.しかも,見た目も専門知識も人格(想像)も「だめ」な金田法務大臣の下での通過だよ.

たぶん通過するだろうなと思っていたが当然気になっていたので中継メディアに注意をしていた.NHKは中継なし.中継がないことだけでもおかしなことなんだけど,中継しないで放送していた番組が「埋め草」みたいな,なにも今放送しなくても全く問題ないものだった.国会中継のほうが「絶対」視聴率も取れただろうし,人々が日本の(近未来の)行く末を覚悟する上で重要な法案だっただけに,NHKの「犬っぷり」に嫌気がさした.NHKも一つの役所だとは思っていたが,もう広報番組は付き合わないことにした.きっと「原爆の光を見ないようにしましょう,失明の危険があります」的な,愚かな情報を得意げに放送をする人たちしかNHKには残っていないだろうし.

この後,衆院通過で,参院も通過するだろう.それで,晴れて日本も「昭和10年代」の続きを再開する道に戻るわけである.この日を待ち望んでいた人たちは喜んでいるだろう.しかし,しかし喜ぶ人のほとんど,そうでない人と同じ一般人だとういうのがこの話の悲劇たるところ.人口が一億を超えて,食料自給率が40%しかない,しかもエネルギー源はゼロに近い日本が「昭和の続きをやれるわけがない」ので,賛成した人も悲惨な状況で死ぬことは確実である.共謀罪を応援した自民・公明・維新支持者だったと主張しても,一般人には不幸な未来しか来ない.絶対にこない.「エネルギー保存の法則」を破ることができないことからくる当然の帰結である.

この法案施行後,若い人も,中年も老年も同じように急速に不幸になるわけだが,これから青春を謳歌するつもりの人はとくに気の毒である.大正から昭和初期生まれの人と同じか,より悪い世界が待っているわけだから.なんとも同情してしまう.中年から老年の人は,悪くない「自由社会」「監視のない気分がいい社会」での人生を満喫できたはずだ.すくなくとも,監視される社会に日本が陥るなどとは「考えたこともなかった」わけだ.しかし,事実は小説よりも奇なりである.共謀罪から市民による私刑の反乱,そして思想警察,特高というものが,法案成立後にあっという間に登場してくる.現在の「国体明徴運動」である東京オリンピックが終わればいろいろなボロがでてくるので,経済が一気に破綻し,治安維持のために「治安維持法らしい」ことが矢継ぎ早に行われるだろうから,そりゃだれだって生活実感として「どうやら状況が変わったらしい」と思うことになる.

そもそも治安維持法だって,当時は「反対」を押し切って強引に通過させたものだ.当時と今とでは政治制度が違うのだが,違うにしても「同じようにしかやれない」ところが治安維持法が「治安維持法」たるところである.こんなリンクが参考になるかもしれない.

https://twitter.com/hamemen/status/865526633872015361/photo/1

古今東西,過去も未来も,内政がおかしくなったときの為政者は国外へ「戦争」を仕掛ける.安倍政権でさえも「雰囲気作り」はずっとやってきている.ある種のスピン(撹乱情報)を投げて国内危機の情報を撹乱する程度のことは常時やっているが,相手国はその脅しにいつまでものんびりと付き合ってはくれないものだ.しなくていいことをやり始め,大勢の人に迷惑をかける結果となることが起きる.これは歴史の「一つの定形」なのだが,これを打ち破るような「想像力」を日本の役人や宗教家は全く持ち合わせていないので,やるだろう.

「なんて馬鹿なんだろうなぁ」と思うのだが,実際のところ多くの人は「バカ」だから仕方ない.そして,バカが集まっても幸せにはならないし,それどころか生き延びることもままらない.だから結果的に「バカ」は消えてなくなる.だったら,それはそれでいいような気がする.日本にも多くの「まともな人」がいたのだが,戦時中に軍部というバカたちが生き延びるために普通の市民として殺されてしまった.一方で,軍部要職にあるひとの家族・子息は徴兵免除か,あるいは前線には行かないなどの方法で「ほぼ」全員生き延びたので,死んだ人の数は東京裁判をもって処刑された人の数など全体に比べたら「なにもなかった」程度の数でしないでしかない.もちろん,今の安倍もだからこそ存在しているわけだ.

今の日本にはいろいろ問題があるが,メンテナンス活動をしていけば,またまだ歴史の中で存在感をたもちつつ「多くの普通の人が自由社会で生きている,安全と水はただの国」でいられた.そこに,戦後一貫してくすぶり続けていた日本会議的なものと安倍一派によって圧倒言う間に破壊されてしまった.内閣法制局や内閣人事局と政府の実務を上から制御し始めたのである.この2つを抑えたら,そりゃ「政府を生きたまま制御できる」わけで,それを実際にやった.これはこれでスゴイといえる.ただ,褒められることはではない.バグを狙って実行した人は「ハッカー」として大変に有用であったわけだが,ハッカーはハッカーでしかない.

法律もプログラムの一種だから,当然ほころびがある.そこを一気に攻撃してシステムに穴を作ろうと考える人はいるし,実際やれれることもある.だから日常使っているPCには定期的な「セキュリティー・パッチ」が必要なんだ.冷静になって考えてみれば,「そもそも」国会って,そういうパッチを生成する機関だと言える.そして政治家ってのは,憲法の概念を守るために構成された「法律」のほころびを探して周り,見つかったら直す人たちなんだよね.セキュリティー・パッチを提供するはずの人が,システムのバグを探して広げてクラックしようとするんだもの,そりゃできるよ,安倍くらいにバカだって.

一旦開いた穴は,いろんな有象無象が押しかけて広げていく.だから,共謀罪を手がかりにいろんな詐欺師が「おれもおれも」と押し寄せる.ただし,最後に残るのは「権力」というか「暴力」を持った集団である.それは警察なのか自衛隊なのか,あるいは,ほんま者の暴力団なのかもしれない.法律的なところをクリアしたら,気づいたら指定暴力団が役所を乗っていた,ということだって考えられるだろう.結局,何を共謀とみなすのかが「恣意的」であるがゆえに,担当者の能力がモロに出てしまう法律だ.だから,「ずる賢い」人が勝つ.安倍はそうそうに蹴落とされると思う.したがって,10年後は今とは全く別の社会になっているだろう.そして,それは「全く自由度のない」社会として.当然経済なんてろくなものになっていない.ただ,権力者が1300兆をガツガツと食べているだけの社会だよな.

現時点での未来予測はこうなっている.これがどこまで実現されちゃうのか,全くわからないけど,当たらずとも遠からずだろう.僕の想像力も大したことがないので,今気づいていないことが起きて,その都度予想を変える必要があると思っている.だから,その都度予測し直すことにしたい.

不便という状況の選択

2017-05-14 おしゃべり

歳をとってきたことによる余裕なのか,もう先がないから諦めが入っているのか,自分が不便な状況に置かれてしまうことに対して以前ならば強く感じたような嫌悪感やそれにつづくそこからの脱出への衝動にかられなくなったことに気づいた.

表と裏,というか,ハレとケ

2017-05-13 おしゃべり

思いつきを入力するにはWORDPRESSは都合が良い.「WORDPRESSは」というより,「ブログシステムは」というべきかもしれない.これまでブログ作成には専用ソフトを使ってサーバーにデータをアップロードしていた.しかしプログシステムでは,PCやスマホのブラウザからいきなり入力できて,それが十分きれいにレイアウトしてくれ,更新処理もしてくれる.なるほど10年経ったよな,としみじみ感じるのだ.しかもWORDPRESSは無料なので気兼ねなく使え,実験もできる.いろんな意味で「すごいな」と思う道具だ.

このサイトは誰か特定の人に向けた情報ではないので,思いついたことを自由に言葉で入力している.言葉遣いを気取らなくてよいし,内容を気遣わなくてもよい.自分の中から湧き上がってきた言葉を日本語で書き出すだけ.そこには著作権とも縁がない.まだ日本には表現の自由は存在し,認められている.今のうちにこの空気を存分に吸い込んでおきたいという焦りも今は感じている.この自由はたぶん親と同じで,いつまでも存在し続けることはないだろう.今から一週間後には,もう無意識下での忖度が起動しちゃっているかもしれないのだから.

市井の人であるぼくが自由に書く内容は必然的に,というか作家でもないから創作もできないので,日常生活についてのおしゃべりになる.人から聞いた話やニュースを見て考えたこと,ちょっとした出来事の報告を文章にし,アップロードしている.なにせ人に見せることが目的ではない文章だし,「そもそも」書くという行為を「癖」として身につけるさせるための練習だと思ってやっている.市井の人なのだからこうでもしないと文章を書く機会などない.そして内容はとくにイベントが含まれない,つまり「褻(ケ)」になる.

一方で,他人に見せる(見てもらう)ことを想定した文章にするなら,内容はともかく,身だしなみを整えて丁寧な物言いの文章しなければならない.道案内の看板ですら丁寧語でなければならない.その理由は,読む側に沸き起こる余計な心情を事前に消却しておくため.そして「晴れ(ハレ)」の内容が中心になる.といっても,自慢話とか立派な事件など身の回りにないのでそういうことを書き込めない.だから無意味な紹介文になってしまうのだが.

これらハレとケの内容を一箇所で同時に提示するとおかしなことになってしまう.プラスとマイナスを一緒にするというか,熱いものと冷たいものを混ぜ合わせるようなことをしており,両者の特性が際立たなくなってしまうからだ.ラフ普段着なのか正装なのか,どちらともいえない変なサイトの印象が残るだけだろう.本来分けるべきものを分けておかないと両者はクラッシュし,両者ともにダメにしてしまうのだ.これは避けたい.significa.jpはケのサイトだから,新しくするbsd.tokyoはハレのサイトにしなければならない.

Lineやツイッターなのにある「裏アカ」というものがある.一人の人が別人格を装って別のアカウントを独立して取得し,表立って言いたくないことを裏アカで言いまくることをするそうだ.なんだかインチキっぽい行為なのでぼくは嫌なのだが,ハレとケとがあると「裏サイト」と勘違いされるかもしれないが,両方共に「本名」を名乗っておき,きっちり連絡先を載せておけばそういう問題は起きないだろう.両者が扱う内容はそもそも違うし,ハレは「丁寧語・ですます」を採用するので紹介文のようなページになる.ある意味別人格の発言とも取れるが,社会人なんだからそのくらいの使い分けを上手に行うことに問題はない.

ハレのページがないことで,それなりに不便に思う機会がこれまで何度かあった.情報を貼り付けて他人にリンクを連絡したいが,ケのサイトでは「くだけすぎ」のところがあるし「ぼやき」や「しょうもない写真」もいろいろあって,ほとんど面識のない人に「このサイトに貼り付けておきます」という目的に使えなかったのだ.significa.jpは実験場であり,個人用なので人に見せる必要がない.だからbsd.tokyoを別途取得した.そして,会社の人にも学生さんにも「ここに貼り付けておく」ということ中心に使っていく.

この切り分けはやろうやろうと思っていが,今日やっと作業を開始できた.気づけばぼくも還暦まで干支が一周回の歳になっている.もう,無限の可能性なんてないし,それを望むべくもない.地面をゆっくりと歩くことしかできない普通のおじさんであることを重々理解している.だからこそ,今のうちに「越し方と行く末」をきっちり残しておくことは必要だろうと考えるようになった.今まで悪い人生を歩いてきた気はしていないし,どころか普通の人?よりも「面白いなー」と感じる日々を過ごしてきた.やってきたことが他人に評価させることはないのだが,自ら体験してきた感情の履歴を思い返せば,健康だったし,嫌なことを強いられることもなく,嫌いな人とは会わない・避けて通ることができてきたし,いろんなことがわかるようになったし,できるようにもなった.その意味では満足いく結果を得ていると思っている.だから,その満足したものの一部を少しずつだが還元していくことも必要かなと考えるようになっていたのだが,それをやっと始められる.

ちょっと高尚な動機で始めれば,なんでも物事はうまく転がりはじめる,ということは絶対にない.だからハレのサイトをつくっても,それで「第三者からみて有益なもの」が最初からできるとはさすがに思っていない.最初はしょぼい内容だろうし,ダメな結果しかできないだろう.とはいえ,なんか始めないと先にすすまない.しょもくても実態がないと「改良」プロセスを動かせられない.惨めな気分がするものであっても,一歩目を出す必要がある.これは,なんだかきれいに思えるけど,実体験の積み重ねと,それで結果的に意味のある結果に繋がったという経験から学んだことで,だからそれをbsd.tokyoというサイトに適用してみようと思っている.さぁ,どうなるか.

行動パターンを少しいじってみる

2017-05-05 おしゃべり

基本的に自分でやりたいことだけをやる,という方針でいたのだけど,今年はちょっと「頼まれたことを引き受ける」ということもしてみようかと考えるようになった.とくに理由はなく,ただ,そういうこともありかな,と思ったのだ.ただし,誰からのタスクでも引き受けるということはない.信用取引ができる,つまり「この人は悪い話はもってこなかった」という実績のある人からの依頼は受ける,ということだ.初めての人とか,知らないととか,好きではない人からの話は受けない.

しかし,こういう方針で生きていけるのって,なんだが名を成した芸術家のような感じがする.ぼくには業績などなく,また今後も期待できるところがなく,さらに現在でも職責は最底辺である.それでも,やりようによってなのだけど,好きなことだけをやって生きることが出来てきたし,現在もそうできている.これはこれで大変ありがたく,とても感謝している状態である.しかし,それじゃぁ申し訳ないかな,とも思うことがあるので,じゃぁ今年というか,今年度はちょっと安請け合いでもしてみようかなと思いついた.

最新ばかりが「よい」わけではない典型

2017-03-18 おしゃべり

最新のPCが欲しい,という衝動にかられることがある.ただ,いつも必ずそうなるわけじゃない.

気に入ったものを手にいれると,しばらくはそれをいじくり回すことになるのだが,手に入れたものはいずれ「あたりまえ」なものと感じるようになり,その扱いが雑になってくるもので,しまいには「カバンにいれたまま忘れる」ことになる.
すべてがそうなるわけではない.が,万年筆とかカバンとか,それらを使うことで自分の能力を拡張してくれそうなものには最初憧れを強く抱き,だから手に入れようと努力するのだが,いざ手に入れてしまうとそのもの対する憧憬は下り坂になるもので,これはもう子供のころからずっとそういうものだった.

もちろん態度の人もいるだろうし,ぼくの場合も飽きずに「手元にあることが前提」のように使うようになったものもある.だが,多くのものは未だに「飽きる」という状態へと流れていく.

いまこうして使っているこのPCも「万年筆」と同じような意味合いで購入した.購入当初半年以上「うまく使えない」でいた.それがあるとき「うまく動いて」くれたので,その後も忘れないで定期的に使えている.うまくいった事例の一つになっている.

飽きずにずっと使えているものには特徴がある.まず,「直ぐにはうまく使えない」こと.使うためには工夫が必要であり,その工夫も「マニュアル」のようなものがあるわけではないもの.人それぞれ,といえるくらいに使い方に多様性があること.そして,ある程度時間をつぎ込むとコップから水があふれるごとく「使い方のレベルが一段向上する」ものであること.

手に入れて直ぐに使えるようなもの,つまり,手に入れる前に想像していたのと同じようなものは結果的に飽きる.手に入れて直ぐに使えるのだから楽しくてしょうがない,という意味ではお手軽なのだが,だからこそ直ぐに飽きてしまう.たぶんテレビの通販ショッピングで宣伝しているようなものはクレームを避けるために,宣伝したとおりのことは直ぐにできるようになっているだろう.だが,それで終わり.結局直ぐに捨てられる.

楽器のようなものとまでいかなくとも,例えばPCでもいいのだが,直ぐに使えないものは結局使えるまでにそれと格闘する.頭をつかって時間を過ごすことになる.この時間が長いと投げ出してしまうが,短いと飽きてしまう.その間の時間をどう過ごすのか,どれくらい待てるのかでそのものとの付き合いの長さが決まってくるわけだ.ぼくの場合,うまくいかなくて放り出すまえに,一旦時間をあけるというコツを得てから,ずいぶんと色々なものに付き合えるようになった.じゃ,来週末にやるか.2,3ヶ月前に中断していたが再会するか.こういう感覚が自然と身についたことで,結果的に自分で取り扱えることが増えたのだ.

このPCは半年という時間を費やした.だからこそこうしてブログの入力に使っている(ここにくるまでに色々と知らなくてはならないことがたくさんあったのだが,一つ一つクリアしていったので,それはそれで振り返れば楽しい思い出といえよう).そして,現在でも「宙ぶらりん」のまま停止中のものがいくつかある.歳をとるにつれ時間スケールが伸びてくるようで,一月二月くらいならば待つことが気にならなくなっているわけで,自然と宙ぶらりんの案件が増えているような気もする.こうして,一人一人ものを獲得し使えるようになるまでのコツを獲得するのだろうと考えるようになった.

欲しいものを獲得する間での待ち時間,書くとしてからの学習期間,結果的に使えるようになったときのうれしさ.こういうものをひっくるめて「自分の道具を増やすうれしさ」がある.逆に言えば,この手順を踏めないものは,それが高性能で高価で直ぐに便利な機能を教授できると分かっていても手に入れたいとは思わない.だから新製品の広告を見かけても「へぇほしいな」とはなかなか思わない.昔から一貫してファンだったようなもの,たとえばAppleやソニーの製品であっても「新製品を欲しい」とは思わないし,もっといえば「新製品の情報」にすら興味がわかない.新しいのが良いわけではないと思っているから.

人よりも早く手に入れてそれを自慢したいという欲望がない.持っているもの使っているものを人に示すことが,自分の存在の形容詞だと考えなくなったというべきか.まぁいいじゃない,こなれた製品になったところでぼくも試してみるよ,と思うわけである.あるいは,まったく新しくないものであっても「別の使い方」を思いつくと興奮してしまい,つい買ってしまうということはある.他人へ見せるための道具にはほぼ興味がなくなったということだ.

端末の微妙な変更

2017-03-04 おしゃべり

ipadを使っているのだけど、まとめて文字を入力するにはどうしてもキーボードが欲しくなる。時間をかければタッチパッドで文字を入力することはできる。とくだん不便とうことはないが、時間をがかかるのだ。ちょくに画面ば微妙に広いので片手でスムーズにというわけにはいかないのだ。だからキーボードを買ったわけで、机がある状態では大変都合が良い。 

iPadはタッチパネルが優れており、Apple Pencilで気軽に記号入力できるのからいいのだ。とくにpdfファイルにガンガンメモをとってくにはこれ以上に便利はないツールだ。そして実際そうであることを自分で使ってみて納得している。一方で、文章を入力したいなとおもったら行きなるへたる。日本語の文法にそった文字れるとを入力していくにはちょっと不便だろう、本当に。あれこれ良い方法がないのか考えたのだが、キーボードで落ち着くことにした。これで iPad にすることが全部ダメになったということにはならないだろう。

簡単なキーボードだけど、日本語のメモをとるには十分だろうとおもっている。メモパッドとしてつかうのはちょっと無駄なので、それ以上のことができないだろうかと使いながら考えるよりないだろう。

過去に戻る

2017-03-03 おしゃべり

20年ぶりに近い。卒業した大学に行く機会があり、 学生の頃に通った経路で行ってみる。これはこれで懐かしいような気分がするだろうと期待したが,朝の慌ただしい雰囲気と混み合う車内が暑くて汗だくになったことで,しみじみ思い出す,という感慨にふけることはできなかった.

ただし,駅の外にでて建物なり道路なりお店なりを目にすると,20年の歳月の経過を体感することができた.あの店まだる,ありゃマンションになっているなどなど,どんな人だってそういうことをいろな機会で感じているはずで,それを久々の通学路を辿って感じたに過ぎないわけだ.

通学路の風景は何年も(10年ちかく)日常的に目にしていためか,20年ぶりであっても「新鮮味」というものはなかった.全く無かった.これが不思議だ.1年程度しかいなかった場所に舞い戻ったときのほうが,あぁ,という感慨はずっと深いように思う.10年という成長過程で日々浴びた風景と1年という短い期間接した風景とは,経過した時間を同じにして比べても「同じように感じない」のだ.

 懐かしく思うのでことは、実はそれほど自分の内部に近いものではなく、すこし間を置いて鑑賞できるようなものなのかもしれない。成長の段階で日々浴びていた風景のようなものは、思い出したところで感覚的に「当たり前」であって、だから思い出しても当たり前の感覚的が変わらないというように。一方で異邦人的な気分で接していた風景などは、そもそもからして異邦人なのだから、思い出した時はその異邦人的な気分の続きを追体験するわけで、だからこそ奇妙な気分が沸き起こる。これをなつかしさというように。

意外に感傷的な風景ではなかったので,まぁ次の機会があってもここは通らないなぁと思った.

ツイッター

2017-02-12 おしゃべり

アンドロイドのosのバージョンアップをしたらツイッターが落ちるようになった。なんだよ、これ(* ̄(エ) ̄*)

愛用品になるための条件

2017-01-15 おしゃべり

武田邦彦さんの本だったか,愛用品になるための十ヶ条というものがあった.どんな道具であっても,それが高価であってもプレゼンとであっても,愛用品というものになり得るかどうかには条件があるというものだ.全部は覚えていないが,磨けば光ること,修理できること,ということがあった.これは要するに,自分である程度手入れができるということだと思う.

PCについてある程度知識があれば,ノートPCも愛用品とすることができると思っている.とくに,自分が何らかの「工夫」を入れることができ,それで使い勝手が向上したなど,その道具が自分の創意工夫を受け入れる余地があるかどうかは,その道具を長く愛用できるかどうかを決める要素であるはずだ.

今回,まったく使い物にならないタッチパッドを自分の創意工夫で改良し,その結果道具が劇的に使い安くなったという経験をした.そして,この工夫がこのPCを間違いなく「愛用品」となるべく道を開いたと思っている.工夫によって道具その物に「愛着」が湧いてしまったのだ.

自分が工夫する.それが受け入れられ,そのために「良くなった」ということがはっきりと分かる.この経験は実に大切なものだと心底納得した.大事なのは自分とものとの関わり合いなのだ.買ってきて使う,というだけでは絶対に生じない関係が「愛着」なんだなと理解した.

この感情をもっていると,それだけで幸せな気分になる.だから,そういうものを今後は増やしたいと考えるのは当然.そのためには,なるべく道具を大事にし,なるべく工夫でなんとかするようにすればいい.これは,上手な生き方の一つなんだろうと思っている.