おしゃべり

行き詰まる前に場を変える

2018-01-03 おしゃべり

なんかうまくいかないなぁ、と思ってしまったらすでに「うまくいっていない」状態の中に浸かっているのだと思ったほうが良い。「前」へ進むのが実はダメにしても、いま来たばかりの「後ろ」にはまだ道が残っていて、回れ右してその道を戻ろうと思えば戻れるのだよと心を落ち着かせ、ともかくも手探りで「前」へ進んでいるのだ、と思っているかもしれない。そんな妄想をするようでは、いやいやたった今来た道でさえも雑草に覆われ「どこから来た、もうかがわからない」ことになっているのだよ。言っていること、わかりますかね?

自分の置かれた場所が良いか悪いか探っている状態を考えるに、どんなだかを感じようと思っているという段階で「何かがあるぞ」と思っているから探っているわけで、ならばそのセンサの感度を上げる前の段階で何かを感じているのだと思ったほうがよい。それは意識できないレベルではすでに明確に危険な状態だというシグナルを発しており、ならばその段階ですでに自分は「問題の只中にいる」はずだ。つまりはそういうことだ。

逆に言えば、そもそも「感じよう」という感覚をすます行動を起こす発想がない段階では、まだなんの問題にも囲われていない。「感じようかな、探ってみようかな」と思いもしない状態あれば、どこへ行こうか何をしようかを自由にものを考えられているわけだ。年末はあれをやって正月はここへ行ってこうしよう、という具合に楽しく予定を妄想しているのならば思考の自由度が確保されている。この状態にあるなら、過去も未来も大変見通しがよく、物事を「よく」見られるわけで、だから大した失敗もなく、ただ生きているだけで楽しさを感じられるわけだ。

なんでまたそんな抽象的なことを言い出したのか。年末はとくに何もすることなくニュースを見て、SNSを見て、とやっているわけですが、それだけでずいぶんと「憂鬱」な気分になるわけです。世間では「全く問題ないよん」と思っている人が大勢いるんでしょうけど、今の政権がやっていることや東京都の問題になっていることへの対応具合をニュースから判断すれば、「大丈夫だろう」なんて夢にも思えず、むしろ「こりゃだめだろうけど、具体的に自分はどういう被害に合う可能性があるのか、そうなった場合は大丈夫か、できればそれに巻き込まれないよう逃げる道はないのか」などと自動的につらつらと連想している自分に気づくわけで、決して「清々しいお正月」という気分にはなれるわけがない。要するに、嫌な気分になってしまう。

自分でできることはほとんどなく、いわゆる正攻法での対応(選挙で投票する)などは実施意味がないことは重々承知してて、なおかつおかしなメディアからは遠ざかることをしているわけだが、それで「物事の推移が良い方向に変わる」ことはまったくない。全くないと思っていても活動家でもないし、SNSでぐちぐち言っててなんとかなるとも思っていない。そう、ある意味何もしていない。全く困ったものだと思っているだけで、なんの意味もないよな。そう思っている。

今から何かを始めても有効な解決方法にはなりえない。だから、まぁ月の満ち欠けだと思って、眺めるより無い気がしている。自分が置かれた場所についても同じで、まぁしょうがない、なんとか「工夫」するよりないだろう。

とまぁ、年末年始の長い休みを終えつつ、あるいみ曇天の見通しについてそう感じた。

さて,今年やれそうなことは

2018-01-01 おしゃべり

一年の計は元旦にあり.まぁそうだろうと思うので,何をやってみようか考えてみる.

もちろん考えるだけであって実行可能な計画とまでは行けないが,可能なものは実行予定に登録してしまうといい.

例えば,旅行に行くのならば宿を予約するとか(あとでキャンセルできるし),能力を身につけるならば具体的な作業日を予定表に書き込み必要なものをアマゾンで買ってしまうとか.なんにせよ経済的なことを先に動かしてしまえば「買っちゃったからやるよりない」的な意味での「外圧」が自分にかかるので,しぶしぶであっても能力向上訓練を始める可能性があるわけだ.もちろん,そうならないで単なる無駄遣いで終わる可能性も決して低くはない.自分がどっちに転びやすいか,数年ほど過去を遡ってみればわかるだろう.

そしてぼくの場合,仕事のことはさておき,まずは本読みに多くの時間を当てるよう努力すること.冊数をこなすために早く読んでも楽しくないのでぼくはゆっくり読む派なのだが,それだと買う本と読む本のバランスが取れず,買った本が食卓テーブルの上に積み上がり,テーブルでご飯が食べられなくなる恐れが現実化して困っている.ともかく買う本と読む本とのバランスを真剣になって本屋に行けばいいだけだ.とはいえぼくには道楽が少ないことと,本を買うことはいかなる場合でも善であると信じているので,このバランスはとれそうもない.このまま一年様子をみるつづけることにする.

次に,まともな文章を書けるようになるための精進をすること.もうおじさんなので「文章が好きだからそれを生業にする」ということとは異なり,メールにせよ論文にせよ文章を書く機会は日々の生活のレベルで極めて多く,相手にきちんと意図を伝えることができ,かつ面白いと思わせる文章を書くことができたら,これは生きやすい世の中になるからだ.文章が上手いなることは素晴らしいスマホや車を手に入れる以上のことであり,「それがなくても死なないが,あったほうが生きていく上で便利だし,しかも楽しいぞ」と知っている.そういう道具として文章作成能力をつけたい.とはいえ,先生について勉強するわけでもなく,どうやっていいのか未だにわからないけど,自分なりの努力が可能な生活ができているのならばやりつづけるべし.

今年はこれに加え,しばらく使っていない写真撮影を自分の能力に加えてみたい.町中では大きなデジタルカメラをもった中高年のおじさんを見かけるが,ぼくもあれをやってみたい.道具はなんでもよく,だからこれまで買ったカメラでよいし,足りないものは中古で揃えればく,たいして費用はかからないはずで,要するに時間と機会をどれだけ確保できるのかが問題になる.実際に「写真おじさん」をやってみると,町中でレンズキャップを外して写真をとる行為は「こっ恥ずかしい」が,これもやっているうちに慣れる(恥ずかしさが麻痺する)はずだから,ともかく休日で街歩きするときはカメラを肩下から掛けることにする(使わなくても良く,カメラがないと不安に思うくらいになればいい).

本,文章,写真と3点の能力向上を目標としたが,じつに月並みで凡庸な目標である.でも,それは悪いことではないだろう.多くの世の中のおじさんがこれらをやろうとしているには理由があるはずだから.世の中のおじさんは「それで目立ちたい」という理由でやっているはずがなく,これら3点は「それ自体が面白い」ことをおじさんたちは知っているからだ.とぼくは推測している.本の面白さを本を読まない人に伝える方法はない.なのでやってみるよりない.やってみてもすぐに結果がでるわけでもない.若者層に流行ることは「すぐに結果がでる」もののはずで,だからおじさんになってからやっても面白くないだろう.おじさんは人生の残り時間を意識しているが,それは安直なものを求める気分にはつながらない.すぐに結果ができないことをやる面白さをっている.

こんなことをぼやぼや考えつつiPadで新聞をみた.ぼくは3紙購読しているが,その3紙ともに塩野七生さんが写った新潮の広告を掲載していた.これである.

おお,これは新年早々なんだか幸運に恵まれた感がある.年末に出版されたギリシャ人3は,どの書店でも取扱量が少なく,以前はどの本屋でもボリューム陳列だったのに比較して今は平台1フェースのみだから,ずいぶんと読む人が減ったので残念か気分がした.おじさん世代が読まないのが悪いのだが,おじさんがこのような本を読まないで一体何を読むのだろうかと疑問にはなる.

さて,何が書いてあるのかと覗いてみる.ふむふむ.

そうですよね,本は良いですよねという広告である.広告というよりも啓蒙かもしれない.こういう方の言葉は身体に染み入るわけで,ぼくもギリシャ人3を今日から読み始めます,はい.

本好きになる人は必ずそのきっかけがあったはずだ.子供の頃にそのきっかけを持てた人は幸せで,青年期であっても問題はないし,別にいくつになっても「結果的にもてればいい」のである.もちろん,その対象が本でないだけで,別のものに持てればそれはそれでいいのだけど.本が経済的な点でも,肌身離さず持てるという意味でも,だから座右の書というものが持てれば人生を渡っていくときに実に心強い.

ぼくの場合は,大学浪人していたときに近所の古本屋で買った森本哲郎の『ことばへの旅』のセットであった.スカイツリーがある押上には踏切があって,その踏切のたもとに小さな古本屋があった.本など高校卒業するまでろくに読まなかったのだが,浪人時代はずっと家にいて,だから暇だったからか新潮の文庫本を読み始めた.「本もいいな」と思うようになった頃,近所に古本屋などあったのかと知って初めて入ったときだった.その店で紐で縛ってあった角川文庫の『ことばへの旅』の全巻セットをどういうわけか買い,それを読んでびっくりしたのだ.なんだよ,本というのはこんなにスゴイものだったのか,と.

塩野七生さんのローマ人は,大学の学部の頃に大学生協で平積みされていたものをはっきり覚えている.平台の位置の場所まで映像として記憶している.あの頃から始まり,そしていま完結したわけだ.ずいぶんと長い旅だったよなと感嘆する.気づけばぼくの人生の中心時代を塩野七生の出版は全部カバーしているわけだ.初めの頃は青年で,中盤は新人社員で,後半は中堅社員で,ローマ人以後はベテランと呼ばれる領域にいることになる(実際はサラリーマンでははないので,そういう区分けが全くぼくには適用できないのだが).特定の巻を読めば,その頃の自分の関心事を思い出すようだ.

今朝の朝刊は,この新潮の広告のおかげでいろいろと明るい,そして初心に近い気分になれた.

さぁ,一年頑張るかなと.

今年中にやっておきたかったことの一部をやれたが

2017-12-31 おしゃべり

随分と前からほったらかしになっていたブログサイトを整理した.
最初はBiNDでつくっていたが,更新の面倒さからWordPressの方を使い始め,そのうちTwitterもはじめてしまい,結局どれも長続きしないというよくある話の展開となり,結局「全部を一つにまとめてしまう」ことで対処した.
更新する機会が多かろうその中身はWordPressを使い,めったに更新しない内容のページはBiNDでつくるという,そりゃそうさという方法で落ち着いた.
我ながらに思うが,工夫したごころがなくてちょっと不満だが,サイトは動くことが一番なのでこれで一年ほど試してみることにした.

自分の記録が主だった内容のサイトは他人から参照されて情報を提供することを目的としていない.
過去や未来の自分に向けた記録を自分のPCとは別の場所に保持しておくことが主な理由なんだと思っている.
「そんわけはない,自分のローカルなディスクにすべてのデータを残しておくが一番だろう」
そう反論される人も多かろうと思うし,それはそれで90%以上正しいとは思う.
が,その残り10%未満の部分は「外のサーバーにおいておくことが結果的にデータ保全に役立った」という場面も想定してのことで,それが最近クラウドという方式が流行っている理由だと思っている.

いわゆる検索サイトはキャッシュを公開してくれない.ならばなんだかんだいってもローカルPCのデータを自分でうっかり潰してしまう可能性はゼロではなく,そのとき公開サーバーに残っているものをサルベージさせることでなんとかピンチを乗り切った助かった,という経験がある.
その一方で,公開することは自分の情報を不特定多数にさらすだけであって,これらの世の中では「自分にとって不利」なことが多いと考えている.
両者を同時に考えてみれば,それでもまだ数年は「一般人のぼやき」が金につながるわけではなかろうし,フィッシング詐欺集団への有力な,あるいはとっかかりとなる情報提供になるまで5年の時間猶予はあるだろう.
そういうわけで,そのようなことが社会問題化するまでは今のまま続けていくことにしたい.

さて,年末の大晦日.
こういう状況で人の行動は極めて保守的になるだろうと思っている.
毎年あれこれ違うことをやろうかなと思っていても,いざその場面になると「新しいことができない」自分に気づくものだ.
それは,年越しそばを食べるとか,知らないうちザッピングをして紅白を見ているとか,そういうことである.
そしてぼくもその一人(紅白は見ないけど).

年末になってからやることはたいてい「普段の休みではできない長い時間がかかること」なのだが,しかしその作業に取り掛かるのが大晦日だったりして実際は数日程度の時間しかとれない場合も多く,だから年末休み作業の進行速度は思ったほどよくない,いや実際は全くできないとなることが普通である.
むしろ通常の週末にまとめてやってしまう方が「非日常感」に邪魔されることもなく作業が捗ることをぼくは知っている.
そして知っているからできるというわけではない.

ぼくの場合もこの悪い例にもれず,年末になるとどういうわけか自分のWEBサーバーが気になってあれこれ整理しはじめる.
これもアルバムの整理するかのような罠があり,その内容を確認しはじめると思った以上に時間が取られてしまうので,結果的に想定したようには進まない.
それでも心を鬼にして進めていても,ご飯を食べたりビールを飲んだりしていしまい,結果的に「まぁいいか大晦日だし」という「いつものような展開」となり,中途半端に整理作業が終わってしまう.
そして誰でもが気づくのだが,長い休みにやれることは「実際はないのではないか」思うわけで,そういう計画を立てるのはやめたほうがいいな,と少し酔っ払った状態で反省するのである.

しかし今年はどうしたことか,ある程度WEBの整理ができてしまった.
それは「手を抜いた」からで,1,2時間で作業が決着したからだと思う.
これはよい,と思って別のことを始めてみる.
それは,例えば今年の十大ニュースを考えるとか.

思い返せば日本社会,とくに政治と報道の劣化,今年は異様に加速した.
そうは思っていない人も多いかもしれないが,海外にいる日本人はこの「事の重大さ」をわかっているだろうし,だから絶望している人やその先の状態にたどり着いた人も少なくないような状況だと伺える(すくなくとも,知りうる範囲ではだが).
そういうことを考えていたら暗くってきて,とても正月を迎える気分にはならない.
考えてもしょうがないことを追求してもしょうがないかと,これまた年末の雰囲気の罠にかかってしまうわけだ.

さて,今年もこの蕎麦までたどり着いた.
来年も辿り着けるのか,正直わからないが,たどり着きたいと思っている.

ときどき失敗すると,いろんな意味で暴走しないので,結果的に良いと思っている

2017-12-16 おしゃべり

ときどき失敗すると,いろんな意味で暴走しないので,結果的に良い.
そう思っている.

いろんな場面において,「何かをしなければ」ということは誰にでもある(と思う).
目立とうが目立たまいが,結果的に自分がそう発言し,そして何かをする.

そこでうまくいけばば問題はない.
その結果ある種の信頼のようなものが形成され,これを繰り返すことができれば信頼はより厚くなる.
いいことだ.
が,世の中,そんなにうまく話が進むわけがない.

ぼくの場合,成功するより失敗することが多いように思うし,その結果長い期間にわたって「くよくよ」してしまう.
個人的な性格に原因があると思う.
くよくよするの実態は「女々しい態度」というより「思い出し怒り」として顕れるのだけど,そうなっている期間中は何をしていても嫌なことが突然頭に降ってきて,「思い出し怒りが」が自分をすっぽりとらえてしまう.
具体的には,嫌な場面が頭に浮かび,そして思わす手の動きを止めて,しかも反射的に,今やっている内容とは関係のない独り言を口にしてしまうこともある.
その独り言は,目下の作業に関係のあることにしようと努力する.
だが,実際には「なんであのとき,あぁしちゃったんだろう」と思う.
この後悔は悲しさや苛立たしさの裏返しである「うなり声」に意味を持たさた結果発せられるもので,他人からみれば言葉とやっていることがちぐはぐな言動だろう.
だからトイレで用を足していたり,駅でエスカレータに乗ったり,職場でエレベータを使っていたりするときだけにしようと努力している.

それがどの程度の衝動を伴って再現するのかは失敗したレベルによりちがってくる.
が,まぁ数日から数ヶ月,とくに嫌な思いをしたものは10年近く嫌な思いをし続ける.
これも失敗の質によって違うのだけど,その時間を経過すれば消えるし,それに次に同じことがあっても「耐性」がついているのでほとんど嫌な思いをしないで済む.
これは経験という意味では大きなメリットではある.

良くも悪くも歳をとると,自分の性格の使い方も把握できるようになってくる.
ゆくゆくは,嫌な思いはすべて瞬時に忘れてしまえるようになりたいが,無理だろうが.

SNSには知りたい情報が流れていることもあるので,ROMで戻る

2017-11-16 おしゃべり

つい先日のことだけど,SNSは止めた,もうしない,と決め,行動をとった.
アカウントを抹消し,中毒の原因であったスマホも手放した.
そして,その行動の理由を分なりに文書化し,ブログにアップした.

が,3ヶ月くらいだと思うけど,結局ツィッターのアカウント再取得し,気になる人をフォローしはじめた.
あぁ,と自分に少しがっかりした.
これはもう止められないのか,と苦しく感じた.

ともかく,書かないで読むだけにしてみよう.

歴史小説を読んでいると今を考えてしまう

2017-11-11 おしゃべり

歴史小説を読んでいると、その内容や時代や人の行動を追っているはずなのに、同時に今の自分の身の回りのことなどを考えてしまう。これは教科書や解説書のような本では起きない。専門家ではなく、作家が書いたものには読者に考えさせる隙が入れられているにかもしれない。

文章には視点がある。作家の作品には、それがエッセイや解説書であっても読者の視点は書かれた内容に、作家とともに向かう。一方で専門家の文章は、それらを読んでいても、視点はたしかに存在するが、自分の視点のような気分がしてこない。定まらない、だから時間を忘れてのめり込む、ということがない。いつまでも意識的に読むことに格闘せざるを得なく、だから他のことを考える隙が出来ない。

読後の満足感は、その内容の理解度で測るのではなく、自分の身の回りの出来事を別の視点からも考えることが出来たかどうかにもあるように思う。内容も分かって、気になっていたことに対しても解決の糸口が見つかった。そういう経験を積むと、本なしには生きられなくなるのではないかな。

気分次第

2017-11-08 おしゃべり

政治に関心ないほうなんだけど、今の首相以下与党政治家の言動や振る舞いを知るにつけ、関心があろうと無かろうと続報が気になり、そして知ってため息をつくことになる。

こんなこと、やらんでいい。なんで頭おかしな人の言動に付き合わなければならないのか。

そう思うのだけど、仕方ないよね、与党と役人が正気な判断が出来なくなっているのだから。今日にでも自分の身に災いが降ってくるやも知れんし。だから興味なくとも続報を見てしまう。

マスコミや有権者に怒りを転嫁しても意味がない。なぜなら、マスコミが煽り、有権者が投票した結果がこの与党なのだから。多くの人が今の状態を支持しているわけだ。

そしてなるほどと理解する。市民参加のやり方は市民次第だということであって、市民の多くをおかしな連中が占めるようになったら地獄になってしまう。市民参加、ということ自体が良い悪いの評価の対象になるのではない。まともな人がどれだけいるかだけで決まるのか。つまりどんな制度であっても、そこにまともな人がどれだけいるかだけで決まるのだなと。

まぁ個人ではいかんともし難い。その状態でイライラして人生を過ごすのは嫌だな。せめて気分だけでも安定して良く生きていくかな。

保守的であることの良さ

2017-10-15 おしゃべり

歳をとったせいなのか、あるいは「もともと」そういう性格なのか。
自分は保守的だなと感じる瞬間を何度も体験し、また奥さんからもそう指摘されることが多くなった。

保守的といっても、政治の話ではない。
生活パターンがマンネリ化していることを指す。
いつもいつも同じことの繰り返しを平然と、どちらかといえば喜々として続けている自分。
そういう人に向かっての「評価」である。
「あなたは保守的ね」という具合に。

例えば休日の過ごし方。
そのほとんどは「同じ」ような繰り返しになっている。
毎週毎週違うことをしていたら、その計画だけで疲れてしまうだろうに、休日なのに。
そう考えてしまうくらいだ。
若い頃はともかく新しいことを求め、なるべく違う行動をとれるよう意図的に努力をしていたかもしれない。
今週はあそこへいったから、来週は違うところへ行こう、という具合に。
どんな本を買うか、どんなご飯を食べるか、どんな場所へ行くか、全部に共通した行動指針だったかもしれない、今思い返せば。
とはいえ、今から10年前、20年前、自分はどういうことを考えて行動していのかなど、もはやわからない。
あるいは、その頃から「お気に入りの場所へ出かける」ことを楽しみにしていたマンネリ人間だったかもしれないし、新しい場所を探していたかもしれない。

とはいえここ数年、いや10年くらい、いやもっとかもしれないが、週末の行動パータンは同じだと思っている。
お気に入りのラーメン屋へ昼ごはんを食べ、お気に入りの喫茶店でコーヒーを飲み、本屋を循環して、スーパーで夕飯の材料を買って帰る。
土曜と日曜とで買い物の場所が違っているが、やっていることは同じなのだ。
しかもこれを春夏秋冬ずっと同じことをやっている。
それでいて、週末が楽しみだし、そしてウィークデーには週末を楽しみにしている。
何をやるのかについては「同じ」であるのに、にも関わらず、ワクワクしながら週末を待っている。

保守的であることは、エネルギー最小の過ごし方をしているようにぼくには思える。
長い期間ずっと同じことをしているので、これから何が起きるのか、だいたいわかっているのだ。
したがって、落ち着いて行動できるし、時間もお金もどのくらい使うのかかなり正確に予想できるし、また実際にそうなる。
ぼくはこの先ずっとこの週末の過ごし方をしていてもいいと思っている。
もちろん、身体も社会もどんどん変わっていくし、訪れる先も改装したり閉店したり、あるいは味や値段が変わったりして同じことを繰り返しやり続けることができないこともある。
そういう変化があっても、週末の過ごし方全体としては「同じ生活」を続けられるよう工夫しているわけである。

あぁ、そうかと気がついた。
これは「動的平衡」そのものだなと。
そして、これが「生きている」という状態そのものだなと。
身体としての自分や社会としての街は変化しているのだが、過ごし方、あるいはそれを気にっている自分は「留まっている」わけである。
つまり、過ごし方という「ある種の生命体」はそれを維持しょうとしているわけである。

これって生きていることそのものだな。
そんなことを発見したわけだ。

SNSから身を離す

2017-10-13 おしゃべり

SNSは相当怖いツールだろう.
SNSで流れてくる情報に怖いものがあるではない.
SNSに時間を奪われてしまい,まるで廃人状態になってしまう,という危険があると言いたいのでもない.
もっと単純に,気軽に発言できてしまうならば自分の馬鹿な部分を増幅させて社会に発信させてしまう可能性が非常に高いから.
気軽=感情であり,感情表現の,とくにネガティブな感情のはけ口になりやすい装置だよな,という意味で怖い.

少し前に,バカッターなる現象が若い世代を中心に流行していた.
コンビニやファーストフードのアルバイト店員が,衛生的に本来すべきない,普通の人なら「するわけがない」ことを実行し,それを勇敢な行為として写真にとってツイッターにアップしていた.
当時は,どうしてこんなことをするのだろう,と疑問に思った人は多かっただろう.
隠れてやるならば「いたずら」だろうけど,それを「あえて」公衆にさらして多くの人に見てもらうことをわざわざやっていたわけだ.
だから「まともな」人は驚き,自然とネットで話題になり,そのコンビニなりファーストフード店が謝罪する(ひどいものは閉店する)ことまで行われた.
この流行によってツイッターはバカ発見器としての絶大な効果を人々に知らしめたわけだ.

しかし,どうして「わざわざ自分の愚かさを公衆にんさらすのだろう」と今でも不思議だが,そういう人はまったくいなくなったわけでもなく,今でもたまにニュースで取り上げられている.
ならばおそらく今後も消えないだろう,と予想している.
これはつまり,そういう人は一定の割合で社会に存在しており,ツイッターという装置のおかけで誰かの「妄想」が「現実化」してしまいやすい,ということが今後も続くだろう.

あえておかしなことをしてまで自慢するつもりなどぼくはないが,言葉だけならば似たようなことをしまいがち.
そう自覚している.
写真投稿をするつもりはないが,それでも「ニュース」などで「おかしなこと」や「腹立たしいこと」を読んだときは,その感想をついついツイッターに入力していたのは事実だ.
今はもうツイッターのアカウントを廃棄したが,ツイッターのアカウントをもっていたときは実際そうしていた.
それに,なんだよこれ,と思ったツイートも,メモ代わりにお気に入りにしていた.
ほっておくとロボットがやたらフォローしてくるので適宜削除してフォロワーはほぼゼロに維持していた.
ロボットがフォローしてくる理由は,新聞記事についているツイートボタンでついつい感情的な感想を入力してしまっていたことだろうと思っている.

ツイートすること自体,とくに自分の感情を文字にしてツイートすることは,それはそれで「いいことだろう」と最初は思っていた.
というのは,フォロワーは2,3にしていた(あとはブロックしていた)ので,ぼくがツイートしても「だれも読まない」とわかっていたし,それが検索エンジンに記録されたたまたま誰かに読まれたとしても,1,2人だから「結果的にどうでもいいこと」でしかないから,悪いことには作用しないと考えてのことだ.
それにくわえ,文字しておくことは「自分で自分を観測する情報」になるわけで,あとあと自分で読み返すこともあるかもしれないし,言葉にして入力することはある種の訓練になっている.
ならば,マイナスはなく,プラスは期待できるので,ならばツィートすることが悪い方向に働くことはないはずだ,と考えてたのである.

が,あるときに気がついた.
それは違う,ツィートとして感情表現を入力することは「自分の時間を潰し」かつ「自分の馬鹿な部分を増幅させるだけでしかない」だろうと気づいた.
良い表現であれ,悪い表現であれ,表現することでその回路は自分の中で「強化」される.
一時的な感情ならばすぐに忘れてしまっていたが,言葉にしてしまうと「それが残って」しまい,それを繰り返すと「強化」してしまうので,悪感情をいだきやすい人になってしまう.
自分から「ネタ」を発信できる人は,そもそもからして「悪感情」を発射することはしないように思う.
ネガティブなことを考え,それを発信していると,精神的に「沈む」わけで,そんなことを繰り返すとそのうちうつ病にでもなってしまうだろう.
あるいは周りが敵ばかりに見えてきて,社会生活を継続できなくなる.

おお怖い,これはやめよう.

そう思って,もうスマホ自体をやめてしまった.
そういう身になって通勤していると,車内でも歩きながらでもラインやスマホの画面をいじっている人が多く,身震いしていまう.
何かの教義を植え付けているわけではないから洗脳とはいえないかもしれないが,それでもスマホでSNSをしている人をみると,その人はしっかりと教化されてしまった人だよなぁと思ってしまう.

きっと神童だったんだろうな、という人たちの集団形成とメタ生命の発生現場

2017-09-22 おしゃべり

今の職場には、子供時代「神童」と呼ばれたんだろうな、という人がたくさんいる。
有名高校から東大、そして博士号取得した人がうじゃうじゃといる。
というか、普通そういう人たちが就職する場所のようである。

たまたま、ある偶然によってその中に紛れ込んだぼくには、どうにも居場所がない。
ヤドカリが自分の居場所をとにかくも探すようにして15年ちかく経った。
公立高校をでて、大学に受からなくて何度も浪人し、入ってからも留年したりして、結局10年かかって卒業した身である。
スマートさとは程遠く、ごく普通の人なので、どうも「昔神童だった人」には世間の人とはことなり、なんだかある種の胡散臭さを気分を感じてしまう。

いや、それはおまえの勘違い、ある種のコンプレックスだろうよ。
それはそうだろう。
そう忠告させることは百も承知でいうのだけど、ぼくだけの特異な勘違いだけではなく、ある種の現実もそこにはあるはずだと思っている。
というのは、昔神童だった人全員が同じように妙な地場を感じるはずなのだが、そうではない。
この人が昔神童だったなんて、夢にも思えないよなぁ、という人も結構いるし、この人は普通の人だよなぁという人だって存在する。
これらの人たちとは「うまくやっていけている」と自分では思っている。
40すぎて「昔神童だったんだろうな」と感じてしまうような人と、ぼくはうまく交流できないだけなんだと思う。

では、どうして「昔神童」の人に違和感を感じるのか。
それは単純で、無意識なんだろうけどかれらは自分とどうレベル以外の人を「蔑視」してくるから。
これ、客観的には証明できないけど、単純に「差別感情を抱かれている」とぼくは分かってしまう。
そういうものですよ、人の感覚は、とくに生き死にに直結する有利不利に関するものの直感は正しいですから。

昔神童だった人は、なんだかんだ言っても「昔神童だった」人と小グループをつくる。
みんなが昔神童で構成されたグループでは、だれも現実とのインタフェースをとったり現実的な作業をとったりできないので、うまいこといって普通の人を外部に配置していく。
そういう役を演じるのは、「普通」の人で歳をとって上昇指向が強い女性が多いかなと。
そしてその外側に鉄砲玉集団が配置されていく。
それは、普通の人が顎で使えるような人たちなので、もはや神童とは関係ない集団になっている
ある種の「バンパー」みたいなものかなと。

このタイプの集団は、「自然」と形成されていくところがほんとに興味深く、ある種の生命現象と同じだろうと感じる。