歴史小説を読んでいると今を考えてしまう

2017-11-11 おしゃべり

歴史小説を読んでいると、その内容や時代や人の行動を追っているはずなのに、同時に今の自分の身の回りのことなどを考えてしまう。これは教科書や解説書のような本では起きない。専門家ではなく、作家が書いたものには読者に考えさせる隙が入れられているにかもしれない。

文章には視点がある。作家の作品には、それがエッセイや解説書であっても読者の視点は書かれた内容に、作家とともに向かう。一方で専門家の文章は、それらを読んでいても、視点はたしかに存在するが、自分の視点のような気分がしてこない。定まらない、だから時間を忘れてのめり込む、ということがない。いつまでも意識的に読むことに格闘せざるを得なく、だから他のことを考える隙が出来ない。

読後の満足感は、その内容の理解度で測るのではなく、自分の身の回りの出来事を別の視点からも考えることが出来たかどうかにもあるように思う。内容も分かって、気になっていたことに対しても解決の糸口が見つかった。そういう経験を積むと、本なしには生きられなくなるのではないかな。

気分次第

2017-11-08 おしゃべり

政治に関心ないほうなんだけど、今の首相以下与党政治家の言動や振る舞いを知るにつけ、関心があろうと無かろうと続報が気になり、そして知ってため息をつくことになる。

こんなこと、やらんでいい。なんで頭おかしな人の言動に付き合わなければならないのか。

そう思うのだけど、仕方ないよね、与党と役人が正気な判断が出来なくなっているのだから。今日にでも自分の身に災いが降ってくるやも知れんし。だから興味なくとも続報を見てしまう。

マスコミや有権者に怒りを転嫁しても意味がない。なぜなら、マスコミが煽り、有権者が投票した結果がこの与党なのだから。多くの人が今の状態を支持しているわけだ。

そしてなるほどと理解する。市民参加のやり方は市民次第だということであって、市民の多くをおかしな連中が占めるようになったら地獄になってしまう。市民参加、ということ自体が良い悪いの評価の対象になるのではない。まともな人がどれだけいるかだけで決まるのか。つまりどんな制度であっても、そこにまともな人がどれだけいるかだけで決まるのだなと。

まぁ個人ではいかんともし難い。その状態でイライラして人生を過ごすのは嫌だな。せめて気分だけでも安定して良く生きていくかな。

本を読む

2017-10-28 ぼやき

本を読んでいて、とくに、なるほどなぁ、と思う本を読んでいるとつくづく思う。

本を読むことはハイウェイ走ることだなぁと。

自分には、おそらくこんなことは考えつかないよ。

自分の人生を前にも後ろにも横にも広げてくれる。

保守的であることの良さ

2017-10-15 おしゃべり

歳をとったせいなのか、あるいは「もともと」そういう性格なのか。
自分は保守的だなと感じる瞬間を何度も体験し、また奥さんからもそう指摘されることが多くなった。

保守的といっても、政治の話ではない。
生活パターンがマンネリ化していることを指す。
いつもいつも同じことの繰り返しを平然と、どちらかといえば喜々として続けている自分。
そういう人に向かっての「評価」である。
「あなたは保守的ね」という具合に。

例えば休日の過ごし方。
そのほとんどは「同じ」ような繰り返しになっている。
毎週毎週違うことをしていたら、その計画だけで疲れてしまうだろうに、休日なのに。
そう考えてしまうくらいだ。
若い頃はともかく新しいことを求め、なるべく違う行動をとれるよう意図的に努力をしていたかもしれない。
今週はあそこへいったから、来週は違うところへ行こう、という具合に。
どんな本を買うか、どんなご飯を食べるか、どんな場所へ行くか、全部に共通した行動指針だったかもしれない、今思い返せば。
とはいえ、今から10年前、20年前、自分はどういうことを考えて行動していのかなど、もはやわからない。
あるいは、その頃から「お気に入りの場所へ出かける」ことを楽しみにしていたマンネリ人間だったかもしれないし、新しい場所を探していたかもしれない。

とはいえここ数年、いや10年くらい、いやもっとかもしれないが、週末の行動パータンは同じだと思っている。
お気に入りのラーメン屋へ昼ごはんを食べ、お気に入りの喫茶店でコーヒーを飲み、本屋を循環して、スーパーで夕飯の材料を買って帰る。
土曜と日曜とで買い物の場所が違っているが、やっていることは同じなのだ。
しかもこれを春夏秋冬ずっと同じことをやっている。
それでいて、週末が楽しみだし、そしてウィークデーには週末を楽しみにしている。
何をやるのかについては「同じ」であるのに、にも関わらず、ワクワクしながら週末を待っている。

保守的であることは、エネルギー最小の過ごし方をしているようにぼくには思える。
長い期間ずっと同じことをしているので、これから何が起きるのか、だいたいわかっているのだ。
したがって、落ち着いて行動できるし、時間もお金もどのくらい使うのかかなり正確に予想できるし、また実際にそうなる。
ぼくはこの先ずっとこの週末の過ごし方をしていてもいいと思っている。
もちろん、身体も社会もどんどん変わっていくし、訪れる先も改装したり閉店したり、あるいは味や値段が変わったりして同じことを繰り返しやり続けることができないこともある。
そういう変化があっても、週末の過ごし方全体としては「同じ生活」を続けられるよう工夫しているわけである。

あぁ、そうかと気がついた。
これは「動的平衡」そのものだなと。
そして、これが「生きている」という状態そのものだなと。
身体としての自分や社会としての街は変化しているのだが、過ごし方、あるいはそれを気にっている自分は「留まっている」わけである。
つまり、過ごし方という「ある種の生命体」はそれを維持しょうとしているわけである。

これって生きていることそのものだな。
そんなことを発見したわけだ。

SNSから身を離す

2017-10-13 おしゃべり

SNSは相当怖いツールだろう.
SNSで流れてくる情報に怖いものがあるではない.
SNSに時間を奪われてしまい,まるで廃人状態になってしまう,という危険があると言いたいのでもない.
もっと単純に,気軽に発言できてしまうならば自分の馬鹿な部分を増幅させて社会に発信させてしまう可能性が非常に高いから.
気軽=感情であり,感情表現の,とくにネガティブな感情のはけ口になりやすい装置だよな,という意味で怖い.

少し前に,バカッターなる現象が若い世代を中心に流行していた.
コンビニやファーストフードのアルバイト店員が,衛生的に本来すべきない,普通の人なら「するわけがない」ことを実行し,それを勇敢な行為として写真にとってツイッターにアップしていた.
当時は,どうしてこんなことをするのだろう,と疑問に思った人は多かっただろう.
隠れてやるならば「いたずら」だろうけど,それを「あえて」公衆にさらして多くの人に見てもらうことをわざわざやっていたわけだ.
だから「まともな」人は驚き,自然とネットで話題になり,そのコンビニなりファーストフード店が謝罪する(ひどいものは閉店する)ことまで行われた.
この流行によってツイッターはバカ発見器としての絶大な効果を人々に知らしめたわけだ.

しかし,どうして「わざわざ自分の愚かさを公衆にんさらすのだろう」と今でも不思議だが,そういう人はまったくいなくなったわけでもなく,今でもたまにニュースで取り上げられている.
ならばおそらく今後も消えないだろう,と予想している.
これはつまり,そういう人は一定の割合で社会に存在しており,ツイッターという装置のおかけで誰かの「妄想」が「現実化」してしまいやすい,ということが今後も続くだろう.

あえておかしなことをしてまで自慢するつもりなどぼくはないが,言葉だけならば似たようなことをしまいがち.
そう自覚している.
写真投稿をするつもりはないが,それでも「ニュース」などで「おかしなこと」や「腹立たしいこと」を読んだときは,その感想をついついツイッターに入力していたのは事実だ.
今はもうツイッターのアカウントを廃棄したが,ツイッターのアカウントをもっていたときは実際そうしていた.
それに,なんだよこれ,と思ったツイートも,メモ代わりにお気に入りにしていた.
ほっておくとロボットがやたらフォローしてくるので適宜削除してフォロワーはほぼゼロに維持していた.
ロボットがフォローしてくる理由は,新聞記事についているツイートボタンでついつい感情的な感想を入力してしまっていたことだろうと思っている.

ツイートすること自体,とくに自分の感情を文字にしてツイートすることは,それはそれで「いいことだろう」と最初は思っていた.
というのは,フォロワーは2,3にしていた(あとはブロックしていた)ので,ぼくがツイートしても「だれも読まない」とわかっていたし,それが検索エンジンに記録されたたまたま誰かに読まれたとしても,1,2人だから「結果的にどうでもいいこと」でしかないから,悪いことには作用しないと考えてのことだ.
それにくわえ,文字しておくことは「自分で自分を観測する情報」になるわけで,あとあと自分で読み返すこともあるかもしれないし,言葉にして入力することはある種の訓練になっている.
ならば,マイナスはなく,プラスは期待できるので,ならばツィートすることが悪い方向に働くことはないはずだ,と考えてたのである.

が,あるときに気がついた.
それは違う,ツィートとして感情表現を入力することは「自分の時間を潰し」かつ「自分の馬鹿な部分を増幅させるだけでしかない」だろうと気づいた.
良い表現であれ,悪い表現であれ,表現することでその回路は自分の中で「強化」される.
一時的な感情ならばすぐに忘れてしまっていたが,言葉にしてしまうと「それが残って」しまい,それを繰り返すと「強化」してしまうので,悪感情をいだきやすい人になってしまう.
自分から「ネタ」を発信できる人は,そもそもからして「悪感情」を発射することはしないように思う.
ネガティブなことを考え,それを発信していると,精神的に「沈む」わけで,そんなことを繰り返すとそのうちうつ病にでもなってしまうだろう.
あるいは周りが敵ばかりに見えてきて,社会生活を継続できなくなる.

おお怖い,これはやめよう.

そう思って,もうスマホ自体をやめてしまった.
そういう身になって通勤していると,車内でも歩きながらでもラインやスマホの画面をいじっている人が多く,身震いしていまう.
何かの教義を植え付けているわけではないから洗脳とはいえないかもしれないが,それでもスマホでSNSをしている人をみると,その人はしっかりと教化されてしまった人だよなぁと思ってしまう.

架空の締切に対応するためのPCの持ち運び

2017-09-18 おしゃべり

全く予定も必然もない締切りを想定し、それにあわせてなんとか文章を紡ぐ.
そういうトレーニングをしている.
べつに物書きごっこをしているのではなく、そうでもしないと文章を書く機会がないからで、だから無理やりそういうことを自分に課している。

締切り自体は空想であり、それに合わせてなんとか文章こ書く行為は、ようするにごっこでしかない。
しかし、それなりに意味がある、といいなと期待している。

なんでもそうだが上達には一定の練習量が必要になる。
そして、ただ練習量が多いからといって上達するわけではなく、行為時の週中度や達成結果の品質が上達量の決め手になる。
だからおそらく文章もそうだろうが、練習しないとはじまらない。

誰からも要請されないから書かない。
これでは文章が上達するわけがない.

だから自分で自分に依頼している。
そういうごっこみたいなことをやってみるもありかなと、時間に余裕がある休日の朝にぼんやりと思っている。
そして今日は休日の朝だ。
なので、これはもやはそういう休日の遊びである.
そして,その遊びをこなしていくと今までできなかったことが出来るようになったりする,かもしれない.

文章にはテーマがあり、具体的な内容は知っていることに限られる。
誰からも頼まれていない文章であっても,これらを設定しないことには文章に意味を持たすことが出来ない.だから無理やりにでも設定する.
普通の人はそんなに多くを見聞きする機会はないので、それを補うために読書がいる.

習い事の場合、先生が目的を設定してくれる。
良い先生ならば、現在のレベルに合わせて課題を見つけてくれる。
発表会用の課題曲を一年間かけて練習するのは、そんな行為である。
しかし、同じことを独自の趣味にたいして設定するのは、自分自身でかない。
先生がいない習い事がなかなか成立しないのは、課題の設定が実質困難ということだろう。

よく、そんなの自己満足ではないか、という言葉を批判的に使われることがある。
ご飯を食べるのは、とくにおいしいご飯を選んで食べることは、自己満足に過ぎないのだが、それは批判の対象になるのだろうか?

自己満足はその人が満足することを意味する言葉であって、それ自体なんの問題もない。
自己満足をマイナスの意味で用いるのは要するに「俺にはまったくいいことがないじゃないか」という怒りの表明である。
その人だけが満足し、自分にはメリットがないことを「自己満足ではないか」と言っているのである。

ちょっと考えればわかるのだが、自己満足がマイナスの意味となりうるのは、公金横領のようなケースだけである。
複数の人から集金し、それを個人的な使い道に使用する。
こういうときに「自己満足に使うな」という批難が成立する。
これは状況によって犯罪であるし、犯罪にならずとも次から仲間に入れてもらえない結果になる。

一方で、給料の使い道としてブログを立ち上げてあれこれ書いてみる、というのは他人から批判される理由が全くない。
たとえば、単にチェロを弾いてみたいということからチェロ教室に休日通って、年に一度の発表会で演奏することは、究極的には自己満足である。
しかし、「だれからも批難されようがない」自己満足であるし、どっちかというと「社会における活動」としてプラス評価されるべきものだろう。

SNSで不要な発言をして、まわりからいろいろ批難される人がいる。
これは「自己満足」な行為ではなく、単に誰かを攻撃しているだけである。
自己満足とするには、行為の対象は他人ではなく、その行為の評価するのが自分である場合だ。
ちょっと手残った料理をつくって食べてる、という具合に。

文章が上手になりたいな。
そういう素朴な思いから練習として文章を書く。
そしてそのための時間をなるべく多くする。
他人にとっては意味がない行為だけど、それでも自分で自分に締切りを設定し続け、エントリーを一つでも多く増やす。
簡単なようでいて、結構難しく、だからおもしろい。

タレコミ市民が増えてきて息苦しい世界の到来

2017-09-03 おしゃべり

最近,タレコミ市民が増えて来たよな,と感じることが多くなった.
ほんとに.
どうしてなんだろう,というくらい.

道徳的な意味から,いわゆる正義感から,あるいは自分を過度に被害者だとする主張から,いろんな理由で精神的な苦痛を訴える人は昔からいた.
ゴミの捨て方が悪いとか,近所の幼稚園・学校がうるさいとか,横断歩道を渡らないとか,そういう文句の話は「あるある」として共有できるし,しかもそれらの半分は笑いとりの気分で,そして半分は精神的に困った人の話として膾炙されてきた.

商品の不備や店員の対応に不満に感じただけでその会社にクレームを入れる.
これ自体は悪いことではない.
クレームに「至極まっとうな」ものはあるし,クレームをつけることが悪いとは全く思わない.
缶詰やカップ麺に虫の残骸が入っていたらイヤだろうから,そういう話は新聞沙汰になる.

それと同じ意味で,猫やカラスが食い散らかして道路にゴミが散乱しているは迷惑だし,ギャーギャーと騒がしい幼稚園児の声を不愉快に感じることだってあるのから,それに文句をつける人がいてもおかしくはない.
ぼくだってそうする,そんな目に会えば.

だがこういう場合,誰に文句を言えばいいのかにわかにはっきりしない,という問題がある.
怒りの元凶であるカラスも幼児も,社会に対して気遣うことなんてできないのが普通であって,それにあれこれ怒っても仕方ないだろう.
つまづいた石に文句をつけてもはじまらないのと同じで,それでも誰かにケチをつけられないことはない.

一方で,なにを怒っているのかわからないが,いやに文句をつけてくる人もいて,しかもいやそれあんたの感覚だろうよ,という状況も結構ある.
文句をいう人の怒りの原因は「なるほど」と思えるものもあるが,全くそうでないものもある.
まぁ人間だから,自分の生活とは無関係な正義感からの主張だったり,ことさら被害を拡大して吹聴したりすることだってあろうだろう.
単なる体調不良によるイライラしていたのかもしれない.
あるいは,そもそもそういう成長をしてきた「嫌な人」なのかもしれない.
家族であっても,見ず知らずの人であっても,他人が主張していることならば,怒りの原因がなんなのかなんて見分けつかない.
それでも,あんたおかしんじゃないか,と思ったことは誰にも体験はあるだろう.

このような,何かをめぐるやり取り自体が明確だと,怒り合うのは困ったものではあるが心配な気分には全くならない.
世の中怒りっぽい人が多くても,そうでない人もいるし,要するにその人達から離れてしまえばいいからだ.
物理的に逃げてしまうことが簡単であり,それで問題は解決してしまう.
この方法をとれれば,世の中渡っていくのは「たいして大変ではない」わけだ.

どの社会でもどの年代でもどの組織にも,およそ「いじめ」というものは存在している.
これが単なる「喧嘩という困った問題」と違うところは,「逃げ道があまり」ことになる.
いじめが社会問題になっているのは,「じゃぁ逃げればいいじゃん」という正解を行動に移せないところに原因がある,ほんとに.

たとえば,小学校・中学校でのいじめを考える.
人が寄り集まれば,かならず「自我の強いもの」「俺が一番だ」と主張するものが湧いてくる.
そして,いじめは「強い」と自己認識している存在が物理的にそれを証明しようとして弱いものに危害を加えることで発生する.
子供の行動にはあまり論理性がないものだが,それでもいじめているときは論理性がないなりに「不条理な理由と方法で」危害を加えることになる.
論理的な説明から遠ければ遠い方が,それだけ「俺は強い」を証明することになるからなんだろうと思う.
そもそも論理的な行動ではないいじめには,論理的な解放は存在しない.
つまり,どうしたらいじめがなくなるか,ということに対する解は「人の集団をつくらない」ことでしかないと思っている.

したがって,いじめに遭遇した人への一番のアドバイスは,そこから逃げること,である.
話し合うとか,より強くなって見返すとか,仲間に支援を求めるとか,こういうことは意味がない.
子供が急に物分りがよくなったり,身体能力が向上したりすることはないのだから,逃げるにしかずである.
いじめが深刻化して,病気になったり自殺しちゃったりという結果となるのは,要するに「逃げられなかった」からだ.
学校やら地域やらが,そういう子供の駆け込み寺のようなものをつくったり制度を準備したりしても,それが利用されないことがあるとしたら,
それはひとえに「真剣な場面では子供から信用されなかった」だけである.
ニュースではおなじみに風景である,学校やら教育委員会やらが「いじめは確認されなかった」という表明をすることがあるが,そんなことをやっている集団はそれ以前に「信用される」わけがないので,だから逃げ道がなくなり犠牲者がでる.

ならば,いじめによる犠牲者をなくすことは簡単なのではないか?逃げ道があればいいのだから.
確かにそうであり,完全に正解である,とぼくは確信している.
でもね,現実にはそれができないか,難しいことが多いだろう.
例えば,逃げるったってどこへ?逃げたあとどうする?その先に何が待っているのか?
こういう不安なことに回答が得られないだろうし,それでも逃げると決心できる人は少ないだろうから,結局は逃げないで終わるだろう.

そもそも,小学生から高校くらいまではとくに,「逃げる」ことを教えていない.
むしろ,困難には立ち向かえと,諦めるなと,そう教えて賞賛している.
諦めるな,という教育は礼賛されているのだが,それは「生きて虜囚の辱めを受けず」が今でも教えられているのかもしれない.
だから死んじゃう人が多いんだろうなと,ぼくは思っている.

だいたいにおいて,世の中「思ったことが実現した」例は多くないだろうよ.
たいていは思ったようには物事はうまく運ばない,あるいは,思ったような結果が得られない.
だからこそ失敗や失敗に至る前に逃げることは,現実に生きている人には必要な知恵であり工夫のはずだろうに.
ところが少年ジャンプをはじめ,新しい形式の「戦陣訓」を教え込まれた子供は,逃げることに抵抗を感じる.
たぶん,逃げることは犯罪を犯すことと同じで,一生ついてまわると思っているはずだ.

子供はものを知らないこともあり,生きていく道筋はだいたい決まっていると考えるものである.
中学をでて高校をでて大学をでて就職して,という具合に人生にレールようなものが敷かれているという具合に.
だから,休学したり転校したり,あるいは別の道を探したりすることは,人生から脱線するように感じるはずだ.
ならばいじめを受けている人が自ら「逃げる」を選択することは難しいだろう.
そもそも「弱い」とみなされている人がいじめられるわけであり,また逃げ道のないところへ追い込んで危害を加えることが「いじめ」の定義でもあるわけだから,逃げる=脱線ように考えているいじめにあっている人が「逃げる」を選択することは相当難しいだろう.

このような問題に出口を示してくれるのは,図書館の人であったり動物園の人であったりする.
学校にはとても行けない切羽詰まった気分ならば,図書館も動物園も待っているよ.
そう社会に向けて発信している人たちが,そういうところにいる.
図書館も動物園も「競争」とは距離をおいた,静かなマインドの人が生息できる場所だからなのだろう.

週に何度か目にするいじめ原因の自殺のニュースを目にしたとき,なんで逃げなかったんだろうかな,とため息をつく.
同じ記事を目にしても,自分はもう大人だから関係ないか,と思う人は多いだろう.
本当にそうなんだろうか.
逃げ道がない場所にいる人は,必ず同じ状況に陥ることはあるんじゃないだろうか.

ぼくは最近になって,とくに多くの人はこれからいじめに遭遇することになると予想している.
それは今の政府が躍起になって進めている監視社会・隣組の復活がありえると考えているから.
一番身近な意味で進行しているいじめは,禁煙問題だと思う.
屋外で吸う,ベランダで吸う.
こんなことすら禁止しているが,その理由が副流煙だということだ.
これが車が頻繁に行き来している大通り沿いでもそれが適用されているところに,この禁煙行為は「いじめ」だということがわかる.
人々が,逃げ場のない方向へ特定の人たちを追い詰めて,その抹殺を狙うという「道楽」に興じているだけである.

禁煙問題を追い詰めたあとでつぎに起きるのは,隣組だろう.
禁煙問題で味を締めた人は,それを別の人に向けはじめるのは確実だ.
このときに批判の根拠となるのは,ゴミ捨てのマナーか,子供の騒ぎ声か,そのような「口うるさい人のクレーム」だったものが使われることになる.
だから,現時点で口うるさい近所の人などは,確実に隣組の主要メンバになるだろう.
昭和初期から敗戦までの間,ごく普通の人の行動を縛ってきたのは,こうした普通の人たちだったのだ.

では自分について考えている.
市井の人であるぼくは,社会の中で生活するよりない.
そして,これは文字通り逃げ道はない,と思っている.

あの人の素行がおかしいと警察権力に通報し,それを取り締まるということは共謀罪によって再び可能になった.
これによって互いが互いを信用できない,大変恐ろしいものになるドアを開けてしまった.

その先頭を切っていく人々が,冒頭に述べた「クレーマー」である.
だから,「たれこみ」を良いことだと信じている人からは最大速で離れるよりない.
もちろん,自分がそういうことをしない.

こんな簡単なことしか対応できないこと自体が,「逃げ場がない」ということを言っているわけだ.

自分でも気づかない自粛

2017-08-16 おしゃべり

共謀罪が成立・施行されてしばらくたった.
自分でも気づかないレベルで,確実に内容を自粛をしている自分に気づくことが何度かあった.
自分でも情けないと思う反面,程度の違いはあれ,どんな人にもその影響が確実にあるのではないか.
そう疑っている.

普通の人が普通に生きている限りにおいて,特段犯罪に巻き込まれることなど日本ではなかったし,これかもそうだ.
そう一般には説明され,それをマスコミが報道している.

いや,本当にそうなんだろうか,共謀罪制定前後で何も変わらないなんてことがありえるのだろうか.
これからは違うだろう,と無意識レベルでも感じている.
BSなどでは一部報道されているが,多くの人が目にする地上波ではきちんと警戒感をもった報道はないようだ.
あったとしてもスポットでしかなく,だからその報道がきっかけで人々が疑いはじめるということはないだろう.
共謀罪前に(誰もが)予想した展開通りに,物事が進行しているわけだ.

見かけ上,つまり統計などの数値の上では「治安は改善されている」「気にする必要がない」とマスコミを通じて政府はプロパガンダするだろう.
証拠がないように細工しているのだろうから,単純な説明をもって反論することは難しいだろうし,だからマスコミでは取り上げないはずだ.
だから人知れず冤罪天国となっていくだろうし,そうなることを肌で感じていても反論は報道されない(つまり皆さん自粛をするのだから)見かけ上の治安は今後もよくなりつづけるだろう.

これって「大戦前」になったということ.
共謀罪成立前にはいろいろとニュースに取り上げられたし,市民によるデモもあちこちだったと思うのだが,今はすっかり落ち着いてしまっている.

一方で,ニュースをマメにみていると「一般の人による一般の人の行動を通報する」行為があちらこちらで推奨されていることを目にすることが多くなった,本当に.
禁煙だろうがいじめだろうが,一般には表立って反論できない,「いいこと」に分類されるような「ルールを守りましょう」という目的の下に監視社会の始まりをぼくは目撃しているわけだ.
「はじめは大したことがなかった.だれ気にもかけなかった.でも,ちょっと変化なと思うことはあった」
そう,振り返るようなコメントをする人のインタビュー番組の一場面が頭の中で再生される.
そんなYouTube動画はすでにアップされているんじゃないかな,と思いつく(確かめる気にはならないけど).

私事に忙しい素人とたいして変わらない政治家が何人も閣僚という肩書をつけていた.
インチキなことをし続けた完了はイタリアに栄転になった.
こんな茶番劇をまともに実行した内閣が現在もやりつづけている行動の結果は,これらか十分に思い知ることになる.
外見(見た目)を取り繕っても「だめなものはだめなんだな」と昨日今日の新聞をみていればわかる.
この状態はこの先もしばらく続くのだろうから,もはや「前の続き」という状態に社会が戻ることはないとぼくは覚悟している.

あまり良いことが起きそうもないのは,国内,海外ともにニュースの内容が「おかしい」からだろう.
そして,これらの疑問は「なぜこんな人が国のトップやトップ集団に君臨しているのだろうか?」である.
だれが脚光を浴びるのかは,そのときの「たまたま」だということはわかるけど,それにしても本当にそうなんだなと,ニュース映像を見ながらため息をついている.

共謀罪がやってくる

2017-05-20 おしゃべり

2017年5月19日.これは日本史にとっての一つの事件の日となるだろう.

共謀罪が法務委員会通過.しかも,見た目も専門知識も人格(想像)も「だめ」な金田法務大臣の下での通過だよ.

たぶん通過するだろうなと思っていたが当然気になっていたので中継メディアに注意をしていた.NHKは中継なし.中継がないことだけでもおかしなことなんだけど,中継しないで放送していた番組が「埋め草」みたいな,なにも今放送しなくても全く問題ないものだった.国会中継のほうが「絶対」視聴率も取れただろうし,人々が日本の(近未来の)行く末を覚悟する上で重要な法案だっただけに,NHKの「犬っぷり」に嫌気がさした.NHKも一つの役所だとは思っていたが,もう広報番組は付き合わないことにした.きっと「原爆の光を見ないようにしましょう,失明の危険があります」的な,愚かな情報を得意げに放送をする人たちしかNHKには残っていないだろうし.

この後,衆院通過で,参院も通過するだろう.それで,晴れて日本も「昭和10年代」の続きを再開する道に戻るわけである.この日を待ち望んでいた人たちは喜んでいるだろう.しかし,しかし喜ぶ人のほとんど,そうでない人と同じ一般人だとういうのがこの話の悲劇たるところ.人口が一億を超えて,食料自給率が40%しかない,しかもエネルギー源はゼロに近い日本が「昭和の続きをやれるわけがない」ので,賛成した人も悲惨な状況で死ぬことは確実である.共謀罪を応援した自民・公明・維新支持者だったと主張しても,一般人には不幸な未来しか来ない.絶対にこない.「エネルギー保存の法則」を破ることができないことからくる当然の帰結である.

この法案施行後,若い人も,中年も老年も同じように急速に不幸になるわけだが,これから青春を謳歌するつもりの人はとくに気の毒である.大正から昭和初期生まれの人と同じか,より悪い世界が待っているわけだから.なんとも同情してしまう.中年から老年の人は,悪くない「自由社会」「監視のない気分がいい社会」での人生を満喫できたはずだ.すくなくとも,監視される社会に日本が陥るなどとは「考えたこともなかった」わけだ.しかし,事実は小説よりも奇なりである.共謀罪から市民による私刑の反乱,そして思想警察,特高というものが,法案成立後にあっという間に登場してくる.現在の「国体明徴運動」である東京オリンピックが終わればいろいろなボロがでてくるので,経済が一気に破綻し,治安維持のために「治安維持法らしい」ことが矢継ぎ早に行われるだろうから,そりゃだれだって生活実感として「どうやら状況が変わったらしい」と思うことになる.

そもそも治安維持法だって,当時は「反対」を押し切って強引に通過させたものだ.当時と今とでは政治制度が違うのだが,違うにしても「同じようにしかやれない」ところが治安維持法が「治安維持法」たるところである.こんなリンクが参考になるかもしれない.

https://twitter.com/hamemen/status/865526633872015361/photo/1

古今東西,過去も未来も,内政がおかしくなったときの為政者は国外へ「戦争」を仕掛ける.安倍政権でさえも「雰囲気作り」はずっとやってきている.ある種のスピン(撹乱情報)を投げて国内危機の情報を撹乱する程度のことは常時やっているが,相手国はその脅しにいつまでものんびりと付き合ってはくれないものだ.しなくていいことをやり始め,大勢の人に迷惑をかける結果となることが起きる.これは歴史の「一つの定形」なのだが,これを打ち破るような「想像力」を日本の役人や宗教家は全く持ち合わせていないので,やるだろう.

「なんて馬鹿なんだろうなぁ」と思うのだが,実際のところ多くの人は「バカ」だから仕方ない.そして,バカが集まっても幸せにはならないし,それどころか生き延びることもままらない.だから結果的に「バカ」は消えてなくなる.だったら,それはそれでいいような気がする.日本にも多くの「まともな人」がいたのだが,戦時中に軍部というバカたちが生き延びるために普通の市民として殺されてしまった.一方で,軍部要職にあるひとの家族・子息は徴兵免除か,あるいは前線には行かないなどの方法で「ほぼ」全員生き延びたので,死んだ人の数は東京裁判をもって処刑された人の数など全体に比べたら「なにもなかった」程度の数でしないでしかない.もちろん,今の安倍もだからこそ存在しているわけだ.

今の日本にはいろいろ問題があるが,メンテナンス活動をしていけば,またまだ歴史の中で存在感をたもちつつ「多くの普通の人が自由社会で生きている,安全と水はただの国」でいられた.そこに,戦後一貫してくすぶり続けていた日本会議的なものと安倍一派によって圧倒言う間に破壊されてしまった.内閣法制局や内閣人事局と政府の実務を上から制御し始めたのである.この2つを抑えたら,そりゃ「政府を生きたまま制御できる」わけで,それを実際にやった.これはこれでスゴイといえる.ただ,褒められることはではない.バグを狙って実行した人は「ハッカー」として大変に有用であったわけだが,ハッカーはハッカーでしかない.

法律もプログラムの一種だから,当然ほころびがある.そこを一気に攻撃してシステムに穴を作ろうと考える人はいるし,実際やれれることもある.だから日常使っているPCには定期的な「セキュリティー・パッチ」が必要なんだ.冷静になって考えてみれば,「そもそも」国会って,そういうパッチを生成する機関だと言える.そして政治家ってのは,憲法の概念を守るために構成された「法律」のほころびを探して周り,見つかったら直す人たちなんだよね.セキュリティー・パッチを提供するはずの人が,システムのバグを探して広げてクラックしようとするんだもの,そりゃできるよ,安倍くらいにバカだって.

一旦開いた穴は,いろんな有象無象が押しかけて広げていく.だから,共謀罪を手がかりにいろんな詐欺師が「おれもおれも」と押し寄せる.ただし,最後に残るのは「権力」というか「暴力」を持った集団である.それは警察なのか自衛隊なのか,あるいは,ほんま者の暴力団なのかもしれない.法律的なところをクリアしたら,気づいたら指定暴力団が役所を乗っていた,ということだって考えられるだろう.結局,何を共謀とみなすのかが「恣意的」であるがゆえに,担当者の能力がモロに出てしまう法律だ.だから,「ずる賢い」人が勝つ.安倍はそうそうに蹴落とされると思う.したがって,10年後は今とは全く別の社会になっているだろう.そして,それは「全く自由度のない」社会として.当然経済なんてろくなものになっていない.ただ,権力者が1300兆をガツガツと食べているだけの社会だよな.

現時点での未来予測はこうなっている.これがどこまで実現されちゃうのか,全くわからないけど,当たらずとも遠からずだろう.僕の想像力も大したことがないので,今気づいていないことが起きて,その都度予想を変える必要があると思っている.だから,その都度予測し直すことにしたい.

不便という状況の選択

2017-05-14 おしゃべり

歳をとってきたことによる余裕なのか,もう先がないから諦めが入っているのか,自分が不便な状況に置かれてしまうことに対して以前ならば強く感じたような嫌悪感やそれにつづくそこからの脱出への衝動にかられなくなったことに気づいた.