行き詰まる前に場を変える

2018-01-03 おしゃべり

なんかうまくいかないなぁ、と思ってしまったらすでに「うまくいっていない」状態の中に浸かっているのだと思ったほうが良い。「前」へ進むのが実はダメにしても、いま来たばかりの「後ろ」にはまだ道が残っていて、回れ右してその道を戻ろうと思えば戻れるのだよと心を落ち着かせ、ともかくも手探りで「前」へ進んでいるのだ、と思っているかもしれない。そんな妄想をするようでは、いやいやたった今来た道でさえも雑草に覆われ「どこから来た、もうかがわからない」ことになっているのだよ。言っていること、わかりますかね?

自分の置かれた場所が良いか悪いか探っている状態を考えるに、どんなだかを感じようと思っているという段階で「何かがあるぞ」と思っているから探っているわけで、ならばそのセンサの感度を上げる前の段階で何かを感じているのだと思ったほうがよい。それは意識できないレベルではすでに明確に危険な状態だというシグナルを発しており、ならばその段階ですでに自分は「問題の只中にいる」はずだ。つまりはそういうことだ。

逆に言えば、そもそも「感じよう」という感覚をすます行動を起こす発想がない段階では、まだなんの問題にも囲われていない。「感じようかな、探ってみようかな」と思いもしない状態あれば、どこへ行こうか何をしようかを自由にものを考えられているわけだ。年末はあれをやって正月はここへ行ってこうしよう、という具合に楽しく予定を妄想しているのならば思考の自由度が確保されている。この状態にあるなら、過去も未来も大変見通しがよく、物事を「よく」見られるわけで、だから大した失敗もなく、ただ生きているだけで楽しさを感じられるわけだ。

なんでまたそんな抽象的なことを言い出したのか。年末はとくに何もすることなくニュースを見て、SNSを見て、とやっているわけですが、それだけでずいぶんと「憂鬱」な気分になるわけです。世間では「全く問題ないよん」と思っている人が大勢いるんでしょうけど、今の政権がやっていることや東京都の問題になっていることへの対応具合をニュースから判断すれば、「大丈夫だろう」なんて夢にも思えず、むしろ「こりゃだめだろうけど、具体的に自分はどういう被害に合う可能性があるのか、そうなった場合は大丈夫か、できればそれに巻き込まれないよう逃げる道はないのか」などと自動的につらつらと連想している自分に気づくわけで、決して「清々しいお正月」という気分にはなれるわけがない。要するに、嫌な気分になってしまう。

自分でできることはほとんどなく、いわゆる正攻法での対応(選挙で投票する)などは実施意味がないことは重々承知してて、なおかつおかしなメディアからは遠ざかることをしているわけだが、それで「物事の推移が良い方向に変わる」ことはまったくない。全くないと思っていても活動家でもないし、SNSでぐちぐち言っててなんとかなるとも思っていない。そう、ある意味何もしていない。全く困ったものだと思っているだけで、なんの意味もないよな。そう思っている。

今から何かを始めても有効な解決方法にはなりえない。だから、まぁ月の満ち欠けだと思って、眺めるより無い気がしている。自分が置かれた場所についても同じで、まぁしょうがない、なんとか「工夫」するよりないだろう。

とまぁ、年末年始の長い休みを終えつつ、あるいみ曇天の見通しについてそう感じた。

さて,今年やれそうなことは

2018-01-01 おしゃべり

一年の計は元旦にあり.まぁそうだろうと思うので,何をやってみようか考えてみる.

もちろん考えるだけであって実行可能な計画とまでは行けないが,可能なものは実行予定に登録してしまうといい.

例えば,旅行に行くのならば宿を予約するとか(あとでキャンセルできるし),能力を身につけるならば具体的な作業日を予定表に書き込み必要なものをアマゾンで買ってしまうとか.なんにせよ経済的なことを先に動かしてしまえば「買っちゃったからやるよりない」的な意味での「外圧」が自分にかかるので,しぶしぶであっても能力向上訓練を始める可能性があるわけだ.もちろん,そうならないで単なる無駄遣いで終わる可能性も決して低くはない.自分がどっちに転びやすいか,数年ほど過去を遡ってみればわかるだろう.

そしてぼくの場合,仕事のことはさておき,まずは本読みに多くの時間を当てるよう努力すること.冊数をこなすために早く読んでも楽しくないのでぼくはゆっくり読む派なのだが,それだと買う本と読む本のバランスが取れず,買った本が食卓テーブルの上に積み上がり,テーブルでご飯が食べられなくなる恐れが現実化して困っている.ともかく買う本と読む本とのバランスを真剣になって本屋に行けばいいだけだ.とはいえぼくには道楽が少ないことと,本を買うことはいかなる場合でも善であると信じているので,このバランスはとれそうもない.このまま一年様子をみるつづけることにする.

次に,まともな文章を書けるようになるための精進をすること.もうおじさんなので「文章が好きだからそれを生業にする」ということとは異なり,メールにせよ論文にせよ文章を書く機会は日々の生活のレベルで極めて多く,相手にきちんと意図を伝えることができ,かつ面白いと思わせる文章を書くことができたら,これは生きやすい世の中になるからだ.文章が上手いなることは素晴らしいスマホや車を手に入れる以上のことであり,「それがなくても死なないが,あったほうが生きていく上で便利だし,しかも楽しいぞ」と知っている.そういう道具として文章作成能力をつけたい.とはいえ,先生について勉強するわけでもなく,どうやっていいのか未だにわからないけど,自分なりの努力が可能な生活ができているのならばやりつづけるべし.

今年はこれに加え,しばらく使っていない写真撮影を自分の能力に加えてみたい.町中では大きなデジタルカメラをもった中高年のおじさんを見かけるが,ぼくもあれをやってみたい.道具はなんでもよく,だからこれまで買ったカメラでよいし,足りないものは中古で揃えればく,たいして費用はかからないはずで,要するに時間と機会をどれだけ確保できるのかが問題になる.実際に「写真おじさん」をやってみると,町中でレンズキャップを外して写真をとる行為は「こっ恥ずかしい」が,これもやっているうちに慣れる(恥ずかしさが麻痺する)はずだから,ともかく休日で街歩きするときはカメラを肩下から掛けることにする(使わなくても良く,カメラがないと不安に思うくらいになればいい).

本,文章,写真と3点の能力向上を目標としたが,じつに月並みで凡庸な目標である.でも,それは悪いことではないだろう.多くの世の中のおじさんがこれらをやろうとしているには理由があるはずだから.世の中のおじさんは「それで目立ちたい」という理由でやっているはずがなく,これら3点は「それ自体が面白い」ことをおじさんたちは知っているからだ.とぼくは推測している.本の面白さを本を読まない人に伝える方法はない.なのでやってみるよりない.やってみてもすぐに結果がでるわけでもない.若者層に流行ることは「すぐに結果がでる」もののはずで,だからおじさんになってからやっても面白くないだろう.おじさんは人生の残り時間を意識しているが,それは安直なものを求める気分にはつながらない.すぐに結果ができないことをやる面白さをっている.

こんなことをぼやぼや考えつつiPadで新聞をみた.ぼくは3紙購読しているが,その3紙ともに塩野七生さんが写った新潮の広告を掲載していた.これである.

おお,これは新年早々なんだか幸運に恵まれた感がある.年末に出版されたギリシャ人3は,どの書店でも取扱量が少なく,以前はどの本屋でもボリューム陳列だったのに比較して今は平台1フェースのみだから,ずいぶんと読む人が減ったので残念か気分がした.おじさん世代が読まないのが悪いのだが,おじさんがこのような本を読まないで一体何を読むのだろうかと疑問にはなる.

さて,何が書いてあるのかと覗いてみる.ふむふむ.

そうですよね,本は良いですよねという広告である.広告というよりも啓蒙かもしれない.こういう方の言葉は身体に染み入るわけで,ぼくもギリシャ人3を今日から読み始めます,はい.

本好きになる人は必ずそのきっかけがあったはずだ.子供の頃にそのきっかけを持てた人は幸せで,青年期であっても問題はないし,別にいくつになっても「結果的にもてればいい」のである.もちろん,その対象が本でないだけで,別のものに持てればそれはそれでいいのだけど.本が経済的な点でも,肌身離さず持てるという意味でも,だから座右の書というものが持てれば人生を渡っていくときに実に心強い.

ぼくの場合は,大学浪人していたときに近所の古本屋で買った森本哲郎の『ことばへの旅』のセットであった.スカイツリーがある押上には踏切があって,その踏切のたもとに小さな古本屋があった.本など高校卒業するまでろくに読まなかったのだが,浪人時代はずっと家にいて,だから暇だったからか新潮の文庫本を読み始めた.「本もいいな」と思うようになった頃,近所に古本屋などあったのかと知って初めて入ったときだった.その店で紐で縛ってあった角川文庫の『ことばへの旅』の全巻セットをどういうわけか買い,それを読んでびっくりしたのだ.なんだよ,本というのはこんなにスゴイものだったのか,と.

塩野七生さんのローマ人は,大学の学部の頃に大学生協で平積みされていたものをはっきり覚えている.平台の位置の場所まで映像として記憶している.あの頃から始まり,そしていま完結したわけだ.ずいぶんと長い旅だったよなと感嘆する.気づけばぼくの人生の中心時代を塩野七生の出版は全部カバーしているわけだ.初めの頃は青年で,中盤は新人社員で,後半は中堅社員で,ローマ人以後はベテランと呼ばれる領域にいることになる(実際はサラリーマンでははないので,そういう区分けが全くぼくには適用できないのだが).特定の巻を読めば,その頃の自分の関心事を思い出すようだ.

今朝の朝刊は,この新潮の広告のおかげでいろいろと明るい,そして初心に近い気分になれた.

さぁ,一年頑張るかなと.

今年中にやっておきたかったことの一部をやれたが

2017-12-31 おしゃべり

随分と前からほったらかしになっていたブログサイトを整理した.
最初はBiNDでつくっていたが,更新の面倒さからWordPressの方を使い始め,そのうちTwitterもはじめてしまい,結局どれも長続きしないというよくある話の展開となり,結局「全部を一つにまとめてしまう」ことで対処した.
更新する機会が多かろうその中身はWordPressを使い,めったに更新しない内容のページはBiNDでつくるという,そりゃそうさという方法で落ち着いた.
我ながらに思うが,工夫したごころがなくてちょっと不満だが,サイトは動くことが一番なのでこれで一年ほど試してみることにした.

自分の記録が主だった内容のサイトは他人から参照されて情報を提供することを目的としていない.
過去や未来の自分に向けた記録を自分のPCとは別の場所に保持しておくことが主な理由なんだと思っている.
「そんわけはない,自分のローカルなディスクにすべてのデータを残しておくが一番だろう」
そう反論される人も多かろうと思うし,それはそれで90%以上正しいとは思う.
が,その残り10%未満の部分は「外のサーバーにおいておくことが結果的にデータ保全に役立った」という場面も想定してのことで,それが最近クラウドという方式が流行っている理由だと思っている.

いわゆる検索サイトはキャッシュを公開してくれない.ならばなんだかんだいってもローカルPCのデータを自分でうっかり潰してしまう可能性はゼロではなく,そのとき公開サーバーに残っているものをサルベージさせることでなんとかピンチを乗り切った助かった,という経験がある.
その一方で,公開することは自分の情報を不特定多数にさらすだけであって,これらの世の中では「自分にとって不利」なことが多いと考えている.
両者を同時に考えてみれば,それでもまだ数年は「一般人のぼやき」が金につながるわけではなかろうし,フィッシング詐欺集団への有力な,あるいはとっかかりとなる情報提供になるまで5年の時間猶予はあるだろう.
そういうわけで,そのようなことが社会問題化するまでは今のまま続けていくことにしたい.

さて,年末の大晦日.
こういう状況で人の行動は極めて保守的になるだろうと思っている.
毎年あれこれ違うことをやろうかなと思っていても,いざその場面になると「新しいことができない」自分に気づくものだ.
それは,年越しそばを食べるとか,知らないうちザッピングをして紅白を見ているとか,そういうことである.
そしてぼくもその一人(紅白は見ないけど).

年末になってからやることはたいてい「普段の休みではできない長い時間がかかること」なのだが,しかしその作業に取り掛かるのが大晦日だったりして実際は数日程度の時間しかとれない場合も多く,だから年末休み作業の進行速度は思ったほどよくない,いや実際は全くできないとなることが普通である.
むしろ通常の週末にまとめてやってしまう方が「非日常感」に邪魔されることもなく作業が捗ることをぼくは知っている.
そして知っているからできるというわけではない.

ぼくの場合もこの悪い例にもれず,年末になるとどういうわけか自分のWEBサーバーが気になってあれこれ整理しはじめる.
これもアルバムの整理するかのような罠があり,その内容を確認しはじめると思った以上に時間が取られてしまうので,結果的に想定したようには進まない.
それでも心を鬼にして進めていても,ご飯を食べたりビールを飲んだりしていしまい,結果的に「まぁいいか大晦日だし」という「いつものような展開」となり,中途半端に整理作業が終わってしまう.
そして誰でもが気づくのだが,長い休みにやれることは「実際はないのではないか」思うわけで,そういう計画を立てるのはやめたほうがいいな,と少し酔っ払った状態で反省するのである.

しかし今年はどうしたことか,ある程度WEBの整理ができてしまった.
それは「手を抜いた」からで,1,2時間で作業が決着したからだと思う.
これはよい,と思って別のことを始めてみる.
それは,例えば今年の十大ニュースを考えるとか.

思い返せば日本社会,とくに政治と報道の劣化,今年は異様に加速した.
そうは思っていない人も多いかもしれないが,海外にいる日本人はこの「事の重大さ」をわかっているだろうし,だから絶望している人やその先の状態にたどり着いた人も少なくないような状況だと伺える(すくなくとも,知りうる範囲ではだが).
そういうことを考えていたら暗くってきて,とても正月を迎える気分にはならない.
考えてもしょうがないことを追求してもしょうがないかと,これまた年末の雰囲気の罠にかかってしまうわけだ.

さて,今年もこの蕎麦までたどり着いた.
来年も辿り着けるのか,正直わからないが,たどり着きたいと思っている.

デマと妄想とは、同じだよなぁ

2017-12-16 ぼやき

SNSを覗くとそこかしこにデマが溢れていることを体感する。

根拠なきことを事実だと言って放言する、あるいは針小棒大な解釈。

人の体に中にも、デマってあるよなぁと気づく。

妄想や記憶違い、それらが感情によって拡大された誤解。

結局、どうやって生きていくかを身につけた人は、デマには踊らされないわけだなと理解する。

ときどき失敗すると,いろんな意味で暴走しないので,結果的に良いと思っている

2017-12-16 おしゃべり

ときどき失敗すると,いろんな意味で暴走しないので,結果的に良い.
そう思っている.

いろんな場面において,「何かをしなければ」ということは誰にでもある(と思う).
目立とうが目立たまいが,結果的に自分がそう発言し,そして何かをする.

そこでうまくいけばば問題はない.
その結果ある種の信頼のようなものが形成され,これを繰り返すことができれば信頼はより厚くなる.
いいことだ.
が,世の中,そんなにうまく話が進むわけがない.

ぼくの場合,成功するより失敗することが多いように思うし,その結果長い期間にわたって「くよくよ」してしまう.
個人的な性格に原因があると思う.
くよくよするの実態は「女々しい態度」というより「思い出し怒り」として顕れるのだけど,そうなっている期間中は何をしていても嫌なことが突然頭に降ってきて,「思い出し怒りが」が自分をすっぽりとらえてしまう.
具体的には,嫌な場面が頭に浮かび,そして思わす手の動きを止めて,しかも反射的に,今やっている内容とは関係のない独り言を口にしてしまうこともある.
その独り言は,目下の作業に関係のあることにしようと努力する.
だが,実際には「なんであのとき,あぁしちゃったんだろう」と思う.
この後悔は悲しさや苛立たしさの裏返しである「うなり声」に意味を持たさた結果発せられるもので,他人からみれば言葉とやっていることがちぐはぐな言動だろう.
だからトイレで用を足していたり,駅でエスカレータに乗ったり,職場でエレベータを使っていたりするときだけにしようと努力している.

それがどの程度の衝動を伴って再現するのかは失敗したレベルによりちがってくる.
が,まぁ数日から数ヶ月,とくに嫌な思いをしたものは10年近く嫌な思いをし続ける.
これも失敗の質によって違うのだけど,その時間を経過すれば消えるし,それに次に同じことがあっても「耐性」がついているのでほとんど嫌な思いをしないで済む.
これは経験という意味では大きなメリットではある.

良くも悪くも歳をとると,自分の性格の使い方も把握できるようになってくる.
ゆくゆくは,嫌な思いはすべて瞬時に忘れてしまえるようになりたいが,無理だろうが.

UWFをめぐる物語にプロレスを知らない自分が惹かれる理由

2017-12-10 ぼやき

1984年という,いまからは遠い昔の出来事について関心を持つ理由はなんだろうかね。プロレス自体には興味が無かったし、今でも無いのだけど。それでも、どこでも似たような展開があるものだなぁ、と歴史の成立過程を地面から覗いてる気分がするからかな。

パソコンが冷たい季節になった

2017-11-18 ぼやき

MacBookAirを使っている.筐体はアルミ.キーボードのキーだけがプラスチック.なので,両手を置いたときに肌に触れる大部分はアルミになる.
さて,使うかとおもってパチパチと打ち始めるが,これが冷たくてなぁ.部屋の温度が下がっているのでパソコン自体の温度も下がっており,だから電源を入れても使い始めは冷たくて困る.
確かに今日は寒くなるという天気予報を昨夜から耳にしてはいたが,こういう形で「実感」することになるとは.もう冬だな.

SNSには知りたい情報が流れていることもあるので,ROMで戻る

2017-11-16 おしゃべり

つい先日のことだけど,SNSは止めた,もうしない,と決め,行動をとった.
アカウントを抹消し,中毒の原因であったスマホも手放した.
そして,その行動の理由を分なりに文書化し,ブログにアップした.

が,3ヶ月くらいだと思うけど,結局ツィッターのアカウント再取得し,気になる人をフォローしはじめた.
あぁ,と自分に少しがっかりした.
これはもう止められないのか,と苦しく感じた.

ともかく,書かないで読むだけにしてみよう.

歴史小説を読んでいると今を考えてしまう

2017-11-11 おしゃべり

歴史小説を読んでいると、その内容や時代や人の行動を追っているはずなのに、同時に今の自分の身の回りのことなどを考えてしまう。これは教科書や解説書のような本では起きない。専門家ではなく、作家が書いたものには読者に考えさせる隙が入れられているにかもしれない。

文章には視点がある。作家の作品には、それがエッセイや解説書であっても読者の視点は書かれた内容に、作家とともに向かう。一方で専門家の文章は、それらを読んでいても、視点はたしかに存在するが、自分の視点のような気分がしてこない。定まらない、だから時間を忘れてのめり込む、ということがない。いつまでも意識的に読むことに格闘せざるを得なく、だから他のことを考える隙が出来ない。

読後の満足感は、その内容の理解度で測るのではなく、自分の身の回りの出来事を別の視点からも考えることが出来たかどうかにもあるように思う。内容も分かって、気になっていたことに対しても解決の糸口が見つかった。そういう経験を積むと、本なしには生きられなくなるのではないかな。

気分次第

2017-11-08 おしゃべり

政治に関心ないほうなんだけど、今の首相以下与党政治家の言動や振る舞いを知るにつけ、関心があろうと無かろうと続報が気になり、そして知ってため息をつくことになる。

こんなこと、やらんでいい。なんで頭おかしな人の言動に付き合わなければならないのか。

そう思うのだけど、仕方ないよね、与党と役人が正気な判断が出来なくなっているのだから。今日にでも自分の身に災いが降ってくるやも知れんし。だから興味なくとも続報を見てしまう。

マスコミや有権者に怒りを転嫁しても意味がない。なぜなら、マスコミが煽り、有権者が投票した結果がこの与党なのだから。多くの人が今の状態を支持しているわけだ。

そしてなるほどと理解する。市民参加のやり方は市民次第だということであって、市民の多くをおかしな連中が占めるようになったら地獄になってしまう。市民参加、ということ自体が良い悪いの評価の対象になるのではない。まともな人がどれだけいるかだけで決まるのか。つまりどんな制度であっても、そこにまともな人がどれだけいるかだけで決まるのだなと。

まぁ個人ではいかんともし難い。その状態でイライラして人生を過ごすのは嫌だな。せめて気分だけでも安定して良く生きていくかな。