すこし気分も変わってきたので,なにか始めるかと

2018-04-15 おしゃべり

 春になってしばらく経ったから,何か新しいことを始めてみようかな.そう前向きな気分がしてくる.これはもう,自然とそういう気分がしてきたのだからしょうがない.個人の素質とかの問題ではなく,人はそういう生き物なのだろう.ぼくはそう思っている.おそらく,最後の氷河期を乗り越えた頃の人類の記憶というようなものが,頭のどこかにインプリメントされており,その感覚をつかさどる頭の部分がこの時期に活性化されるのだろう.そう勝手に納得している.気分がノアの方舟のノアが鳩を放ったときのような気分だ.

 で,一体何を変えるのかと考えてみたところで,自分の采配で決められることはあまりないから,とりあえずこの自分のWEBサイトの中身の更新をやってみることにした.いや,そんなの意味にないだろう,と思われるかもしれない.確かに意味はないよねとは思うのだけど,それが一番確実にぼくが変えられることなのだから,それを選ぶことに一体なんの問題があろうか.どうでもいいことを自由にやる自由があってぼくは幸せだという気分もしてくる.さぁ,何から始めようか,と春のせいか前向きになれる.

 本当にどうでもいいことだけど,まぁどこに発表しても「意味ないじゃん」と言われそうな地味な活動記録の結果を,ある種のレポートとして作成し,それを地味にアップデートしてみるか.このあたりがちょうどよい.自分の考えていることをつらつらとブログに書き並べるよりも,実際活動した記録を紹介し,その結果どうだったのかまでを示す.それらは事実が「確定」しているのだから,情報としてもいいのではないか.そう判断した.そして自分でやったことなので,だれの許可をとる必要もない.自分で撮影した写真や図ならば,だれの許可もとる必要がない.だれの肩にものらないでやったことを「備忘録」としての文書を残す.これ,とても文化的なことだといえると思っているのだが,さてどうであろうか.

 結局自分でやっていない人,自分がやったことでないから開示する前に組織の許可を取らなければらない人.こういう人の割合がどのくらいなのかはわからないが,おそらく「偉い人」というのはほとんどこの範疇に絡め取られるはずである.つまり,偉い人って結局自らはないも産んでいない人であり,せいぜい指示したという言い張るくらいしかできないだろう.オーケストラの指揮者は楽器を弾かないけど一番えらいわけで,そのオーケストラの演奏結果は指揮者に帰するような認識が普通だし,それでいいと思っている.一方で,古典的な問として「大阪城は秀吉が作ったのか」というものがある.それに対するぼくの答えはNO(秀吉が何かできるわけないじゃん,建築については能力なんかないだろう)だが,一般にはおよそ同意されないことくらいはわかっている.そして,ぼくがこれからレポートにしたい内容は,指示でも構想でもなく,単なる大工の工夫日記のようなものである.似たような人がみたら,少しは「そうそう」と言ってくれるかもしれないこと.これを書いてみる.

 このレポートは,作ること自体ががぼくにとってある種の練習であり,また準備でもある.文書って書かないと上達しないのよ,ほんとに.何がだめで何が良かったのか.それを知ることで向上を図るという,いわゆるフィードバックで能力向上を図るためには具体例が必要なの.しかもそのためには「実際に無から有をつくりだす作業をしたところだけ」が対象になるんだ,とぼくがこれまでの人生を振り返って結論づけている.人の活動をみてそれをヒントするのは大いに意味があるが,それは必ず「あとで自分でやるときのパラメータ振りのバリエーション作成の一助」としての利用において意味があるのであって,人のやった一連のことを記憶する・知識化することでは「たぶんその人は何もできないままだろう,テストなんてないぜ」ということである.いや,今の人にそれを言っても理解できないかもしれないが.

日々使うものに対しては効率などの合理性は求めなくなる

2018-04-15 おしゃべり

 毎日使うもの,あるいは肌身離さずもっていたいもの.そう思わせるものに対して,あまりなぜそれを持ちたいのか,その合理的な理由を求めないし,求められても無理な気がしている.

 これはぼくだけかもしれない.他の多くの人は,別にそんなことは考えていないかもしれない.いいもの,便利なものこそほしい.そう思うのは自然なことだし,それで「仕事・作業の効率がアップする」からと答える人は多いだろう.でも,本当だろうか.合理性を理由にする回答に嘘はないとは思う.が,深層心理にまでいたって真相を探ろうとしてみたとき,それが本当に理由なのかな.そう訝しく思ってしまう.ねぇ,本当に合理的な理由でそれを選んだの,効率が理由なのと問い返したくなる.違うでしょと.

 いわゆるファッション的な意味合いをもつ道具,例えば服でもバックでもそうだが,これだと決める理由に合理性はない.機能対費用=コストパフォーマンスを指標とし,それが最大のものを選んだ,ということは普通しない.服やバックは,その見た目,メーカー・販売店,あるいは「たまたま」だったりが理由だろう.バックを買うとき,全体の大きさとは袋底のマチがどうだとか縫製がしっかりしているとか,一応は確認する.だけど,それは決定を「後押しする」ための理由を探しているにすぎない.縫製がしってているからこれでいい,と決心する理由を探している.ちがいますかね.

 合理性を重視しないで,見た目やブランドだけで購入するかどうかを決める,という極端な意味ではない.何かを選ぶとき,その決定的な要素は,意外なほど些細なことでしょ,といいたい.この結論はあくまでも自分の行動を観察した結果なので,他の人に適用できるほどの一般性があるかどうか自信はない.単なる趣味の問題だろ,で片付けられることかもしれない.それであっても,ぼくの結論は一つのサンプルにはなるし,なによりも「ぼくはそうしている」.これに気がついたので,ここに記録しておく.

 今こうしてこの文章を入力している道具はMacBookPro2012である.もう5年前の製品であり,箱なし,ACアダプターなしで買った本体のみの中古品である.新品を購入するほどのお金をぼくは持っていないし,発売後数年しかたっていない中古品は高くて手がない.まぁこれならいいか.そう思えるぎりぎりの古さとして2015とした.このMacBoookPro2015を買って,ちょっと調整したところ,それなりに使えるようになった.やった,いい買い物だったじゃん.そう感じてから気づいたのだけど,このMacBookPro15は,1年前まで愛用していたMacBookPro17インチと同じタッチであることに気がついた.その17インチはずっと愛用していのだけど壊れちゃた.17インチの後続版は販売していないし,なにより新品を買うおかねがなかった.だからしばらく別のPCをつかっていたのだが17インチのように心底気に入ることはなかった.このMBPは17インチとは性能や画面の大きさが違っている.が,今時にしては「重くて丈夫な作り」であって,だからキーボードを叩いていると石の厚めの板にパカパカとキー入力している気分がしてくるのだがこれが気持ち良い.「そう,これ17インチの感触と同じだよ」と今気がついた.つまり,自分が本心から気になるものは,そういう「無意識が気に入っているところ」が原因だったりするのではないか.なるほど,このMPB2015を妙に気に入った理由を自分で発見したみたいだ.そう,決定打は無意識なんだ.

 言葉によって他の人に説明する「好みについての話」は,そのほんとんど間違っているのではなかろうか.何かを気に入った本当の理由は,自分の無意識が握っており,だから意識がそれれと気づくことはできないのではないか.全部ではなくとも,そういうケースが多いのではないか.もっといえば,なぜそれを気に入ったのかの理由など,本当に自分が分かるものなのだろうか.自分が深く反省し内省すれば自分のことがわかる,と考えたくなるし,それはそうだろうと自然にそう思う.いや,そう思いたいだろう.しかし,本当になんだろうか.自分が何を好きなのかなど,自分にはわからないのではないだろうか.たまたま無意識で捉えている感覚を意識がつかめたときにしか,なるほどぼくはそんなことを考えていたのか,と気づくことはできない.そんなことができる機会は,ほとんどないのではないか.

 たんに文章の練習をしているだけななのだが,そんなことを考えた.

生々流転、を見られた

2018-04-14 おしゃべり

 竹橋の近代美術館で横山大観展を開催しており、今回の目玉はなんといっても「生々流転」の一挙公開だろう。全長50mちかくある巻物の絵なのだけど、端から端まで一気に見ることができた。こんなチャンス、そうそうはない。だいぶ前に美の巨人たちで紹介されてぜひとも見たいと思って機会を見つけては美術館に通ったが「部分」しか見ることができなかったのだ。そりゃそうだ。50mちかい「展示ケース」は普通ない。そのために準備しないと行けないわけだが、展示ケース、展示室、設営場所の管理などの運営を考えても「常設でちらっと」みせるのが精一杯なのはわかっていたので、まぁしょうがないと諦めていた。それが、今回一気公開だもの、行かない手はない。そして、見られた。

 巨匠の絵をぼくがあれこれ言ったところでしょうがないのだけど、それでも後半から最後にかけての展開は「流転だよなぁ」と身の毛がよだつものだった。これははじめのほうからゆっくりみているからこそ沸いて出て来る感想なのだろうと思っている。時間の流れも、季節も明るさも、そしてその変化と方向性、予感といったものがアニメーションを見るのとは全く別の形式で絵によって表現されている。これはすごい。工夫の塊である。ぼくはこういう「工夫」にはいつも感動してしまうのだが、これはこれはと思った。こんな工夫をして見たことがない絵を作り上げた大観って人が日本にいて良かったと思った。ただ、上手、センスがある、技術があるというのではなく、ほぼ素手と工夫で堂々と世界にはれる作品を残した人がいた、ということにいたく歓心したのだ。いてくれてよかったと。

 昨今の政治のバカニュースをみるにつて、日本の人間って「ほんとにバカばっか」と思ってうんざりしていたので、大観のような人がいたのだという事実が救いになった、ホッとした。

中古を見直したのだけど

2018-04-14 おしゃべり

 中古でものを買うのは怖い.とくに,技術が高速で新しくなっていくコンピュータやカメラは数年のちがいで見事に陳腐かまだ使えるかが決まってくる.よほど詳しくないと,トレンドについていっていないと中古商品は買えない.また,まだつかえる中古が売りに出ていても高いので,ちょっと無理してでもその次代の新品を買ったほうが良い.そう思っていたが,これがちょっと覆されたなと思った.

 買いたいなぁと思ってもお金がないことはよくあるわけで,そこで昔は諦めていた.来年まで待つかといってほっておけた.ぼくも最近までそうしてのらりくらりとやり過ごしてきたのだが,急なめまいで倒れ救急車で運ばれ即入院というものを体験してから,いや,そろそろ終わりが見えてきたなと思うようになり,だからなんでも「待つ」ということができなくなってきた.まっている間にもやろうとしていることができなくなってしまうことがありうる,それはそんなに悲観的なことではなく十分ありえる冷静な判断だ.そう考えるようになったのだ.なので,やりたいことはやれる範囲でやったほうがいい.単に待つのではなく,もうちょっと工夫してみようかな.これが中古にも目を向けるようになった原因なのだ.

 まずはデジカメ.一眼レフのカメラはすでに持っている.ただ,結構高価だったのでそうそう持ち出して壊したりしたくない,という気分が先にでてしまう.だから,自然と持ち歩かなっくなるのだが,これはちょっともったいない.そこで,10年位までの中古を買い直すことにした.そしてネットで探すと意外にいろいろある.本体だけでなくレンズもある.これは見る人からみれば「ちょっとどうかな」というものなのだとは思うが,今は「壊してもいい,でも10年前はハイスペックだったもの」を探しているので,由来さえしっかりしたものならばぼくが使う上では十分に思える商品がいろいろ並んでいる.早速よさげならものを買ったのだけど,これが「あたり」である.状態がいいし,「レモン」といわれる中古車とはぜんぜん違う.市場が飽和しているのかどうかわからないが,ちゃんとした業者さんはたくさんいるようである.

 で,つぎにノートPC.Macのノートがほしいのだが,仕事用に一台手元にはある.が,仕事用ではなく純粋に「モンブランの万年筆」を買うように,それを大事に楽しく使うようにというPCがあるといいなと.ネットやオークションのほうがいろいろあるのはわかっているが,それでもこの分野なれば「みればわかる」程度の見識を自分ではもっているので,現物をみて買うことにした.ひさびさにアキバのジャンクショプのようなところをみてまわった.あのへんに店があるはずだよなぁとおもって歩いても店がだいぶ入れ替わっているのでうろうろした.うろうろしているとメイドさんの客引きに会うわけで,なんだか場末感がすごい街になったなとしみじみしてしまった.で,駅前のじゃんぱらの店頭にわりとよいMacBookProがあったのでそれにした.

 まだメモリもHDDも交換できるころのMacBookProで,表面に傷はなく,画面も液晶も大丈夫.バッテリーは,まぁしょうがいないだろうなと思って購入.ぼくは英語キーボードでないとだめなのだが,JISでもキーレイアウトを変更するソフトがあるだろうと思ってともかく購入.2012MIDが54,000円ならばまぁいいかとおもったが,ACアダプターがないと.純粋に本体のみ.それでもいいやと思って購入し,後日アマゾンでメモリを16GにしたりSSDにしたりと手をいれたので,実質8万くらいになったがそれでもいいや.いろいろ調整してモンブランの万年筆のように手元において使えるようなところまでもってこれた.今はこれが相棒として毎日生活している.

 BSD/Linux/Win/Chromebookならばもっているのだが,これではCocoaをつかえない.やっぱり10年位前にCocoaを学んだのだが,最近になってまたObjective-Cに興味をもっていろいろ調べ,普段の解析コードなどをつくるようになった.いや,そんなことをする必然はまったくないのだけど,「やってみたい」のだよ.ただそれだけ.幸い自由な研究者という身分なので,なにをどうつかうのかという裁量は一切がぼくにある.もちろん,だれかと結果勝負をしていたら間に合わないのだけど,そういうレースには一切顔をださないことにしているので,もはや何をやってもいい身分になっている.その代償として地位と予算は「ほぼ」ない.でもいいじゃねぇかと思っている.だって,こういう日々を送れるのだから.

 OSがだいぶ進化したのでソフトが追いつかないようである.というか,有料で購入したソフトウエアが軒並みサポート外になっている.5年も経っていないのになぁと思うのだが,インストールさえできないのだよ.だから,この新しいMBPには有料ソフトがほとんどいれられない.AdobeCS/Matlab/BiND・・・ライセンス的には有効なのでサポート外なんだよなぁと.確かにObjective-CやXcodeのバージョンアップも激しいようで,数年前の教則本もアマゾンで1円という値段でてているくらいで,だから市販のソフトウエアもついていくのが辛いのかもしれない.そんななかEGWordが再発売されたのは大変うれしいニュースだったが.

 さて,このような個人のページについてもBiNDがつかえないので,こうしてWPに頼るよりない.それでも,ちょっと前にいろいろと整理したのでWPだけで十分さまになったものができている.ものごとが時間のあるときにつねて手をいれておくと長く使えるものだなとこんなときに感心する.まさに「手入れの思想」である.リファクタリングともいえるかもしれない.MBPにデフォルトのメールを以降したが,これはこれで大変だった.メールなどはすてちゃっていいものがほとんどなのだけど,まぁぼくもあと何年もないかもしれないから,それだったら「全部のこしておけや」という気分にもなる.なんでもそうだが,これからはリファクタリングでいろいろ長生きさせて,それらと一緒に歳を取ることにしようかな.

日常的に本を読む人について

2018-03-23 おしゃべり

 ぼくは通勤中に本を読むことにしている。都心側に賃貸を借り、職場は相模原。なので通勤電車は混雑する方向と逆にした。
これは意図的にそうした。借りるときに、実家の近くで隅田川近くという条件でさがしていたらたまたまこの文献が見つかった。
もう結構長いこと借りているが、今しばらく借り続けたい。いつまで住めるのかぼくはわからない、未来については知り得ないが。

 行きも帰りも席に座れて1時間半くらい、あとは歩のだけど、それでも往復で最低でも3時間、場合には4時間の読書時間が確保できる。
家で過ごすときこれだけの時間を読書に確保するのはたいへだが、そこは電車だ。強制的に一日3時間は取れる。

 この方法をはじめてもう15年は経った。それで読めた冊通数は1500−2000くらいだろうと思っている。
以前は正確に数えるためにメモをつけていた。が、10年経った際にやめてしまった。
もう冊数を追う段階は終了しただろうと重い、本を読んだあとにつけるメモの更新を止めたのだ。
その段階で1000冊ちょっとだった。
が、実際には、メモを書いたがアップロードしなかったもの、そもそもメモを書いていないものがあり、実際には1500くらいはいっただろと思っている。

 たいした冊数かと言われると、はなはだ心もとない。10年で1500冊ならば、1年で150冊。2,3日に1冊のペース。
数万冊を読んだという人がいるが、あの領域にぼくは入れるとは思わない。全く思えない。
どう頑張っても2倍の冊数は読めない。ましてや10倍読むなんて不可能だ。
たぶん、読むという行為が今の僕とは違っているのだろう。

 昔は速読に憧れたが、今はまったく興味ない。というのは、どんなに読むスピードを上げても頭の中がついていかないと悟ったから。
文字をデータ・ストリームとしてインプットできるよう視覚というデバイスを10倍強化したところで、データ処理系たる頭の中が本の内容を10倍早く処理することはできない。
速読によって文章を目から10倍速で入力しても、全部のデータが頭から潰れて(おそらく)熱になって無駄になるだけだろう。そう思うようになったやめただのだ、速読は。

 頭のいい人はできるのだろう。僕が通勤時間に本をよむことを意識的に真似をした(目標とした)人のエッセイを読んだら、
その人は読んで理解するというデータプロセスが決定的にぼくと違うのだ。記憶力・メモリ・バッファサイズが常人とは違うのだろう。
読んだ本の内容を数時間かけて「思い出して読む」ことができるようなのだ。しかも、本を閉じたあとであるきながらとかそういうときなどに。
すごい、そんなことひっくり返ってもできはしない。

 自分とは頭の出来が違う人の真似をしても仕方がない。
 いい年になったらそのあたりはさっと妥協できるようになった。
おれ、そんなに頭良くないし、とすっと認めることができるのである。
若いうちはそれを認めず、さらに頑張ってしまったかもしれないが、ぼくはもう若くない。

 いい加減自分の能力を思い知ったほうが良い年になると、自然と「さっぱりとたいしたことがない自分」をやぁやぁといって受け入れられるようになる。
なぜなんだろうか。女性が必死になってお化粧やダイエットや洋服や美容院に投資するののと動機は絶対に同じはずなのだ。
まぁ、あるがままを認めると、世の中はすごい楽しくなるのだ。

 で、本の話。
 結構努力して本を読んだみたとして、では普通の人はどうしているのだろうかと気になる。
とくに、一般的なサラリーマンでよい。そもそも彼らはどのくらい本を読むのか?

 おそらくだが、ほとんど読めないはずだ。電車の中で読むのは辛いだろうし、今はスマホをいじるはずだ。
自宅に帰ってからゆっくり本を読むことができればよいが、その習慣をキープできる人は多くないだろう。ならば休日はどうか。
休日ばかりはゆっくりとするか、ビールを飲むか、だって休日なんだから。
買い物かもしれないし、出かけるかのかもしれない、行楽には書店は含まれているのだろうか。

 一般的な働き方をしていたら本は読めない。本を読めないのならば正直今の世の中を把握することもむずかしい。
ワイドショーやニュースショーをどんなに見ていても、だれかの政権につながりのある、あるいは広告代理店にとって都合の良いストーリを見せられているだけだ。

 なるほど、だから今のような政治家が跋扈し、おかしな事件が立て続けにおき、そわりにだれも責任をとらず、ものごとが崩れおていくばかりなのだろう。
リーマン社会であるかぎり、今の世の中は良くなることはなく、しかも長く続かないだろう。

 ぼくのような冊数の本しかよまない人であっても、単行本でなくとも新書を手にとっている人ならば、今の世の中のおかしさは体感できる。
そして、どうしてこれをおかしいと思う普通の人が少ないのか、頭を抱えてしまうニュースをみるたびにため息をつく。

 最初は「普通の人ってそうとう馬鹿なんだな、ぼくの学校生活ではあまり合わなかったような人が多いんだなぁ」と単純に思っていたが、
そうではなく、「まともな情報がない、まともに考えてそれを語る人の言葉に耳を傾ける機会がない人」は、
何も現代に生きているのにお気の毒だなという状態に必ずなるのだろう。怖い。本当に怖い。

 本なんて10万部いったら相当売れた部類に入る。それでも10万の人しかその内容を理解しないわけだ。
野球はプロレスの観客が何人いるのだろうか。0.1%の視聴率でも何人の人が視聴したのか。
そう考えると、本を読んでいる人の全体における相対比がおそろしく小さい。つまり、まともに考えることができる人は全体に対して無二近いような気分になるわけだ。

 だからテレビ・ラジオというものの影響力には目を見張るわけだ。ネットの元ネタは新聞だったりするので、テレビ・ラジオとダブル。
あれは、情報を伝える装置ではあるが、人を制御する装置だ、とみるほうがいい。とくにメディアから言われたように動くようと人々の感情を煽ってコントロールするための装置である。
良質な番組なんぞ作る必要がない、それですら「人を制御するためには邪魔なもの」でしかないから。

 そして実際リタイヤしたリーマンあがりのおじさんは、終日テレビをみるようになる。そして、「いっぱしの論を語る」ようになるわけだ。
が、そんなものは見ていたテレビの制御入力を自分なりに翻訳して語っているだけでしかない。テレビが情報源の人のいうことは「信用してはあらない」わけである。
人生の最後にさしかかって、そんなふうに操られて終わるのかとおもうと、他人事ながら気の毒になる。しかし、しょうがないじゃないか、考える訓練をしてこなかったかのだから。

自分の来し方(かなり近傍)を振り返ること

2018-03-23 おしゃべり

 来し方と行く末という語は対になっていいる。
意味するところとして、過去と未来のことであり、対にすることで現在を挟んで両方を含めている。

 それでもって、どういうわけかこの言葉を口にするとぼくは遠い目になってしまう。
たいした過去も、愉快な未来予想図もないのに。
イベントとして何か理由があるわけではない。
ならば、この言葉にはなにかしかのからくりがあるような気がするので、少し考えてみる。

 単語の意味にはなにも不思議はない。
ニュアンすというものが人の記憶に触れる場所が違っていくるからだと仮設を立ててみる。
来し方と過去とでは、なにか「ため息がもれる」ような感じの違いをもって、頭に入ってくる場所が微妙に違っている。
つまりだ。過去はT<0みたいな、どちらかと言えば自分とは関係がないことを紹介するときの時間軸を設定している。
一方、来し方といえば、自分が歩いてきた道、楽しさ悲しさを伴った思い出の場面設定を行うときの時間的方向を示している。

 来し方と言われたら、おそらく、「この人の話はちゃんと聞かないと相手は不機嫌になるぞ」と身構えてしまう。
からなずしもそうではないかもしれないが、自分の経験から身につけた反射であり、ほぼ無意識に待受モードになる。
同時に、自分が来し方といったら、自分の過去を語るぞ思っているわけで、だから誰にでもかまわずする話をすわけではない。

 行く末についてはちょっと対象範囲が狭まる。
末ということからか、可能性が狭まっていくような、もっといえば死んでいく様子を語るような気分がする。
確実に、楽しいことが待っているという話がでてこない。
どちらかとえば真面目で、しかも面白いくないことを話す可能性が高い。
これもぼくの経験による待受態度だが、他の人は違うのだろうか。
ちょっと気になるところではあるが、ちょっと知りようがない。

 ぼくの場合、普段はずっと一人で作業をしている。
だから人と話す時間はわずかである。
会議でもやれば違うが、会議がないならば、独り言を言うくらいである。
しかし、言葉を使わないわけではなく、メールは文章書きのときは、ひたすら言葉を紡いでいる。
無言で作業するが、頭のなかでずっと音読しているのだから、脳のなかには言葉が響きつづけているといってよい。
だから、意味を伝えることに集中するあまり言葉の響きをおろそかにする、ということはしない。
言葉はその響きをも考えて選択して使っている。
そのつもりだ。

 言葉のもつ意味と響き。そして響きは意味を解釈する部分とは別の脳の部分をタッチし、記憶や感情を引き起こす。
この2つの操作をねらって言葉を選んでいるはずである、それも高速に。
この上手下手の違いは、確実に存在する。
話がうまい人下手な人という違いをうむのではなく、いい人悪い人、もっといえばスマートな人、下劣なやつくらいの違いを生じさせる。
そう思っている。
だから、言葉は選ばないといけないし、それに十分に配慮することは決しておかしなことであはない。

 閑話休題。
 さて、来し方と過去との違い。
ニュアンすとして、来し方といってしまうと、人格形成に影響を与えたイベントの集合体を指すように思っている。
だから、あんなことがあったら今の自分になった、という話であり、それは感謝する人であるが、恨めしいやつらである。
いずれにせよ今の自分に繋がった出来事である。
 一方で、過去。これは、自分と関係あろうがなかろうが、ニュースになったもの歴史的イベントなどすべてをひっくるめての事象を指す。
どちらかといえば、自分が含まれている、自分を飲み込んでしまう、天蓋を含めた世界のことである。

 さて、正解はどっちなのか。
いや、一般的にはどちらの意味なのだろうか。
広辞苑の7版をつかって調べたいところなのだが。
ジャパネットで電子辞書をかうか、平積みになっている辞書を買ってくるか。

一日の時間は短い,それが平日でも休日でも

2018-03-21 おしゃべり

 休日の一日が始まると,さぁ無駄にしてなるものかと布団のなかで意気込む.が,同時に休みだからゆっくりしてようかなという気分にもなる.結局,早くもなく遅くもない時間に起きて身支度をする.だから思ったほと長い時間は残されていない.これがまず事実である.

 ご飯をたべたり,ニュースをみたり,本を読んだり,パソコンをいじったりと「いつもとは違う時間にいつもやらないことをやる」.そして気づくと,もうお昼だったりする.そして,休みが休みたる時間的なマージンを使い尽くしたことに気づく.あとはもう,明るい時間は転げ落ちるようになくなっていくだけだと感じる.夕方まで何時間もないわけだ.

 何をするにせよ自分が行うことだ,漫画の中のようなスピードでこなすことはできない.ちょっとしたことをやるにせよ,その準備に時間がかかり,とりかかったとしても出だしのスピードは遅い.したがって,大して進まないうちに時間がすすみおやつの時間になってしまう.休日なんだからゆっくりやるかと余裕を楽しむためにお茶を飲む.やっていたことにとりかかったらもう夕方である.さて,ハッピーアワーだな,ビールでも飲むかとなる.

 こうして休日は過ぎてしまうのだ.もちろん,ご飯をたべビールを飲み,読みたい本をめくり,やろうとしていたことにとりかかることはできた.が,その過程のどこにも「達成」というものがない.つまり,何もできなかった,わけである.達成しなかったならば,満足感は味わえない.もちろん,心地よさは十分に味わえたとしてもだ.

 もうだいぶ昔から気づいていたが,休日をつかって何かを成し遂げよう,ということはしないことだ.それは実際問題「できない」のだ.何かを成し遂げるためには,休日ではなく平日に行うべきだ.仕事をしている時間を割り当てて,それを成し遂げるべきだ.そうでもしないと「絶対に達成」するところまで何かをすることはできない.これは断言できる,ぼくの経験からだけど.

 当たり前のことだが,休日に何かをしようとしてはいけない.休日は何も予定しないほうがいい.そして,自分がやりたいことは「平日」にやるべきだ.それは寝る前の1時間かもしれない.しかし,生きている時間であり,何かをやるために残された空間はそこにしない,と思った方が良い.つまり,定常的な社会人生活をしている人は「何かを成し遂げる」ことは,その仕事の中以外には全くないのである.だから,仕事について考えるべきだし,仕事にその隙間がないようならば変えるべきだし,生活を壊して変えるより,自分で考える何かをすることはできない.そのパターンを変えないであたらいことを始めることはできないのだから,最初からやらないほうがいいとさえ感じている.

 つまりは,生きているときに何でもできるなんてことはなく,すくなくとも定常状態にいる間に非定常な要因をいれることは,その生活に定常的な要素が多ければ多いほど難しいだろうと思うわけである.

 まぁ,この辺のことは,どんな人でも20年は社会人をやっていれば自分の身に照らし合わせてそれぞれ発見していることだと思うのだけど.

どちらかといえば不便なものを使うようになる

2018-03-17 おしゃべり

 どういうわけか,もっと便利なものがあるにもかかわらず,不便なものをあえて選んで,古いものをわざわざちょっと高いにもかかわらず購入して使うという趣味がでてきた.とりわけ,文具やPCにその傾向が強い.どうちゃったんだろうおれ,という疑問がわく.

 懐古趣味ということはない.レトロ趣味というものでもない.というのは,自分が知りもしないほどに古いものを,古いからという理由でもちだすことはないから.自分が知らないものは,それが古いということで惹かれることはない.だから懐古趣味に染まったわけではない.骨戸品やに通うことはないし,蚤の市に顔を出すこともない.

 たんに,自分が向かし欲しかったものを手に入れたい.昔はまったく手に入れられる状況にはなかったが今ならば買えるというものがある.とくに,子供の頃でなくとも,10年前,20年前というレベルの中途半端な古さのものにそういう気分を抱く.たんなる家電製品ならば,単に古いというだけで,それを欲しくなることはない.まったくない.しかし,万年筆だったりPCだったりすると,バカみたいな値段で中古がウリに出ているわけで,だから失敗してもいいような金額なので買ってしまうのだ.

 そもそもジャンク品のようなものだから失敗も少なくない.買ったはいいが,結局使い物にならなかった.あぁ失敗.そういうものは多い.無駄使いだった,本でもかっておけばよかった.そうなるものが多い.それでも,なかには当たるものがある.今こうして使ってるPCもその一つ.もっと性能がよく使いやすいものをすでに複数手元にある.それでも,一番不便で性能もよくないものを磨き修理し部品を交換してなんとかまだ使えるようにしてている.この作業は週末やるわけだが,今はいろんな部品がアマゾンで手に入る.だから,ほとんど趣味としてやっているわけで,これが時間が経つのも忘れて楽しいのだ.

 そんな古いものを平然と使っているおじさん,という一面をまわりの人に知らしめたいのかもしれない.高いものは無理だし,みすぼらしいものもなんだ.だから,一見普通でどちらかといえばちょっと疲れたような品を使い込んでいるという一面を自分の属性値として知らしめたいのかもしれない.かっこつけとして,ある種のファッションとしてやっているのかもしれない.そういう気分が自分にもあるといえばある.ただし,極めて「そう評価されることは,ほとんどない」ということも分かってやっている.だから,楽しくやれるのだけど.

 何かの専門家もっといえばプロというレベルに達するまでには,その対象と長い時間を過ごす必要がある.練習としてずっとやっている必要がある.そして,一般的には,1万時間という時間が必要なのだそうだ.一日3時間で一年でだいたい1000時間,ならばその生活を10年続けて1万時間となる.つまり,なにかをそこそこできるようになるには,それを10年間せっせとやる必要がある.そうでもしないと,脳自体が切り替われないのだ.終日練習していれば,それこそ5年くらいでなんとかなるかもしれないが,集中力が続くのか,それで生きていけるのかは,その人の置かれた状態によるわけだ.

 そうかんがえると,ぼくにはあと一回その時間スロットがあるかもしれない.これまでなんやかんやと時間を過ごしてきた,今の職について20年だから,プロ的なものが2つは身についていないとダメなはずだが,正直失敗していると思う.つまり,ぼくはこれのプロで,だからそれで生きていけます,というようなものが浮かんでこないのだ.そのときどきに,流されてきたということがはっきりしたわけだ.すでに二回失敗したが,これで終わりということもないようで,あと一回分のチャンスが残されている.ただし,それは今のような生活が続けられた,という条件で.昨今のニュースをみるに,果たして世界も日本もぼくの生活も,現在のような状況をどれだけ継続できるのかはわからないのだが.

 このさき10年,どうなるか分からない.天変地異の可能性は常にある.ぼくも身体的に壊れることもありえる.この生活がいつまでの意地できるかわからない.そこであえて10年計画での訓練に取り組むわけである.これは,もはや未来のために,という理由ではない.単に,それをやってみたいから,以外の理由はない.そして,やってみたいから以外に理由がないことをやれる,という幸せを噛み締める幸せを十全に味わっておくことにしよう.

 こういうブログをつけはじめて10年はたっている.もちろん,一日3時間の時間をかけているわけではないので,一日1時間ならば30年かかるわけで,それいかの時間しかかけていない.それでもいろいろと文章の勉強にはなっていて,だから10年前のものに比較すれば少しは成長のあとがしのばれる.もちろん,1万時間未満なので,評価の対象にはならないのだけど.

 何かをする以上,そのみちのプロを目指すことは正しいとは思うが,絶対にその目論見は全員が果たされるわけではない.目論見というものが成功する確率はそもそも低いのだ.成功しないならば意味がない,ということを吹き込まれるかもしれない.しかし,そんなことは決してないだろう.成功がプロになり評価されることだというのならば,そもそも1万時間をかけることが前提であり,その上で品質の競争となり,そこではじめて運だの生まれだのという,本人にはどうにもならないものが理由で序列化されるわけである.そんなことを目的として「人生をすりつぶす」ことなど決してない.ただ,その1万時間のなかにいる事自体に幸せを感じるほうが,生命としてはずっとたちがいいように思う.だって,それができれば歩確実に幸せになれるからね.

 そんなんことをコーヒーを飲みながらぼんやり考えていてた.

松尾豊『人工知能は人間を超えるか』を読んだのだけど

2018-02-16 本のメモ

最近はずっとDeepLearningのことを勉強しているのだけど,一通り知ったはずだがそれを「体感」できるところまでは行っていない.だから「DeelLearningを理解したぜ」は言い難い状態にある.経験的に,何かを実感するところまで理解するためには,「どれだけ真剣に考えた」とか「連続して学んだ」とかいうこと以上に,「その活動をしたあとにどの程度時間が経過したか」あるいは,「それを自分の問題に使ったって結果を得たか」のが決定的だ.なので,ぼくは両者がまた足りていないのだろう.今はあるい意味「体得できた感がないのはどうしようもない,時間が経つのを待つよりない」.そう思っている.そう思っていはいけど,なにか違うことをやる気にはなれないので,とりあず普通の本を読むことにした.それが表題の本である.

一読し,本として面白い.自分の知っていること,あるいは対象を理解しょうとして考えついた形式を「上手に」記述している.よく,「自分の言葉で説明する」と言われるが,それは少なくとも自分の言葉で理解する,あるいは,学んでいるとき,対象について理解しようと努力しているときに「自分がどのように理解すれば,一番腑に落ちるのか」に力を尽くすことができる人かどうかで決まってしまう.それは日本語の文章の上手い下手以前の問題であって(そういうのは出版社が手がける以上だいたいなんとかっているだろうし),本書のようなレベルの本は,著者が「本当に理解したいとあがいた軌跡」のようなものを感じてしまい,だから多くの読者の理解を得られたのだろうと思う.結構売れた本だろうなと思う.だって,僕も他人にこの分野の本を聞かれたらこの本をすすめるもの,真っ先に.

この本は前半中盤後半に別れているが,あきあらかに後半は面白くない.ある意味,表面的な予想が記載されているようで,著者はこれを書きたいとは思っていないことが現れちゃっている.おそらく,編集の人と話していて,どうしても「これからの世の中,予測といったことを書いてください」とかなんとか言われたのかなぁと想像する.それに対し,著者の一番書き高かったことは前半であって,これれは論文には書けないことであり,講義かなにかでその片鱗を話されているかもしれないが,現在機械学習とは何だろうかなぁと学んでいる人にとっては大変よいガイドになっている.その流れで中盤もある.まぁ,たち読むするにしても数十ページは読めばいいように思う気もする(読んだら多分買うだろうし).

著者のDeepLearningの理解の形式は「なるほどなぁ,そういういうふうに考えるのか」と愉快な気分になった.ずっと考えていた人って,とくに「自分が理解したい,これはなぜだろう」が学ぶ現動力になっている人は,かならず本書にあるような「工夫」をしている.教科書的なものをそのまま記憶することはない「だって,それは納得には結びつかない」からだろうと思うが.ぼくもこれまで入門書を4,5冊読んでいたが,本書にあるような理解の形式が紹介されているものはなかった.サラッと書いてあったのかもしれないけど,結局はPythonコードやグラフのほうに目が行ってしまったのかもしれない.ただ,本書を読んだあとに,これから読む教科書や,すでに読んだ本を読み返すときに,本書での理解の形式がぼくにかなり影響してくるだろう.そう,面白いですね,勉強って.ちょっとした考えや図が,その後のものの味方に大きく影響を与えるから.

書店員さんのブログエッセイー本を読んだのだが

2018-02-10 本のメモ

新井見枝香『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』という本が書店で平積みされていたものをたまたま目にしたので手にとり,書き出しが面白かったので購入し,その日に一読した.この本は書店員さんのブログエッセイのようで,人に読ませる文章が書ける女性店員さんの日常(仕事を含めて)思うことが綴られた本であり,書き出し以上に面白いとかゲラゲラ笑うとか,同業のために共感できるなぁとか,そういうところは全くなかったのだが,ともかく短期間に全部読んでしまった.なのでこの本はブログエッセイ?として十分に基準に達しており,買って失敗したとは思わない.そういうことを考えながら仕事をしている人なんだな,と自分の知らないことを理解できた.ただし,タイトルに関連するようなエッセイが収録されていない?ように思って,あれ,おれ釣られたか?感もちょとしたのだけど.

人に読ませる文章力は,単語と単語の関連性,理解しやすいような単語の並び,かつ黙読でもリズムをもっている,あるいは情景が浮かびやすい言葉の使い方にある.素人だと,なかなかそういうものは書けない.文法を基軸とし,論理的な記述の連続ならば勉強することで身につけることはできるが,かといってそれだけで読みやすい文章には決して至らない.記録として,行政文章や論文として文章ならば努力すればなんとかなるだろうと思っている.それは外国語で文章を書くようなもので,正しい正しくないがきちんと判定できるし,伝わる伝わらないも検証できるような作業能力だから.が,読んで楽しんでもらうというものを書くには,そのための具体的な方法はわかっているようでわかっていないように感じている.だから,これはもう才能が必要,としか言えないような気がする.したがって,ブログエッセイであろうとも,著者自身について興味をもっていない人が一冊を読み通せたという事実は,この著者には「その才能がある」ということの証拠であると言える.ぼくも,そう思う.が,正直作家というところには行けないだろうなぁとも感じてしまう.なぜだろう.

ブログエッセイに特徴的なものは,その言葉のリズムである.人の動きを想像させる会話や行動,心理描写というものがブログではあつかわない.考えていること(・・・すべきだろう的な思想),感じたこと(・・は良かった,悪かった)が記述される内容のメインになる.そうなると,それを記述しただけでは単なる「作文かよ」となってしまうので,言葉の使い方にスパイスを聞かせ,ちょっと乱暴な,普段耳にすることも目にすることもないような文体を登場させてしまう.そして,普段見慣れない文体だから,ちょっと読むと「あれ,ちょっとおもしろいな」と感じ,短いものならさっと読み通してしまう.これが,人気ブログの特徴かなぁ?と勝手にぼくは思っている.ただし,そこのは罠がある.そのような「ちょっと乱暴なスパイスのきいた文体」は,長く読んでいると気分が悪くなる.それはそうだ,身体に馴染みやすくない文体にしたら注意を払われたのだ,その文体を長く摂取していたら,気分は絶対に萎える.スパイスばかりきいたご飯を3日つづけてたべたら,なんか味噌汁とご飯でいいです,という気分になるようなものだろう.文体で読ませるブロブは書籍化すると,たいていつまらなくなり,その印象がその作家を印象づけてしまい,先にいけなくなる.つまり,本をよんでげんなりしちゃったら,ブログはもういいやとなってしまう.と,まぁぼくは想像してしまう.

ブログが面白くて,お仕事でもいろいろと企画をされるような人ならば,ここは一つ「作品」といえるようなものを書いたほうが良かったんじゃないなかぁと想像する.つまり,ブログが人気があったのでブログを出版しましたみたいなことは,やってもいいいけどやったら一回で終わりになるということだ.ブログを書くことをつづけてもブログから先に進めないとしたら,自分の思っていること感じたことを自分が語りそれを記録するというブログではなく,それを取り巻く世界を設定し,人を設定し,その世界をすべて文章で構築するとう「作品」と呼べるものをつくっていったらどうだろうかと思うのだ.つまり,ブログはどうしても実際に存在している著者と紐で繋がっている必要がある.細かいこと記述されていないことは実在の著者が担保しているようなもので,だからブログは地域も時代も超えていくことはできない.ブログ単体では必要な情報が足りていないからだ.ところが,ブログの内容が元になっていたとしても,必要な正解をすべて文章で内容に織り込んでしまえば,「すべて内容にある」ということからそれは「作品」と呼ばれるものになる.その作品には必要なものが内包されているので,地域も時代も超えて作品として時空を漂うことができるようになる.ブログ本はどうしても,単体で時空をさまようことができないので,読んだ瞬間は面白いけどそれが未来の自分に登場することがないので,ちょっと残念(損した)気分がするんだろうなぁ.