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1. 時間の無視 

時間を無視すれば、学ぶことは簡単なのだ。

「瞬間」には変わらない。それは全てに言えること

 
 さて、勉強するか。そういう気楽な気持ちでスタートする人は幸せである。なぜなら、結果への到達に焦っていないので。逆説的な言い方かもしれないが、慌てて飛ばして結果へ爆走しようとする人はたかい確率で失敗する。いや、他人のことはよくわからないので、違うかもしれない。ぼくの場合はそうだった。そろそろ不惑の年代に手が届こうとしているが、今になって言えることは、「時間的な余裕がないと結果的に失敗する」である。

 望むものを瞬間的に手に入れようとするのは自然なことかもしれないが、実際できると考えるのは幼児である。本来ならばできることが、誰かが邪魔をしているためぼくは手に入れることができないでいる。まったく、おかしな話である。と無識にでも考えているのだろう。本当のことは、忘れてしまったのだが。人は誰そも本音のところでそういうところがあるならば、それは生まれつきの性質であり、幼児の特徴でもある。しかし、そうは問屋がおろさない。現実に叩かれ多少世界が見えるようになっていく。それが成長である。

 勉強も同じ。動機がなんにせよ、知識や能力が欲しいから勉強する。それ以外に自発的動機はない。オレも知りたい、もっと知りたい、何かができるようになってみたい。やればできるだろう。さ、やっろう。若者ほどフットワークがるく行動する。ギターを弾きたいとしよう。買ってみて、さぁ弾こうとおもっても、どの弦を押さえるのか、どのフレッドへ行くのかわからない。コード一つの形を覚えたとしても、綺麗に音が出ない。それに、指が痛くってかなわない。1時間も集中したとして、結果はでるだろうか。答えはでない。無理である。大抵の人が見落としている。あなたには身体があるのだ。

 想像の自分はなんでもできる。想像力のすごいところである。それは、想像の自分が身体を持っていないから可能なことだ。重さを持っていないものはなんだってできる。重さがあるものは触ると動くし、場所も取る。時間についても同じだ。重さをもっているもの、質量があるものは時間に束縛される。移動するにしても、変形するにしても、存在し続けるにしても時間を無視することはできないのだ。重さがある身体も同じで、すべて時間の中に存在し続けるゆえに、何をするにせよ時間がかかるのだ。

 ギターの弾き方は身体を使う。自転車だってスキーだって身体を使う。それは「できるようになる」ための勉強には時間の話は当てはまるが、「知る」ための勉強には適用できないのではないのか。

 なるほど。そいう疑問を感じるのは当然だ。ある出来事を耳にし、そういうことがあったのかと知ることがある。この行為には努力を要していないし、ましてや時間がかかってもいない。知るとは実に簡単なことではないのか。だとすれば、自分が物事を多く知っていないのは、適切な知り方にしか接してこなかったからもしれない。学校時代に先生がきちんと話をしてくれていれば、こんなことにはならなかったのだ。自分は被害者なのだ。そう考えるのは自然なことである。しかし、自然だからといって正解というわけではない。

 知る行為を含め、その結果は身体に刻まれる。筋肉が太くなる、関節が柔らかくなる、脳細胞の結合が変わる。目で見得る身体の変化もあるし、目で見得ない変化もあるが、両者ともに物理的な変化が身体に起きていることに違いはない。知ることも、脳の状態が変わったからなせるわざである。ならば、重さのない情報を扱うのは重さのある脳であるのだから、知ることにだって時間がかかる。脳の場合は、脳細胞の結合という「回路」が書き変わるのだから、すぐにできるはずがない。筋肉増強と同じくらい時間がかかると思っていいだろう。(実際のところは、知らないけど) 

万物は流転する。諸行無常。そうはいっても自分は変わりたくないものである。

 
 古代ギリシャ哲学者の言葉にもお経にも、物事は変わると言っている。だったら、変わることは簡単なのではないか。

 何もしないでも変わるといっているのであって、変わりやすいとは言っていない。まぁ、哲学的なことは置いておくとして、どうして自分を変えるような勉強を実行し難いのだろうか考えてみる。

 人は変わりたいと思っていいる反面、変わって欲しくないとも思っている。自分を変えるような勉強をしたいと思っていながら、自分は変わりたくないと思っている。なので、自分は変わらないで知識を追加したい、能力を追加したいと考える。とても自然なことなのだけど、この発想は学ぶ上での最大の敵なのだ。ほぼ結論のような事実である。パソコンを例にとると分かりやすいかもしれない。パソコンに機能を負荷するとき、グラフィックカードやメモリを本体に差し込んだり、ソフトウエアをインストールしたりする。この結果、パソコンの能力が強化される。同じことが自動車にも言える。おそらく、時計や万年筆にこだわる中年親父や洋服や宝飾品を身に付ける女性も同じ動機なのかもしれい。すべて、追加することで機能向上を図っている。

 仕事がら大学生の行動を見かけることがある。彼は「何かを身に付けよう」としている。しかし、その過程で自分を変えるようなことは拒否する。ある学生さんと話をしたとき、その学生さんはこう言った。「自分は研究の方法は完全にわかっている。」こうなると、何かを教えることは不可能だろう。こちらとしては、研究の方法を全然学ばないでここまで来てしまった学生さんだろうから、まずは最初の一歩として地味な作業をするように助言したのだ。話し合いは最初からかみ合いそうもないし、自分が面倒をみるべき学生さんでもないのでその後どうなったのか知らない。他の人がうまくアドバイスをしてくれればなんとかなるだろうが、そうでもないならば結構悲惨なことになるだろう。足りないのではない、変えないとダメなのだ。

 勉強するには、今の自分にないところを認識する(つまり、そうですね、ダメですねと認める)ことが最初である。その後、ダメなところを変えていくことになる。知識を得るタイプの勉強であっても、いわゆるリハビリと同じような過程を踏むことがある。今風の言葉でいえば、バカの壁を越えるための努力なんだけど、何歳になっても新しいことをやるにはこの努力をしなければならない。ただし、リハビリは辛く苦しいものとは限らない。驚きと好奇の気分一杯にすごすこともできる。なぜなら、壁を越える過程そのものには、いかなる「味」も付いていない。味を感じるのは自分次第なのだ。

 新しいことを知る。すると古いこと矛盾することがある。古いことを強化することもある。いずれも、知る前の自分が変わっていくことに違いはない。勉強していくと、以前興味があったことがバカバカしくなったり、さっぱり興味がなかったことの意味がわかったりする。これは、自分に知識が付いたのではなく、自分の価値観が変わったのだ。

壁とはよく言ったものだ。越えるしかなく、それには時間がかかる。

 
 バカの壁。その変えべを越えようとするとき、何を考えてしまうか。高い壁は「越えられない」と思うかもしれない、つかむ場所がないと不安思うか、あるいは、途中で落ちたときを心配するか。注意したいのは、それらどれもが「越えようとしている主体の自分は今現在のもの」を想定していることだ。そこが、一つの間違いなのだ。

 越え始めようと行動を始めたとき、既に視点が変わるのだ。本を読み始めて数ページたっとしよう。前書きはくだらないが、導入はやさしい。しかし、すでに知らない単語が2つあったし、式まででてきた。2章へすすむには30分かかるか。その前に飽きてしまわないか。そういうことを考えながら、数ページ先をちらちらと見る。ぼくの経験では、この段階で少し飽きているし、遠からず読むのをやめるだろう。そして、大抵の教科書はそういう風に遭遇したものであるし、今でもそうだ。このようなことでさえ、読み始める前と後で違っているし、本に対する印象が変わってしまったことだろう。内容はまだ理解していなくてもだ。

 なぜ、途中で先のことが気になるのだろうか。多分、今読んでいるところが「飽きた」からだと思う。飽きるという言い方が不適切かもしれない。その段階で、既に読んだ箇所を理解するために必要な変化が頭の中で起き始め、正常な意識を保つことが少し難しくなったのかもしれない。何れにせよ、頭の中で何かが変わろうとしているのだろう。だから、集中できないのだと言えよう。もし、これまで知っていることを読むだけならば、頭の中では対した変化が起きないのだから、すらすら読めてしまう。その方が、読書としては気持ちよいかもしれないが、勉強にはなっていない。つまり、新しいことを学ぶと頭が混乱し、自然と注意が散漫になっていくということだ。

 絶対のここでやめてはいけない。過去勉強をしたいと思い何冊かの教科書を購入し、最初の数ページを読んでそのままになっているという経験を持っている人はたくさんいるだろう。教科書を買ったことがある人全員がそうではないかと思う。ならば、この経験則は大勢の人に適用できる。途中で投げ出した本は捨ててはいけない。むしろ全部読めてしまったような薄い本は捨ててもよい。ぼくは、最初に薄い解説本、次に教科書、という順番に読むといいと勉強ができる人に教わったことがある。その後、ずっとそうしていたのだが、いかんせん、ほとんどのものは解説本で倒れてしまった。しかし、新しいことを勉強するため洋書のぶ厚い教科書を買って読んだ経験からいえば、ぶ厚い教科書ほど入門者に役立つものはない。薄いガイド本ほど結果的にくだらないことかが書かれているものはない。そういうことである。

 洋書の教科書は厚い、高い、読むのが大変だ。しかし、それしかない場合はそれを読むしかない。当然、日本語の教科書と比べて10倍くらい時間がかかる、買ったから少しでも読んでおこうという気になる、しかも、どうせ洋書なんだから読みきれないのは当たり前だと思い、時間がかかることに対してプレッシャーが係らない。そして、それが良い結果を生むことになる。日本語の教科書よりも印象が残り、頼りにしてしまう本となってしまうのだ。

 なぜだろうか。いろいろ考えたのだが、その一つは諦めが焦りをなくしてしまったことだと思う。読むのに時間がかるのは最初からわかっている。だから、焦らない。英語が不得意。だから、気長に読む。同じところを繰り返し読む。忘れちゃったところはもう一度読む。ムダだけど、英語の勉強もかなえているからいいかな。そういう気持ちの余裕が、長い時間がかかるにもかかわらず続けることを可能しているのだ。

 そういうことは、これまでマイナスの評価をしていた。時間がかかるのは悪だと思っていたのだ。教科書も手っ取り早く読めるものを選んでしまいがいちになった。ちょっと読んでわからないことだらけの教科書は本箱に戻してしまっていた。自然にそういしていた。しかし、自分が読んで価値があるものは、言って見ればわからんことが多いものだろう。

 時間をかけて学ぶ。ちょっとわからないことでも、時間をかけて付き合うとなんとかなる。もちろん、いかなるものでもそうなるとは限らないのだが。このような話は、身体を使う人にとっては「あったりまえ」のことだとわかる。あることが出来るようになるには、時間をかけて自分を変えるしかないと知っている。それと全く同じように、学ぶことについても時間をかけるよりない。実に単純なことだ。

ここにさっぱりわからない教科書がある

 
 これまでとは違う気分で、教科書と向き合うことにした。さっぱりわからなくても驚かないことだ。今はさっぱりでも、時間をかけると知ったものとなる。わからないならば、慣れればいい。最初は気持ちわるいが、慣れとは恐ろしいもので違和感がなくなる。いつか、わかる日がくるかもしれないと思いつつ、どっちともつかずの状態のまま慣れてしまう。

 慣れるという状態を許容するならば、大抵のことは勉強できることになる。時間をかければいいのだから。ただし、こういう発想ができるようになったのは実に最近である。大学生のときは無理だったのかもしれない。あるりは、そういうことを教えてくれる人がいなかっただけなのかもしれない。それにしても、何がしら不明なままその問題に慣れてしまうとう方法は、そんなに悪いとも思えないし、そんな勉強方法があるとも思っていなかったので、ちょっとうれしい気分がする。

2008.02.16.SAT

2. 立ち位置の確認

実際のところ、どうよ。

見たくない。でも、スタート時点での立ち位置を見よう。

 
 古代ギリシャの聖地、デルフォイのアポロン神殿の入り口には、「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていた(今でもあるのかな??)。自分について巫女?に占ってもらう場所にそう書いてあるというのだから、未来について興味を持つ前に、(その第一歩として)自分のことを知ること。人は変わらないので、この言葉は今で有効であろう。

 自分の立ち位置をあえて確認するのが辛い人もいる。今の自分の立っている場所をできれば知りたくない。そういう気持ち、わかる。わかるのだが、でもあえて見ないといけない。ほとんどの人は、自分が思っているほど「よく」はない。能力にしても、状況にしても、成果物にしても、経歴にしても。それを(意識は拒否するが)薄々知っている。だからこそ、立ち位置を確認したくないし、見たくないし、だからあえて見ない。がっかりしないで済むし、自分に対する尊厳を、なにも傷つける必要はないじゃない。そう思っているから。

 もっとも、これは余裕の問題でもある。第三者が見る自分と、自分自身が想像している自分とがほぼ一致していればこんな不安は感じない。そういう人は、勉強を始めようかなと、気楽に切り出せたりする。余裕があり、立ち位置をすぐに確認できる。ありゃりゃ、これっぽっちしか自分はできないのか。汝自身を知った後も傷つかない。いや逆に面白がったりするくらいなのだ。

 しかし、ご同輩、われれはダメ人間なのだ。そういう人は世の中の80%以上、圧倒的に多い方だ。だから、このメモを読んでいるのだし。もっと言えば、勉強しようかなと思った段階では、普通追い詰められたり、心配になったり、という状態からスタートしているはずなのだ。だから全員立ち位置を確認したほうがいい。今までそれを見ないできたはずなので。

他人と比較した結果、勉強しようと思った。

 
 見たくものない自分の立ち位置を見てまで勉強を始めようと思った理由はなんだろうか。日曜日の午後、部屋でぼやーっとしながら人生を反省したせいだろうか。それとも同輩、後輩の実力を見せつけられたからであろうか。このままじゃいけない。そう思った人が多いはずだ。

 しかし、だ。ネガティブな気持ち、恐怖心、焦燥心が行動のきっかけになるのありだが、その気持ちを燃料に勉強を続けていくことはできないだろう。というのは、勉強に「即効性」がないので、動機の燃料たる焦燥心が日が経つに燃え上がるのに火消しである勉強の効果は現れないからだ。原理的にそうなのだ。したがって、焦燥心を消すことができないまま走り続けると必ず失敗する。これは、人が年老いて死んでいく、という普遍的事実ようなものなのだ。早いうちに、不安から脱却する必要がある。では、どうすればいいのか。

 勉強の動機をプラスに転向するきっかけはたくさんある。一番理想的なものは、勉強対象そのものに「はまってしまう」ことである。なぜ、勉強しているのか。そんなことはどうでも良いくらい、勉強する行為が愉快になれば幸せなことだ。女の子に持てるためにギターを始めたのだが、ある音楽が気に入ったとか、バーデン・パウエル奏法に魅了されたとか、なぜこのギターの音はいいのかという物理や職人技術に興味をもつとか、いろいろあるだろう。とてもいいことなのだが、これは「人為的に」制御することができない。人との出会いと同じで、運不運としかいいようがない。だって、何に興味をもつのかなんて、本人が決めようがないじゃない、自然にそうなってしまうのだから。

 だから、普遍的な方法として有効なのは、「勉強をしようと思うが、勉強ができるようになった暁にしか、なぜそれが良いのか、楽しいのかを自分には理解できないものだ」と諦めてしまう方法だと思う。あることについて全く勉強していないのに、勉強し終わった状況についてあれこれ議論することはできないんですよ、これが。学生さんの研究活動に付き合うと身にしみるほど理解できる。「なぜ、それをやるのか」についての判断を諦めて、とりあえずそれをやる。これ、かなり高い確率で、「なるほど、そうだったのか」という発見に結び付くのだけど、時間がかかりすぎるのが最大の欠点。

 「ネガティブ」→「判断停止」→「気付き」→「ポジティブ」 長い長い心理的な変遷をたどる必要があり、大抵の人はこの方法をとらない。でも、確実に勉強対象について見晴らしの良いところへ連れて行ってくれる。行ってみれば、宗教みたいなもんです。アーミダーがぼくを助けてくれると唱えれば極楽へ行ける、と信じるようなものですね。南無阿弥陀仏に対応する言葉があるとすれば、「学問に王道なし」。なーんだ。

 あの人はスゴイのにおれはだめ。焦燥感を絶つ方法は諦観というしょうもない論旨になっているが、ぼくの経験則からの結論はそうなってしまう。そして、それがそんなにおかしなことではなく、職人や徒弟制度がある世界では普通採用されてきた方法だと気付く人もいるだろう。まさに、日の下に新しきもの無し。

競争という生き残り合戦。リファレンスというとらえ方。

 
 勉強していると、他人の頭の良さが目に付いてくる。今、勉強しているくらいだから自分ができないのは当然で、他人はすでに勉強しているのだから出来るのは当たり前。そもそも、比較するベースが違うのだけど、そうはいっても自分の愚かさを知るにつけやる気がなくなってくる。「あーあ」と「ふぅ」というため息。少し悲しみを味わったりし、外が暗くなっていると「日暮れて道遠し」と口にしてしまう気分になる。酒でも飲んで忘れることもできるけど、それだと勉強できなくなっちゃう。

 世の中頭のいい人が多い。ぼくの周りで同年代の人は、共通一次が満点だったとかいう人がいたりするし、研究室の学生さんには、灘・灘・東大・東大院というスゴイ人がいる。面白いことに、トップクラスの頭の良い人に「悪い人」はいない。感じの悪い人もいない。考えてみりゃ当たり前なんだけど、感じがわるかったり、頭の良さを鼻にかけたりする行為って嫌われることが100%自明なんだから、そんなことするわけないわけだ。

 そういう人でなくとも、「おれってだめだなぁ」と思うことがあるときに、どうしたらいいのだろうか。腐る。それも方法だけど、先がない。ライバルとして追い抜こうとする。ある意味前向きだけど、多分勝てない。じゃぁ、競争を避ける。それも有効な方法だけど、共通の尺度で測れるような成長はないだろう。ならば、どうするのか。考え方の問題なんだけど、あえて比較することだと思っている。比較することで、「自分の立ち位置」を知る。それでいいじゃない。ただし、コツがあるとすれば、比較相手は「だれでもこの人はスゴイ」と評価されるうちで、自分と同類と呼べそうな限界境界上にいる人が良い。天才と比較することも有効だけど、差がありすぎてうまく比較できないだろう。測定レンジが違っている場合がある。こいつには負けたくない、という相手とは比較しないほうがよい。冷静さがなくなるから。数年先輩の一定の評価が定まった人の背中を追う。背中の大きさが、すなわち距離を表している。これならば、引っ張ってもらえる。同輩と競争すると、相手を潰そうとして転んじゃうことがあるだろう。未熟者同士は、共通の人の背中を見つめて走ればいいだけだ。

 そういう先輩の人をロールモデルと呼ぶらしい。スタート時点での立ち位置を知ったとしても、勉強中の立ち位置を知るには動く基準が必要となる。それをリファレンスと呼ぶことにする。リファレンスは常に先にあることが望ましい。これって、誰も知っている感情だ。「あの人のようになりたい」。こういう人が生活圏内に存在する人は幸せである。いない場合は、同時代の人にすることもできるし、歴史上の人物に置くこともできるし、架空の人だっていいはずだ。勉強するのは自分を「意図的に制御する」ことなのだから、リファレンスの存在は必須。リファレンスのない制御は「制御ではない」のだ。

結果的に修業になったりする

 
 おしっこがしたいとしよう。これは他人にやってもらえない。腹が減った。これも他人にかわってもらえない。その意味で、ダメ人間の自分も他人に代わってもらえない。我慢して、ストレスフルな状況で使い続けるより、仕方ないよねとさっさと諦めてしまってピースフルな気持ちで過ごす方がいいだろう。どうやったところで、自分としてしか存在できないのだ。ぼくは、がっかりモードのときにはそう考えている。そして、論理的に「そうだな」と思ったら、情緒的にも「そうだな」と思えるように、お気に入りの行動をとることにしている。それは、バスロマンを入れた風呂につかり防水CDプレーヤーで喜多郎の「Asian Cafe」を聞く。あるいは、トワイニングのレディー・グレーの紅茶を飲みながらジョンコルトレーンの「Ballad」をしみじみと聞く。あるいは、思い出すと明るい風景がよみがえる旅行の写真を見返す。

 まぁ、しょうがねぇじゃねぇか。まずはその一言。そして、手を動かす、頭を動かす。こういうことって、1年つづければ生活の一部になってくる。慣れるということなんだよね

2008.02.17.SUN 

3. 腹をくくる

迷える子羊に決断を迫る

 
 小学校の頃に潜水という競技があった。水面からでないで何メートル泳げるのか。市営プールでは禁止項目だったけど、小学校では2級以上をとるためには20mクリアが必要だった。潜る前にゴール付近を睨みつけながら深呼吸し、潜る直前に大きく息をすう。頭を水面に入れると音が消える。壁を蹴ってできるだけ先に進む。スピードがゼロちかくなったら平泳ぎをする。抵抗が大きいと進まない。プールの底の白い線の進み方でゴールまでの距離がわかる。たまに碁石が落ちていたりする。ゴール付近は苦しい。苦しいこけどゴールして、水面に上がると人の声が聞こえる。青空と白い雲。とまぁ、小学校時代によい思い出。

 時間がかかるとわかっている作業をする前には、いまでもこの潜水を思い出す。最初の一蹴りでどこまで勧めるか、泳げども進まないところなどよく似ている。息を吸って、さぁ、行くぞというときの心理状態を「決断」と呼ぶのだろう。結果がでないとわかっていればいるほど、長い距離を潜水する必要がある。中学校くらいで、30−40mくらいは行けたような記憶があるが、確かなことは憶えてない。今では、危険行為と見なされて禁止なんだろう。モンスター一家はどこにでもいるだろうから。

 体育会系の活動はまったくしていないぼくでも、年に1度くらい「おまえ、腹をくくれ」と真剣に言うことがある。大抵、博士課程の学生が審査請求をだせるかどうか悩んでいるときだ。もう一年やろうか、取らないで卒業しようか。内容についてはあれこれいう立場ではないけど、「腹をくくらないと、博士号はとれんだろうな」と言うことにしている。

 道筋が見えているときは腹をくくりやすい。先の博士号についてならば、学会に論文が数本採用されていれば大丈夫なことがほとんどだ。しかし、本当に勉強したところでできるようになるんだろか、という疑問を抱くようなものは、賭けとか宗教への入信のような気分になるかもしれない。ただし、勉強でハラをくくった場合には、それは継続的な自発的な活動を自分に強いることであって、運を他人や天に任せることとはちがってくる。要するにハラをくくるわけだ。

長い時間と数の論理 

 
 勉強するには長い時間が必要になるといった。学問に王道はないといった。それは、論理的な理解ならば短時間に可能かもしれないが、情緒的な理解(わかっちゃったもんね、という感覚)や身体を使うことを身に付けるには脳という身体が物理的に「変化」する必要があるからで、それには時間がかかるから。そういう説明をした。

 では、実際問題何を長いことやるのことになるのか。勉強対象がいろいろ代わっても、「数」をこなすことに違いはない。あることを、身体が憶えるまで実施するのだ。本のある部分を読むことかもしれないし、ある作品をずっと観賞することかもしれないし、ドレミファをずっと弾き付けることかもしれないが、それらの数をこなす。数をこなさないでも身につくものは、ダイエット商品と同じで、要するに信仰なのだ。あるいは、物理的に脂肪吸引してもいいかもしれないが体調不良に陥り、死んじゃったりする。勉強について同じことやることは可能だが、それは「誰でも」できることではない。もっというと、頭のいい人ならできるようなことかもしれないが、それならそもそもぼくとは関係のないことであって、そのからくりをぼくは知らないのだ。

 数をこなせば、誰でもできるようになる。全くさえない言葉である。ばかじゃんと言われそう。でも、仕方がない。人が歳を取るのと同じようなことだから。歳を取らない世界に済んでいたり、若返りの水を持っている人にはいろいろよい方法があるのだろうけど、普通の人にはない。利用出来ないものならば、あってもなくても同じ。だから、ないことにして生きていくことにしている。

 じゃ、どのくらい繰り返す必要があるのか。1回の定義は対象によって違うけど、普遍的な数値として100を上げる。そして、その後上達したといえるようになるには、1000、10000と10倍ずつ繰り返す。もっとよい計算方法があるのかもしれないけど、ぼくの経験則では100,1000,10000という感じにレベルが上昇すると思っている。実際、読書メモも100を越えたあたりから「面白かった」以外が賭けるようになってきた。ここで見逃して欲しくないのは、レベル3へ移行するのは、相当努力しないと普通の人には行けないし、逆に言えばそのための努力をするような人は滅多にいないからこそひとかどの人になれるはずということ。ナイーブ推論だが、なっとくできる帰結ではある。

2008.02.17.SUN

4. 始める

 いいから始める。まずやる。何でもいいからやる。

始める条件がそろうことはない

 
 腹をくくった。もう、やるっきゃない。などと決心したあと何が起きるのだろうか。それはわかっている。準備がそろうのを待つのだ。あれとこれがそろったら始めよう、などと考える。ぼくやるよ、この条件がそろったらね。でも、そろわないのはぼくのせいじゃない。そう、考えてしまう。少なくともぼくはそう。自分の決心など役にたたない。そして、自己嫌悪に陥る。いつものパターンである。
 腹をくくるのは退路を塞ぐためのもの。あるいは、意識が無意識に宣言すること。しかしだ。自分の身体は自分の意思通りに動いてはくれない。それどころか、意思ではどうにもならないものだ。意思を超えたものを感情だとか気分だとか呼ぶ。例えば何かをしようと欲したとしよう。そして、行動をとる。人はその順番で行動していると考えられている。でも、実は違うらしい。それが最新の認知科学や脳の研究で明かされつつある。順番が違っているというのだ。そこでは、行動と同時に行動しようと欲しており、その後「行動したいと欲したので行動をした」と意識されるのだそうだ。いわゆる、自由意思が否定されているのだ。この説、どの程度一般の人に受け入れられるかは不明だけど、ぼくはそうかもしれないと思っている。その理由は、なぜ何かをしようと欲するのかについては意思が介在しないからだ。なんでそんな気分になったのかわからないけどやっている。人とおしゃべりに夢中になっていても食事の時はどのおかずをとるのか決めている。そこには明らかにぼくの意思は介在していない。考えなくても、勝手に手が動くのだ。ならば何かを仕様と思いついたとしても、それをやるべきだと考えたとしても、そこれは意思の結果考えたことではないのだ。

 行動をおこすと身体が動く。するとどうだろうか、行動を起こす前とおこした後では考えが変わることを感じないだろうか。もう、行動を開始しちゃったので、なんらかの動作が記憶を呼び起こしている。そして、その記憶は、その次にやることを思い出させる、すると、身体が自然と準備し始める。まさに、転げるように考えることがしぼられてくる。次々とやるべきことが思い浮かんでくる。こういうことは、記憶がベースになっている。「〜をすべき」という論理判断など、脇へ追いやれてしまうのだ。

最初の集中力

 
 絵を描くなら紙を用意する。楽器ならば構えてみる。勉強ならば教科書の一行目を読む。研究ならばメモやポンチ絵を描く。さて、次に訪れる危機はなにか。それは、開始して1時間以内に襲ってくる休憩である。実は休憩といいながら適当な理由をつけて中止してしまうのだ。教科書を開くと前書きから読んでしまう人はいないだろうか。下手をすると「シリーズ発刊にあたって」とかいうどうでもいいものを読んでしまうことがあり、それと前書きとを読んでみてつまらないからやめたくなってしまうのだ。なんともったいないことか。前書きは読み飛ばす。他のものも同じようにさっさと始める。

 心構えなどというものは、ある程度できるようになり自分を客観的に観察できるようになってから必要になるものなのだ。ところが、ぼくの場合だが、その段階で飽きて休憩してしまい、そのままやめてしまったものが実に多い。まったく、我ながらアホである。準備運動は必要である。腕ならしは必要である。それに異論はない。しかし、心構えは必要ないのだ。

 日曜WEB製作者であるぼくは日曜日に作業を開始しないことにしている。なぜなら、日曜日に始めると、あれやこれやの準備だけで夕方になってしまい、それでその週の作業は終了してしまうから。準備は金曜日の夕飯前か土曜日の午前中に行う必要がある。それを越えたら、おそらくその週の成果はゼロになる。ねがわくば、準備などいらない仕組みを作っておき、準備なしにスタートできるようにしておきたい。そのためには、開始する条件など無視して、できるところからさっさと開始し、最初の数時間は休憩を入れないことである。

 さて、無事に1時間以上集中したあとで何が起きるのか。いきなり何かがわかることはありえない。ここが大切なのだが、初めてやることならばほとんどなにも得るものがないという結果に終わるはずなのだ。そして、それでよい。なぜか。初めてやることは自分になんの「記憶」もないからなのだ。何かを理解する、何かが出来るようになるためには、その対象について十分な「記憶」を持っている必要がある。身体を動かすことならば、身体が憶えていないことはまったくできないはずで、出来るようになったならば身体が覚えているはずなのだ。この記憶は数時間集中したからといって身につくことはない。まったく、逆説的なことだが、勉強を初めて数時間集中して揚げ句の果てに何もわからんかったというのが、実は正しい道なのだとぼくは思っている。

冷静になって思い出す

 
 何かができるようになることは、記憶が十分に頭や身体に溜まってくること。記憶がないならばどうやってもできない。頭が良い悪いという問題は、相当高度な技量を求めているときに聞いてくるものであって、最初のうちはなんの関係もない。楽器だろうが、教科書だろうが、関係ない。子供だってできることは大人だってできるのだ。

 休憩中にすることがある。少し冷静になって考える、というより、思い出してみる。今やろうとしていることと同じようなことを昔やったことはないだろうか。勉強でもスポーツでも「似たようなことをやった」ことがないか思い出してみる。もし、あ、あれと同じかなと思ったらその記憶を休憩中になるべく思い出してみることだ。下手をすると、休憩後いきなり「あれ、できるようになった、わかるようになった」ということが起きないとはいえない。もし、そういうラッキーなことがなければ、これから学ぶことを「理解する」のではなく「記憶する」ことである。一般によく勘違いされていることがある。何かを順序立てて論理的に説明されれは何だってわかるはずだ、というのは全くウソである。養老孟司はこのこと分かりやすく言った。バカの壁である。記憶がなければ、どう説明されようとも決して理解はできないし、できることもない。

 人の知能は記憶がベースになっている。記憶がないところに知能はない。物事のならいたてのときは、とにかく記憶することである。対象を順序だててまた、道理でゆっくり理解するというのは、実は理解したあとでの「楽しみ」であって、それは一番最後に来ることなのだと思っている。人の頭はコンピューターにソフトウエアをインストールするように知能を獲得していくわけではない。まずは、ごちゃごちゃのまま知識や技能の不完全な断片が記憶される。そして、その後長い時間をかけてその断片を組み上げなおし、最後に綺麗に一つの体系に仕上げていく。どうしてそういうことになるのか。答えは簡単だ。だって、脳がそういう仕組みなんだから、仕方ないじゃないか。

 とにかく断片を憶える、それに慣れる、長い時間をかけながら整理整頓して、最後に磨く。これはどんな人でも同じ工程になる。こう考えると一つの仮説が思い浮かぶ。あることを勉強し、それなりにわかるようになった、できるようになったとしよう。そのメリットはそのことが出来る、ということに限らない。同じようなことも短期間にできるようになる可能性があるのだ。もし、何か出来ることがある人ならば、似たようなことを勉強してみるとよい。「オレってば、スゲー」感を感じることができ、結構楽しい生活がもてるかもしれない。もし、そいうものが内ならば、まずは一つ身に付けることだろう。

 生物学を専攻していた友人がいた。高校のときに彼に聞いた事がある。ゴキブリを気持ち悪くなくする方法は簡単だ。ずっと見ていればいい。たったそれだけでいい。慣れるとカブトムシと変わらん。そうなんだろうとぼくは思う。そして、大抵の知らないことについても同じようなものだと思のだが。

2008.03.20.THU 

5. 上達しない

 そりゃもう、ビックリするくらい上達しないのが普通。

そんなに甘くない、ということ

 
 で、実際初めた。努力した。数ヶ月は続けてみた。少しは上達すると信じていた。しかし、上達しない。あれ、ってくらい上達しない。なんだよこれ、うそじゃねぇか。ちきしょう。 

 と言うことになるはずである。そうならない人はおそらく性格の問題で、多分上手になっていないのに上手になった気分になれる。それは幸せなことだ。が、周りの人は「上達した」とは思っていないだろう。まぁ、そういうところが面白いのだ。そうそう思わないとやっていられないというのが現実なのではないかと思う。

 自分が思っているほど、自分自身を変更することは簡単ではない。身につくかどうかは実は自分にはどうにもならないところがある。いってみれば脳細胞を変更することが果たしてどこまでできるのか、ということになるから。それは、自分の身長や声質と同じように努力ではあるところまでしか改変できない。そして、その変更可能な幅のなかに意図するゴールがあるかどうかはやってみないとわからない。

しばらく続けたあとの疑問

 
 一月ぐらい練習をつづけたあと、その効果が自分の想像よりも著しく低いとやる気が失われる。あるいは、疑問に思う。なんだか騙されな気分になる。しかし、効果が現れるのはかなり時間がかかる。よくダイエット商品の宣伝には数週間お試しくださいというものがある。あれはある意味正しことなのだが、半分くらい本当だろうかという気もする。 

 なぜ、すぐに自分が変わらないのだろうか。それは、人間が普通に生きてくためである。環境に変化で自分自身がすぐに変わってしまうようでは、安定した生活は望めない。もちろん3日も何も食べないと腹が減って動けなくなるのは当たり前で、物理的にも仕方ないところである。しかし、夕飯が食べられない日が3日つづいたとか、1週間くらい朝飯がだべられなかったとか、そういうレベルの変動に身体がいちいち変化していたら、生活するには不利である。いつも変化していなければならないのだから。同じように、練習を少ししたくらいで能力が変わった(つまりは、自分自身の脳や筋肉が変化してしまう)ようでは、自分というものがいつも変動して、一体今は何ができるのかわからない、と言う状態になり安定した自分の能力把握ができない。生存には不利である。どちらかといえば、生存のためにはなるべく能力は安定していたほうがよい。そういう意味で、勉強なり練習なりの結果はすぐに現れないのが普通だろう。

 そして、大抵の人はこの期間に練習をやめてしまう。若い人はとくにそうだ。少なくとも、何かをするときに「意識的に」やっているようではダメで、「無意識にできる」ようになるまで繰り返す必要がある。筋肉を鍛えるときは、繰り返し繰り返し筋肉に負荷をかける。それを当たり前だと思うだろう。それと同じように、練習も繰り返し繰り返し行い、身体がすっかりと覚えてしまうまでやる。身体が覚えるというのは、たとえば数学のようなものにも通用する。いわゆる積分なり微分なりの手順が比較的決まっている作業ならば、あれは繰り返し訓練によって、何をするべきかパッとわかるようになる。それも身体が覚えていると言えるのだと思う。

いつまでそういう状態なのか

 
 いつまでやればいいのか。これはわからない。というのは、上達に近づいているのかどうかがそもそも不明だから。現在続けている練習法が意味を成すのかどうか、それはやる前にははっきりしていないことが多い。ある人が成功した。多くの人が成功した。だから、その方法は効果があるはずだ。かりにそれが事実だとしても、その方法があなたに聞くかどうかはやってみないとわからない。確率は高いだろうし、今からやる人を何人も集めて実施すればその確率が正しかったことが証明されるだろうけれど、「自分」が成功する側にいるかどうかはわからないからだ。 

 練習の方法を変更するタイミングというものも存在する。しかし、それは一概に言えない。1週間なのか1ヶ月なのか半年なのか1年なのか。それは状況によるし、個人にもよる。ただし、一つの指標は繰り返しの回数だろうと思っている。過去何かを練習し、それができるようになった経験を大抵の人はもっているはずだ。そのとき、出来るようになるまでかかったのはどのくらいだったのだろうか? それが一つの指標になる。

 iPodでBBCのニュースを通勤時に往復で1時間くらい聞くことにした。3ヶ月で少しは聞き取れるようなるだろうと思っていた。30x3=90くらいで100という指標を置いたわけだ。しかし、3ヶ月では能力変化はほとんど起きなかった。悲しいくらい上達しなかった。3ヶ月前と比較しても変わった気がしない。なぜなら、ニュースはほとんど何をいっているのかわからないからだ。そして、更に3ヶ月聞き続けた。そろそろ半年である。で、今現在で判断すると、「すこし」よくなったと思っている。いつ、どんなきっかけで良くなったのか「憶えていない」。しかし、始めた当初とはことなり、明らかに聞き取れて内容ができかいできる時がある。何%の理解なのかはわからない。20%くらいではないかと思う。しかし、「できるようになった」のは確かだ。

 能力の向上は思った通りにはいかない。このまま3ヶ月続けると相当わかるようになるのか、あるいは、いまよりも悪くなるかもしれない。わからない。でも、やめたらそれまでだろうということは確かだ。

 いつまでつづくぬかるみぞ、という問いに答えはだせない。しかし、練習していること自身を気にならないくらいの当たり前のことになるようにまで続けないと、なんにもできんようにはならない気がする。

2008.06.20.FRI

6. 熱が冷めて

 情熱的に続けることはできない。続けるには情熱は不向きだ。

炭のような燃焼になったらチャンス

 
 さぁやるぞぉと勢い続いていた頃が懐かしい。言われるがままにつづけているけど、なんとなく面白くない。でも、ここでやめたらもう終わりだ。だから続けている。続けていることが目的のような気分になっている。これでは何のためにこの勉強を始めたのかわからない。勉強を始めてから半年〜1年になると、こういう状態になるかもしれない。始めた頃の情熱はなくなってしまい、成長したという実感も感じなくなって久しい頃。大抵の人はここでやめてしまう。無理もない。つまらないことを続けるほど、人はうまく出来てない。意識は常に面白いことを求め、学習意欲はすぐに身につくことを探している。それは生命としての人が身に付けた生存に有利な特質なのだろうと思う。

 不幸なことに、学習ってこの状況に身体を慣らさないといけないようだ。過去、ぼくが身に付けることができたものは、必ずこの退屈な時期を経験している。惰性で続けている不毛な時期があったと思う。実に説教臭いと感じるが、「そういうもの」としか言いようがない。このつまらない時期はつまらないなぁと思って続けることだ。多少休憩やずる休みがあってもいいと思う。ただし、やめないこと。

 学習プロセスがなぜつまらなくなってしまうのだろうか。それは、脳の状態によるのだろう。新しいことに対して注意を向ける段階では、いわゆる刺激がたくさん頭に行くのだろうけ。しかし、脳が状況を「学習」してしまうと、刺激を刺激と感じなくなるはずである。そうなれば、いわゆる退屈という状態になる。これは僕の想像に近いものだけど、そう間違っていないだろう。慣れるということは、逆にいえば、出来るようになったということ。ならば、退屈しているという状態は、学習効果があったということだろう。つまり、この退屈は実に喜ばしいことなのだ。

 退屈しているくらい、頭を使わないで作業ができている。炎は燃え上がっていないが、燃焼は続いている。炭のように音もなく、しかし、十分な熱を発している。それが、退屈の正体ではないかと思う。もちろん、別のことを始めたらこの状態は灰になってしまうだろう。しかし、学習を続けていれば次のフェーズに入ることができる。

頭の使い方を変えてみる

 
 この状態になればもはや頭を使わないで惰性で勉強ができる。それは面白くない。こうなったら、頭の状態を変えてみるとよい。それは、勉強をしながら、勉強をしている自分を見ることである。何を今しているのだろうかと考えてみる。勉強し初めの頃にこういう芸当はできない。勉強の対象そのものに注意が行ってしまうから。少しでも対象と別のことを考えると手が止まってしまう。いわゆる一杯一杯という状態である。しかし、退屈するくらいになれば、よそ見してでも別のことを考えてでも手は動く。決して上手にこなせるわけではないが、手は動くはずである。そこで、なぜ、こういう作業をしているのだろうと考えてみることを勧める。

 視点の変更ができれば、退屈さから脱却できる。楽器を練習することに例えるならば、楽器その物を演奏することと、楽器を演奏している過程(手順)や演奏者の態度(自分のこと)を観察することとが同時にできれるようになれば、それは客観視を獲得できたことであり、最低でも人前で演奏するレベルになったと言えるだろう。人からどう見られているのかを考えながら、良い演奏になるような工夫を試みることができるからである。演奏そのものは良くなくても、聞いている人が「嫌な」気分になったりはしない。個人は下手だけど、まぁ仕方ない程度に受け取ってもらえる。決して、もっと練習してから来いよとは言われないだろう。

 英語ならば書いたり話したりしている自分を「観る」こと。気分的に大分楽になる。相手の顔しか見えないで話すのと、状況全体を見渡せて話すのでは、同じ言葉でも違う気分になる。そして、その気分はすぐに相手に伝わる。これは100%良い方向に行く。教科書を読んでいるときも同じ。ある部分が全体の中の位置を感じながら知ることができれば、多少わからなくても既に知っている事実があたらしい事実の理解を助けてくれる。もちろんそうでない状況もたくさんあるけど、普通の人の勉強方法ならばこれで十分だといえる。

楽しみの質が変わる

 
 勉強を始めたときの喜びは、上達の実感にある。あ、出来るようになったぞ。昨日より良くなっている。これが喜びを感じる瞬間だった。そして、退屈の時期を抜けてからの喜びには別の種類の喜びも感じることができる。それは、自分の置かれている状況を見渡してみてから勉強している自分をみると、勉強しているという事実そのものに愛着を感じるようになる。ある程度の期間勉強をつづけてみれば、勉強を続けることの難しさをすでに体験しているだろう。それは、物理的な時間が持てること、そのための費用が出せるということ、勉強しているという意志を続けている自分に感じる誇りを持てることである。なんだかんだ行っても、勉強していられる幸運のようなものを味わえる。川べりの散歩道をなにとわなく散歩していたときに、こういう時間の過ごし方もわりといいかも、と気付いた瞬間のようなものである。勉強できる幸運に気付くことができれば、更に勉強は加速する。

 逆に、勉強をする幸せさを感じるようにならないならば、それは「人生の時間のムダ」以外のなんでもない。勉強は結果を求めて始めることだが、つづけていると結果と同じくらい、いや、それ以上に勉強をしているというプロセスに興味をもち楽しさを感じるようになるはずで、それがないならばやめた方がいいだろう。なぜならば、結果をだせるかどうかの最大要因は運不運だからだ。勉強は結果を出す必要条件かもしれないが、十分条件ではない。つまり、勉強すれば報われるという類のものではないのだ。ただし、勉強するというプロセスに喜びを感じるならば、勉強するすべての人が報われることになる。

2008.08.24.SUN