美しい空をみると不安な予感がするのはなぜだろうか

夏になろうかというこの時期、夕焼けの空が異様に綺麗に見えることがあります。
どんなひとも経験あるでしょう。
職場は大山が近くにあるせいか、雲が印象的な風景を作り出すことがよくあります。
ホントに。

夕焼け空は赤色ではない。
そんな単純な色ではない。
その理由は、雲があるからですね。

駅までの道すがら写真を撮ったのですが、同じように写真を撮っている人を何人も見かけました。
車を止めて撮っている人もいた。
こういうのって、日本人だけではないですよね、多分。

IMG_0737.jpg

陰を書くとき、その部分はグレーではなく青く塗ります。
暗い影であればあるほど、深い紺色にします。
すると驚くほど上達したように見えます。

その理由がこの写真から一発で理解でいます。
陰は「青」なんですね。

綺麗だなぁと見とれていると、実は「不安」を感じている自分がいます。
なんかやなことがありそうな、あとで嫌なことが起きたら「やっぱりこの夕焼けは前兆だったのか」と言いたくなりそうな、そういう思い、誰でも感じているんじゃないだろうか。
道ばたで写真を撮っていた人、全員そう思っていたんじゃないだろうか、と想像します。

なぜ、綺麗な夕焼けは不安を呼び起こすのだろうか。
ぼくが感じる不安には「根拠」がありません。
何が理由なのかなんて、さっぱりわかりません。
夕焼けを見たあとに災害に遭遇したという経験はないし、そういうお話も知らない。
強いて言えば「地震雲」の伝説だけです。

そういう根拠がない不安を皆が抱くのだとすると、(1)人類共通の記憶、(2)脳の感覚器の構造による勘違い、(3)動物的な本能、という三つの理由が考えられます(まだあるかもしれませんが、思い付きません)。

綺麗な夕焼けの後には災いがある。
そんな経験則が成立するもんなんでしょうか。
人類が去るだったときに体験していた「闇」に対する絶対的な恐怖が原因なのだろうかと想像はできます。
その頃は、夜行性動物などから身を守るのは大変でしたでしょう。
焚き火をすることでその災難からは逃れる道筋をつけられましたが、それでも夜のあとに朝があるとは言えない状況を毎日毎日延々と繰り返していたはずです。
ならば、その夜を告げる夕焼けに美しさを感じるはずもなく、絶望を感じていたとしても不思議ではない。
というか、夕焼けに不安を感じることができた人類だけが結果的に生き残ってきたのだとすれば、今でもそう感じておかしくない。

あるいは、勘違いか。
脳には各種の感覚器を「感覚」として「感じる」場所が分布して存在しています。
感覚器と同様に筋肉などを操作する場所も偏在しています。
のどから手が出るという言葉は、手を動かす筋肉とのどの周辺を動かす部位が脳で近いところにあるそうですね。
だから、のどから手が出るという表現は「全く正しい」らしいです。
あるいは冷たいアイスを食べると頭が痛くなる。
あれも、舌で冷たさを感じる部分と頭痛を感じる部分が「勘違いして」、頭が痛くなるそうです。
とすれば、夕焼けの美しさを感じる部分と不安を感じる部分は近いのか。
あるいは「すっごく美しい」という感覚と「わけのわからない不安」という感覚は同じような脳の状態だとか。
そういうことはあるかもしれません。

根拠のない不安というものは、人間の動物的な直感によるものであるかもしれません。
根拠がないというのは「根拠がない」のではなく、言語化できないだけとも言えます。
関係が複雑すぎるから意識が把握できないということです。
根拠としてとらえられることは、言葉にできる単純な因果関係・相関関係くらいです。
しかし、自然現象の少なくない部分は言語化できません。
また、意識で把握できる人の行動や思考というものもは、無意識に比べればわずかなものですから、無意識からの警告が漏れ聞こえてきたことから「根拠のがない不安」と言っているのかもしれない。
いずれにせよ、生命存続にとってはよろしくない状態に近づきつつあるとうことを察知している状態かもしれません。

さて、三者三様ともそれなりに意味がありそうです。
どれが正解だなんてわかるわけないです。
どれなんでしょうねぇ、と気軽に楽しむよりないです。
どれか一つにとらわれてしまうほうが、よっぽど「生き延びるには不利」なのかもしれないです。



2012.06.20

愚帝の時代に生きる人とは話が合うはずだ

いつの世も時の権力者について悪口を言うのは庶民の娯楽だった。

いや、見てきたわけではない。
だからはっきり言えるものではない。
それでも、床屋政談という言葉があるように、権力に憧れている人は「自分ではない権力者」を悪く言うものだ。
だから、権力者への悪口に耳を傾け、そうだそうだと同調する人は、自分が「権力」を持っている場所(職場だったり、家庭だったり)では、自分が批判している人と同じように振る舞う。

新聞も雑誌も、ネタの筆頭は政治(政局)報道と殺人事件が中心だ。
それにスポーツ(つまり戦争)とゴシップが続く。
古代ローマに新聞はなかった(と思うので確かなことは知らない)が、普通の人の話題は結局のところ現代の新聞と同じものだろう。

時代は変わっても人の身体は変わらない。
ならば人の脳も変わらない。
だったら「人の好きなもの」だって、現代人とそうそうちがうこともない。

なぜ権力者ってのはアホなのか。
この問いは、古代ローマ人とぼくとで完全に共有できるはずである。
(ルシウスとは共有できんだろうが)

この問いは、(1)なぜ頭の悪い人が人々の代表になれてしまうのだろうか、と(2)なぜ権力者は頭が悪くみえるのだろうか、の二つに分解できる。

批判を受ける本人たちは(2)の質問としてとらえる。
当然だ。
自分たちはスマートであり、愚民の集合体にアホ呼ばわりされるのは、そもそも愚民だから仕方がない。
そう権力側は考えるからだ。
もちろん昨今のニュースの標的となっている人たち全員はこう思っている。
総理や役人、知事、経済団体、民宿を営む人たち、そして伝えるマスコミのすべて。
全部そうだろう。

一方で、普通の人は(1)の意味で考えている。
ぼくを含め「市井の人」は、政治の愚かさという抽象的なことを批判している。
実際に失敗しているという事実とを合わせて非難しているわけだ。

論理的に考えても、倫理的に考えても「権力側が間違っている」ことを説明することができる。
そして実際声を荒げてその主張をしている。
それでも、当然のことだが、無視され一行に効果はない。

無視されるから声をさらに大きくする、行動をさらに過激化させる。
やがて警察なりと衝突することになる。
つまるところ、暴動が発生する。
昨年来の地中海の世界ではそれが起こって、シリアでは内戦にまで発展してしまったわけだ。

この問題の根底には、次の勘違いがある。
両陣営で同じ言葉を使って違うことを議論しているのである。

当然だが、話はかみ合わないし、溝は深まるだけである。
そして、これも当然の成り行きなのだが、権力を持っていないものは結局は黙らせられる。
いつの時代もそうだった。
フランスの市民革命以前は100%そうだった。
それ以後だって、国という集団が大破するくらいまでいかないと権力にない側の主張が通ることはない。

それじゃまずだろうってことでマスコミや知識人というものが発明されたと思っている。
そりゃそうだろう、という「論理」を「数」によって束ねて権力側との交渉を可能とする世論を形成する方法が発明された。
すごい発明だと思う。

この問題の最大の欠点は、マスコミはシステムによって成立しているのではなく、人によって成立しているということだ。
世論を形成する人が「なぜ、そんなことをするのか」を考えない世代の人にとって変われれば、当然だがマスコミはすべて権力側につく。
人はそういうものである。
それを悪く言っても仕方がない。

権力、マスコミ、知識人は、不思議なことに「一気に」に崩れることがある。
三者にはそれぞれ健全、崩壊の二通りの状態がある。
権力は健全だがマスコミが崩壊し、しかし知識人は健全、といった具合に。
全部で2x2x2の8通りの状態がある。
が、あるときに三者全部が「崩壊」することがある。
こうなると、総崩れなので、いったん国も終了する。
歴史を思い返してみると、そういうことが実際何度もある。
で、例外なく、市民はひどい目にあう。

なんとも残念だが、そういう状態に日本はなってしまったのだ。
もうちょっと早く生まれていれば、ひどい目にあう時間が少なくてすんだかもしれんが、まぁ仕方ない。

2012.06.17

自分のことを真剣に考えると、議論するということをまともに考えることになる

再稼働のニュースを聞いた。
こいつらはそうするだろうなと思っていた。
だから驚きはしなかった。

一方で、連日官邸前のデモがふくれあがっていて、本当に「動員の時代」に入ったと感じ、驚いた。
フォローしている「もんじゅくん@monjyukun」もデモの情報を流している。
そればかりか、抗議のために官邸の電話番号も載せてくれる。
若い人に「行動」をしてもらおうと躍起になっている。
そして、それは当然の成り行きである。

デモはこれまでの毎日行われていた。
デモと言えば、独特のリズムと音程で「〜やめろー」とうなる女性集団のイメージがある。
実際、虎ノ門あたりに行けば「毎日」やっている(新聞には載っていないけどね)。
そういうのがデモだった。
参加する人も特殊な人ばかりだった。
だから普通の人は近寄らなかった。

しかし、今回の話題は原発で、参加者は普通の人である。
原発、福島第一。
関東から東日本の人ならば、さすがにわかるだろう「あの感覚」を。
そう感じなかった人もいるのだろうけど、さすがに多くの人間は「やばい」と思ったはずだ。
関西以西はそうでもない。
それは仕方ないだろう。

大飯原発の再稼働では、総理を含め、知事も村長も学芸会に忙しかった。
議論などとは無関係に結論はわかっている。
それに向けての振り付けと台詞憶えが大変だっただろう、バカだから。

しかし、茶番を見せられる身になってほしい。
茶番は選挙を意識しての(それ以外には見えてない)行動だろう
彼らのメッセージは労働組合系や経団連のじいさんたちに届いただろうか。
野田総理の行動はじいさまだちのお目にかかったのだろうか。

最近の彼らの行動を見ていて気がついた。
彼らはある方法を最近使いまくっている。
それは「時間切れ」という方法。

多くの人々に議論をいただいて、それで「議論を尽くされて」、結論を自分で決める。
そう彼らは言っている。
しかし、最初から議論の中身など一切聞いていないし、気にもかけていない。
議論がどんなに紛糾しようと、それは「議論を尽くされた感」を演出するものであって、好ましい反応なのだ。

何があっても、「いろいろな意見があったが、自分はこれにする」と言えばいい。
そもそもからして、そうなんだ。
LinkIcon野田首相、記者会見せず「8日の会見で説明は尽くしているので、必要ない」(WSJ)

そのやり方は国民向けに対するものだけではない。
彼らのグループ自身のやり方なのだ。
たとえば民主党の中での議論を見ていればいい。
TPPについても全部そうだった。
国民へのアピール、すべてそうやっている。
この方法は「ユニバーサルに効果がある」と彼らは考えたのだろう。
方法自体は、電通あたりから指導を受けたのだと思う。
(彼らが想像することはできないし、ゆめゆめ考えたことはないだろう)

どうしてこんな方法が有効なのか。
簡単である。
マスコミが協力してくれるからだ。
「いかにも議論している」かのような映像と、識者はわかった風のおじさんのコメントを入れればよい。
それによって「議論によって決めるとはこういうことなのだ」と教育映像になっている。
マスコミのニュース番組や報道番組をみるのは、すでに完全なる罠にはまっているのだ。

では、このトリックにかからないようにするにはどうしたらいいのだろうか。
ぼくは一つしかないように思う。
それは「相手にしない」ということ。

政府がお膳立てした議論の場に参加して、筋を通した発言をすることに、実は全く意味はない。
なぜなら、彼らは「論理」というものを全く使わないから。
なるほどなぁ、という理解を論理によって導き出すことはしない。
なぜならば、彼らは「自分の意思がすべて」であって、何かを決めるに当たって他人の意思などは邪魔でしかないからだ。

そもそもからして、かれらの議論など、学芸会でしかない。
現実や事実に対する議論などしたことがない。
経験値が浅いことはすぐにわかる。
そして、「自分たちは議論によって社会を進めていると考えている」のだから、途中で気づくことはない。

おそらくだが、長期にわたって君臨してきた自民党のアホさ加減に対抗する一つの方法としてこの「茶番&ケツカッチンによる自分の意見採用」という技を思い付いた人がいたのだろう。
なんとも、見事に機能しているではないか。

反対意見が一切ない場で「議論を尽くした」と表現することは、さすがにできない。
一つの考えなのだが、彼らの議論場において「反対意見をいう人」を一切参加させない、ということが一つの技になるのではないかと思っている。

東大話法で話す東大教授たちを相手に、知識を裏付けのある数値と論理をもって語ることは、「やってはいけない」ことの筆頭である。
そうすることは、相手の罠にはまるだけだ。
「はい、ご苦労さん」となってしまう。

絶対に「参加しない」「相手にしない」くらいしか方法がない。
世の中の識者を全部東大話法を使う人に任せておけばいい。
安富先生によれば「笑ってやる」よりないそうだ。

そんなことをしたら当然彼らの好きにされてしまうではないか。
そう、絶対にそうなるだろう。
もちろんそうだ。
ただ、考えてみればいい。
どのみち彼らのやることを止めることは構造上できない。
できないのに反発してもしかたがない。

やれることは、時間のすすみ方を早める、しかないだろう。
つまり、どのみちボロがでるならば、できるだけはやくボロを出してもらう。
彼らの思うスピード以上に物事が展開して、大コケする。
ならばそれを防ぐのではなくアシストするのである。
立ち直れないくらいコケれば、次は違うものにならざるをえない。

こんな話を聞いても、なんだから割り切れない思いがするだろう。
しかし、ぼくが思うに、太平洋戦争で日本は完敗したから戦後の日本はあったのだ。
福島第一という敗北を喫しても、政府は負けていないと言い張っている。
仕方ない。
ならば東京大空襲と原爆を待つよりないではないか。

もちろん、多くの人が被害を被るわけである。
ぼくもそのせいで死んでしまうかもしれない。
けれど、早いほど壊滅度が多いほど、次の展開に早く移れるのではないかと想像する。


そんなことを考えた。
もう行き詰まっているなぁ、ホントに。

2012.06.15

辻正信も牟田口廉也もそこにいるじゃないか

人と話をするには、共通の理解をえるための作法が必要になる。
合理性でもいいし、論理による伝達でもいい。
3段論法を使えば、なるほどと、と思う。
そういう人たちの間で、話し合いが整理する。

こう考えるのは現代に生きているからかもしれない。
ときたま先祖返りするきらいもあるが、ぼくは現代に生きている現代人だと思っている。
すくなくとも近代を経たあとの社会に生きて育ったと思っている。

しかし、新聞を読むと、なにか勘違いしているような気分になる。
政治や検察といった機関の行動が新聞報道され、それら機関のトップの姿勢がニュース番組で放映される。

「首相って、そんなことするのか? 個人的な判断じゃないか。 根拠はなにか?」

「田代検事が全部うそを並べた供述書を使って裁判を起こしても、記憶の混同に一定の合理性があるだと? どうして裁判をやるような連中が、そんな無理筋を通すのだ?」

こういうのに事かかない、毎日が続いている。

こんな報道を見てて、多くの人はなんとも思わないのだろうか。
大手メディアの記者も同じだ、ということは良く言われていており、こういう報道の際にそれがよくわかる。

これを一気に理解するための補助線がある。
毎日マスコミで見かける内閣や省庁の次官などは、あれは辻や牟田口なんだと。
彼らについて行ったら、ガダルカナルかインパールかで惨めな死に方をさせられるだけである。

人に近寄るな。
人間を探せ。
生き延びるにはそれが一番良い方法だ。

ぼくはそう思っている。

2012.06.08