生き延びるってことだよな

人が生きる目的は生き延びること自体にあるという意味のツィートを野口晴哉Botで読み、なんとも関心したことがある。
生命のシステムは、長い歴史の後ではあったが、たままた存在しているだけであって、何かの意図があってのことではない。
そりゃそうだ。
この意味では、ぼくは無宗教だから、世界は何かの意図の元にあるとは思っていないから、そうではない考えの人とは意見が合わないが、それはそれで仕方ない。


2012.04.22

なにかを批判する言葉を書く意味はないんじゃないかと思うのだけど

文章の練習のためにブログをつける。
目的は単純で、すらすらと思ったことをかけるようになりたいから。
ふっと思い付いたことをレポートにできる人は周りに何人もいたけど、ぼくにはできなかった。
そんなことを意識したのは大学になってからで、その時点で言葉の使いようが下手だと気がついたわけだ。
特段プロになるわけではないのだから、手遅れじゃん、ということにはならない。
ただ、今後上達しても到達点は低いところにとどまるだろうな、と思って覚悟している。

身体を使うことは理解するのではなくやってみることが大切。
だから、本を読むこと以上に書く練習をすることが。
幸いなことにブラインドタッチができるので、キーボードで文章を打ち込むことは楽にできる。
だから、自分で思ったことを入力するスピードはさほど遅くならない。
漢字変換プログラムが確実に動いてくれれば、一発で一行の文章を入力できる。
誰でも始められるブログこそ、僕の最適の練習場所になるわけで、実にい時代になったと感じている。

最初にうちこそきっとエッセイらしき物を書こうと努力していたが、そのうち感想文だらけになってしまうのは仕方ないか。
日々の生活でそんなトピックなんて見つからない。
だから新聞記事などについて感想をつけるようになる。
何かを発言することが目的でブログをつけるのだとしても、文章としての練習ができないのならば、そもそもの目的から外れてしまっているわけだ。
手軽な行為ではあるが、このブログは何かを主張することが目的ではない。

そう思ってこれまでを振り返ると、自分のツィッターについては完全にそうなってしるようだ。
いつの間にやら新聞記事をネタに原発処理に対する怒りを打ち込むだけの装置になってしまった。
僕にはフォロワーがないから、入力した文字を見る人はほとんどいない。
だから、ツイッターでどんなに誰に文句を言ったところで、どうでもいいわけだ。
だからぼくがツィッターにクレームをつけることに社会的な意義はない。

何かを批判するために、文章を書く。
書いた物が人に向けたものではないのならば、どういう意味があるのだろうか。
1つは、自分の気持ちを生成させるため。
もう1つは、それによって自分が何を考えているのかを知るため。
自分で自分の愚かさを知ることは、それはそれで意味を持っている。
とはいえ、単なるけんかのような罵倒をいくら読んだところで、それでいったい何が起きるというのだろうか。
自分に対しても人に対しても、完全に無意味だろう。
これこそ、単なる電気の無駄遣いでしかない。
そんなことをするために、わざわざ自分の時間もお金も費やす必要なんてない。
うん、全くない。

結論は見えている。
そんなことは今すぐに止めてしまうことだ。
建設的なことばかりをツィートすることは相当難しいのだが、誰もフォローしていないのだから、自分で気をつければすむことだろう。
感情をぶちまけることは止めたようがいいな。
一方で、その感情はどうして発生したのかについて考えてみよう。
どうして今僕は怒っているのか、他人ではなく自分の感情の由来を考えて、ツィートしてみたらどうだろうか。

早速今日からやってみることにしよう。

2012.04.21

twitterはぼやきにしてしまうほうがいいかもしれない

情報を手にするにはツィッターは便利だと思う。
が、それはスマホでの場合だろう。
情報を入力する人に余裕があるの場合にはツィッターでなくともかまわないが、災害時には一次ソースの人も編集側も、時間かけることができないだろう。
そういうときはツィッターということになる。

ここで大事になるのは、誰のフォローになっているかになる。
普通は友達のフォローをしているのがいいけど、ツィッターといえでもソースがなければ効果的な使い方はできないだろう。

自分について考えると、ぼくが一次ソースになることはあまりない。
自分のいる場所についてあれこれ情報をアップすることは可能だけど、それですべて片がつくわけではない。
できることといえば、ジョルダン・ライブ的な、乗り合わせた電車の混み具合をアップするくらいだ。
そんな情報しかアップできないのならば、フォロワーは必要ないだろう。
有益なことをいえないし、そもそも誰にリダイレクトするのよ。

逆に、人がそれはそれで「うざったい」気分になる。
だから自分のツィートにフォロアーは必要ない。

そう思っているのだが、たまにフォロアーが登場する。
多分書き込みの内容にキーワードがあり、それで自動にリンクを張ってくるのだろう。
そして、そいうものは広告だ。
自己紹介が広告だから。
すかさずブロックする。

情報収集のツールとしては便利なので、そういう使い方をしている人が多いだろう。
そうわりきってしまうと便利な道具だなぁと、関心する。

2012.04.15

本に追いかけられる

他人に対するポーズとして。
あるいは、あるべき自分の幻影を求めて。
そんな理由で本を買って読む。

こんな感じの本を読んでいるのだよね。
そういうある種の自慢というか、自己紹介というか、そういう動機で本を買う。

そういうことが昔はあった。
背伸びしたい気分だったので、数少ない蔵書には「これってどうよ」というものを並べるわけだ。
そんな中にある難しい本は当然読んでないし、読もうと努力したところで読めるものではない。

そういうことをしてしまう時期も必要なんだとは思うけど、さすがに40過ぎるとそういうところは消え失せる。
まずもって、他人の目というものの価値が薄れちゃうから。
他人の目を気にしようにも、40過ぎのおじさんのやることに、あるいはその人の好みなんて「誰が知りたがるものかよ」と実感として理解しているから。

あるいは他人の目というものの意味が若い頃とは違ってしまっている。
実際以上の自分の評価をもらえるよう勘違いさせる工夫をすることがなくなるからだろう。
まぁ、自分は普通の人。
普通の人らしく、普段の生活では「どうでもいいこと」を楽しくやる。
それが市井の人の生きることの筋だろう。
いしいひさいちの『ののちゃん』に登場する「たかしさん」ような存在だ。
それはあきらめではなく、歳をとったことによる「偉大な発見」なんだともっているのだが。

そういう状態に自分はある。
なのに、今でも読みたい本があって困っている。
それが「買える」というポジションは確保している。
でも、よめないんだよね。
時間がなくてではなく、一冊を読む時間が長くかかって。

5冊買って2冊読む。
そんな状態にもかかわらず、毎日一冊はアマゾンから本が届く、という病気のような状態だ。

どうせ読めない。
確かにそうなんだけど、それでも負けたくない。
不思議なことだけど、今以上に「物を知る」ことを欲望している。
知ってどうなるわけでもないのだけど、それでも読みたいのだから仕方がない。

読んでいない本が山ほどあるのに本を買う。
無駄だよね。
でも、たばこや酒程度の害だと思っている。
馬券を買うほどではないと思っているが、実際のところどうなんだろうか。

読めば読むほど、へぇ、と思う機会を持てる。
決して知り合いにはなれないような人の言葉を聞くことができる。
これが本を読む意味だと思っている。

結局、人から学ぶといっても、すごい人が近くにいるわけではない。
だから、自分でそういう人から学べるようになんとかするよりない。

だから、時間も場所も言語も超越できる、本という方法をなんとか工夫する。
相手が自分のことをどう思うのか。
そんなことはまったく問題にならないところがよい。

万人に対して、教育の機会が開かれている、といえるのは本が自由に読めるかどうかだと思っている。
結局、人からしか学べないことが多いのだ。
人脈は自分で制御できるものはないが、本は自分で選ぶことができる。

読めない本に振り回されても、それなら仕方がない。
無駄なく本を買って読むことなんて、ぼくにはできないよ。
せっかく大量に買えるリソースがあるのだから、精一杯そのチャンスを利用する。
それでいいじゃないか。

友人はたくさんいても少なくとも、それがなにかを示すことはない。
ただ、友人の存在に経済的な効率を当てはめてなんかを考えることはしない。

それと同じように、本についても効率を考慮したくない。
だから、本に追いかけられるなんて発想はやめよう。
ただ、読めない本も読んだ本もいっぱいある。

それでいいじゃないか。

2012.04.14

ふつうの人が参加する政治って、あまり想像できない

たった一つの問題である「原発の取り扱い」について、政府のやることがどうも信用らないと感じている人は少なくないだろう。
TBSやテレビ朝日を見ていれば「早く動かせば、まぁ、どうでもいいけど」と考えていてもおかしくない。
NHKを見ている人ならば「なんか不安だなぁ」くらいに思うだろう。
産経新聞を読むのか、朝日新聞を読むのかでもさらに違う。

「あなたはなんでそう思うの?」
と質問されたとして、普通の人はどう答えるのか。
ニュース番組でちらっと映る「一般の人の声」のようなインタビューでは、定型的な答えばかり。
新橋や丸の内のサラリーマンか、客待ちのタクシー運転手か、行楽地の家族か。
定型的な場所で定型的な人に質問すると、びっくりするくらいに定期的な答えが返ってくる。

そういう発言の理由に、とりあえず2つの見方がある。

まずは編集の問題。
町ゆく人の悩みの種は多彩であって、考えていることはぜんぜん違うものだ。
ならば、レポーターが向けるマイクには、意外なくらいいろんなことを言っているはずだろう。
が、放送されているのは編集の都合で、編集者が言いたいことを再構成しているだけ
その編集結果が市民の声ということで流布されている。

もうひとは全部「テレビにでてくる論説員の受け売り」の問題。
普通の人は考えていることを言葉できているのだろうか、と疑ってかかるほうがいい。
というのは、普段から考えていないとすぐには言葉にならないはずだから。
すらすら答える人は、そういう芸を持っている。
芸を持っていないのにすらすら答えるのならば、他人の発言を自分の発言として言っているに過ぎない。
しどろもどろに回答する人は、多分の言葉を探して発言しているだけなんだけど、テレビのインタビューとしては放送上面倒なので、考えていない人、として扱われるはずだから、多分放送されない。

本当に、真剣に考えることは人それぞれであって、政治イシューを最も自分の身近な問題として考えることなど、普通の人はできない。
だから道行く人の意見を聞くことは、街頭インタビューすることは、どれだけ意味があるだろうか。

2012.04.08

テレビ報道の異様な姿を見ることができるようになった

ひとたびあることを知ってしまうと、もう知らなかった状態に戻ることはできない。
見えているのに見えないふりをすることはできるけど、気がつかないようにすることは無理だ。

ぼやっと新聞記事を覗く。
といっても、ネットで各紙の見出しを眺めるのだが、テレビ朝日のニュース見出しには、もうびっくりする。

(04/05 11:31)
LinkIcon枝野大臣が大飯原発の再稼働要請で8日にも福井へ

(04/06 05:50)
LinkIcon大飯原発3・4号機再稼働へ 4閣僚安全基準を了承

(04/06 11:28)
LinkIcon再稼働に向けきょう安全基準を正式決定 大飯原発

(04/06 14:01)
LinkIcon大飯原発再稼働容認へ 民主「政府判断を尊重」

なんとかして、原発が再開する、という事実を呼び込みたいのだろう。
事態が進まないので、言葉の上から「応援する」気分がにじみ出ている。
もう、世間の反応なのどどうでもよい。
歴史はテレビ朝日の言霊が作る、と信じているのだろう。

このカルト的な見出しをつくる素地は単純で、東電が株主だから。
びっくりする暗い単純で、「大人かっ!」って三村的な突っ込みを入れたくなる。

東電が株を保有している上位企業のリストにはテレビ朝日がちゃんと入っている。
TBSとテレビ朝日については、「東電のニュース」は全く信用性がない、ってこと。
でもそれは「東電」だけでない。
そもそもジャーナリズム=広告、とでも思っているのだろう。
この会社の社員のために般若心経を詠んであげたくなる。

一方、産経は、

2012.4.7 03:18
LinkIcon原発安全基準 迷走を反省し再稼働急げ

という姿勢は明確で、そのためにはどんなものも報道する。

2012.4.7 16:21
LinkIcon風評被害払拭へ「ハッシュ」 福島でランニングゲーム

なにそれ、という記事なんだけど、グーグルで調べて検索にかかったのはここだけだ。
風評被害は「根拠がない」ものなのだが、福島の食品を忌避するのは明らかに根拠がある。
だから「風評ではない」ということなのだが。

そもそも政府が信用できないので、自分の体は自分で守るよりない。
だから、それがないと生きていけないものではないかぎり、自分が近寄る必要はないだろう。

保安院とか安全委員会とかの人が「正常」な判断ができる人たちだったらよかったのだが、この人たちの言うことを真に受ける人はさすがに日本にはいないだろうと思う。

アメリカでも原発事故はある。
たとえば、LinkIcon配管事故で現在サン・オノフレ原発は止まっている。

このMHI製の配管は、事故が起こしたところ以外にも怪しいところがあるらしい。
だから、原発は停止するとNRCを宣言している。
ヤツコ委員がいるからいいよなぁ、うらやましい。

この原発だって夏までに再稼働しなかったら、サンフランシスコやロスアンジェルスの電力事情は厳しいそうだ。
それでも危ないから止める。
実に単純で、議論の余地はない。

しかし、日本はその程度のことができない。
東大話法で語る人に近寄りすぎると、気分が悪くなるとか、いらいらするとかという問題ではない。
東大話法を使う人と一緒にいると、死に至る、ということだろう。

2012.04.07