来し方を反省すると違う行く末が見えてくる

自分の生き方を少し変えようとしている。

今日から震災後2年目に入った。
一年前の震災、というか、原発のインパクトがぼくに深く影響している。
震災前後で、心理にも活動にも影響が起きなかった人がいるのかどうか、ぼくは知らない。
が、ぼくは大いに影響された。
死ぬかもしれない、という思いで日々過ごした人ならば、人生を変えようという気持ちを理解してくれるだろう。

死ぬかもしれないというショックを受けると、ものの考え方も価値観も変わるはずだ。
自分がこれまでしてきたことやこれからしていくだろうことを自分で素直に評価し、これからどうしようか考え込んでしまうことはおかしなことではないだろう。

これまでやってきた職業としての仕事の結果は、正直なところ、「意味」を感じられなかったことを素直に認める。
いや、うすうすわかっていたのだけど、それを認めることはできなかった。
なぜならば、ぼくはサボっているわけでも悪意がわるわけでもないからだ。
だめな結果、ということに近い意味で「意味がない」と言っているのだ。

社会人として独立した生計を営み、奥さんと一緒に平穏な日々を送るには十分な給料をいただくことができる職業であるし、反社会的なことにつながることをしたわけでもない。
ただ単に、言葉上の上で「この活動には意味がある」と主張して作業をしてきた。
ただ、実ののところ、「本当に意味があるとは思えない」という気分もしていたわけだ。

意味がないわけないだろうよ。
というのは、研究職だから成果は論文という形で問うことができるし、そもそも論文を書く前の段階での実験でその効果を確認することができていたはずだ。
だから、おかしな結果を成果として残すということはないはずだ。

たしかに、それはそうだ。
誰がやっても同じ結果になるだろう計算をしてきたし、実際宇宙で飛んでいる衛星のソフトウエアを書いて動かし、実際データが5年以上にわかってとれている、という事実がぼくの成果を保証してくれている。

でもね、それって本当に社会的に意味があることだったのか、と言われると、首をかしげたくなるのだよ。

研究職って、そういう危うさの上に成り立っている。
同業者はその成果を「大丈夫、意味がある」ということで学会なりに参加させてくれるのだが、それは立場上の発言や立場上の提案というものが多いのが実際だ。

つまり、現在の研究職のポジションの立場として「意味がある」と主張している活動は、自分がその立場から離れたときは「それは本当に意味があるのか?」と自分でも怪しい気分を感じるというわけだ。
ただ、「学会に受理されたから、いいんじゃないの?」という程度の根拠をもって主張しているにすぎなかったのだ。

自分で反省するのもなんだが、ある種の「東大話法」を使っていたことになる。
東大には関係していないのに、なんとも情けない。

じゃぁ、どう変えるのだ。

今この瞬間からできることは、立場からの発言をすべて止めてしまうことだ。
立場から「こういうことが必要です」などというようなことを一切言わないことだ。

これ、簡単なようだけど、大学時代から染みついちゃった物言いをすべて変更することになるわけだ。
腹の底から「意味がある」と言いたくなるようなことのみを自分で主張する、というようにする。

そんなの簡単なようだけど、普通の人はなかなかできないだろう。
というのは、普通の人はそんなにばんばん「すごいこと」を思いつくわけではないから。

すごいアイディアに「すげぇなぁ」と感動することはいつでもできる。
が、そいうものを常に自分から生み出すなんてことは、そんなことはできない。

そういうすごいものが出せない人はどうするか。
普段から「ちゃんとやってますよ、日々努力を積んでいますよ」というアリバイ作りに精を出す。
一番簡単なことは、夜遅くまで仕事場にいる、ということ。
会議の場にはいつも居るということ。
人が集まるところには顔を出し、自分も常に仲間であることを周りの人に印象つけづづける。
とまぁ、こういうことだ。

でも、そういうの、一切止めてみようかと思っている。
社会的には危ういが、いつまで生きていられるのかなんてはっきりしないのだから、日々胸をはっていられるようなことをしようと思うようになった。
アリバイ作りはしない。
好きでもない人と仲良くしようとなんてしない。
腹の底から意味があると思えることを主張し、研究する。

言葉にすると簡単なことだけど、やろうとするとしばらくは絶望的な結果が続くだろう。
それでもいいじゃないか。
一年前には「明日、死んでしまうようなことがあるかもしれない」と思いながら通勤する日々が続いた。
また、ああなるかもしれないし、今度は結果がより悪い方へと流れるかもしれない。

そのときになって、どうでもいいことをやっていた、なんてのは、死ぬ間際できっと悔しい思いをするだろう。

まぁ、いいかな、しょうがないよ。

災害で被災するときに、そう思ってなっとくできるような仕事だけを今後をしていこう。

単純に災害一年目にそう思った。

2012.03.11

あぁ、もっと本が読みたい

夏目漱石の全集を買ってみようかしら。
考えてみれば、数冊読んだことがある程度。
現代の日本語の書き言葉をほぼ完成させた人なのに、あまりこれまで縁がなかった。
こんなことじゃぁいかんだろう。
これを機に、一気に読み進むか。

青空文庫に全部あるのだから、わざわざ本を買ってまで読まなくてもいいのかもしれない。
それはそうだ。
が、紙がいい。
漱石の全集ならば、最近出版されて、仮名遣いや漢字も最近のものので、きれいな本がいいなぁ、と妄想する。
本を読むという行為と、勉強するという行為と、ちょっと上品な世界とが混合してしまっている。
庶民の妄想に近いわけだ。

しかし、逆に言えば、漱石くらいは電子ブックで読み込んだ方がいいのではないか、とも思う。
手元のキンドールには、英語の本が何冊も入っているが、あまり読み進められないでいる。
通勤時に読もうとするが、以外に全部読めないし、しかもどこまで読んだか忘れてしまっている。
だから1Q84やジョブズの辞典も分厚い洋書を買ってしまっているくらいである。



2012.03.09

ブログの提供先で考えてしまう

ブログはネット上のコンテンツであるので、基本的には誰でもが見れる場所に置いておくことになる。
有名人のものならいざしらず、あるいは貴重な情報のリークなどならばわからないでもないが、単なるおっさんのボヤキの延長のようなものを囲っても意味がないだろう。
また、知的な会話があるわけでもないし、読んで笑っちゃうというものもない。
だから、当然、考えたことを晒すことになる。

だからといって何か問題が発生することはない。
というのは、素人ブログなどを覗く人はいないからだ。
アクセス数なんてのは、女子でもない限り、ゼロだろう。
公開してあっても実質はプライベートな空間、という非常に不思議な状態になる。
それは、検索エンジンがあっても同じで、知られていないページが検索対象としてリストアップされることはない。

そう入っても、たまに考えてしまうことがある。


2012.03.04

道具を変えると出力量が変わるのか

ずっと課題だったブログ作成ツールの処理速度をあげるために、ついにPCを更新した。
更新したいからできた、というわけではなく、単にそういう幸運が僕のところに訪れてくれた。
世の中、捨てたものではない、ということだろう。
もちろん、このことが良いほう方向へ行くか、悪い方向へ行くかはわからない。
経験上、いいことがあれば悪いことがある。
悪いことがあれば、いいことがある。
何があってもそのまま続けていれば、何とかなるものである。

BiNDというWEB作成ソフトを気に入って使っている。
Versionが1のときから使っているから、愛着もある。
ただ、年々処理速度遅くなり、前のPCでは利用するに苦痛を覚える苦になってしまっていた。
ソフトを作る側は、早いPCを念頭においているだろうから、しかないとは思うのだが、貧者は辛いのだ。
それでもたまに幸運がやってきて、僕のPCでも十分すぎる処理速度を出せるようになった。

さぁ、これまでソフトが遅くて入力するのが億劫だったから、という理由で作業をしなかったが、果たしてこの言い訳は本当だったのだろうか。
もちろん、そう感じていたのは事実であるし、実際そう思っていた。
誰におねだりすることがあるわけではないのだから、不明不満を持つのは当然であり、文句を言いながらもバランスをとっていたと思っている。

現在新しいPCで入力している。
確かに文字入力で取りこぼすことはないくなった。
考えていることをそのまま入力できるレベルになったといっていい。
これから、新しいソフトウエアを共にして、自分が考えることをまとめる作業を続けることができることに感謝する。

ブログをつけるのは、自分の考えをまとめるためである。
手短なこととして、ツィッターがあるが、あれはあれで使いやすい。
誰に何かを言いたいわけではないが、ツィッターという方法で表現することに問題はないだろう。
考えている生の情報をつらつらと入力するには、あの程度が精一杯だと考える。

しかし、ぼやきやグチや腹立ち紛れのことを入力するには良いが、そればかりでは己のためにならないのではないかと思う。
論理で表現するためには、どうしてもある程度の長さが必要になる。
考えては読み返す、という作業は、文章を書くための作業というわけではないだろう。
それは考えるという作業そものものだろう。

頭の良い人達は、これを一瞬でしかも何も使わないでできる。
僕はそれができない。
ならば、何らかの方法を使う必要がある。
それが、このブログだというわけだ。

こんなことのために、道具を更新しても意味がないような気がする。
とはいえ、道具は人の生活レベルを上げるためにあるのである。
ならば、自分の頭を少しでも良くすることで生き延びる可能性を高めることにお金を遣うことは、決しておかしなことではない。

さぁ、これから新しくブログをつけていくぞ。

2012.03.03