バカの壁を体験した

朝起きて風呂に入るのも今日までだなぁと、気持よく風呂から上がって体を拭きながら屈んだところ、突然腰に激痛を感じ倒れた。
おお、日々の何気ない動作でも原因となりうるバック・ゴー・アウトかもしれない。
ものにつかまりながらかろうじて立ち上がり、なんとか部屋着を着て、リビングで倒れた。
いや、ソファーに座ることすらできないのだ。
腰って、本当に「要」だと再確認した。
うぐぐぐ。

今日は午後から旅行の準備をと思っていたが、ちょっと難しい。
準備どころか旅行は大丈夫なんだろうか。
ヴェネチアは空港からバスでローマ広間までいったら、もうヴァポレットと歩きしかない。
歩きまわるにしても、そこいら中小さな運河ばかりだから、腰痛持ちはホテルにすら辿りつけないかもしれない。
今年最初の試練がやってきた。

座ることもままならず、立ち上がることもままらない。
つまらないとどうにもならない。
これって、いわゆる老人のような状態である。

日頃、駅などで車椅子や松葉杖がないと歩けない人や老人の人たちを見慣れているが、大変だなとは思ったこともなかった。
もちろん、道を開けたりするような自分が何かをすれば相手がスムーズに移動できるような協力は無意識のレベルで実施できる程度の常識ある生活をしているぼくだが、積極的に「同情」したり助けたりということまではしていない。

しかし、一度自分が腰痛持ちになると、普通の移動することの難しさを体感する。
歳を取った人がどれだけ大変なんだろうと「リアル」に想像できるようになる。
今まで知っているあるいは想像できると思っていたことが、実は「勘違いだった」と気づくのである。
これが、「バカの壁」の一形態である。

そう、相手のことを「知っている」とか相手の苦労を「想像できる」とか考えるの、きっぱりとやめようと思った。
そりゃそうだ。
そんなのは無理だ。

震災で直接被害を受けた人、原発で直接被害を受けた人またこれから被害を受けたことが明らかになっていく人、そういう人に自分も含まれていますが、違う立場にいる間は相手の気持を「理解する」なんてのは、不可能なんじゃないかと確信した。
だから、わかっているような顔をして何かを言ったり、やったりするのは辞める(今までもしてないけど)。

なんであれ、「こうして欲しい」と要請されたことはなるべくいに叶うように努力する。
これだけはやっていこう。
言葉を経由して相手の状態を身体的な感覚とセットで自分の中に再現するのは、相当困難だ。
まず、それを認めておいたほうが、結果的に見のためなのだろう。

そう思った。

あと2日でどこまで回復するのか、それはちょっと様子見である。

2012.01.03

塩野七生さんのインタビュー番組を見て

昨年NHKBSで放映された『100年インタビュー』という番組に塩野七生さんが出演されていた。
アナウンサーは塩野さんの著作を読んでいるようだが、繰り出す質問はピンときてなかったように感じた。
たまに手軽な決め(答え)を導出したいがための質問に思えるものもあった。
そういうときは見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。
すごい人へのインタビューは難しいんだろうな、と同情してしまった。

一方で塩野さんは、むかしっからなのか、文章のようにしゃべることはしない。
さらに、前後関係がよく飛ぶ。
いろいろと補って話しを聞かないといけない。
ともかくも緊張して聞かないといけない。
作家といっても、しゃべりと書きとでは違う能力なのだろうか。
それとも歳を取ったひと共通の傾向がそのままでているのだろうか。

インタビューのなかで、自分は作家の中では傍流であるとか、
ご本人から発言があったが、塩野さんの著作と学者の著作の決定的な違いについて、再度確認できた。
学者は知っていることを書くのだが、塩野さんは知りたいことを書く。
だから地図が多くなり、必要なものを新規に作成することになり、結果的に高い値段になってしまう。

本の値段はともかく、学者の本とご自身の本との違いを語っているときに、何を引き合いにだしているのか少しわかる。
「日本には歴史書と歴史小説との2つしかない。あなたはその中間を行こうとしている」と司馬遼太郎に言われたことを例に上げ、ご自身の

学者の存在って、なんなのだろうかと思うことがある。
ゼロから何かをする人もいれば、既存分野をより精密にする人もいる。
どちらも「学問」であり、学問の中での評価軸によって行動が規定される。



2012.01.01