2011.12.31

2011年を振り返ると何が見えるのか

年末にはこういう視点で一年を振り返る。
どのメディアにもある。

事件やブームについて、楽しく振り返る。
あるいは芸能人が「振り返れ」ば、それはそれで意味がある情報なのだろう。
そういうスタンスが普通である。

市井の一市民のぼくが振り返った内容は、それ自体で意味はない。
が、そういう情報が多数あつまれば、普通の人が何をしていたのかという、意味のある情報になるかもしれない。
というわけで、備忘録程度に考えてみる。

(1)震災と原発事故

これに無関係だった人は、沖縄の人くらいだろう。
関西人は震災も津波も福島第一も「感覚としてはわからない」だろうけど、それぞれの地域にある原発が止まって、それなりの電力不足の影響は受けたはずだから、何かは知っていると思われる。

地震があったとき、JR横浜線淵野辺駅近くにいた。
なんかふらふらするなぁ、と歩きながら思ったが、それが地震だった。
大きいなぁと思っていたが揺れ以上に「音」がすごかった。
駅は瞬時に停電した。
公衆電話で実家に連絡したが、東京が壊滅しているということはないと知った。
親父によれば、スカイツリーを見たのだが、なんともないと嬉しそうに言っていた。

地震発生から10分後くらいの段階で、淵野辺駅にあるドトールコーヒーは平常営業していた。
そこで遅い昼ごはんを買って研究所に歩いて行ったが、途中大きな余震があり、付近の住宅から怖がる悲鳴が聞こえてきた。
その時思った。
空は青く、雲は白い。
家ではなく外にいれば、「いつもの一日だよ」と思えるから、外にいたほうがいいのではないか。

その後の一週間は、正直「死ぬんかなぁ」と思っていた。
というのは、第一が破綻すれば、自動的に第二も破綻し、人が作業できない原発は順番に破綻していくはずだと知っていたから。

まだ今後どうなるかわからない。
とはいえ、ゆく年くる年が見れたのだから、どうやら今年は助かったといえる。

(2)自分提案の研究がそれなりにまとまった

企画から一人で考えた研究が一定の結果を得られ、それをIEEEやASMEの国際会議で発表できた。
おれって「研究者っていえるんかね」とかねがね思っていたが、「棒」くらいには引っかかるわけだ。
採択率50%の学会にも通ったのだから、ぼくはインチキ研究者ではない。
それを確認できてよかった。

これまでの研究は「何かのプロジェクト」に頼っていたのである。
実際の宇宙機なりロボットなりを「使わせてもらい」データを取り、それを加工して発表していた。
実機のデータは説得力があるから、リジェクトされる理由はない。

しかし、それはぼくの「発想」なり「やり方」なりが「基準を満たしている」ということではない。
研究者として今後も生きて行けるのか不安だったのだ。


今年発表した研究は、秋月や東急ハンズで購入した材料で自作した実験装置を使ったデータを中心に論文を書いたものだ。
それをNASAの連中の間に入って発表できたのだから、それはよしとするべきだろう。


ちょっと考えてみたが、今年を振り返ってもこの2つしか思い浮かばない。
何かやっていたようで、実はあまりやっていなかったということなのかもしれない。
世の中で名を成す人ではない「普通の人」ならば、この程度なのだろう。

終わりよければ全て良し。
今年はそう考えたい。

2011.12.30

読めた数も感動も、もう一つだった2011年に読んだ本

震災以前と以後で、読んだ本の印象や読みたい本の傾向がガラっと変わってしまった。

こんなときに本なんて読んでいられるかよ。

たぶん多くの人が思ったように、ぼくもそう思った。
そしてそれは、その思いは弱くなってはいるが、今でも続いている。

知識を仕入れるために本を読む。
学校での勉強のために、あるいは実用的な必要からも、「知識を増やすため」に読む。
それは、読書の楽しみを知る前に人に行動を起こさせる「普通の動機」だろう。

歳をとるにつれ、読書の目的や量、内容の複雑さは変わってきた。
が、実は読書の本質はあまりそこから変わっていない。
読書自体の楽しさを今では知っているつもりだ。
が、「もっと多くのことが知りたい」という動機のほうが強いのは今でも同じ。
知識獲得の行動としての読書なのだ。

3月に震災があった。
関東の人間ならばわかると思うが、本当に「ダメかも」と思った。
3月中でも普通の顔をして街中に買い物にでることはできたし、働きに行く必要もあった。
それでも、明日はどうなるかわからないな、と思い浮かばない日はなかった。

こういうときに読む本は、以前とは変わる。
少なくとも「未来において何か得するために必要かも」という理由で本を読むことはない。
未来があること自体を疑っている日々なんだから。
得することを求めての読書って、「暇」なときにしかできないだと知ったわけだ。

明日多量の放射能がこの辺りまでやってきて、致命的になことになるかもしれない。
そんな恐怖を体験したら、本を読んで知識を仕入れるという学校社会のような行為の虚しさを初めて理解できた。

じゃぁ、読書はしなかった。
そんなわけはない。
非常に矛盾することなのだが、知識を求めて読書することにした。
なぜなら、無知であればあるほど「人の話」に惑わされてしまうから。

知識を獲得するために読む行為はつまらない。
しかし、放射能や原発の知識なしでいると「不必要な行動」をとり、生き延びる可能性がより低くなる。
だから、知識獲得のためには「本を読まないと」いかんのだ。

なんとも矛盾した行動だった。
いや、そもそも「本読み」の目的に正解不正解はない。
生き延びようと思ったら、必要なことは全部やればいい。
もちろん、「読む」という行為自体は絶対に有利なはずだ。

小説はファンタジーのようなもので、読んでいると楽しいだけだ。
しかし、なるべくそういう本を読んで行こう、この危機が過ぎたらね。

それら9ヶ月経った。
少なくとも「ビジネス本」には興味が全くなくなった。
ぼくはビジネスなるものに興味を失った。
もともとなかったのだけど、社会人の共通認識程度ですらいらないと思うようになった。
生きている時間に、そんなことを考えるのはもったいないと思うようになったのだ。
とはいえ、手元に未読のビジネス書は大量にあるのだが。

今になって、震災直後の判断がおかしい時期と比べて何を読むのかは一時的に変わったけれども、また元に戻ってきたような気がする。

ただ、今は「漫画」を本の仲間として堂々と登録し、読むようになった。
小説と漫画と同じ物を別の表現であろうとやっとわかったからだ。
ただ、実際のところ、ぼくは漫画読むよりも本を読む方がラクだ。
視力なのか、情報量なのか、年代によってメディアの得意不得意は変わってくるようだ。

本読みは、一生ついてまわる癖だ。
今にして思うが、それは揺ぎ無く思った。

2011.12.29

ただなんとなく過ごしてきたら今日になった

表題どおりに過ごしてきた。
今日から休み、その一日目についてではない。
3月以後である。
1月から3月まで、そんなものは「なかった」といっていい。
その期間は2010年に繰り上げても、だれも文句を言わないだろう、西日本人でなければ。

大嘘つきだと知っていたのに、その結果は自分にかかってくるのか。
そう理解した人が多いだろう。
政府や大組織なんてのは、そんなものだ。

原発についても地震についても、これまでいくらでも「問題提起」があった。
科学的な根拠を明示しての試算すらあった。
それでも「ない」ということで終わりにしてしまった。
だから、被害を受けたぼくらも、「想定外」なんて言っていけないのだ。
落ち度は自分にも大いにあるわけだ。

単に被害者のポジションに移動して、その中心から堂々と正論を声高に発言するだけではダメだ。
そんなやつ、ただ迷惑なだけになってしまう。
相手と同じなのだ。

大事なことは、どういう方法であれ「生き延びること」だろう。
それくらいしか、個人でできることはない。
自分への「待遇がよろしくない」ということを、被害者の声として主張する。
それは誰からも抗議は来ない、どころか声援があるかもしれない。
が、結局のところ「なにもかわらない」のである。

あれだけ「日本をひとつに」とスローガンを投げ続けても、がれき処理すら手伝ってくる県がないではないか。
あの手この手で、自分が生き延びることを考えて行動する。
それしかないだろう。

とはいえ、原発村の人はこれまでそういう方針で行動してきたのだから、そのやり方の結果は麗しいものではない可能性がある。
それはそれで仕方ないと思う。

原発も地震も、この方法くらいしか対応する手がないだろう。