2011.11.01

ニュース一つで揺れ動く原発への評価

遅まきながら原発について考えてしまう。

原発って大丈夫なもんなんだと子供の頃から考えていた。

理系の大学に進んだので、理系の意地のようなものも感じていたから、普通の人にはわからないだろうけど、物理現象も材料強度もプロセスもきちんと把握され設計され製造されている。
だから、怖がる必要なんてないんだ。

そう思っていた。
よくよく考えると、根拠はなくそう思っていたので、洗脳の結果だったようだ。

大学が理科系で、今は工学の一分野で働いている。
多くの理系がそうである?ように、そのことに自負があった。

だから人の発言しか追わない弁護士や金のことしか頭にないビジネスの連中は本質的に信用しない。
世の中を見通せるのは、方程式の解を求める手段や物理法則、自然に生きるだけではな到達しえない効率を可能にする工学技術があるからだ。

そう、単純に思っていた。
必要以上に技術に信頼を置いてたわけだ。

心の底では「実際は幻想に過ぎないかも」という不安はあったのかもしれない。
とはいえ、経営者や政治家は不信だが、職人のオッサンは信用する。
そういう人の評価の基軸の延長に、原子力技術を捉えていた。
それについては、当たり前のことだ、と今でも思っているが。

ちょっと冷静になってきた今になって改めて思う。
原発って、びっくりするくらいにいい加減なもの、なんだ。

原発反対派と呼ばれる人の行き過ぎた?プロパガンダに洗脳されたのではない。
ここ半年で多くの本が出版された、あるいは良著が復刊された。
工学や理学の人で問題点をきちっと指摘できる人が本を書いており、その論旨を読んでみれば「なるほど」とわかるものもに何冊も出会った。

原発の原理的なこと、机上の計算と製造時の現実との違い、配管の存在やそのメンテナンスの問題、地震で引き起こされるであろう数々の問題。
原発を建てる前に「こういうことが危ない」と今回問題になったすべてを指摘している人だっている。
しかも「震災前に出版された本」にきちんと書かれている。
この事実を知ってビックリした。
いったい何が想定外だったんだろうか。

一方で、電力会社や国の説明は嫌になるくらい「適当」なもので、原子力行政とか専門家の見解とか、こんなに信用できないレベルだったのか、完全にバレちゃったな、と感じた。
なぜ、あんなにまで自信たっぷりに「安全」と主張できたんだろう。
後ろめたさとか、全く感じなかったのだろうか。
おそらく自分たちは「そもそも賢くて尊敬されるべき人格」であり、報道を聞く側の庶民はありがたく聞き入れなさい、と考えているのだろう。

高級役人の経歴これがまた面白いように東大だ。
テストができる人たちというわけだ。
そういう人って根本的に信用してはいけない、ということがよくわかる。

大学と職業倫理とは関係ないとか、劣等感でものを言うなとか、反論はいろいろあろう。
が、プラスがあればマイナスがある。
「東大=信じて失敗すると相当痛い目にあう」という覚悟は、まずしておいたほうがいい。
ぼくが面倒なので、今後は東大の人はデフォルト疑ってかかることにする。

都会人は田舎人を根拠なしにバカにする。
それと同じようにテストで測った優等生はテストの成績劣等生を蔑む。
危機のまっただ中なのに、原発行政でその心理を隠すところが堂々とみせてしまっている。

工学は「できて、動いてなんぼ」である。
設計の問題は机上だが、施工やメンテナンスの問題は現場であって机上ではない。
現場の問題は論文で扱うことことがない。

東大マインドの人が原発プラントの技術的な現場審査をする、という発想がすごい。
溶接ができない人が溶接具合を審査するなんてのは「ナンセンス」だろう。
が、頭のいい人はそれを認めない。
頭がいいなんて問題は、物事すべてに有利だとうことでも、役に立つということでもない。
なんてことを言う人は世の中メッタいにいないのかもしれない。

書店にある本を何冊か読み、NHKの報道番組を見るにつけ、疑問に感じたことがある。
日本のメーカーって、原発を設計できるのだろうか。

これは日本のメーカーって航空機を設計できるのだるか、と同じ疑問である。

戦中の技術を終戦時にすべて償却し、占領軍のいる間は研究が全くできない期間があった。
そのせいで、本質的なところで「遅れた」ということになっている。


自分で作れないものは、使わないほうがいい。
工学をやっている人として、そう思っている。
だから、ぼくは反対の立場をとることにした。

何かについて声を上げて「反対」などと思ったことはこれまでなかった。
「反対運動」なんてのは、ぼくには目的を達成する手段としての効果は限りなく低いと思っていたし、それに参加してシュプレヒコールをあげる行為など軽蔑すらしていた。
道路に横断幕をもって行進しようとはいまでも思っていない。

が、そういう運動をする人の気分は理解できるようになった。
効果があろうとなかろうと、出来ることが限られていて、反対する対象に「身の危険を感じるくらい」反対しているんだからやれることをやる。
なにもしない、という選択肢はないということだ。
それはそれなりに正解であろう。

政府案というものや商売人のやることに正解はない。
両者ともに、普通の人の生活についてはなにも考えられていないからだ。
高級官僚や議員バッチをつけた人は、自分たち以外の人間は自分たちが生きるための材料だと思っている。
1000年くらい前の朝廷貴族のようなものだと思えばいい。
今でもいるんだろうと思うけど、まぁ、生き方としては「歴史を持っていない」人たちなのだから。

そういう人に道徳、ましてや「まともな考え方」などを期待してはいけないだろう。
物理法則がぼくらの都合の良いように出来ていないのと同じようなものだ。

その事実を認識した上で、何をしていけばいいのだろうか。
普通の人のできることは限られている。
禁煙や禁酒が難しいように、社会の惰性を帰るのも相当難しい。
これまでの歴史を振り返るに、自分の意志で変わった経験はない。
外圧が着て、ビックリして、内部崩壊した結果として「変わった」わけである。
原子力利用についても同じだ。
それは個人であっても組織であっても行政であっても同じ。
なんかスゴイ人が政治家や役人に登場することを期待している人がたまいいるが、それはない。
バカにしてそう言っているのではなく、そういう人はそういう場所に選挙で選ばれてくることはないからだ。