2011.05.28

撮りだめた番組と買いだめた本の相似則

HDDビデオに番組がどんどん記録されていく。
おぉ、これは見た方がいい。
そういう番組をピックアップして記録しているのだが、見る時間を余り考えていない。
だから1GBの容量があっても、すぐに残量が10%程度になってしまう。
ある程度容量がすくなくなるとHDDビデオがちゃんと動かなくなるので、BDに落として残容量を空けている。
一度あくと、その領域に・・・、とまぁこの繰り返しである。

本当に見ようと思ったものだけを記録しているが、そもそも週末にしかテレビを見ないので、貯まる一方なのだ。
貯金とは大分違う様相である。
でも、せっかく買ったのだから使っておくことは正しいことだと思うのだが、いやはやなんとも。

そういえば同じようなことをしているのが本だわ。
これは読んだ方がいいぞ、と思って購入した本が食卓テーブルに積まれていく。
自分のタメだと思って買ったのに、どうにも読み切れないでいる。
本は毎日4時間近く時間をとっているから、風通のサラリーマンにしては読書量は少ないどころか多い方ではないか。
それでも本は貯まる一方なのだ。
本が崩れてくるからとばかりに机を片すと、空いた机に新しく買った本を置いてしまう。
こうして、どうにもならない本がたまっていくのである。
まったくなぁ。

解決方法はあるのか。
ある。
自分の能力をわきまえればいいのだ。
おれはそんなに本を読むための時間を持っていないのだから、もう買うのは止めろよな。
それでわが家の賭けは驚くほど健全になる。
誰もが喜ぶ解決方法なのだが・・・、できない。

読める本だけを買うってのは、なんとも味気ないことだわ。
本は腐らないし、2次利用も可能だ。
しかも、ぼくの場合は70%は古本だから、さほど無謀なことをしているわけではない。
じゃぁ、いいじゃないか、今のままで。

ダメなんだよな。
震災や原発事故がなければ、エネルギー消費を15%削減するなんてこと、だれだってやりゃしなかったよ。
こんな状況にある今現在のぼくらだって「たぶんそこまでできないんじゃないか?」と思っているくらいだ。
ベースラインだとした生活基準を下げるのは、自ら行うのは難しい。
外部からの力で強制的にやるはめになってしまった、ということでもない限り、無理だろうな。

2011.05.27

データの読み方

ツィッターでNHKニュースの見出しをちらちらと覗いていたら、目がとまった。

東電に未公開放射線量データLinkIcon

あれだけ注目されていて、隠すってことはないだろう。
とくに放射線は「簡単に」測れてしまうものだし、そもそも放射線は隠しようがないものなのに。
官房長官も怒っていると会見していた。
一体どんな情報を隠していたのだろう。
東電ってしょうがないよなぁ。

そう、不信の念と恐れを抱きつつ内容を読んで見ると、

これまで10分ごとの値が公表されていますが、それ以外に、このデータを補完するため、さらに2分ごとに測定しているデータがあった

なんだ、そんなことか。
すっかり安心してしまった。
既存サンプル値の間を埋める補完データというわけだ。

はっきりいって、これはそんなに騒ぐようなことではない。
精度がより良いデータがでてきた、ということで、ある意味よいニュースなくらいだ。
被害を確認するためにそういうデータを確認するのであれば、今回のデータは問題視するようなものではない。

原発からの放射線量を観測しそれを収集するシステムがどのように観測値をオペレータに提示するのか。
ぼくは実際を知らないし、見たこともない。
しかし、おそらくは、
(1)その場で運用者に提示するためのデータ表示(粗いデータ)
(2)あとで解析するためのデータ蓄積(完全なデータ)
という2つの機能をもっている装置を使っているだろうことは予想できる。

緊急事態で、しかも人が足りないというようなときに公表したデータは「粗い」ものであっても、それはそれで仕方ないだろう。
きっとすぐに取れだせるところから取り出して公開したのだろうから、それは粗いデータなんだろう。
また、10分間隔が「一定に計測されている」ならば、これまでのデータであっても被害を予測すための基礎データとして問題にならない。
より細かいデータができたのだから、定量的な解析をするのに都合が良くなったはずだ。
だが、それによってこれまでの評価結果が覆ることはない。
それが補完データということの意味なのだ。

新聞記者や官邸には、計測器からデータを読むことに慣れた人はいないのだろうか。
原発は政治ではない。
原発に権威や脅しは通用しない。
単なる物理過程なのだから。
原発とのコミュニケーションは計器からの数値読み取りによるよりない。
そんなの、まともな工学系の大学生ならできるだろうに。

科学技術立国なのに、なんでそういう人が政府にいないのは不思議だ。
ある程度教育を受けた人ですら、この程度でしかないのは驚きだし、不安だ。
ならば社会の大半を占める普通の人はどう思ってしまうのだろうか。

データとして得られた数値を適切に読み理解する力を全く期待できない普通の人は、
さぞかし「なぜ隠したのか」と怒っていることだろう。
あるいは、政府や東電を疑っていることだろう。
ある意味、それはそれで仕方がない。

だからこそ、マスコミが大切なんだろうに。
ところがマスコミの記者は、普通の人と同じ程度の理解しかない。
そういう絶望的な状況にいるわけだ。
マスコミによる煽動、意味がわからない政府、猜疑心しかない普通の人。
こりゃ、ダメだわ。

英語よりももっと別のことを教える必要があるんじゃないかな、義務教育では。
かりに英語が今より少しできたからといって人々が幸せになれるのか怪しいが、
普段利用する生活機器の基盤となるものの背景を知っていれば不安から愚かな行為に走ることはなくなるのに。

2011.05.26

花粉症なのか風邪なのか

今週は月曜から調子が悪い。
のどがいがらっぽく、ねつっぽく、そして鼻が詰まったり、咳が出たり、鼻水がでたり。
一見すれば「風邪ですね」と診断できる症状。
しかし、花粉症の症状でもある。
とくに、おおきなくしゃみを立て続けにするとなれば、風邪というより花粉症だろう。

帰宅しても気分がよいわけがない。
早く寝たいくらい。
だからご飯を食べて、寝てしまう。
十時過ぎに寝るのだから、なんとも重症な気分がする。
こんな日々をつづけたら、一向によくならない。
風邪ではなく、花粉症なんだろうか。

GWくらいまで花粉症だった。
しかしそれは終わった。
しばらく快適だった。
なんでまたここにきて花粉症になるのだろうか。
街中でマスクをしている人が多いわけではない。
時たま見かけるが、あれはたぶん放射性物質よけのつもりとして使っているのだろう。

そういう人が外にいるのかとをグーグルでちらっと見てみたが見当たらない。
これはやっぱり風邪なんだろうか。

2011.05.22

心象風景が行動を誘っている

ワインをちびちびやりながら、敬愛する養老孟司さんの本を読んでいた。
こんなふうな考察ができる人になれたらなぁ。
到達不可能な目標として設定してる人の一人が養老先生である。
読んでいるだけで、ため息がでてしまう。
無理だね、まぁ。

本から目をそらし、ベランダに置いてあるゼラニウムの花の赤色を見る。
先々週、思いついたように肥料をドバッと鉢に入れた。
そのせいだろう、ツボミが鈴なりになっている。
数日で真っ赤な花がわんさとつくはずで、こりゃ青空に映えるだろうな。
あと少しで梅雨になり、その先は非常に暑くなる日々がつづだろうから、ゼラニウムはまた元気がなくなるだろうけど。
僅かばかりの期間、花の色を楽しむことができるわけだ。

青空に赤。
地中海世界で見たブーゲンビリアを思い出す。
初夏のローマ。
電車で30分くらいの郊外にオスティアという古代ローマの港町の遺跡がある。
そこで見た風景を思い出して、なんとも不思議な気分に浸る。
地中海性気候の乾いた夏の光でみるゼラニウムやブーゲンビリアは、「見ることは味わうことだ」と実感させてくれた。
まぁ、ぼくのつたない言葉では到底表現できない。
表現はできないが、ぼくは色を観賞することが味わうことと同じような喜びを人に与えてくれるのだと知っている。

少し前の5月、パルテノンから見上げたときの空の青さが脳裏に浮かんできた。
空が青くて、本当に青くて、「どうしてこんなに青いんだろうって」つい言葉に出してしまった。
そんな感激をうけたのはもう40歳になっていたはずなのに感動してしまった。
これが10代だったら、ぼくの人生は絶対に変わっただろう、きっと。

まだ「その空」を見たことがない嫁さんをつれて、またパルテノンに行って見たくなった。
震災がなければ今ごろはウィーンやローマを巡っていたはずだった。
当然キャンセルしてしまった。
秋口くらいならば、状況も落ち着いてくれるのではないだろうか。
旅行を計画してみようかなぁ。

記憶の中の心象風景が、行動を誘っているわけか。

2011.05.21

考えをまとめる方法としての締切り設定

あれやこれや、いろいろなことを考えながら日々過ごしている。
自分ではそう思っているのだが、果たしてどうなんだろうか。

ぼやーっとしているうちに時間が過ぎてしまった。
おや、もう飯の時間ではないか。
ぱくぱく。

そういう過ごし方をしているつもりはないのだけど、実際にはなにもできない。
いつもではないが、自分で思っているほど生産性はないかもしれない。
ダメ人間だからしかたないよ、と開き直っているだけではまずい。
なので少し反省がいるだろう。

自分は何を考えているのだろうか。
こんなときに一番良いツールは「書く」ことである。
グラフでもいいし、文章でもいい。
とにかく、何を考えているのか他人に説明するように、自分に説明してみる。

そんなことはできて当たり前だろうが、おれはそんなことをやっているほど時間はない。
そう思ってパスしている。
そういう人のほうが普通かもしれない。
が、それでは気づけない。
「いや、意外に何も考えていないんだわ」ってことを。

研究活動をしているときに、「いろいろ考えてはいる」と発言する人がいる。
学生さんからプロの研究者まで、そう答えるのは、実はとりあえずお茶を濁す物言いである。
なぜなら、そう言われた方は「ふーん」で済ますよりない。
考えているという状態は外部から測ることはできないから。
会話はそれで一旦終了するので、聞いた方も答えた方もその話を忘れてしまう。

しかしプロがプロであるのは、どのくらい考えていないかを把握しているところだろう。
提案書や報告書、あるいは論文という形でつねに「考えている」ことを外に出す機会が多いため、経験的に「考えていると思っているうちは、意外になにも考えていない」ということを知っているものだ。
だから学生などには「レポート」を提出させるのである。
書かせれば、そこでバレるのだから。

「わかっちゃいるけどね。」
どうしてもやる必要がないと、考えていることを出力するなんてことはしないだろう。
だからやっていないのだろうし。
それでも必要ならばやるよりない。
そこで、工夫がいる。

あれこれ考えみたが、ぼくに一番あっている方法は、締切りを設けることではないか。
夏休みの宿題から論文提出に至る行為はすべて、締切り直前で作業を始め、ギリギリ間に合わせている。
全ての成果は締め切り日ギリギリに得られたといえそうなくらい、ぼくはギリギリにやるタイプである。
だからこれまでの成果は、そのほとんどすべてが「やっつけ」なのだ。
それはよろしくないことだが、それが自分のスタイルなんだと思うよりない。
嘆くよりも、それを所与として工夫するよりない。
そこで、締切り設定を使うのである。

一つ自分に「仮想的な締切り」を課してみたらどうなるか。
週刊あるいは月刊というレベルで、ブログではないものを必ず出力する。
そういう設定をしてみる。
報酬はない。
しかし、ある種のまじないをすればいい。
例えば、ぼくは本をばかばか買うのだけど、週刊の締切りを設定しているエッセイを書かない限り、本を買わない、という具合に。
本当に買えないのならば、相当キツイ。
精神的に週末が楽しくなくなってしまうだろうと想像する。
やめたければやめればいいのだが、そこはそこ。
誰からも頼まれているわけではないのだけど、それでも締切りを守れるだろうか。
そういう自分に訓練を課すわけである。
そんなにばかげた方法ではない、と思っているのだが、実際どうなるか。

では、やってみることにする。
週刊で10枚のものをあげてみる。


2011.05.20

Facebookはどういう人が使うのか

Facebookを使ってみることにした。

このサービス、いったいどういう人が使うのだろう。
マニュアルなしでもいじってみる。
そのうち「なんだ、そうなのか」。
そんな発見の瞬間がどんなことにも訪れる。
そう思ってきたが、facebookは少し違う。
未だにまったくもってピンとこない。
困ってしまった。
仕方ないから1000円を投じて、 使い方の情報 を買っみた。
ある意味自分が情けない。
そんなふうに感じるが、背に腹は代えられない。
とりあえず全部読んみよう。
一通り使い方を知ってしまえばいい。
そう判断したのだが。

さらっと読んだら、はっきりした。
このサービスは「友達」がいないと意味がない。
facebookは友達との関係の媒体でしかない。
会話や写真、そういったやり取りなどを「つなぐ」装置でしかないのだ。
「あぁ、やっぱりそうか」
正直言って、ぼくには必要がない。

パソコンはケータイでちまちまやるより、会って話したら?
友人との繋がりの維持、というより、繋がりってのはそういうことだろう。
直接会えよ、それが一番だろう?

素直にそう思う。
だが、これがオジサンの思考。

直接会えないならば電話なり手紙なりがあるじゃない。
なんならメールでもいい。
チャットだってある。
要するに、すでに十分過ぎるほどの交流方法があるだろう。

にもかかわらずfacebookが流行っている。
なぜだろう。

逆に想像するのだが、facebookで頻繁に「いいね」というタグを付けあっている仲の人たちは、あまり会っていないのではないか。
たまに会ったときには、なんか逆に会話が成立していないのではないか。

リアルに会って話が弾むのなら、リアルに会う機会を増やすだろう。
そこまでの仲ではないので、気にくわなかったり嫌になったらすぐに逃げられるfacebookをとっている。
そういう打算を意識的にしろ無意識的にしろ、した結果の交流方法としてfacebookを選んでいるのではないか。

物理的に会う機会なんて、そもそもメッタに取れるわけないでしょ、社会人なら。
あるいは距離が離れていたらそもそも無理だろ。
だから、facebookを使うんだよ。

そういう反論が即座に返ってくるような気がする。
まぁ、実際に会うような仲ではないにせよ、facebookで応答しあう仲の友人がいる人は全くいない人よりも「ずっと幸せだろう」という判断が、一般的にくだされる。
だから、ぼくのように、友達のリンクが少ない人は、ダメ人間呼ばわりだろう。

それはさておき、facebook。
どうしたもんかなぁ。

2011.05.06

東京について記録したいこと

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花見の風景@吾妻橋東詰


デジカメが普及し、携帯電話のなかにも収まっているくらいになったので、誰もが日々の生活のなかで身近なものをカメラで撮影している。
デジカメ以前と以後とでは、記録された都市や田舎の情報の量は格段の差ががあるはずで、あまりの量が違うために質の違いすらあるのではないか。
それらの画像のあるものは、個人的な楽しみを越えてインターネット上にばらまかれている。
今やニュースで取り扱われるスクープ映像は普通の人が携帯電話で撮った動画でることもめずらしくなく、それをメディアがこぞって放映しているくらいなので、普通の人が記録した画像なり映像なりの蓄積は、必ずしも個人の趣味と言って片づけられる問題でもないかもしれない。

そんな大上段から構えて考えなくとも、みんなデジカメを使っているけど、一体なにを撮っているのだろうかと疑問になった。
多くはありふれた風景とそのなかにいる家族や知人。
一眼レフカメラをぶら下げて散歩している爺さんなどは、記録ではなく芸術として活動しているのだろう。
真剣さはなく、愉快な遊びといったところ。
そうこう言うぼくも、カメラを持ち歩くと「いいなぁ」という風景を探したくなるし、そんなシーンを求めながら歩けば、ちょっとした「芸術家的」気分を味わえることを知っている。

歳を取ったせいだろうか、過去についての興味が頭から離れないことを意識するようになった。
教科書にのっているような、日本史、世界史についてではなく、骨董品屋のオヤジのように止めどなくながれでてくる蘊蓄でもない。
昭和の記録写真に偶然映り込んだ風景に知っているものがあったり、日本映画の傑作を眺めているときにぼくの子供時代を呼び起こさせる建築や橋が映ったりしたときに感じる驚き。
これがなんとも心地よく、また、もっとないのかなぁと写真集なり映画なりを探してしまう衝動に狩られることが多くなった。

カメラを持ってうろうろする。
こういう行為自体に憧れているのかもしれない。
何かをする、ということではなく、何かをしている自分に憧れる。
この勘違いはのちのち「面白い」「面白くない」の感情の出方で違ってくる。
つまりは、長続きするかどうかでわかってしまう。
何をしている自分に憧れるという人は、テレビの中に入り込みたいというだけの話で、その内容に興味があるわけではない。
だから、何かをしている自分を他人に見てもらいたいと思っており、なかなか長続きしない。
だから結果的に無駄に時間を費やすことで終わる。

街中でカメラをもってうろうろしている人は、何をしたいと思っているのか。