2011.02.19

歳をとるとドン・キホーテになりたがるらしい

健康のまま歳を取り引退すると、ある意味やることがないらしく、新聞とテレビをずっと見ていているうちに天下国家を論じたくなるらしい。

新聞もテレビも情報を提供する装置ではなく、感情、とくに怒りを煽ることに特化したファンタジーを提供している娯楽装置でしかない。

歳をとると「世の中を見通せる正しい人」にでもなった気分になるのだろう、そこに「悪いやつら」の話をたくさんインプットされれば、なんてひどいのだろうかと「怒り」を燃料にしたやじ馬根性に火がつくというものだ。
情報入力にフィルタがまったくなく、単に「怒りたい」だけの人たちが正義の人になることに意識を向けることになる。
そして、それは例外なく爺さんということだ。

基本的に爺さんの発言、とくに国や社会に対する発言は無視したほうがよい。
なぜならば、社会がどうなろうと彼はあらゆる責任をとるつもりがないし、またとりようがない。
仮に社会が彼らの提言を受け入れた結果混乱が生じたとしても「もう老人だから」といってほっかむりして寝てるだろうし、多くの人が路頭に迷ったり戦争になったりしても「自らはそうすることが物理的にできない」といって何もしないだろう。

つまり、本質的に無責任なのである。
ドン・キホーテは自分で行動したのだけど、老人は自ら何もしない、口だけの人なのだ。

そして、なによりも彼は「複雑なことを複雑なまま理解する」ことができない。
単純なモデルで考えて、単純な行動を思いつくしかもう脳の余裕がないはずだ。

マスコミはこういう人たちに正義の怒りを供給する情報をせっせと流している。
爺さんは不愉快の塊になっているだけである。
この部分だけみると、中東の原理主義過激派と思考の面ではなんらかわりない。
普通に生きている人たちが彼らの起こすテロで迷惑を受けているように、ごく普通の日本人は彼らの不愉快にえらく迷惑を受けているわけである。

まったくなぁ。
歳を取って引退した人は、社会に対する影響力が弱まったから引退したということをよく考えてほしい。
マスコミに躍らされてせっかくの平和な時代に不愉快のまま死んでいくのは、なんとも哀れだよなぁ。

ごく普通の平和な日々が続くのならば、それを観賞していればいいではないか。

2011.02.18

研究室というわりに研究の話をしない理由

ブログのタイトルに「研究室」と付けあることに気がついた。
そうかここは研究室だったのか。
なんてことない、敬愛する内田樹先生のマネで名付けただけだから、そりゃ研究ネタがなくても仕方がない。
そもそも研究といえるようなことをしているとは言えないと自覚している。

真実を追究する、という気迫な人ではない。
もっといい加減な人である。
だから、ぼくのアウトプットもいい加減なものでも仕方がないだろう。
実際、まともな論文をあまり残していないし。
博士号を持っていて研究所に籍を置いていても、それで研究者になれるわけではない。
形と中身は違っているのは普通だから。

もちろん、そうでない人もたくさんいる。
すごい研究者ッぽい人がぼくのまわりにもいるのは事実だが、そういう人が研究者かどうかはわからない。
葉っぱそっくりの形をした昆虫は「擬態している」と言われる。
これと同じように研究者に擬態した人は結構いる。
気をつけないと騙される。

とはいえ、そういう人が社会を握っているのも事実であるし、それでいいような気もする。
ぼくはどうだっていい。

2011.02.17

巨大な物欲を満足させられるのか

毎年この時期になると物欲を思う存分満足させられるような気になる。
いや実際にそんなことはないのだが、今年はひょっとして、というムシのいい予想をたててしまう。

年度末が近づくと、そこかしこで予算の「端数」が登場する。
「必要なものある?」という問い合せがすれ違いざまにあったりする。
こういうときに何より大切なことは、はいあります、これこれがこういう理由で必要なんですこと困っていたのですと明確に説明すること。
金額はあまり考えないでいいけど、上限は決めておく。
提供者は「剰余分」を明らかにしてくれないことが多いので、自分が必要な分を素直に告げればいい。
あとは運次第。

こういう話を持ちかけてくれる人はこちらを評価してくれていることに間違いはない。
口では何でも言えるが、お金はそういはいかない。
普段から地味な貢献をしている人は、そういうのって「空気」で伝わるし、だれかが伝えてくれる。
金額は僅かでも、チャンスをすこし分けてくれる。
それがこういう時期に表現されているのだ。

ことしはちょっと大きいものを手にいれられそうだ。
といってもMacProだけど。
自分の研究費で購入したらぼくの年間研究費は傾いてしまうから、実にありがたい。
そのついでにと、あれもこれもと細かいものをリストアップして見積もりをもらい、パトロンに申請して許可をもらってしまった。
わーい、Xgridを初めて使えるぞ。
ぼくにとっては大きな幸せなのだ。

2011.02.16

能力不足を悟る

手元に何冊物もの本がある。
小説も解説もあり、どれも売れる本の文章がのっている。
文章だけなく内容も興味があって、どれどれと読みたくなるものばかりである。
買ったのだから当たり前なのだが。

自分には語ることがないから文章が書けないのだろう。
語るべき内容があれば、このようなブログだってそこそこなものに成長する可能性はある。
短絡的で楽観的な予測を持っていたのだが、ここにきてそんな気分が少し失せた。
語ることがないのは語るべきことを見出せないからではないか。
見出したとしてもそれを文章として構成することができないからではないか。

これまで何年かブログをつづけてきたし、その間面白いことだってあった。
普通の人ならばあまり体験ができないようなことだって体験した。
それでも「どうだぁ」という感じの文章を生み出すことはできなかった。
この理由は自分の文章能力の有無にあるのではないのだろう。
そもそも、つまんない人間なのかもしれない。

想像力豊かな人はいるだろうし、小説のようなものを書ける人はそういう人なのだろう。
しかし、いわゆる理科系のような専門家の人であっても、小説とは違った意味で面白い本を書ける人はたくさんいる。
解説文で面白い内容を書くためには、対象を理解していることとそれを説明できることに加え、ちょっとした面白い視点からものごとを眺める能力が必要なんだろうと思っている。
実際、面白いなぁと思う解説書の本にはそういうところが必ず見出せている(経験からだけど)。

であるならば、ぼくにはちょっと無理なんじゃないかな。

面白い視点を持ったことがないので、面白い視点を持つためにはどうしたらいいのかを語ることができない。
また、面白い視点を持っている人からどうやればいいのか聞いたところで、実戦可能な活動はできないだろう。
あるいは、「面白い視点を持つ人の習慣」のような本を読んで自分でマネしたところで、面白い視点を得られるとは到底思えない(因果関係と相関関係の違いを理解していれば、そう言える)。

うむ。
日暮れて道遠し。

そういう気分がしてくるな。
ま、でもそれでいいような気もする。

2011.02.15

英文校閲サービスは赤ペン先生だったのか

IEEEの国際会議に投稿し、その査読結果が返ってきた。
発表申請は受理されたのだが、4人いたリビューアーが全員「原稿の英語をネイティブに直してもらえ」と言っていた。
えらくひどい英語であるのは重々承知しているのだけど、CDROMに掲載されるだけの会議録だからとくに問題ないだろうと予想していたので、ちょっと驚いた。
さすがはIEEEだ。

そこで英文校閲サービスに原稿を送って、ネイティブに英語を直してもらうことにした。
いろいろな会社がサービスを提供しているが、数年前にIEEEの雑誌に論文を掲載した学生さんが頼んだところに注文することにした。
実積があるし、さほど高くないし、なによりも事務手続きに前例があるから面倒な手続きがないだろうと判断したので。

そこに頼んで正解だった。
1週間たって直された原稿を見たのだが、びっしりと手書きの校正指示が入っていた。
電子ファイルで送ったから電子ファイルで戻ってくるのかと思っていたが、プリントアウトした紙に赤ペンで直しがはいっている。
ぼくの原稿をこんな風に見てくれるのは、もう20年ぶりくらいだろう。

大学4年生で研究室に入り、国内の学会での発表のために初めて原稿を書いたのが、そのとき所属していた研究室の助手の人に「びっしり」と赤を入れられた。
今みても「まずい」日本語で、欄外に「もういっかい小学校から日本語を勉強したほうがいい」とあった。
それ以後20年間誰にも文章を直してもらったことはない。
自分で自分の文章を直すしか方法がなかったのだ。
思えば、今こうしてブログをせっせと付けているのも、あの頃に感じた惨めさが発端になっているのだが。

日本語も英語も全くダメだめだが、それでも現在に至っている。
英文がダメなことはわかっているが、国際会議での発表ならばさほど問題はなかった。
データーベースに記載されるようなものはないので、大切なのは「どこで何時なんの発表をしたのか」だけだから。

そして今回の査読がある。
IEEEは名の知れた学会だから英語力の要求も高いということか。
赤ぺんで直された箇所をワープロで打ち直し、出来上がったものをもう一度確認して、またビックリした。
すっごい読みやすくなっている。
修正したものは、aとthe、そして単語とい程度である。
文法上の誤りや言い回しについての修正はあまりなかった。
それでもここまで読みやすくなるのか。

ということはだ。
もうちょっとの努力で、まぁまぁの英文が書けるところまでぼくは来ているのかもしれない。
最後の一頑張りが必要だということだ。
そう信じて、今年一年は英語強化年間としたい。

2011.02.14

読む人との距離を制御するものいい

普通ならば、

チョコレートの日がやってきた。
駅前のコージーコーナーでは朝からチョコレートを売っている。
店の前でワゴンをだして朝っぱらかご苦労だわ。

と書いていくのだけど、これを

チョコレートの日がやってきました。
駅前のコージーコーナーでは朝からチョコレートを販売しています。
お店の前にワゴンを出して、朝早くから大変なことです。

と書いてみる。

独り言ならば絶対に上のほうがらく。
自分で読み返すときもそうだ。
言葉を使って考えてるとしたら上のように考えているからだろう。

一方で面識のない人の文章ならばどうか。

上の書き方を読むためには、その著者のキャラクターを設定しないと難しい。
マンガでもなんでもいいから、キャラを設定してそのキャラが発言しているような情景を思い浮かべることができないかぎり、一行も読めないだろう。

一方で下の書き方は日本語だけで読み進むことが可能。
どんな人がそう発言しているのかは全くわからないけれど、NHKの自己主張しないタイプのアナウンサーが日常場面を紹介しているような感じがして、読むだけならば何の抵抗もない。
メリットもあるしデメリットもあるということか。

2011.02.13

パロディーの真骨頂

奥さんが「この猫は秀逸だよね」と言ってグーグルの画像検索画面を見せてくれました。

年収低すぎ.png

ウェブ広告でよく見かける「年収低すぎ」の転職会社のCMのパロディーです。
確かに笑いが。
猫がビックリしてがっかりしている表情がよくでていて、涙がでてしまうくらい愛らしい。
面白い。

こういうパロディーが成立するには元画像の印象が多くの人に残っていないとだめです。
猫が生きてくる背景には元画像の驚く女優さんが良くできているからで、たいした演技ではないと考える人もあるでしょうけど、いやいやどうして名演技だったということです。

よい写真はキレイなものではなく、印象に残るものです。
だからしばらくしないと写真の判断はできない。

2011.02.12

いかん、やりかたを変えないと続かなくなっている

ここのところブログの更新が滞っている。
とくになにも書くことがないから書けなかったのだ、というわけではない。
ぼくには最初から書くことなどない。
いや普通の生活している人なら、自分の日記に喜々として行動記録を付けられるのはイベントデーのときぐらいでしょう。
毎日毎日何かが起きるわけないだろう。

そうは思ってみても電車のなかできゃぴきゃぴ騒いでいる女子高生をよく見かけるので、とくに何事もない平穏な日々を送っているのは少数はなのかもしえない。
電車を待つホームのベンチでプリクラシールでうまっている手帖にあれこれ書き込むスケジュール帳は真っ黒だったりするのだろう。
ほんと、何でまたみんな忙しんだろうね。

自分と彼女らとの違いをちょっと考える。
すぐに思いつく。
ぼくは「企画」というものをしていないが、彼女達は自分たちで「企画」をあれこしれている(のだろう)。
そうか、ぼくは口を開けて(いや開けずに)待っているだけだった。
これじゃぁ、愉快なことが起きるわけない。

現状を認識し、問題点をはっきりさせることができたら、解決は簡単。
なんか「企画」すりゃいいじぇねぇか。
面白そうなことを自分で仕掛ければいい。
幸いなことに、ぼくには時間の余裕がある。
仕事については自宅でやらないことにしているし、奥さんも忙しくないのでいろいろ楽しむ方法は思いつく。

そうだ、ウィーン、行こう。