今年の重大ニュース

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ぼくの知っている世界@羽田発の飛行機からみた東京の風景


2010年を振り返ってみます。
えっと、何したんだっけ???

仕事としては、AUV(自律潜水探査装置)作業も三年目を迎え、とりあえず対外発表ができるところまでたどり着きました。
これは更地から考えだした、つまりゼロから考えた研究テーマです。
アイデア・理論家・実験・結論の発表という流れの全行程を体験できた最初のものなんです。

え、じゃぁ今まで何をやっていたの?

そう疑問に思う人がいるかもしれません。
なにせ、ぼくは「研究者」の看板をしょっているわけですから。
これまでどういう方針で研究をしてきたのか。
なんだかんだ言って他人の尻馬に乗っかっていただけです。
プロジェクトチームに入って何かをするというのは、結果的には自分で何かをやっているわけではないのです。
チームで作業を進める以上、自分が何かを進めるのではなく、調停というものがあり、結果的にプロジェクト・マネージャが仕事を配分・指名することになりますから。

チームですから進捗状況に合わせていろんな人がフォローに入るし、自分もフォローする側に回ることもあるわけです。

そういうの、なんだかやになった。
だって、部分的なものしか出来ないし、知らないし、プロジェクト・マネージャになったら逆に「ないも実際にはできない(能力的に・技術的に)ですから。

というわけで独自の活動を始めたというわけです。
自分の能力で手に負えるものでなければならないし、かといってつまらないものはやりたくないし。
宇宙科学の研究所で潜水艇を研究するなんてのは、めちゃくちゃ異端ですが、それでも他人の目を気にしなければできる。

自分が何かをしない限り全く研究が進まない、という状況は実に不思議な感じでした。
ホントに。
こんな活動に3年間も研究費を付けてくれた宇宙工学委員会の方々、ありがとうございました。

あとはハヤブサのカプセル回収。
ぼくはハヤブサプロジェクトとは関係ないのですが、オーストラリアまで行って砂漠の中でカプセルが突入してくることを目の当たりにしました。
結果的にはどんな人々よりも近くで見ちゃったわけです。
なかなか楽しい体験でした。

ハヤブサについては、いろんな人がいろんなところで語ってました。
坂本龍一もコンサートで語ってたし。
そういう有名な活動において文字通り末端で働いたわけです。
みんなと明確なゴールを目指す楽しさを体験できました。

別にぼくの専門性を問われて参加を要請されたわけではないです。
僕行きたいです、と手をあげる人が極端に少なかったんです。
ハヤブサが戻ってきてカプセルを放出できるなんて、この研究所でもあまり真剣に考える人がいなかったんですね、実際のところ。
だから「やりたいス」という人が殆どいなかった。
ぼくは興味本位での参加でした。
仕事内容は誰だってできることだったと思う。
だから、ぼくは単に運がよかっただけ。
次はやりたい人が多いでしょうね、きっと。

そして、3番目は日本映画の面白さを知ったことです。
成瀬映画で高峰秀子を見て、映画ってこんなに面白かったのかと驚いたわけです。

日本映画ってのは寅さんくらいしか知らなかった。
ところが、あるきっかけで成瀬映画をDVDで見て、異様に感動した。
昭和20年代、30年代の映画には凄いものがたくさんあったのだわ。
まだ20本くらいしか見たことがないのだけど、今後いろいろ見ていけるのかと思うととても楽しみです。

振り返るとだいたいこの三つです。
ごく普通の市井の人であるぼくには、楽しいことばかりが続いた2010年でした。
なんてラッキーなことだったのか。

では、来年はどうなるのか。
わからない。
けれど、おもしろきこともなき世をおもしろく、という態度で行こうと思っています。

2010.12.31

量の効果

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今のロンドンはスゴイことになっているらしい@トラファルガー広場

ここのところ、ずっと英文を読む機会があった。

英語は得意じゃないので、仕方なく読んでいる。
そんな事態に迷惑しているというか、難儀しているというか、要するに穏やかでない日々を過ごしている。
今回は読むだけでなく英文で書く必要もあり、なんだか英語漬け。
学生時代にもこんなに連続してやっていない。
この状態がもう一ヶ月ぐらい続いている。

こうなったら逆に英語に慣れちゃえばいいか。
発想の転換。
嫌なものを飲み込むためのささやかな努力。
とりあえず会社から帰るの電車内でkindleを取り出し、新聞を読むことを自らに義務づけてみた。
衝動買いとはいえせっかくキンドルもあることだし、しかもずっと使っていなかったし、無理にでも使い始めないともったいないしね。
渡りに船だと思って自らに訓練を課したのだった。

そんなふうに始めた習慣だが、結果的には日本語の文章を読むよりも長い時間英語に親しむ生活になってしまった。

するとどうだろう。
少し慣れるんだな、これが。
決して出来るようになった、というわけではない。
英文を目の前にしても肩に力が入らなくなって、おお進化したかもしれないと感じた。
目下の英文の内容をわかってもわからなくても、英文を目で追うスピードが一定になってきたのだ。

理解できないならば意味がないのではないか。

そう考える人が殆どだろうが、そうではない。英文を「見る」だけでも英文に対する身構えを弱めることに効果があるようだ。

もう一度確認してみる。
英文に対して気分的に楽になった。
それはどういうことか。
魔法のように「知らないことがなくなった」ということはない。
一言で言えば、英文を一定のスピードで追うことに疑問を抱かなくなってきた。

読んでいる最中にわからない単語があったときどうするか。
前後から推測できるものは推測ですませ、推測できないものは『』に入れたまま、つまりわからないまま読み進んでいく。
これは良く耳にする方法なのだが、次はどうだろうか。

英文の決まり文句があったときに、あえて意味を確認しないことも功を奏しているかもしれない。
受験後遺症で反射的に浮かんでくるのだが、そういうものを無視していく。
それと構文や句という単位で単語をグループ化しないこと。
むしろこちらの方が効果があった。

例えば、she is runing in front of the school where she has graduated.みたなものがあったとする。
これまでならば黙読するときに、日本語の意味として区切れる3つのブロックに意識的に分けていた。
すると、読むスピードがブロックとブロックの切れ目でガタガタになってしまっていた。

今は違う読み方をする。
意味ではなく、4単語ずつ読むようにする。
すると、fron of the shoolなどと、inが前のブロックに入ってしまってちぎれてしまうが、それでも4単語づつアタマにインプットしていく。
なのでスピードは変わらない。

意味の理解は次の4単語をインプットしている最中にアタマの別の場所で処理する。
どうやるって言われても説明できないのだが、並行にやっている、別の場所でやっている、としか言えない。

変な方法である。
だれもこんなことは教えてくれない。
いや、そもそもこの方法が意味を成すのは今現在のぼくだけかもしれない。

学習するとは、一つの方法を身に付けることではないはずだろう。
学んでいく過程で身に付けることは、次から次へと変わっていくのが普通だろう。
ならば英語だってそうだ。
今変な風な読み方になっているけど、現在のぼくの英語力には合っているようだ。

とすると、人にモノを教えるのは相当難しいということが親身にわかる。
結局独自の工夫が必要なのだろう。
そして、そういう結論に至るには量が必要なのだろうな。

2010.12.23

一番を狙うとつまらなくなる

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紅葉の名所はぜったい避けるべし@秋の京都


一番になることを狙うと不思議な矛盾が起きるようです。
矛盾というもではないかもしれません。
一番を目指すのと一番になるのは違う話だということです。
あるいは、一番になってしまうと自分が立っている世界が違ってしまうということです。

良く聞く話です。
お説教として、童話として、映画や小説として繰り返し繰り返し語られてきたテーマです。
抽象的な教訓をここで書き留める必要はありません。
それなのに書いているのは、一つの具体的な事例に遭遇したからです。
それを憶えておきたい。

良く言われることはこういうことです。
ひとたび一番になってしまうと、次は下がるよりない。
一番にいる状態で一番は目指せない。
あるいは、お腹がすいたらものを食べるが、その後またお腹をすかせないと続けられないだろう。

はやぶさの記事をペラペラと流し読みする機会がありました。
はやぶさは世界発で小惑星からサンプルリターンをした宇宙プロジェクトです。
だから世界で一番を勝ちとりました。

川口淳一郎プロジェクトマネージャーは数多くの賞を受賞し、いろいろなところで講演を行っているよう
です。
だから新聞にもその抜粋や印象的な言葉が掲載されています。
それらを「ふむふむ」と読んだのです。

誰もやっていないことだから、根性でがんばる、神懸かりになってもあきらめないできっかけを待つ。

なるほどなぁ。
そんな、あわい気分が感想がわりになります。
そんな目に合ったことないので、肯定も否定もできないです。

はやぶさプロジェクトは、これまで誰もなし得ていないことを実現しました。
誰も出来なかったには当然理由があるはずです。
NASAのような資金・人材・経験の量がすごい人たちでもなし得なかったのですから、それには当然すごい理由があるはずです。

それはなんだったのか。
そういう困難なことをなし得るには、普通に考えれば、これまで以上にすごい人が登場しないとだめでしょう。
川口先生はそういう人であった。
そういう人を見習いましょう。
こういう余韻が残る記事が多かったです。

人を鼓舞する方法としては、次のようなものがあります。
「自分の仲間がすごいことをやったのだから、自分もそういうことができるかもしれない。」
そういう応援のロジックでほとんどのはやぶさ記事がかかれていました。

この論法は、子供には劇薬のようにきいてしまいます。
実際効果があることもあります。

どんな方法にせよ、すごいことをやってくれる人は少ないのだから、応援によってそういう人がでてくればいいではないか。
そういう意見は誰も否定しようがないでしょう。
実際マスコミは例学なくこの論法を採用していました。

しかし、です。

この論理は、圧倒的な数の日本人にはあまり関係がないことではないか。

そうしんみり感じています。
というのは、ぼくの経験からも身の回りで観察できた人たちの結果からも、そんな簡単な理由で人生がよい方向に向かうようになった人のことを思い浮かばないからです。

言葉を発することでそれが実現しやすくなる。

これは日本古来かある信仰なのですが、どうもそれを信じる気になれないでいます。

だって、凄いことをやる人は、そういうことにあやからない人でしょう?

すごいことをやって、一番になったという人が、同じことをやろうとするのでしょうか。
例えば、ハヤブサの成功でサンプルリターン技術として世界で一番になったからといって、次の人がまたサンプルリターンをするものなのか。

多くの人はまたサンプルリターンの論調に同調しています。
政府だってはやぶさ2に予算を付けようとしているらしいです(マスコミのニュースがどこまで信じられるかわからないですけど)。

肝心の人たちはそういう発想をしているのでしょうか。
にわかに信じがたいです。
すくなくとも、それはないのではないか。
何か特定のことの一番になる、ということが目的でやったのならば、一番を勝ち得たものをやり続けるのはある意味自然です。
しかし、誰もやっていないことをやって一番になるというのであれば、2度目はやらないでしょう。
もう自分がやったのだから。

はやぶさ2プロジェクトには、果たしてキーメンバーが残っているのでしょうか。
そのあたりは興味深いところです。

想像ですが、はやぶさ2をやろうという人たちは、成功したプロジェクトに参加したいという動機で集まってくる人たちではないでしょうか。
勝ち馬に乗りたい人。
そうだったら、かなり魅力ないミッションになるでしょう。
そうならないことを願ってしまいます。

2010.12.07

ですます調への抵抗感

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ここ着てみたかったんだよなぁ@京都・伏見稲荷


このブログは「ですます調」で書く方ほうがいい。

そう判判したのでいくつかのエントリーで試みてました。
文章は読んでくれる人がいるから成立するもの。
書く行為はその人に対する語りかけです。
ならば丁寧に語りかけるべきだ。
ですます調の利用について、ぼくはこう納得しました。
べつに間違った解釈ではないでしょう。

しかし、ですます調で文章を書くと抵抗感を感じます。
語るときにある種の緊張感を感じるのです。
そしてこの緊張感は自由な発言を妨げてしまいそうです。
杓子定規というか、予定調和というか、書こうとすることを形式的に整合させようとする力が働くのです。

ですます調を使うと矛盾した状態に落ちてしまいます。
語りかける相手は他人です。
自分ではない。
ならばなにがしかの敬意というか、フィルタを通す必要はあるでしょう。
気安さは相手にとって気持ちいいものではないことが多いからです。
ところがそれが語りかける内容を制約してしまう。
文章で書こうとする内容にはなんの制約もないのに、その結論には制約が働いてしまう。
書いている最中から結論の方向がしぼられてしまう。
ですます調を使うことに問題があるとしたら、こういう心理的作用でしょう。
こういう作用があることを知っていないとまずい。
予定調和的な結論に向かって、本心とズレる。
なんのために語りかけるのか、意味不明になってしまいます。

これは書き言葉だから起きること、というわけではないでしょう。
話し言葉でも起きえます。
つまり、アナウンサーのしゃべり方では、アナウンサーが話しそうなことしか話せないのかもしれない。
先生あるいは政治家の話し方では、これまでの先生や政治家がしてきた話しかできないのかもしれない。
どのような話し方をするかで、内容が規制されてしまうのです。
これまで気づかなかったけど、結構規制の力は強いです。

話し相手が同学年だと判明すると、じゃぁタメ口でいこうぜ、と確認することがあります。
あれは上下関係の縛りを外して楽に情報交換をするための協定だと思っていました。
一方で、口調からくる制約を解除しているのかもしれない。
つまり、話し言葉を伝えたい内容にあわせて変更していいという確認なのかもしれないです。
タメ口がOKならば、口調の選択は自由にできますから。
タメ口を許す関係ならば、価値の高い情報を交換できるかもしれない。
だから結末がわかってしまうようなことは言わなくていいよ。
そういう意志の確認なのかもしれません。

話の内容を規制してしまうもの言いを「エクリチュール」というのだそうです。
いや、解釈が性格ではないかもしれませんが、ぼくが読んだ本ではそう説明されていました。
その本では、不良中学生が話す口調を選択した人は決して白川静先生の本を読んだりする行動をとらない。
というような、口調が行動パターン、思考パターンを決めてしまうという説明でした。
そのときは、たとえ話に感心して納得しましたが、今は実感とともに納得しています。

ついでにもうもうひとつ。
作家をはじめ文学を研究する人は「文体」ということをよく議論します。
どういう文体を使うのか。
この作家の独自の文体。
そういうことをテーマとしてあーだこーだ議論しあう様子をたまに読み物などで目にしましたが、正直ピンときませんでした。
なんでそういう議論をするのだろうか。
糸口もつかめませんでした。
しかし、今はその重要性を少し感じています。
つまり、物言いによって内容が大きく規制されるのが避けられないのであれば、内容を表現することが可能な物言いを準備しなければならない。
物言いと文体との意味する範囲がズレているかもしれませんが、重なる部分は大きいはずです(と思っています)。
作家が独自の内容を表現することをよしとする人々ならば、必然的に独自の文体を生み出す必要もあるわけです。
作品ごとに文体を準備する必要があるかもしれないし、作品傾向がはっきりしている人ならばその人の文体を一つ準備して先にすすめばいいことになります。

とここまで考えてきて少し不安になりました。
ぼくの理解は正しいのかいな?
文系の知り合いは嫁さんしかいませんが、そういうことに興味があるかどうか不明なので、ひょっとしたら勘違いしたままでこの先過ごすことになるのかもしれません。
とはいえ、それで困ることはありませんけど。

2010.12.05

読むことが楽しい、書くことはなかなか楽しくなれない

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この風景も見慣れた。空が青い@清洲橋


書くより読むほうが楽しい。
それじゃぁモノを書く人としては失格です。
が、モノを書く人でなければ当然そうでしょう。
書くのは読むよりもアタマを使いますから。

でも、喫茶店でおしゃべるをするように、心に浮かんだものを感情に任せて声にのせて話すように文章を綴れるのならば、それはそれで立派なモノ書きだと思います。
圧倒的多数の人は、考えて書こうとしても、おしゃべるをするかわりに書こうとしても、どっちにしろうまくいきません。

その理由は書く目的にあると思ってます。
普通の人がブログを初めても、それを読んでくれる人は自分しかいません。
家族やごく親しい友人ならば見てくれる。
そう想像するかもしれませんが、実際そんなことはないです。
よっぽど上手な人か、遠くに離れて暮らしているか、そのブログを読むことに積極的理由がある人でないかぎり、誰宛でもない文章を読むひとは実はあまりいません。

ブログを何年か経ちました。
誰宛でもない文章は誰も読まない。
そんな簡単ことを結局のところ自分で思い至ることはありませんでした。
あるインターネット・ラジオの番組で、有名な参加の人の話を聴いて「なるほど」と思ったのです。
その作家さんは、あるとき決心して小説を書きはじめ、半年以上毎日書き続けたあとその作品を文学賞かなにかに投稿し、その途端に「これはダメだ」と気がついたそうです。
その作品は、読者に向かって書いたのではない。
小説を含めて、何かを書くと言う行為には「相手」が必要だということです。
読む人がいて、その人に向かって書いたモノでなければ誰にも読まれるはずはない。

面白い文章が読まれるのはなく、読まれるために作られたものが読まれる、ということでしょう。
なるほど。
ただし、ぼくは日本語の練習としてブログを始めたので、だから今までの行為は無意味にだった、とは思いません。
無駄どころか、大いに役にたった。
二年前ですら、こんなふうにすらすらと日本語を連ねることはできませんでした。
最近になってようやく、脂汗を流さずとも文章を綴れるようになりました。
ライターさんのレベルのはほど遠いですが、誰かに情報伝えるための日本語ということならば、60点は貰えるできにはなっているはずです。
話せるのだから、書けるはず。
そう考えることは間違いではありません。

言葉というのは、内容よりもその差し出し方が重要だ。
そう内田樹さんのエッセイで読んでいたく感心しました。
内容がよければ、つまり「正しい」ことをもれなくダブりなく整理しておけば相手に通じるのだ、と考えるのは多くの場合間違いだというのです。
多くの人は内容よりも「まず、その差し出され方」の善し悪しを判断し、それがよければ「読んでやろう・聞いてやろう」という気分になるのだそうです。
込み入った内容である場合、内容については忘れてしまい憶えているのは差し出し方だと。
なるほど。
誰でも思い当たることがあるのではないでしょうか。

2010.12.04

縦と横

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かなり出来てきたなぁスカイツリー@清洲橋


縦書きと横書きで書いたものが違ってくるのでしょうか。

縦でも横でも、どっちでかこうと変わりないだろう。
いやいやかなり違ってくるはずだ。

どちらの意見もあろうかと思います。
そんなことを考えなかったときは、縦横で内容が変わるはずがないだろうと思っていたはずです。
別に根拠があったわけではないので、単にそう感じていただけでしたが。
問題として認識していなかったのですから、両者を意識して使い分けたこともありません。

コンピュータは横で読み書きするように作られています。
毎日の生活で目にするニュースやメールも横が普通です。
テレビ番組での文字情報もほぼすべて横表記です。
だから普段の生活でも新聞を覗けば横で文字を読む機会は少なくないわけです。

ぼくがブログ書きに利用しているソフトウエアでは、横書きで入力します。
写真を加工したり、配置したり、そういう作業結果に添える文字も横書きが前提です。

ところがある時期、縦でブログを付ける機会がありました。
その後、縦で書いた下書きをブログソフトに貼り付ける作業が面倒になったので、最初から横書きで書くようになってしまいました。
しかし、今でも本や映画のメモは縦でつけています。
道具の都合によってたまたまそうなったのです。
もし、この違いがかかれた文章の性格に違いとして現れていれば、縦横での違いがわかるわけです。

そこでちらっと確認してみました。
ぼくのブログエントリーに限った場合ですが、両者の内容に目立った違いはないようでした。
縦で書いた方が若干長くなる傾向がある程度の微妙なものだけでした。
ただしぼくは修業中の身ですから、この情報はさほど有益なものにはならないでしょう。
もっと上手な人、あるいはプロが答えたらどうなるのか知りたいところです。

何かのテレビである女流作家さんがPCを前にしてインタビューを受けている映像を見たことがあります。
そのときちらっと映り込んだワープロソフトの画面には原稿用紙をイメージした縦書きのものでした。
原稿用紙と万年筆のセットからPCに乗り換えたのか人なのかどうか。
今どきそんな分かりやすいタイプの人がどのくらいいるのか全くわかりません。
あまり多くないのではないかという気がします。

文章を芸術として捕らえる人と道具として捕らえる人がいると思います。
芸術家ならば、内容だけでなく「その指しだし方」も作家の基準にかなった方法で創作されているのだろうと想像します。

一方で、経済や哲学を語るときのように道具として文書をつくる人は、見やすさ読みやすさという基準から道具を選択するような気がします。
もちろん、無頓着な人もいるだろうし、先の例の逆の場合に固執する人もいるでしょう。
ただ、そういう人がマジョリティーになることはないでしょう。

ワープロが出始めの頃から使っている作家の方や子供の頃からPCを使っている作家の方は、横書きで作成することに抵抗はないでしょう。
昔はそれしかできなかったですし、みんな横書きだったらそれが普通と思って作業するでしょうから。
縦にして書きたいとこだわる人は、文字通り「こだわり」でしなく、一般性がないでしょう。

ぼくが縦で文章を作成した理由は感覚的なこだわりではありません。
書いている文章が四百字詰め原稿用紙で何枚なのかを把握したかったからです。
ワープロであれば文字数などは性格に計算されます。
それを四百で割れば、何枚なのかも見積もれます。
それはそうなんですが、もっと直感的に今何枚目くらいなんだろうか、と感じながら書いてみたい。
そう意図したから原稿用紙割り付けができる縦書きにワープロの画面を調整して使っていたのです。
これはこれで調子が良い。
原稿用紙割り付け機能を使えば、升目に文字を入れながら入力できるし、原稿枚数の把握も気分的に楽です。

縦と横で日本語がかわることはなく、変わるとすれば文章量や全体における場所が直感的に把握できる。
これが縦のメリットです。
言葉遣いや論理構成にはあまり関係ないです。

ブログ一つのエントリーは、だいたい五枚程度がぼくの標準です。
それ以上長いと、どこで何をいったのか忘れてしまう。
その程度が考えていることを一つの話のユニットとしてまとめられるサイズの標準単位になっています。


では個人的な意見として、縦書きと横書きのどちらがよいかについて。
メモを取るだけなれば横書きのほうがよいです。
それは、ノートやPCでは欧米流の横書きを採用するほうがいろいろ便利ですから。
一方で、考えを日本語としてまとめるときには縦書きのほうがよい。
理由はよくわかりません。
現在このブログはEGWORDというMacOS上のソフトで原稿用紙割り付け機能を使って作成しています。
これでも少しは推敲を行っており、日本語を縦で読む方のが気分としてよい。
それだけの理由でしかない。
これは、縦書きの効用ではなく、このワープロの能力なのかもしれません。
他のワープロを縦書きで使うことはないので、どっちの影響なのかは分離できません。

長いこと日本語は縦書きで発展してきました。
いまでも本はそのように出版されています。
おそらく、この環境にそうような意識的、無意識的な仕掛けがあるはずです。
ならばそれを津沸かない手はないでしょう。
考えていることを相手に伝えるとき、いましばらくはこの方法をとります。

2010.12.01