ですます調の必要性

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プライベート・ジェットにはこんな風景が@ウーメラ


ですます調の文章を書いた経験がない。
なぜなら、その必要がなかったから。
というのは、不特定多数の人に向けてメッセージを放ったことがなかったから。
今でもその必要はない。
いわゆるレポートとは先生に向かって自分がどれだけ勉強したのかを示すためのもの。
大学での論文は、卒業するために自分の考えたことと行動した内容を記録するためのもの。
仕事で書いた文章は、特定の人向けのなんらかの事実を提示する目的でしかない。
これまで仕事として書いた論文も「同業者」に向けての自己主張のため(自分の業績のため)。
こんな状態ではですます調は必要ないし、無理につかえば「勘違いしている人」になってしまう。

不特定多数の人に向けてメッセージを投げるときは「ですます」であったほうがいいのかもしれない。
わりと頻繁にエッセイを読む機会があるが、そこにはですます調のものは少なくない。
テーマの分野にもよるが、半分はですます調だろう。
著者を教師とし読者を生徒とする設定ではですます調のほうがふさわしいと思う。
著者の独白や哲学を述べるならばですます調でないほうがよい。
これは個人的な感覚で、現実は違っているかもしれない。
まぁ、これはブログだから的外れな主張であっても問題もないのだけれ。

ですます調では書ける内容と書けない内容とがある。
ですますは、そもそも丁寧な言い方であるため。
だから書く側も品行方正にならんといけない、という圧力が自然と自分にかかる。
少なくともぼくはそう思う。
なぜだろう。
ならばこれを逆に利用して品行方正な人になれないか。
つまり、品行方正になりたいときはですます調で文章を書けばいい。
あるいは頭のなかでですます調で考えればいい。
これって、本当にそうか?

個人的な感覚だが、エッセイはですます調のほうがいいだろう。
まとものな日本語の文章を書きたいと思ってこのブログで練習してきた。
ここらでちょっとハードルをあげて、普通の人に「読んでもらえる」ようなものが書けないか。
そう目的を少しシフトさせることにしてみる。
というのは、内容の面白さつまらなさが判断される前の段階で「よめねぇな」と判断されるのが普通だから。
それはぼくもそうしているし。
内容が大切なのは確かだが、それ以上に「内容の差し出し方」が大切だ。
そういう主張を読んだことがあり、まったくその通りだと思った。
ならば、それを自分にも適用してみる必要があるのではないだろうか。

ブログの内容を向上させようと思ってきたが、今後は言葉遣いも気をつける。
これまでのブログは「自分に言い聞かせる」効果も狙っていたので、基本的には一人ごとだった。
それと同時に、身近な人にも「ついでに」読んでもらえたらいいなと思ってきた。

よし、次のブログのエントリーからはしばらく「ですます調」を採用してみる。
そうすれば強制的に相手を想定した文章になるはず。
そして考えること書くことがそれによってどの程度規制されるのかを実験してみる。
これはこれで面白いかもしれない。

2010.11.20

人材のプールという考え方

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今日みた富士山よりは雪がない@伊豆上空?


「はやぶさ」についての川口淳一郎先生の講演を聞いた。
航空宇宙学会の講演会の会場で行われたものなので、聴講者はその道の人たちということになる。
話のなかで使える単語は説明なしでよいだろうから、話す方もテレビや新聞とは違って内容に集中できるだろう。
同じ話しです、と前置きされていた。
が、ぼくはこれまでマスコミを通過した記事やテレビ番組には興味をもっていなかったので、今回が初めて聞く話になる。

すごい。
講演上手な人である。
以前、まったく別の話題について、もっと短いものを聞いたことがある。
そのときも内容と話し方にいたく感心した。
今回も恐れ入った。
1時間の講演中、「あー」とか「えー」とかいう「今考えていますよ」というシーンが一度もなかった。
結構な早口である。
長い内容を言い切ったあとに「すぅ」と息継ぎが入り、そしてまた結構長く言葉をつづける。
だから、話に隙がない。
単に隙がないで話すだけならば多くの漫才師や落語家ができる話術だろう。
しかし、こっちは学術講演である。
内容が非常に整理され、構築され、脱線がない。
高層ビルの窓をを上から下にむかって一列確認するようにゆっくりとズレないように眺め、下まできたらまた上に目線をもどし、隣の列の窓を眺めるながら視線をしたに移動する。
例えて言うならばそんな感じである。
もちろん、原稿を読んでいるわけではない。
内容は技術的なもの、組織論的なもの、そして人情味のあるものとちりばめられている。
多くの人は人情味のあるところで感動してしまうだろうな。

ぼくの知っている「偉い」先生というのは、ある程度の地位にありながらも発言や行動の真の目的は「おれは偉いんだ、頭がいいんだ」ということを周りの人に発信する人ばかりだった。
風体が爺さんになってもそのメンタリティーなので、実に浅ましい。
ところが川口先生はそういうものとは全く関係ない。
ぼくなどは著作を通してしか出会えないような立派な人のようである。
真に頭がいいと、誰が頭がいいのかなどに興味がなくなるのかもしれない。
自分の働く場所にこういう偉い先生がいるんだ。
それはなんとも気持ちの良いものである。
研究者の「尺度」として頭に入れておくことができるから。

一人だけすごい人がいても集団として機能することはできない。
「はやぶさ」はプロジェクトのなかに良い人が恵まれたようである。
面白そうなミッションにはよい人が集まってくる、という考え方があるかもしれない。
しかし、目立つところには「有象無象」も集まってくるのが現実。
そういう人たちの目的は「おれは偉い」という主張すること。
そういう組織は自然と崩壊する。
あるいはつまんない結果をだして、それを凄いもののように盛り上げることになる。

ぼくがフォローしている人のブログにこの興味深い記事が紹介されていた。
民主党は大きな野党だったはずだが、与党となって実作業しはじめてみると意外に層が薄いことがはっきりしてくる。
古代ローマの元老院の機能は時代によってプラスからマイナスまで様々に作用したから一概には評価できないのだけど、よく機能しているときはそこが「人材のプール」になっていた。
何十年も自民党が与党だった時期には、その集団の多くは有象無象でだったが、それでも比率として僅かにまともな人がいた。
比率は少なくとも母数が大きかったから絶対数の意味で「人材はいた」ということなのかもしれない。
もちろんコストを度外視すれば、だけど。

どのような集団であっても、システムとして「いろんな人材」を保有していないと継続的に存在できないようである。
パッと脚光を浴びていた当初はなんとかなる。
が、脚光を浴びる前から有名だった人しか人材がいなかったということだと、ちょっと時間が経つとすぐにボロがでてしまう。
これはどんな組織でも適用できることだろう。
「おれがおれが」という人はごく少数だけいればいい。
ネがそういう人であっても、それは心に奥に仕舞っておいて、その時期に備える。
それくらいの思慮を持った人が多く必要なのだろう。

技術も人もお金をかければすぐにできるわけではない。
当たり前のことがある。
しかし、現実の話になるとどうしてこれが理解できない人が多くなるのだろう。
一番ありそうなことは、そう考える人の日常が「実際問題お金でなんとかなった」という事例に溢れているからだろうか。
お金で何かを調達するという解決方法は、大きなお金を動かす人なら誰でやられる魅力的なものである。
だって、その人は「なんだってできる」ような全能感の日々を送っているのだから。
しかし、お金で調達したものは全部はりぼてなんだと見抜くことはできないだろう。
だってそうだろう。
「自分が無能でした」ということを証明する事柄なんぞ「見る」はずない。
人はそういうものだよなぁ。

2010.11.19

古い日本映画を新鮮に感じる理由

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この映画館、結構気にってる@三原橋


成瀬映画を初めて見たとき新鮮に感じた理由がわかった。
成瀬映画にはぼくが知らない映画構成の「枠組み」が存在していたからだ。
こんな映画が存在するのか。
映画通でもないぼくが作品を評論するのはおこがましいが、素人でもわかるくらいはっきりとした「異質感」を成瀬映画いは感じた。
モノクロ映画だとか、背景にうつる風景が戦災の後を残していたとか、名前も聞いたことがない女優さんだとか、言葉ですぐに表現できる異質さはいくつもある。
が、それら以上に映画の構造がぼくの慣れ親しんでいたテレビドラマとは違っていることに気がついたのだ。
自分が知っている世界とはすこし違う「向こう側」の世界。
そういう映画。
日本人が登場し日本語が使われているのに違和感を感じてしまう。
ある種のSF的な世界に感心したのだ。

『キューポラのある街』という吉永小百合主演の映画を見た。
昭和37年の映画で、鋳物工場の江戸職人気質の父にもち生活が苦しい一家の娘の視点からみた社会を表現しているものだった。
要するに「がんばれよ」というメッセージに溢れた、苦しい生活をする人々を鼓舞する映画だ。
悪いところは全くなく、多くの人に元気を与えた映画であったのだろう。
吉永小百合の演技も光っていたし、当時賞もとったそうだ。
客観的にみても良い日本映画であったのは確かであるし、今でもその価値は変わらないだろう。

しかし、「なるほどこの時期から日本映画は下降していくのだろう」ということをはっきりと感じた。
この映画はモノクロだし、街の風景も現代とは大分ちがうから、ぼくには異質さを感じるはずなのだが、まったく感じなかった。
完全に「こっち側の映画」だと思った。
ぼくが生まれる前の映画なのに、見たことがある感が満載だったのはなぜなのだろう。
映画のストーリーは知らなくとも映画の構造は同じだから、どうなるはずだという可能性の選択肢はだいたい思いついてしまう。

構造が同じでも異なった映画はたくさん作れる。
寅さんシリーズがその見本である。
これまで映画の構造なって考えたこともなかったが、成瀬映画を十本以上みたおかげでなにかわかるようになったような気がした。


2010.11.14

理解していく過程

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わりと気に入っているモーニングセット@神保町


知らないことはたくさんある。
じゃぁと言って、その一つとを試しに「理解」してやるべくがんばってみるとしよう。
何だっていい。
知らないんだったら「知る」ためには努力がいる。
対象は何でもいいったって、ものによってこっちの心構えはいろいろと違ってくる。
好きなこと、嫌いなこと、気が進まないこと、いろいろあるから。

好き嫌いによって理解のスピードは違ってくる。
そんなことはだれだって知ってるし、例え体験がなくとも想像はできる。
嫌なものは考えたくもないし、見たくもない。
なら、学ぶのは無理だろう。
無理ならばそれで終わり。
縁がなかったな、じゃぁね、また。
なんてふうに終わりにすることができたら楽しい日々だろう。
が、普通の人はそうは行かない。
子供ったらそれでいいかもしれないが、大人になるとそうそう勝手なことを言ってられない。
なんとかして嫌なものでも頭に取り込まねばならぬ状況が多い。

そんな思いを今日も体験した。
ここ1週間ほど、興味があって(必要だからだが)論文を何本か読んだ。
全部英語だから、辛かった。
日本語訳ないから仕方ないとはいえ、辛い。
10年前は図書館へ行ってコピーしていたが、いまはネットからダウンロードできる。
その費用は会社もちだから、気になった論文を好きなだけプリントアウトできる。
そこは楽になった。
逆に言えば、その分より読まんといかん。
だから、おもむろに読みはじめるよりない。
ここからがキツイ時間になる。

あぁ、全くわからない。
英文だから時間がかかる。
なんとか英文の意味することは理解できても、「内容」がわからない。
日本語で書かれた数学書や哲学書がすらすら読めないのと同じだから普通ではある。
1本読むのに2時間くらいは当たり前。
意味不明だからもう一度読むとしても合計3時間。
もう脂汗がたらたらと出てくる。
なんでこんなにわからないのだろうかなぁ、何をやっているんだろうと不安になる。
逃げるように紅茶やコーヒーを大量に飲み、頻繁にトイレに行く。
辛いよなぁと思いながら廊下を歩く。
その間も頭に分けわからんものが残る。

このままわからんままかもしれんと思い、止めてしまう。
ということだけは絶対にしない。
なぜなら、時間をかければ頭の方がこの辛さを耐えられるよう何とかしてくれるから。
いわゆる「慣れる」ということだが、時間さえかければ必ず慣れることを経験的に知っている。
なんでだろうか。
かなり不思議なんだが、結果的に慣れてしまうんです、難しいことであっても。
ただし、慣れることと理解することとは違うので、理解するにはまた学びをスタートさせるよりない。

一度慣れてしまえば、わからなくても正面から取り組める。
その気構えができている。
なので、一つ一つ難所を確認し、越えていくという芸当が可能になる。
ここがわからないならまずべつのところのここを理解して、という具合に別の方法で進むようになる。
同時に、ちょっとでも理解できていたことは復習する楽しみがもてる。
作品の完成度を高めるための細かい処置を復習の段階でやれる。
景色を見ながらの山登りのようで楽しいこと。
いままでどうして脂汗をかいていたのだろうか、と不思議になるくらい。

これは身体を使ったことでも同じようである。
ぼくは下手の横好きでチェロを学んでいる。
弾けない曲があったとしても、ずっと続けているとそれなりに練習が楽しくなるもので、何度も体験している。
難しい状況になったら停滞するのはしかたがない。
そのときは別の作業をしてみるなどして時間をあける。
数日から数ヶ月くらいあける。
そして難しかった作業に戻ってくる。
もちろん「できるように」なっている分けではない。
が、弾けないながらもそれと向き合うときの感情が違っていることに気づく。
もう何十年も昔からある傷のようなもので、うまくいかないのが前提になっているので、それを少しでも良くしてみるという遊び気分で難所に向き合えるようになる。
できなくてもため息ではなく、次の一手を考えてしまうようになる。

チェロについては先生に教わったコツであろう。
勉強については、もう何年も苦労しているから自分で気がついたことだ。
両者は結局同じことをいっている。
となれば、かなり確からしい方法なのだろう。

2010.11.12

正解はどこかにある、と考えることについて

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なんだろうこれ@皇居芝生


正解はどこかに存在し、自分はそれを知らない。
だから損をしている。

こうに考えてしまうことがある。
考えてしまうというより、捕らわれてしまう。
それはぼくだけではなく、誰しもあるだろう。

もちろん、正解が「本当に」どこかに存在する場合も多々ある。
一方で、実は存在していない場合も結構ある。
あるいは、存在していても事実上入手できないから「ないのも同じ」というものもある。
いずれにせよ「神」の視点を想定しないと判定できない。
問題なのは、あるなしではなく、そう論理的に理解していても「正解はどこかにあるのに知らないのは自分だけ」と考えてしまう誘惑に勝てないことである。

例えばこういう状況がある。
数ヶ月前にAmazonのKindleを入手したが、あまり使っていなかった。
ここ数日の間妙に使いたくなったり、使ってみると意外に良いようだ。
この先、どうするか?
Amazonで参考文献を購入するか、Webで使い方参考サイトを検索するか。
このとき「とりあえずあれこれいじって自分で探してみよう」とならば正解チェイサーのメンタリティーはない。
が、本や雑誌を買ってしまうようでは正解チェイサーなところがバレバレになっている。

これは良い例ではないかもしれないが、「正解を探す」行為の典型例である。
すでにKindleの「賢い」使い方が判明していて、自分はそれを知らないだけである、としているから。
そして、お金をかけて情報探し回ることになる。
もちろん、いろんな人の構築したすらばらしい体系の結果は存在だろうし(現に存在する)。
実際ぼくもAmazonで文献を購入してしまったくらいだから(誘惑に勝てなかった)。

正解を買うことが悪いわけではない。
「自分が知らないことを認識して、知識を追い求めることは悪い事か」という反論があるだろう。
学ぶ事が悪い、ということを言いたいのではない。
だから、知識を探しそれを身に付ける態度を避ける必要はない。
実際問題学ぶにはお金を払う必要があるのだから。

しかし一方では、この傾向に染まると「自分でなんとかする」ことをしなくなる可能性もある。
探せばいいや、とか、結果的に探した時間が無駄になる、というような「思考の効率化」を考えるようになってしまう。
お金で思考した結果を買う(つまり参考書を買う)ことに抵抗がないのは危ない。
学ぶことがお金と変換できると信じてしまえば、学ぶことから遠ざかってしまうから。

自分で考察して編み出した「使い方」は、Amazonで取引されている(出版された本)「使い方」よりも足りないところや悪いところが多いだろう。
自分には気づく機会がなく、知らないまま「無駄な」時間を費やしてしまうだろう。
そういう、がっかりすることもあるだろう。
それでもだ。
実は自分で方法を編み出した方が良い。
(自分じゃぁ教科書を買っているのに、矛盾した態度であることは承知しているのだが)

一番ベストの知識を自分で生み出すのは困難なことである。
それができる人は一握りである。
一生をかけても数個が限界かもしれない。
普通の人ならば一個も見つからないだろう。
だとすれば、普通の人が一番の知識を獲得する理由はなんなのか。
その答えは明白である。
「誰かに勝つため」である。
敵が一番の知識を持っていたら自分は負けてしまう。
だったら、敵より先に一番の知識を身に付けなければ。
そういうことが動機の「全て」だと言っていいだろう。

もし、そういう勝負をしていないのらば、知識を買ってくる必要はない。
勝ち負けとは関係ないのだから。
ならば、好きに探せばいい。
正解である必要などどこにもない。
さまよいながら探すことが、生きて歳をとっていくのと同じようなものになる。
また、そういう状態でもないと答えを探す楽しさを感じることはできないだろう。
答えなって出なくてもいいじょうたいで答えを探すのはかなり楽しい経験なのだが、
それを体験できる人は多くない。
研究者という職業でよかったなとおもうのは、正解を出すまでの工夫は面白いだけだからだ。
世間に流布する苦労話は、ありゃ多分演出だろう。

2010.11.05

バランスがとれている人生

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なんか春が待ち遠しい@自室ベランダ


人生はバランスがとれている。
そう、どこかで聞いた事があるだろう。
幸せと不幸せとをその人の人生にわたって足し合わせると0になる。
そういう、一種の運命論のような考え方である。

器量よしで生まれた人やお金持ちの家の人が必ずしも幸せでない。
納得できるようで納得できない。
両方のタイプの人がいる。
両者に共通しているのは「本当かどうかは不明」ということ。
納得する理由はマスコミだろう。
マスコミ報道などを見ていていると「成功者が幸せに過ごしたということよりも、なんだか不幸な結果に終わった」というニュースに気づく。
マイケルジャクソンなどは成功者だし、ダイアナ妃などはシンデレラのようなものだが、どちらも不幸な終わり方をした(もちろん本人たちの内面ではどう感じていたのかはわからないが)。
有名な人の人生などを読んだりみたりしていると、そういうところが見え隠れする。
しかし、その逆の例はあまり見かけない。
いや、過去にそういう例を見たことあるかどうかわからない。

人からうらやましがれている成功者が必ずしも「幸福感いっぱい」で過ごしているわけではない。
どんな「幸せな人」であっても、その人なりに心労はある。
疑いを持つ人は、幸せそうな人と仲よくなって、その内情を察してみればいい。

心労は他人から見れば「なんだ、そんなことはどうでもいい。わたしなんか・・・」となりがちである。
どんなりに論理的に説明されても、「嫌だなぁ」と感じていたらそれは心労には違いない。
レベル問題であっても体験的な意味で比較ができないと「どっちがいい」とか「それはあまい」とか判断できない。
「くだらない」ことであっても、ストレスで心身が疲弊するならば「くだらない」ことではない。
さらにいえば、幸せそうな人の私生活まで他人は知る由もないのだから、幸せそうな人は誰から見ても「悲惨だなぁ」という生活をしていないともかぎらない。
要するに、本当のことは知り得ない。

生まれも育ちも幸せで、結局幸せ感につつまれながら死んでいった人というのが、これまでたくさんいたんじゃないか。
その疑問はゼロではない。
そういう人がいなかったと考えるのはごく普通の人からみた「幸福な」人へのルサンチマンなのかもしれない。
あの人は恵まれていて、ぼくは恵まれていない、というひがみのこと。
運が悪い人からみれば、普通の人すらルサンチマンの対象になってしまう。
自分は不幸だと考える人の数はそうでない人よりも圧倒的に多いのだから、記録された「幸せな人」の例はルサンチマンを緩和させる方向に動くと考えるのは自然である。
つまり、「ざまぁみろ」という物語が溢れていてもそれは不思議なことではない。

才能の違いは現存するが、それと「幸せ」かどうかは関係はないのではないか。
なんだか疑問が増えしまった。

2010.11.04

2010.11.03

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古本祭りは今日まで@神保町靖国通り沿い

【想】エッセイよりももうちょっと内容のあるものを書けないか


ブログで文章作成を練習している。
読み手がないので「質」の向上は難しいが、「量」についてはやれやっただけ経験できる。
分かりやすい文章、読みやすい文章、面白い文章を書けないものかと工夫している。
が、成功しているとは言い難い。
それらはすべて「他人」が評価するものだから。
もちろん、自分でも「ひどい」か「ひどくない」かならば判断できる。
しかし、すでに自分はわかっているものを「分かりやすいか」と判断するのはなかなかできない。
知っていること、自明なことを「知らないふり、きづかないふり」しなければならないから。
それは一つの能力であり、つよい想像力だろう。

ぼくの文章上達の目的は仕事上の必要に対応するためである。
差し迫って論文などをすらすらとかけたらいいなぁという憧れ。
これまでは、短い論文であっても書くのに何日もかかった。
時間がかかる割に出来上がったものは読み難くく、文章での説明能力の必要を痛感していた。
ところが、この練習のかいあってかどうかは不明だが、最近は短いものならば予測した時間程度で書き上げることができている。
もちろん、そこには誤字脱字や定型の言い回しが目立つから、良い文章とは言えない。
が、意味は通るものだと信じている。
それをすんなりと書けるようになったのだ。

この経験からすると、知識としての「文章の書き方」にはあまり意味はない。
どんな機会でもいいから実際に書いてみて、「自分で読んで」みないことには、
「自分の文章はどんなもんか」がわからない。
とにかく書いてみることが大切なんだ。
そう経験から納得した。

では読んでくれる他人がいないには努力は無意味なのか。
そんなことはないだろう。
他人に読んでもらうことも大切だと思うが必須ではない。
時間を置いてから自分が読んでも同じ効果になるから。
例えば、自分で書いたものものであっても面白いかどうかは判断できるはずだろう。
面白さの基準はいろいろある。
自分が理解できるのは自分がもっている基準でだけである。
ぼくは無批判に「面白い文章」とう表現をつかうが、それはぼくが面白いと思う文章のことをさしている。
その基準を自分につかえばいい。
自分で読んでも面白いかどうかはわかる、はずである。
内田樹さんはご自身の著作について、執筆中のツィッターで「面白い」と素直に評価されている。
そして、それをぼくが読めば「痛く面白い」のであり、賞を受賞されるのだから多くの人も「面白い」と思っているのである。
ということで、自分の判断でできを判定してなんら問題はない。
もちろん、すごい落とし穴があるので注意する。
それは「おもしろ」が「おれはすごい」を意味しているときである。
この感情の勘違いに敏感に気がつくならば、とりあえず自分の感覚での評価は可能である。
もちろん、自分の感覚だけを基準していては、知り得る世界は広くならないけれど。

さて、こういう方法で練習しているが、現在は次の段階に行きたいと思っている。
少しまとまったものを書きたいのである。
ブログのエントリーは備忘録がてらの短いエッセイだと思っている。
一つのエントリーの長さも意識しないとだいたい同じになってしまう。
定型がしみ込んでくるまでやり続けることは必要だけど、同時にすこし世界を広げる努力もしてはどうだろうかと思っている。
ただ、考えただけで何かができるようになるわけではない。
どうやって進めていったらいいのだろうか。

2010.11.02

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進むべき道@マクドウェルピーク

【想】所与のことを受け止める度胸


状況をgiven(所与)のもとのとして受け取るこことが必要なんだと思うようになった。
所与のものとは、要る要らないという、こちらの要望とは全く無関係に存在しているもの。
与えられたものである。
おそらくキリスト教文化圏の言葉を翻訳した言葉で、「与えた」のはGodということだろう。
日本語として受け取るならばその主語はいらない。
単に、「しょうがねぇじゃねぇかよ、あるんだからさ」というところだろう。

「なんでそんなことになるのか」
所与という単語は、そういう言葉が続くだろう。
どちからといえば絶望的な意味合いの言葉が似合いそう。
「とほほ」という感嘆語がつづくようなら、まだ救いがある。
が、黙ってしまうと救いはない。
「運が悪かった」
そう言ってやり過ごすことができるなら、ちょっとほっとする。
言葉を発しようとは思わなくなるような事態はかなり重症だろう。

この言葉が似合う状況がもうひとつある。
それは「嫌なことを体験したとき」である。
ものごと、あるいは、人間関係、あるいは、身体について。
「嫌だ」という感情が身体から沸き起こり、その毒素で痺れてしまうような「嫌な出来事」の体験は誰でもあるだろう。
嫌な人だったり嫌な出来事だったり、あるいは過去のことだったり。

ぼくは嫌な事を抱え込んでしまうタイプの性格である。
黙ってずっと考えてしまう。
この対処方法として「そういうことは考えない」と技を身につけ、少し過ごしやすくなったものである。
しかし、今日、もっといい方法を見つけた。
「しょうがねぇじゃねぇか、嫌なもんはそこにあるんだから。考えても、嫌な思いをしたと心のなかで叫び続けても、そんなものは消えない。ただ、上等じゃねぇか、そんなことに負けるかよ」
と(演出なし・演技なし)本気で思うこと。
それを本気で言える度胸がなぜだから見つけたようだ。

どんな状況でも、それをスタート地点として生き抜けてやる、かいくぐって出口を見つけて外にでてやる。

そんな意気込みが自分の内部から自然と発してきたのである。
なぜだろう。
でも、ふっとそういう気分が「意識」にのぼった。
何か感動的な本を読んだとか、誰かの言葉だとか、外からの影響によって考えたり学んでいたということではない。
本当に内部から「やってやろうじゃねぇかよ」と腹をくくれたのである。
これは自分でも不思議な思いである。

それ以後、どんな嫌な思い出が浮かんできても「おれはその状況と戦ってやる」という心構えがとれる。
すると、ふっと気分が軽くなるのだ。
なんだかしらないけど、一つ成長したのではないか。
そう思うようになった。

2010.11.01

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屋台の古本@靖国通り沿い

【想】古本屋を巡ること


古本屋を巡る楽しみは、本屋を巡る楽しみと本質的には違わない。
古本屋のいいところは、安い、古い本も売っている、一期一会的なところ、多分他の書店では並んでいないであろう本を目にするというワクワク感。
しかし、それってわりと小さな優越感でしかない。
そういうものを「他人にわからんだろう」といかいって優越感に浸るのは見苦しいような気がする。
もし、新刊本をあつかっている書店の書棚が今の十倍以上のキャパシティーがあれば、古い本も書架に並べておけるから、結果的に古本屋と「似たようは」書架の見映えになるだろう。
すると、あまり自慢の種にはならない。
結果的に、古本屋でも新刊本屋でも本屋であることには変わらないではないか。
そういう気分になる。

ただし、決定的に違うところが一つある。
それは、店の主人の顔がはっきりしているところである。
現在の新刊本を扱う書店は企業である。
大型書店はそもそも企業だが、中型でもチェーン点のところの店員さんはアルバイトさんのようなもので、頼れる感はまったくない。
小型の書店ではどうかと言われるかも知れないが、そういう書店は本屋ではなく雑誌屋さんである。
文庫本も新書も「新しい部分」しか置いていない。
まちがっても岩波文庫や筑摩文庫を並べている店はないのだから、本屋とは言い難い。
古本屋は奥でオヤジか奥さんかあるいは修業中の人が店番をしているものである。
いつもその人がいる、という安心感がある。
店のオヤジの顔がきちんとあるようなところでしかモノを買いたくない、という気分をもっているならば、古本屋の方が好きなんだろうなと思う。

古本祭りのときは靖国通り沿いにワゴンが並ぶ。
はっきりいって「これはすごい」という本が並ぶわけではないのだけど、それでも探すとありそうな気がする。
一種の宝探し感がある。
それと、ワゴンで売っている本は少ないので、あとでと思って買うと売れてしまう可能性が高い。
古本屋での判断よりももっとシビアな決断が要求される。
そのあたりが、ちょっとゲーム感があって面白い。
もちろんそもそもが安いから、買って失敗しても買わなくて失敗しても大した事はない。
安心してゲームに興じることができるのだ。
若者向きかといわれると、ちがうだろう。
もっとも老人向きでもない。
これって、他人に自慢することができないから、絶対にメジャーになることはないだろう。

今年の収穫はどうだったか。
まぁまぁである。
全集なので出物があったわけではないけど、ぽつりぽつりと買ってみた。
今年は遠藤周作の本を集中的に読みたいと思っていたが、なかなかなかった。
結局ブックオフに頼らざるを得ないのかもしれない。
古本巡りも効率だけを考えると今後廃れていくのかもしれない。
そんな気がした。