2010.10.31

IMG_9149.JPG

屋台が並んで混むんだよな@すずらん通り

【記】神田の古本祭りにて


毎年のことだが、この古本祭りには必ず足を運ぶことにしている。
出物が目当てとりうより、神保町が好きな人として行っておかねばならないような気がするのである。
自分の街ではないが、高校のころから通った街だから。
東京のなかでも「ここなら案内できるよ、自信もって」と言えるところだから。

今年は会期が長いのだが、台風にたたられて雨が多かったようだ。
土日に出し物が集中するが、昨日は結構中止の憂き目に遭ったみたいで、ちょっと可哀相な気がする。
が、だからといってだれかが大損したことはないと思いたい。
もちろん雨降ると外で本を売るのはかなり無謀なことだから、売れない以前に閉店していたワゴンが殆どだったであろうから、機会損失があったといえばあったのかもしれないが。

すずらん通りで覗く場所は決まっている。
東京創元社、早川書房、朝倉書店、オーム社、そしてタカノの紅茶である。
おおぉ、これはスゴイというものはないのだが、あれば確実に「よいもの」だから見ておくことにしている。
ことしはドットの『帝国以後』が1000円でいくつもでていて、「おい、ちょうどいま読んでいる最中なのに、定価買いしたのに」という悔しく思ったのだが、まぁそれは古本屋ではよく体験する思いだからすぐに気を取り直してドットの違う本を買った。
嫁さんもミステリー関係や永井するみを何冊かかったようである。

つぎに靖国通り沿いのワゴンと交差点・および岩波の路地を物色する。
安定して「まぁそれなり」の本が並んでいる。
ぼくが探すのは古代文明ものか好きな作家のもの、そして山本書店の本である。
こういう時に、中学高校で本を読んでいなかったことが悔やまれる。
というのは、文学には今でも興味がわかないから。
文学の本は多く並んでいるのに、せんぶ素通りに違い。
ただ、興味のある本もたまに見つかる。
今年も山本書店の本と古代文明の本を買った。
古い本になると、売っている売ってないということり「そんな本があることも知らない」ので、本屋の店先で学んでしまえるのである。

そして、いつもの古本屋にも立ち寄る。
日曜日だけど店は開いている。
嫁さんは一誠堂書店で東京人のバックナンバーで成瀬巳喜男についての特集があるものを見つけて買っていた。
以上で4000円くらい使ったかな。
それでも10冊以上買ったから収穫ありだろう。

毎年行っている。
この呪縛はそうとう強い。
すっごく良かったという笑みがこぼれるような思いはしていないが、
ぶらぶらするには楽しかった。
パッと開いてパッと散るというような派手な楽しさではない。
もっともっと静かな楽しみである。
そのぶん、一年間じわじわ待ち続けてしまう。

この歳になって思う。
じぶんも古本屋のオヤジにでもなっていたら良かったかもなと。
まぁ、今はネット通販も激しいし、残る本もあまり出てこないし、生活は大変なんだろうけどね。
ただ、虚業のような仕事をしていると、実業に憧れてしまうのは仕方がない。

2010.10.30

PB101315.JPG

こういう店は流行っているのかな@ベッキオ橋

【記】広告は「プログラム」なんだとわかった


通勤電車では、目的の駅が近くなると階段に近い車両に移動する。
乗った車両で座るわけでも、降りる出口に近い車両で本を読むわけでもない。
1時間以上の読書時間を過ごすのだから、なるべく空いていて「柄の良い」人がいる車両に移動する。
静かであっても、バカみたいな態度の高校生や大学生は視界に入るとうっとうしいし、おばちゃんがうるさいところもかなわない。
自然とお気に入りの車両に席を探すことになる。

降りるまでの僅かな時間、電車内の広告をまじまじと見る。
この時期は女性週刊誌の広告がたくさんぶる下がっている。
だいたいピンク色と白とクロ。
目を細めて広告の色調だけをみればどれだけ女性週刊誌が多いのかわかる。
最近はおまけを競っているようで、昔のお菓子のようである。
ぼくの世代よりも一回りから二回り下の世代が読む雑誌が、人をつる方法は変わっていないということか。

その広告をじっと見てみる。
内容は、ようするに「こんなモノがあるので早く買いなさい」ということである。
雑誌とは広告を載せるためのメディアなのだから、当たり前なのだが、あらためてみるとぎょっとする。
その隣の男性向けの雑誌をみたが、これも「いいから買えよ、これすごいんだから」というモノだった。
そういう視点で車内にある広告を見たのだが、ほぼ全部同じで、「これを買え」というメッセージだった。
いや、全く当たり前なことだとよくわかっている。
だって、広告なんだから。
ぼくが気がついて驚いたのは、広告にある商品そのものも「商品を買わせるもの」だったという二重構造である。

商品を買わせる広告を商品として出ている。
広告にある女性誌の内容は、お化粧品やお店の紹介である。
あるいは、「時間の過ごし方」かもしれない。
一見なんの問題もないようだが、すこし引いてみれば、買うという行為しかそこにはない。
社会にいる人は「買う」という行為こそが「生きている」ということなのか。

一人暮らしのときにボーナスというものを貰ったことがある。
幸い実家もぼくも借金に追われることはなかったため、ボーナスを何に使っていいかわからかった。
貯金という気もしないし、高価なものを買う気もなかった。
ということで、身近なもので「ほしいな」と思ったものをぱたぱたと買って身の回りに置いてみた。
ご満悦になれるかと思いきや、まったくいつもと変わらない日であった。
アホくさ。

欲しいモノを手に入れると「楽しみをゲット」というものは存在しないと思う。
食べ物くらいかもしれないが、食べすぎると気持ち悪くなるだけだろう。
だから、そんなもんない、とそのとき悟った。
唯一意味があるとしては、それが「道具」であるとき。
それがあると何かが「できる」というモノ。
高価な時計があるからといって、何かができるようになるわけではない。
しかし、チェロを手に入れれば「弦楽器を学ぶ」ということができる。

最終的に「自分にない行動能力」を手に入れるモノは無駄になりにくいようだ。
しかし、そういうモノは「あまり」必要ない。
というのは、自分が何かをすることに使える時間は「かなり少ない」から。
会社にいっている人ならば、土日でやれることしかない。
早く帰れる人は帰宅後の数時間でできること。
そんな行為に使える道具って、数は少ないはず。

電車内ではたくさんの「買いなよ」命令が発行されている。
広告は「プログラム」のようなもので、電車内は人をそれにそって動かそうとしている空間である。
買って何かができるようになれば、金持ちは「素晴らしい人」ばかりのはずだが、そうではないことは歴史が証明しているような気がする。
電車内で目に付くところには必ず「指令」が貼られているようなものである。
なるほど電車なんてのは、ろくな乗り物ではない。
電車のったら人と話すか、外を見るか、本・マンガを読むか、目をつぶって音楽を聴くか、あるいは寝るか。
それが自分を守るための「賢明な」行動というものだろう。

2010.10.29

IMG_2561.JPG

お気に入りのディスプレー掃除道具

【想】気づけば「呪い」をかけているかのような


ぼくはどちらかといえば「さっぱりしていない」性格である。
いじいじと済んでしまったことでも考えてしまう。
あるいは、誰かに「してやられた」ことをいつまでも憶えている。
そういう、「よろしくない」ところがある。

これは性格なので仕方ない。
仕方ないだろう、と胸をはって主張するわけではなく、そういう性質が事実としてあると認識していると表明しているのである。
明るい人だったら、きっともっと友達に囲まれていた生活だったのかもしれないが、
現実には普通のサラリーマンよりも人付き合いは遥かに少ない状態である。
べつに避けているわけではなく、単に周りにいないだけである。
そういう性格であるが、かといって人見知りをするほうではない(と思っている)。
用事があるか、まぁここはみんなと飲みにいくべきだろうときにはちゃんと顔をだす。

とはいえ、まったく問題がないわけではない。
一人思い出し怒り、というものに捕らわれることがある。
一人思い出し笑いの逆のような現象である。
嫌なことを思い出してしまうことは、どんな人にも経験があるだろう。
考えても仕方がないのだけど、「腹立つようなぁ、くそう」と不愉快な気分になってしまう。
しなければ成らないことや、興がのって作業に没頭しているときには起きないが、これといって作業が進まないときや、いらいらしているときには嫌なことを思い出す。
そういうときに、ぼくの「さっぱりした性格ではない」のは仇になる。
誰かに嫌な思いをさせられたときのことを思い出すと、「その人は嫌な人だなぁ」と考えてしまうから。
それに捕らわれると不愉快が続く。
ふぅ、とため息をつけば切り替わるのだけど、なんで昔の嫌なことを思い出すのか不思議な気もする。

ここで冷静になる。
嫌なときの嫌な人を思い出す行為は現実にはなんの影響も与えない。
考える事で嫌な気分になっているのは自分だけで、その嫌さが社会に影響を与えることはない。
考えれば考えるだけ損なわけである。
これは「恨み」と同じなのかもしれない。

先日『笛吹川』という古い日本映画を見た。
そこに恨み抱きながら生きている女性が(本筋とは関係ない役だが)描かれていた。
一生を復讐に捧げているような感じで、実際そうだった。
五寸釘でわら人形を神社の木に打ち付けるというような怪談話だけが「呪い」ではないだろう。
誰かを「嫌だよなぁ」と嫌うことは、誰かを「呪っている」ようなものなのではないか。
そんなことを頭にフッと浮かんだ。

「ざまーみろ」という状況を想像するのは、恨みというより呪いだろう。
それが始終頭から離れなくなったら笛吹川にでてきたおばさんなわけだ。
せっかく現代に生きているのに、なんともつまらんことだよなぁ。

不愉快になるのは別段構わないと思う。
だって、そういう感情はあるのだから。
しかし、それが不愉快が恨みになり怒りになり、そして呪いになるまで発展させてはだめだろう。
人の性格にもよるが、深入りすると大変な道なのだと思う。
思い出し怒りは呪いの始まりなのだ。
くわばらくわばら。

2010.10.28

IMG_5878.JPG

魚料理でのムール貝はおいしかったという思い出@ロードス島

【想】普段から考えていることがその人の世界のほぼ全て


気がつくとこのブログには「文章について」と「嫌な気分の解消の仕方の工夫」しか書いていない。
文章を書くことがぼくにとっては難しい挑戦しがいのある生活防衛技術である。
と同じに、嫌な気分でいることが多い状態をなんとかしようという喫緊の課題で、それをついついと言葉に表現してしまう。

この試みは成功することはない。
だがそれでも「自分が考えていることをはっきりと知る」機会にはなっている。
なので全く意味がないわけではない。
ブログの使い方の一つとして「あり」だろう。

もちろん、そんなものは自分のノートに書いておけ、という気分もわかる。
しかし「ノートに綴ることでは、晴れ晴れ感は得られない。
ノートに万年筆で綴るという方式も試したことがある。
それらは結果的に気分も暗くなるし、しかも読み返すことが全くなくなってしまう。
これは見過ごせないデメリットである。

そんなわけで、文章の練習を含めて、一人の人が「あーだこーだ」工夫していく記録をブログにしている。
ちなみに、このブログは個人のサーバーにあるので、ディスク領域や電気代も個人持ちである。
他の人の活動の邪魔にはならないので、そのことからもじつに晴れ晴れとした気分で続けている。


文章を綴るとき、ぼくは頭のなかで声を出してしゃべっている。
キーボードから入力された文字がディスプレーに上に立ち上がって並んで行くのと同時に、頭の中でもその言葉を「発話」している。
もちろん、口は動かないし、声もでていない。
のどの奥の筋肉までは動かす程度の発話しながら文章を綴っている。
だから、この文章は「しゃべるように」書いていることになる。
書かれる文章は「言文一致」というわけである。

しゃべり言葉は音楽と同じで、ある種のリズムが時間を支配している。
読みやすい文章とは、そのリズムを推定しやすいものだろう。
そして、そのリズムが自分のリズムと近ければ近いほど文章を楽しく読める。
文章を読む心地よさはそこから生まれる。
内容なんてどうでもいい。
読むことに快感を感じる場合は「それで、何が言いたいの?」という質問は頭に浮かばない。

一方で、内容のわかりやりやすさはそれとは別である。
分かりやすさは論理の建て方による。
話の流れる方向が「自然」ならばわかりやすい。
これもリズムと同じで、人によってそれぞれのものをがあるが、大筋は同じである。
言語が違っても共有できる。

この両者を同時に制御する技が文章を書く技なのだろう。
なるべく多くの人に「言い文章だね」と言われるには、なるべく多くの人にマッチするリズムと論理で書くこと。
ならば文章が上達するとはそれらを多く身に付けることになる。

そんなことをぼやっと考えたが、一番決め手になるのは、何を考えているかである。
リズムも論理も大切だけど、それは出力の段階でのことで、発想というか意図というか、あることを文章になぜするのかに「必然性」がないと努力は不発に終わってしまう。
なんだか身も蓋もないけど、書く側の頭に何があるかが最大の影響力なんだと理解している。
ブログをつけるようになって、今更だがそういうことがわかった。
しょうもない話だが、わからないよりいいかなと思っている。

2010.10.27

IMG_2574.JPG

もうすぐマフラーの季節なので準備する

【想】論文というものを書かねばならぬ


久々に論文を書かねばならない。
書かなくてもいいって逃げ口はないものか。
どうやらそういうわけにはいかないようだ。
論文書きはあまり好きな作業ではない。
これまでもなるべく遠ざけてきた。
だからぼくの業績は同僚の1/10以下くらい。
当然の帰結として、40過ぎでぺーぺーである。

が、まったく気にならない。
そもそも、やるべきこととぼくが考えていることをやっているので、全く不都合はない。
他人からみれば哀れなくらいみすぼらしいことをしている(だろう)。
国家プロジェクトだったり、テレビで紹介されたりするような同僚や後輩とぼくは無縁である。
自分で考えて、自分の手で直接作り上げるという方法をとれば、見映えのいいものはできなし、
なにせ師匠がいないのだから仕方がない。

それでも、本人は楽しくやっているし、毎日勉強もできている。
給料の高い低いは人それぞれだが、奥さんと賃貸で暮らしていくにぺーぺーでも支障はない。
外食などできる身分ではないが、家で食べた方が結果的においしかったりするから、生活の面でも不都合はない。
どころか毎日楽しいくらいである。

最近研究費を獲得することができ、その作業開始から1年以上経っている。
そろそろ外部にむけて研究成果を発表せよ。
そう、ことあるごとに言われている。
全くあたりまえなことなので、その要望にできるだけお応えしたい。
そう思っている(思っているだけではだめなんだけど)。

手始めに年一度程度開催される学会の講演会に参加しようと、申請した。
最近はインターネットで投稿できる。
締切りギリギリまで手直してしまう。
ここ1ヶ月で3件ほどの講演会に参加申請をした。
投稿先によるが、申請すればだいたいOKになる学会と、ちゃんと審査される学会と二種類ある。
審査なしで2件はOKになっている(当たり前か)が、もう一件はどうなるかわからない。

ちゃんと審査される学会用には、ちゃんとした論文を提出しないとまずい。
そうでないと落ちる。
いや、どんな論文もちゃんとしていないとダメだろう。
それは正論だが、学会によっては「誰も読ない」ところもあることを経験的に知っている。
そういうところへは「ぼやぁ」としたものや、「あれ、誤字が」というものがあったりする(もちろん、後で気づくのであって、投稿時にはエラーなしだと思っていたのだが)。

理科系の論文ならば方程式がジャンジャンでてくることが多い。
記号と数式とグラフだけで構成されているような論文は珍しいものではない。
自分の経験にもあるが、日本語の文章を書くのに慣れていないうちは、日本語よりもグラフと方程式で説明したほうが簡潔で正確だろうとあえて勘違いし、極力日本語を書かないようにしがちである。

小説なんぞろくに読まないで理系でやってきた学生は、言葉で説明することに慣れていない。
慣れてないから読んでも意味不明だし、意味がとれても面白くない。
そんなものを読む人は少ないし、仮に読んでもコメントなんてされない。
書きっぱなしでは著者にフォードバックがないので、何本書いても上達しない。
これが理科系の論文がつまらない理由である。

2010.10.26

IMG_9125.JPG

包装紙が破けた贈呈用のビルって感じ@清洲橋

【想】知っていることをもう一度「知る」


既に知っていることを再び「知る」ことがある。
知っていると思っていたことがわかっていなかった、とうような「よくある」話ではない。
知っていたのだけど、面白いと思っていなかった、というもの。
どちらかといえば、既に知っている複数の事実が繋がった喜びに近い。
知識と知識が繋がったけれど、知識の量は増えてない。
複雑度が増しただけだが、それがまた気持ちよく感じる。

それは内田樹さんの『武術的思考』を読んでいたときだった。

これまで司馬遼太郎や井沢元彦さんの著作のなかで何度か豊臣秀吉について読んだ。
朝鮮出兵の目的は、中国に攻め入って皇帝を倒し、そこの日本の天皇を新たな統治者として打ち立てることだった。
すごいなぁ、という感想しか持たなかった。
「晩年の秀吉は妄想が激しくなり、朝鮮出兵など意味不明な行動が目立つようになった。」というような解説を読んだことがあるし、確かNHKの大河ドラマで竹中直人が秀吉を演じていたときも、ねねさんは秀吉の行動を理解できないで困っていたようなシーンがあったと思う(うるおぼえだけど)。

そして、昭和期に日本が韓国併合をした件については、秀吉も同じようなことをしたのだと韓国人は恨んでいるという話を耳にしていた。

まぁ、そういうことがあったんですね、程度の理解しかしていなかった。
ところが、である。

以下、内田樹さんの引用。

 今回の発表で気になったのは、「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の扱われ方である。ふつうはこれを「大日本帝国」の「李氏朝鮮」侵略の先駆的なかたちであり、本質的には「同じものだ」と考える。
 だが、私は簡単にこれを同定しないほうがいいと思っている。豊臣秀吉の時代に「国民国家」という概念はまだ存在していないからである。
 豊臣秀吉は何を企図していたのか。
 彼はそれまで分裂していた日本列島を統一した。列島の部族を統一したので、「次の仕事」にとりかかった。
 それは「中原に鹿を逐う」ことである。
 華夷秩序の世界では、「王化の光」の届かない蛮地の部族は、ローカルな統合を果たしたら、次は武力を以て中原に押し出し、そこの君臨する中華皇帝を弑逆して、皇帝に就き、新しい王朝を建てる。華夷秩序のコスモロジーを内面化していた「蛮族」はシステマティックにそうふるまってきた。匈奴もモンゴル族も女真族も満州族も、部族の統一を果たすと、必ず中原に攻めのぼった。そのうちのいくつかは実際に王朝を建てた。
 豊臣秀吉は朝鮮半島を経由して、明を攻め滅ぼし、北京に後陽成天皇を迎えて「日本族の王朝」を建てようとした。その点では匈奴の冒頓単于や女真族の完顔阿骨打やモンゴルのチンギス・ハンや満州族のヌルハチとそれほど違うことを考えていたわけではない。華夷秩序のコスモロジーを深く内面化していた社会集団にとっては「ふつうの」選択肢と映ったわけである。
 もし、このとき豊臣秀吉の明討伐が成功した場合(その可能性はゼロではなかった)、この「日本族の王朝」は、モンゴル族の王朝である元、漢族の王朝である明に続く、漢字一字のものとなったはずである。仮にそれが短命のものに終わり、「日本族」が列島に退き、そのあとを満州族の王朝である清が襲った場合でも、この王朝名はたぶん「中国史」の中に歴代王朝の一つとして記載され、日本の中学生たちは「世界史」の受験勉強のときに、その王朝名とその開始と滅亡の年号を暗記させられたはずである。
 だって、それは中国の王朝だからである。
内田樹『武道的思考』P.267

すごい。
そうなんだ。
いや、そうだよ、なるほどなぁ。そうかぁ。

実に自然なことだったのか、朝鮮出兵は。
日本は中国文化圏の端にいたのだった。
そして、当時の人で、ちょっとばかり歴史を勉強したならば、「さぁ、つぎは革命だ」となるのは自然なことだったのだろう。
現代の視点や常識のままで過去の人の行動やその意図を探るのはとても危うい。
何度となく聞いた教訓だが、秀吉の不可解な行動を理解するとき、古代からずっとやってきたこと、そしてその時代でも有効な考え方なんだと知っていれば、「そりゃそうだよ」と理解できる。
間違っても「晩年の秀吉は誇大妄想があって」なんてアホなこじつけをしなくても済むというものだ。

ぼくが求めている「学び」とはこういう行動なんだとわかった。
補助線なんだ。
腑に落ちない説明を一発で譜に落とすための補助線なんだ。

いまこうしてぼくは感動しているわけだけど、果たして高校生の頃のぼくがこんなことを考えられたのだろうか。
そもそも疑問なんて持っていなかったし、歴史なんて「かんけーない」で済ませていたかもしれない。
だとしたら、この補助線は「今この歳になって知った」から感動できたのかもしれない。
体力は落ちるし、はつらつとした気分がすくなくなるとしても、歳をとるは捨てたもんじゃないと思ってしまう。

2010.10.25

IMG_2958.JPG

駅の売店@ロンドン・ウォータールー駅

【想】ニュースの正しい使い方


毎日毎日ニュースを見る、あるいは読む、場合によっては聞く。
取り込むこと自体は「義務」ではない。
別に「テスト」が将来あるわけではないし、誰かから口頭で試験されることもない。
そういう学校アナロジーから離れて考えれば、それは「生き延びるため」であるはず。
仕事で使うため、生き延びるのに有利にするためにニュースを見る。
そういう生物的な本能で情報を取り込むのである。

どんなニュースに価値があり、どんなニュースに価値がないか。
それを決めるのはその受け手である。
人によって違うし、同じ人でも状況によって全く違う結果になることがある。
無条件に「ニュースバリューがある」というものは、多くの人に直接関係することで、しかも「生き延びる」かどうかに影響することである。
税制が変わったとか、水道システムに問題があったとか、石油価格が上がったとか、すごい台風が近づきつつあるとか。
一方で、芸能ニュースや経済ニュースの受け取り方は人によって大きく違ってくる。
人によってどの程度影響を直接受けるかが違ってくるからだ。

ニュース発信側がニュースバリューを決めることはできない。
ところが、どれだけの価値を付けるのかは発信側がかなり左右できる。
同じ情報でも伝えるときに言い回しや映像、声色や表情、繰り返し放送する回数などである。
どうでもいいことが「これって大事なニュースなんだな」と思わせるのは意外に簡単だろうと想像する。
一時的に世間で膾炙されていたことが、しばらくすると忘れられるのだとすれば、それはマスコミが価値を設定したニュースだからだろう。
本来できないはずのことをさらりとやってしまうあたりは芸術的なので、ちょっと注意しないといけない。

どんなニュースが自分にとって大切なのか。
それを決めるのは自分であり、それが自分の生き方に直接影響するはずである。
視野を広くもって世界で起きていることを知ることは大切である。
そういわれると「そうかもしれない」と感じる。
とくに反対を表明しようとはぼくも思わない。
けれど、概念ではなく現実として考えれば、「本当にそうか?」と疑ってしまう。

例えば交通事故のニュースがあるとする。
大きな事故があれば大きく報道されるだろう。
それを見た人は「自分がそれに巻き込まれないように」するために見るわけである。
しかし、そこから得られる教訓は「あまりない」のが現実ではないだろうか。
状況設定が特殊であり、偶然が重なっており、というようなことがあれば、個人の教訓にはならない。
それは「システムを作る側」に必要なニュースで、使う側には利用価値がないものだといえる。
いってみれば、プロ野球の解説と同じで、あってもなくてもどうでもいいものである。
しかし、これから出掛けるつもりのルート上で起きれば、迂回措置を考えなければならないし、工事で渋滞が予想されるならば別の道を選定しなければならない。
時間通りに行くことが自分の生活に関わる場合には、さっきとは一変して大事なニュースになる。

大切なニュースは「知らないことで自分が実際危うくなった」ということが起きるはずである。
フランスに旅行に出掛けたときにストがあって電車がうごかなくなり、飛行機に乗り遅れてしまった。
ホテルが見つからなく路上でうろうろすることになったら、場所によっては「相当危ない」ことになる。
だからフランスの年金問題についてのストのニュースなどは、もしフランスに旅行へいくのならば目を光らせておく必要がある。
行かないのならば、どうでもいいことである。

自分を中心にニュースを選択するのは正しい態度であり、それこそが「生き延びるために」必要なことだろう。
ニュース解説員はあーだこーだと「価値」を押し付けてくるが、そういうのはどうでもよろしい。
一人一人によって大事なニュースは違うのだから、解説員はニュースの価値まで解説できないはずである。
とはいえ、池上彰さんのような解説がないと、ニュースの使い方自体を誤る可能性があり、それこそ「生き延びるのは不利」なことになるから、是非とも必要だということは理解できるし、実際そうだろう。

そう考えたうえでニュースをgoogleでちら見するが、ほとんど価値がないものばかりであった。
ニュースを見ないと「バカ」か「社会人じゃない」ような思われ方をする。
しかし、そんなわけないだろう。
全部読んでいるとすれば、そのひとは「物語」を見ているだけだ。
その行為は楽しみであって、それこそ他人がとやかくいうものではない。
同じ理由で他人に強制するものでもないだろう。

2010.10.24

IMG_8968.jpg

オーストラリアの砂漠で使った衛星携帯電話イリジウム

【想】そんなに情報はいらないや


携帯電話を持たなくなって不便に思ったことはあまりない。
全くないわけではない。
外出中であっても電話を受けられるようにしたいなと思ったことは一度ある。
が、そんなに大した用事ではないし、ちょっと不便だな程度で済む話であったから、やっぱり携帯は必要だな、とまでは思わなかった。

携帯電話を情報の窓口として使っている人ばかりではないと思う。
特定の人へのホットラインとして安心材料に使う人や困ったときの連絡先として持つ人もいるだろう。
さしずめ実生活に求めた「ヘルプボタン」のようなものである。
一方で、気になったことをすぐに調べるためのツールやニュースや株価や天気予報から知りたいことを知るために求める人もいるだろうし、ゲーム機になっている人も多いと思う。
電車に乗っているとき、携帯画面を覗いている人はすでに多数派だが、彼らが何をやっているのかはよくわかないし、数人のサンプルととったところでなんとも言えないことに変わりはない。

現実はさておき、一般的に携帯電話は「情報ツール」と分類されている。
友達とダラダラ長電話するような方法で携帯を使っている人はコストの関係からあまりいないであろう。
メールやウェッブで何かを知るために使っているのならば、それがツイッターであっても情報ツールである。
携帯から知ることができるものは限られているように思えるが、使い方次第でスゴイことができるのだろう。
が、ぼくはテキストと画像と映像というPCでできること以上のことができるのかどうか、よくわからない。
何ができるだろうか、について情熱的になれないのは、まぁぼくが中年である証拠なのだろう。
歳を取るにつれ、テクノロジーに追いつけない人たちとカテゴライズされるのは仕方がない。
が、実際には、この歳になっても日々新しいことを知っているし、テクノロジーの知らない使い方を知ったり発見したりすることは続いているのだから、べつにテクノロジーに置いていかれているわけではない。
単におぼれていないだけである。

量か質に転化するという現象は、情報にも言えるはず。
この場合の質とは、「知っている人が少ない」「お得な情報」という意味ではない。
知っている人と知っていない人に間にある「知識格差」をもとに、どっちがスゴイかを判定するようなマネはしない。
もっといえば、知識の格差がものいうような知識は非常に危ういものである。
なぜならば、相手も知ったら自分の優位性がなくなるから。
同様に、知らない人をバカにするのもおかしなことである。
その人に教えてしまえばそれで片が付くからである。
つまり情報の質とは、情報の側にあるのではなく、情報を獲得する側に特徴がある。
ぼくはそう思っている。

「話せばわかる」は嘘である。
誰にでも同じ情報を与えれば同じような結論に至るだろうというのは、現実的には起こらない。
小中学校の学校の勉強ではなく、音楽や絵画の善し悪しの判断を考えれば分かりやすい。
全く同じものを聞かせたり見せたりしても、それらから受ける感動は人によって違う。
ただし、ばらばらではなく、ある傾向を持ってグループ分けされてしまう。
そのグループには明確はグループ間の断絶がある。
同じ情報を与えても、感動したりしなかったり、興味をもったり持たなかったり、愉快になったりつまらなかったりする。
もちろん、これを科学的な意味で証明することをしていないが、ある程度生きてきた人間ならば自分の経験から納得することはできると思う。

ところがある種の情報はこの断絶を乗り越えさせてくれる。
音楽や絵画についてテレビ番組をまじめに作る人は蘊蓄を挿入する。
普通の人には、画家や作曲者、あるいはその時代の社会の動きなどを説明することで、何がいいのかさっぱりわからなかった作品を理解できるようになるだろうと仮定しての努力である。

歴史なり意味なりの「情報」は、その受け手の価値を変動させてしまうことがある。
能力の違いの壁はあるが、知識がその壁を通り抜けさせてくれることもある。
そういう知識は引き出しにしまえるようなものではなく、知ったことで自分が変わってしまうような劇薬になる。
よくある話だが、余命あと数ヶ月と宣言されたらショックとともに自然の美しさを理解できるようになったなどのケースでは、風景やその中にある花鳥風月の良さが身にしみるように身体が変わってしまったということ。
結局は私は知ったことが問題ではなく、私が変わってしまったのだ。
そして、だからこそ情報の意味がわかるようになった。

自分を変えてしまうような情報は学びの可能性を与えてくれる。
しかし、このような意味で自分を変える情報は携帯電話からやって来ない。
ニュースや雑誌からも無理だろう。
他人との「知識の差」をもつためのものは、今の自分のままでいることが前提になっているのだから。
PCにソフトウエアをインストールするような意味での知識にも学習にも、価値の基準を変える力はないだろう。

ではどうすればそのような知識を得られるのだろうか。
そんなことはわからない。
少なくともぼくは知らない。
ただ、情報には大きく二通りあり、携帯からはある種の情報は通過できないということだけはわかっている。
マキュアベリに「天国に行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」と言っているそうだ(塩野七生『マキャベリ語録』新潮文庫)。
みんなが忙しく携帯の画面をみているけど、その先には天国はないような気がする。
もちろん、日経新聞にも掲載されていないだろうけど。

2010.10.23

IMG_9143.JPG

もう少しで塔になるスカイツリー@清洲橋

【記】無意味な散歩の有意味さ


晴れた日の休日の朝ごはん。
朝ご飯を食べているとテーブルのすぐ脇にある窓からの光が部屋の中を明るくしてくれ、目の前に座っている嫁さんの顔を下から照らしてくれる。
その窓は東向きだが太陽の光が射し込むことはないのだが、隣のビルの白い壁がちょうど45度の角度で面しているために、壁の照り返しの柔らかい光が部屋を照してくれるのである。
さらに、その窓には曇りガラスと同じ効果のあるシートを全面に貼ってあり、ちょうど障子が白く輝くことのと同じ内部の採光になっている。

こんな日はどこかへ出かけたい。
うきうきした気分になるから。
ところがどこへ出掛けるのもお金がかかるし、普段ゆっくりと自室にいることもないから外出は控えたい記もする。
そういうとき、近所を散歩して夕飯のおかずを買って帰ってくることを目的として散歩に出掛ける。
結構な気晴らしになる。

すぐ脇を隅田川が流れているので、散歩コースにはことかかない。
今の日本では作られる事がない重厚だから構造美のある清洲橋を渡るのは、それだけで娯楽になる。
橋の真ん中かから見える川上の風景と川下の風景が全く違い、それぞれいい風景なのだ。
川下側には佃島にそびえ立つ高層マンション群が見える。
川上側には高い建物が見えないのだがスカイツリーがそびえ立っている。
川を渡るときには行きと帰りで渡る橋の歩道を入れ替え、両側の風景をそれぞれ楽しむことにしている。

IMG_9126.JPGIMG_9128.JPG

そもそも散歩なのだから目的地などいらない。
けれど歩く場所はいる。
今日は晴れているので人形町にした。
水天宮参りの人と明治座へ来たついでの人がこの街を歩いている。
長さ300mくらいの一本の通りの両脇にはずらっと店が並んでいて、とくに休日は賑やか。
といっても、買い物をするような店があるわけでもなく、ぼくは2軒ある本屋をハシゴするだけなのだが、それでもその2店舗の品揃えはまぁまぁだから気晴らしにはとても向いているのだ。
今年の春に放送された『新参者』はこの街が舞台だったから、当時はその面での人気もあったようだけど、そもそもそういうものを必要としない程度に人形町はそれなりにいい街である。
流行り・廃りとはあまり関係がないようだ。
もちろん、そうなるように商店街の人は努力しているのだろうけど。

無目的に時間を過ごしても焦燥感もわかなくなった。
歳をとったなと実感する。
向上心がないとかやる気がないとか、そういうことは「いいことではない」のかもしれない。
しかし、休日ってのは「無意味な」時間を過ごすことも「有意味」だろう。
近ごろそう考えるようになったので、外をぶらぶら歩くことに全く否定的な感情はない。
むしろ、贅沢なことだ、と思ってしまう。
自分の感情のあるべき姿など、どのように決めたところでどうにかなるようなことはない。
ただ、そのときの自分に満足するのが一番のような気分でる。

2010.10.22

P5313224.jpg

幸せそうな表情@パルテノン神殿

【想】人件費が多いほうが社会にはいい事なのではないか?


商売をしているわけではない人でも、人件費について考えているようである。
どうにかして人件費を低くしよう。
普通の会社員もそうでない人も、それをすることは正しい目標であり、それを願っているかのようだ。
どんな仕事であっても商売と関わりのないものはない。
ならばどんな人でも人件費を削減することは「善」なのだ。
今はそういう風潮のようである。
すくなくとも、ぼくはそう感じている(勘違いかもしれないけど)。
マスコミの評論やニュースや同僚との与太話においても「日本は人件費が高いからな」という言葉が使われるし、それに違和感を感じなくなっている。

そんなわけねぇじゃないかよ。
とぼくは思っている。
社会で生きていくことは、すべて人に課された問題である。
多くの人が生きてゆくには多くの費用が必要になる。
そしてそれは、要するに人件費のことだ。
だったら社会で生きてゆく上で最も多くの割合をしめるものは人件費だろう。
少なくとも、モノよりも人に一番お金をかけて、どうして悪いのだろう。
それだけ多くに人が生きていけるということだろう。
別の見方をすれば、社会のコストで人件費が一番高い割合の国は、人を大切に扱っているのだ。
そう言えなくもないはずだ。

そんなバカな話があるものか。
ぼくの思いつきは、バカ野郎と一蹴されて終わりだろう。
そんな効率の悪い社会が言い訳がない。
高い商品は売れないから、その会社も潰れるだろうよ。
社会全員が税金を無駄遣いするような世の中になったら、生き難くて仕方ない。
そう言われる気がする。
少なくとも、ぼくが「間違っている」と言われるのは間違いない(自信あり)。

なるほど、これが資本主義が人格にまで染み渡った状態なのか。
そんなふうにぼくは理解するようになった。
資本主義が人々の生活にしみ込むと何が起きるのか。
そんなテーマの本を何冊も読んだことがあるが、その本の中で言われていたことがわかった気がする。
少なくとも、消費者という生き方しか知らなく、また、資本主義が物理法則と同じ扱いになっている社会で生きる人はどういう価値観を持つのかわかった。

儲けるためには売り上げを増やし支出を減らす。
方程式は簡単だが、現実には難しい。
現在成功している企業はほぼすべて支出を減らすために人件費を減らす努力をしている。
道具を使うことで人の数を減らし、かつ賃金の安い人に仕事を依頼するのである。
それは効率的であり、経済的であり、かつ事業者は儲かる。
そういう方法で経営する企業の商品は品質が高く価格が安い。
ユニクロみたいに売れるだろう。
当然、消費者にも大きなメリットがある。
生産者も消費者も幸せになるのだから、素晴らしい方法だということになる。
しかし、それは本当にそうなんだろうか。

人件費がネックになる。
そう発言する人の視点は、ある意味社長のそれのようなものなのかもしれない。
つまり、「人を使って」いる人の視点。
もっといえば、人を使って自分を幸せにすることが目的の人の視点。
だから他人は道具でしかない。
最高な状態は、人がまったくいないシステムがお金を儲けて自分(一人に)還元されること。
自分を富ませるために社会があるとさえ考えそうな人である。
ちょっと考えてみればわかるが、無人の向上で売り上げが高くで高笑いしている人を想像すれば不気味であろう。
役人をゼロで少数の素晴らしい人が儲かる世の中を夢見るのは、マスコミに頻繁に登場する経済評論家だけで十分だろう。

人が集まって会社を興すのだとすれば、集まる人は働くために来ているはず。
集まった人に還元される会社ほど、そもそもの意図の合致している。
一人で儲けたいのならば、一人でやればいい。
複数の人と働きたいならば複数の人がそれぞれ還元されるほうがいいだろう。
人が目的の会社ならば、人に支払われるコストが大きくなる。
とうぜん、人件費の締める割合が高くなる。
設備投資やエネルギーなどの「モノ」にたするコストが少ないほどいいではないか。

どうして普通の人まで、ビジネスで世の中をみる必要があるのだろうか。
ビジネスで何かを語ると「頭よさそうな切れ者」と評価されるからだろうか。
ガッテンに達しないのだが、それはそれで仕方ない。
なんか面倒だよ、ギリシャでも行きたいや。

2010.10.21

IMG_2602.JPG

夜景がぼやっと浮かぶ@北九州

【想】ぼくは何を考えているのか、がこのブログになるといい


ぼくは何を考えているのか。
そんなことは自分が良く知っている。
そう考えている人は多い。
ぼくもその一人である。

ただ、100%というわけではない。
というのは、ブログのエントリーを書きはじめると、最初と最後で自分の予想と違う結果になることがあるから。
つまり、あれについて記録しておこうと思って書くけど、結果的には違うことが書かれてしまうことがあるのである。
ならば考えていることがわかっているとは言い難いだろう。
書いているうちに話が「発展?」してしまうため、想定通りの道を通って結論に落ちていかないのである。

もっとスゴイのは、最初の一行を入力した時点で、その瞬間に思い浮かんでくることを入力しはじめ、その先どうなるか書いているときにわからないことあったりすること。
結論を決めてから書くものだと思っているので、自分でも「へんな文章になるな」と思いながら書いてしまうのだが、あまりちゃんとしたエントリーにはなっていないのだろう。
ただ、それは異常なことではない。
村上春樹さんのインタビュー集に小説創作についての話があり、似たようなことが書かれていた。
長編の小説であっても、出だしのところしか考えていないそうだ。
書きはじめる前に話の展開は全く決まっておらず、一体どうなるんだろうか、という気持ちで書いているとか。
書いている本人も読者のようなものになっている。
ただし、結論とうか最後は意識的に自分で決めるらしいのだけど。

プログですら、最初に全部わかっているわけではないのだから、自分の考えだって全部わかっているわけではないのではないか。
そう疑問になる。
意識では知り得ない無意識でいろいろ考えていることが表面上に現れてくるのだろうか。
その辺りはよくわからない。
ただ、プログをつけることで、自分が意識的に把握していること以上のことを自分で再確認できるのは確かである。
文章をまとめる事で、考えている事を掘り出すことになる。
そして、一応他人が読んでも意味が通るような文章にしているのだから、丁寧に考えて言葉にしており、結果的に自分でも自分で考えていることがよくわかるというわけである。

自分が何を考えているかわからないのときは、ブログを付けてみればいい。
発掘と同じでそのほとんどの時間は無駄になるかもしれないが、あるとき発見するかもしれない。
自分でも予想しなかったことを自分が考えているのだと知ることができれば、それは自宅にいながらにして視野を広げる体験を得られたようなものである。

2010.10.20

IMG_9108.JPG

木洩れ日の芝@内堀通り

【想】書くのをつづけると、書くことは自体は楽になるのだろうか


毎日書き続けないと書けなくなる、書くのがつらなくなる。
そんなことを作家の方が語るのをエッセイやインタビューで読んだ事がある。
書くのはある種のリズムに乗ることが大切で、それは書き続けないと自分の中に維持できなくなるそうである。
たしか司馬遼太郎の言葉だったと思う。
一度その感覚を忘れてしまうと、書くことは実に脂汗を流すような苦しさを味わうことになるとか。

本当だろうか。
文章をかくこととマラソンランナーとが同じようなこと言うのは変だろう。
かたや脳を使い、かたや筋肉を使うのだから(とっても筋肉は脳が制御しないとなんもできないので、脳を使っているには違いないのだが)。
感覚を研ぎ澄ますとか、リズムの発信源が意識にはわからないとか、そういう理由で意識的にはどうにもならない大切なファクターがあり、それはなぜだか毎日使っていないと安定して湧き出てこないのだ。
そんな理由があるのかもしれない。
ぼくは作家でもアスリートでもないので、なんとも想像するよりないのだが、わかるようなわからないような気分である。

わずかなぼくの経験でいえば、ブログでも本の感想でも書かないでいると書くのが億劫になる。
しかしそれは「その内容を忘れてしまった」からであって、今現在のことならば苦労せず綴れるとは思う。
ぼくの場合、書くことの最大の的は睡魔であって、怠けではない。

リズムにのって書く。
わかるようなわからないような気がするものは、確かめてみるよりない。
そこで、今日から毎日ひとつずつブログをエントリーしてみる。
エントリーを続けていれば、文章を書くリズムはキープできるはずである。
そしてひょっとしたら「文章が上達する」なんてことになるかもしれない。
すくなくとも「悪い経験」にはならないはずである。

なるたけまともなエントリーになるよう努力してみる。
まずは1ヶ月かな。

2010.10.19

IMG_0188.JPG

もっとも感動した建築@ローマ・パンテオン

【想】楽しいことだって、いくらでも追体験できる


嫌な思い出はときたま自分を追い立てることがある。
そういう経験は誰でもあるかもしれない。
ぼくは、過去にこだわるところがあり、過去の嫌な思い出に「嫌な」思いをすることもある。
他人のこころの中と比較したことはないので、ぼくがとくにそういう傾向をもつのか、あるいはどのくらいもつのかわからないが、とにかく嫌な思い出が「嫌だ」ということは事実としてある。

これは性格である。
しかし、悪いことばかりではない。
嫌なことを思い出すのと同じように、いいことを思い出すこともある。
実にビビッドに、ありありと思い出すときがある。
もっとも、その頻度は嫌なことと比較すると極端に少ないのだが。

どういうときに良いことを思い出すのか。
これは規則性がある。
まず、リラックスしているときである。
好きな分野について書かれた本を読んでいるときが多いような気がする。
例えば、古代オリエントの本を読んでいると、ロンドンに短期滞在していたときの週末通い詰めた大英博物館の内部について「ありあり」と思い出すことがある。
階段の踏みごたえ、天井の高さと音の響き、休憩場のカフェの店員さんの服装など、細かく思い出される。
本気で浸ろうとすれば、結構「リアル」にその場にいるような気分になれる。

そういうものはいつでも思い出せるのではないか。
そうではない。
記憶を自由自在に操れるほどの能力をぼくは持っていない。
「知識」として蓄えてあることはいつでも引きだせるが、浸れるほどのものは無理である。
ちょうど「夢」みたいなものだろう。
こたつでうとうと仕掛けたときなどの浅い眠りではよくわからない夢を見ることがあると思うが、その夢を自由自在に操ることは難しい。
たいていは出来ない。
楽しい思いでい浸っていい気分になる。
あの時は楽しかった、さぁこれからがんばってみよう、まだ生きているのだから。
そういう前向きな気分になれるのは常にとは限らないのである。
こういうことを制御できる人はさぞかし幸せにかつ充実した人生を歩めるのだろうなぁと思う。
まぁ、ぼくには出来ないから、それは妄想でしかないのだけど。

自分の性格にもいいところと悪いところがある。
悪いところは、まぁ仕方ないだろうと思うことにしている。
それに、良いところもあるのだし、両者相殺されて「とんとん」だろう。
大人になってから胆に命じてることがある。
ぼくは普通の人であり、普通の能力しかないので、精いっぱいがんばって普通の人生を送るよりない。
これって悲しいことのような諦観にも見える。
しかし、一方で、「最高なことはぼくに起きない。ならば、最悪なこともぼくには起きない」ということでもある。
それが「とんとん」の意味である。
そして、これはかなり自分については「当たっている」のである。
そう、最高なことが起きないのだから、最悪にもならない、普通の人生である。

よく、人生の成功者と言われる人が「自分に殻を儲けるな、やればできる」みたいにたき付けるのを目にすることがある。
だれだってやればできるのだ、的な評論である。
こういう言葉は、聞くだけならば「いい事をいっている」ように思える。
元気づけてくれるいい人のような扱いをマスコミはする。
しかし、それってかなり現実を見失っているだろう。
あらゆる能力は「物理的な」機構が支えている。
物理的な機構を持っている人と持っていない人がて、どっちかが有利でどっちかが不利というものは仕方がないことである。
人々の力を活かすには、その物理的機構を知ることから始まるのだろう。
先ほどの元気付けを行う人は、たいてい詐欺師か宗教の教祖だとおもって間違いないとぼくは思っている。

しょうもない話だが、普通の道を歩んでいる「圧倒的多数」の人には、ちょうどよい標語なのではないかと思うのだが、どうだろうか。

2010.10.18

IMG_8980.JPG

このイス結構重い@サントリーホール

【想】過去が現実を追い立てるのはなぜだろうか?


ちょっとした失敗をした。
コンサートホールで舞台上のイスや譜面台の配置する手伝いを安請け合いしたはいいが、現場では間違いを乱発し、舞台上で混乱があった。
ぼくが指揮をとる役で、あれやこれや指示して努力したがダメだった。
いろいろなものを忘れてしまうのだ。
イスの入れ替えなどでここまで混乱したのを見たことがない。
きっと過去最悪の結果だっただろう。

甘く考えていた。
イスの並べ替えなど簡単だろうと思っていた。
油断したというのが正直な説明だろう。
もっといえば、適当にやったと言えなくもない。
とはいえ、前もって舞台に設定するイスの数を数えたうえでそれらに印をつける処置はしておいたが、その場になると忘れてしまったのだ。
もっと上手にやれるはずだったのに。

その後悔は時間が経つにつれ鮮明な映像として蘇ってくる。
もう過ぎてしまったことだから考えても後悔しても反省してもどうにもならない。
そう、わかっちゃいるのだけど、どういうわけかだんだんと失敗の様子がありありと思い出される。
思い出そうとしなくても、失敗の場面場面が「臨場感」をもって、これからまさに「発生する」かのような現実感をもって体感されてしまう。
映画をみるような神の視点からの場面がイメージされるのではない。
そのときのぼくの視点、ぼくの肌感覚が身体に蘇ってくる。
普通に生活しているとき、失敗の体験と現実とが二重写しになって襲ってくる、といえばいいだろうか。
まったっくもって、ちょっと困ってしまう。

ため息をつくよりない。
過去の失敗に魘われると、「あーぁ」とか「はぁ」とか、いわゆるため息をつくよりない。
気になるともっと気になる。
われながら面倒な正確である。
思い出し怒りとか思い出し恥ずかりとか、そういうたぐいのものだから、時間が経つと効力が弱くなる。
よわくなるがゼロにはならない。
もう、10年以上前のことでも、ときたま思い出しては現実とは無関係のことで嫌な気分になるのである。

こういうときはどうすればいいか。
即効性のあることは、寝てしまうこと。
一日寝ると大分違う。
よっぽど嫌な事でもないかぎり、翌日にはだいぶ薄まっている。
あとは違う情報をいれること。
自分が気にしている出来事について、違う人の感想を聞いて見るのがよい。
気にしてたことが、どうでもいいことだなと感じることになる。
感じるというのが大切で、理解ではない。
論理ではなく感情が問題なのだから、つまらんのことだったと感じられればそれで終わってしまう。

実際には、流れ行く感情を観察して、それを見送るよりない。
感情は制御できない。
だから、過去の思い出に捕らわれるのは仕方ない。
そういうことも含めて生きていくんだなぁと最近は考えるようになった。
理解ではどうにもならんのだよ、感情は。

ところで、と思う。
こういう性格というか、感情というものは自分で制御できないものである。
ならば、こういう性格も「生物学的に」生きていく上で有利だったからぼくに残っているのだろう。
そうでなければ、とっくに進化の枝葉になって消えていた性質だろうから。
とすれば、過去の失敗は「ありあり」と思い浮かべてしまうクセは、生命として有利な能力なのだろう。

後悔することはいいことなのかもしれない。
失敗ほどちゃんと憶えていて、しかも時たま「ありあり」と思い出すことは、生き延びるには悪いことではない。
そりゃ、悪い事ばかり考えていても気分はくらくなりし、余計なことに頭を使うことにもなる。
結果的に人とうまくやっていけなくなるかもしれない。
でも、根絶しなければならない性格でもないのだろう。

2010.10.11

IMG_9084.JPG

この風景って結構好き@内堀通り

【想】なるほど、言いたいことはすぐ文章になるみたい


仮説が浮かんだら、それを現実に試してみて良否を決める。
このメンタリティーは「すべきもの」ではなく「しないと無意味なもの」というくらい、自分に身についていてほしい。
そう思っているくらいだから、早速「言いたいこと」を文章にしてみた。
わりとさくさく言葉が繋がってきて、なんだよおい、という気分であった。
といっても、普段から腹立たしく思っている事を言葉にしてみたまでで、誰かに訴えかけたいというものではないのがちょっと残念だ。
が、それにしても、少なくとも「自分が声を大にして言いたい」ことはあっさりと言葉にすることはできるのだと体感できたことになる。

ネガティブなことでもポジティブなことでも、普段から考えていることはわりと言葉になりやすい。
なぜなら、考えるとは言葉をつかって、それなりに論理的な作業をしているからだろう。
声を出すと、自分が出した声によってさらに勢いを増すという傾向がある。
だから、一度声を張り上げてしまったら最後、冷静に考えることはできなくなる。
それは結果的に自分が損をするという失敗へ転落する。
これは自分の過去の経験からもはっきりしている。

そうなりたくないならば、一端考えた論理を文章に書きだしてみて、第三者からの視点を確保しようと努力することは必要である。
論理の飛躍や無理な想定は必ず含まれている。
そういう部分を探すのは、頭の中で考えるよりも文字にしてしたから見たほうがずっと正確に行える。
それをブログをつけるづいでにやってしまえばいい。
こういうことを考えて実践してみた。

なるほど自分の理路が見えると、それなりに頷くことがある。
しかし、ここはちょっと苦しいなという部分もそれなりに見えてくる。
苦しい部分にはそれなりの根拠を示せばいい。
根拠があればそれはそれでいいし、なければ自分でも判断保留して置いた方がいいとわかる。
とはいうものの、自分の感情とリンクしている部分や「自明」なもの、あるいは「推定」といったものは必ずしも根拠を示せるわけではない。
だから、他人と意見の齟齬が起きるのはそういう部分だということを知るにも都合が良い。

では、そういう部分が見つかったらどうするか。
ぼくとしては状況によりけりであろうと思う。
他人を全く説得できる見込みはないが、かといって引き下げる必要もない。
ならば、「言わなければいい」ということになる。
べつに、それでいいだろう。
実名攻撃するわけでもないのだし。
これはブログのかなりネガティブな使い方ではある。
が、それが誤りというわけではないだろう。
市井の人なりの使い方の一つと言っていいだろう。

2010.10.07

IMG_8990.JPG

重みに耐えかねて崩壊した書棚@自宅

【想】まだ「頭がいいか」気になります?


なんだかいい加減に嫌なになった。
職場が研究所のせいか、人と話す節々で「あの人は頭がいいから」という言葉がでてくる。

誰が頭が良くて、誰が頭がよくない。
そんなことを気にしてどうするんだろう。
「あの人は頭がいいからなぁ」とか「ぼく頭が悪いから」とか、それって何が言いたいんだろう。
そんなことは、何かを判断するときに実質参考にならないじゃないか。
確率論を持ち出す人もいるが、事象がただ一回である場合には確率も統計も全く役に立たない。

周りにはT大卒の人がたくさんいる。
というより、T大卒の人が「デフォルト」でそうでない人は珍しいのである。
ぼくはT大とは無縁の人だが、「どさくさ」に入所できた。
だから、彼らとは全くことなる系統の人である。
無意識による同類の集合というのは完璧に機能するもので、職場では気づくと少数はというより一人意見派なっている。
とはいえ、別段差別されているわけではない。
その辺り、彼らのバランスとりは上手だ。
彼らは正しい人たちなのだろう。
他の人が見えるところでは、ぼくは完全に彼らの仲間になっているのだから。

だから、彼らとご飯を食べたり世間話をしたりする。
そういうときによく俎上に載るのが「頭がいいかどうか」ということ。
ただ聴いているだけならば「そうだね」と頷くこともできるが、聞き流さないで考えてみるとおかしな議論なのだ。

基本形は「だれだれさんは頭がいいから、物事は結局うまく進むだろう」という予測である。
予想ならばメカニズムがあるはずだ。
しかしそのあたりを全く考えないで「頭がいいから」でまとめている。
ある種の魔法でも使うのか。
「頭がいいから」という理由で説明しても、誰も文句を言わない。
「どうしてそうなるんだ?」とは説明を求めるのは、その人が頭がいいことを疑っているととられるからなのかもしれない。

この場合に注意しなければならないのは、頭の良さは努力の結果ではなく生まれつきの方を指していること。
簡単に言えば、努力の人ではなく、家柄のようなものや貴種性である。
ドラえもんの出来杉くんような人は、レベルの差こそあれ、結構いるものである。
世間で有名になることがないだけで、すっげえぇなという人は意外に多いのだ。
そして、何かの折りに誰かが「出来杉くんは頭がいいから、大丈夫なんじゃないの」と言えば、「そうだね」で終わってしまう。
そういう結論に異論はでない。
ぼくも、多分そうなんだろうか、と思うし。

「自分はいく分出来杉君のところがある」と考えている人は結構いる。
自分の真の実力はこんなものではない、と考えるのは誰しもあることで、そう思うことに病的なものは感じない。
ぼくが気になるのは、「ひょっとしたら出来杉君」と思う人ではなく、「たぶんおれは出来杉君」と思っている人である。
そして、それはT大卒の人に多い。
というか、全員そうなんだろう。

周りにいる人はT大卒で研究所で働いているくらいなのだから、ぼくからみればみなさん「頭がいい」。
ところが、彼らはそうは思っていない。
もっと言えば、頭がいいことは「当たり前」であって、「だれより頭がいいか」が問題のようだ。
当たり前だが、かれらはかれらなりに「序列」を作り続けているのだ。

「だれだれは頭がいいよね」と彼らは良く口にするが、それは評価だと思ったら間違いである。
「あの人は頭がいいよね」を聴いたとき、二つのことを考えないといけない。
一つは「あの人」はどういう人か。
一つは「誰に向かって発せられた言葉」か。

「あの人」が絶対的にスマートな人ならば、その発言はある種の憧れであり諦めである。
発言者がその言葉を思いついたとき、うらやましく、かつ自分はそこまでいけないと思っている。
ところが、ぼくのような普通の人に向けられて発せられた場合は「お前よりおれが上だ」と言っている。
上下の序列確認をこの言葉をつかって仕掛けている。
言われた方は黙って受け取るか反論するか。
例えて言うなら、「あの人」がボスザルであり、ぼくは「格下サルであることを確認させられた」というところだろう。
もっとも、人間の集団ならば猿山のサルと同じように行動するはずで、それはどの組織の人事ダイナミクスも変わらないだろう。

この監察結果は、ぼくが見聞きしたのは一部の部署のことについてである。
別の部署では別の行動則があるのかもしれない。
ぼくが知っているケースで言えば、世界的な意味での成果を出すのは別の部署であり、ぼくがいる部署は近年低迷しているそうである。
まぁ、ぼくがいいるくらいだからそうだろう。
研究自体の話を楽しく語る人を見かけないのだから、なるほど部署の業績が低迷するのも頷ける。


こういう場所で生きてきたせいか、あることを悟ってしまった。
同僚が気にする「頭の良さ」だが、それは生得的なものだということ。
平たく言えば遺伝で決まりますね、ということ。

あの人はお肌がツルツル。
あの人は彫りの深い顔をしているな。
この発言は、それをもっている人を評価賞賛している。
発言している人もその性質を「欲しい」と思っていることもあるだろう。
エステに通ってツルツルになる努力する人もいれば、「人は顔でないと」と価値を否定する人もいる。

もっと不思議なことがある。
そういう努力を血相かえてやっている人を笑って侮蔑するのだ。
自分にない「よき性質」を獲得しようと無駄な努力をしている人は、ネガティブな評価をくだされる。
努力なんかしちゃって、ということである。
口に出すほど不用心な人はいないから、実際は見えにくいのだけど。

もっといえば、努力してもしなくとも、「うらやましい」性質を生まれつきもっている人にはかなわないという落ちがつく。
そういうものである。
「頭がいい」論争も同じことだろう。

努力するとは、もともとあるものを磨くことである。
もともとないものを努力で磨くことはできない。
女性はキレイになろうと努力するけど、骨格まで手を入れないとどうにもならない場合も少なくないだろう。
化粧でできることは限られている。
それに、どんな人であっても若い頃はそれなりにキレイなもので、全ての人が不幸だったかどうかはわからない。
もしキレイな条件にマッチするものを持たないのならば、別の方法で生き残る事を考えないとだめだろう。
そういうことを当然だが化粧品やファッションに関わる人は決して表明しない。

「頭がいいよね」がそのままポジティブ評価されている人は生まれつきの性質を持っているだけなのだ。
本人は努力したとは思うが、それは「磨いた」程度であって、石をダイヤモンドに変成させるようなことはしてない。
努力でどうにかなるなどと思うのは、魔法を信じる体質か、自然に対して恐れを抱かない人かである。
意志と希望でどうにかなるものばかりではない。
それでも意志でなんとかしたい人は宗教の文門に下ることになる。

議論して変わることもあるが、議論で顔面の骨格がかわるわけもない。
男性ならば頭の良さや運動能力、女性ならば美しい身体が欲しいかもしれないが、
人ができることは「磨く」ところ止まりである。
原石にあたる部分は、今あるものから発想をスタートさせるよりない。

ならば、だれかの生まれつきのことについて議論しても仕方ないではないか。
自分にとっていいことなど何一つないことないよ。


閑話休題。
自分の頭がよくない、と嘆く人は生きている真剣味があまりない人なのだろう。
悲しんでも「継続して生きていける」ことが保証されているからだろう。
頭がよくないと生きていけない世界にいる人は、嘆くよりもさきに解決方法を探すだろう。
それはぼくとて同じ。

普通の人が賢い人とあわたりあうには、努力で競ってもダメである。
相手はぼくの努力を賞賛し、もっと努力していい勝負ができるよう言ってくるかもしれない。
しかしそれは罠である。
だって、努力でどうにかなる問題ではないと頭がいい人ならば見抜いているからだ。
自分が最低限でも勝てるとわかっているから、敵に塩を送り、さらにゲームを面白くしようとしているのである。
それを「発言」したら悪者だが、悪者ではなくとも無意識にはそう判断している。

凡人が生き延びるには「見晴らしの良い高台」を探すことである。
誰だってそういうところに登りたいから、人づてに聞いても無駄である。
ありそうなところは、すでに誰かが占拠しているものである。
頭のいい人と素手で勝負することになったら負けるのが目に見えている。
だから、人とは別の方法で探すよりない。

そのためには頭を使って考えることはすすめない。
そうではなく、身体を動かして「偶線遭遇する」ことに期待する。
虫がいいことだ。
でも、考えて思いつかないならば、探すよりないだろう。
人が見えないと思っているところに、「本当になにもないのか」と探す。

「あの人が頭がいい」論が始まったら、ぼくはその話には集中しないで別の事を考えるようにしている。