2010.08.21

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サントリーホール、12人のチェリストたちの舞台

【想】楽譜を黙読するときに頭の中で生じていること


音符を「読む」ということは、音楽を「黙読」することなのか?

あまりに楽譜を読めない状態が長く続き、ここは一念発起して譜面をすらすらと読めるように工夫してみることにした。
40過ぎの手習いとしてチェロを学んでいるが、指が動かないというような問題よりも、譜面が読めないといことの方が辛いからだ。
アンサンブルのなかまじって練習するとき、パート譜を渡されて一番困るのは、譜面の旋律は「本当にこれでいいのかぁ」というような意味不明なときである。
パートが集まって練習するとちゃんと音楽になるが、一番上のパートか一番下のパートでない限り、知った曲でもなにをやっているのだかわからなくなる。

なんで音符がわからんのだろうか、と考えていてひらめいたことがある。
ひょっとしたらその道の人は、音符を見たときにその「音」が頭の中で響くのだろうか?
例えて言うならば、黙読。
黙読しているとき、のどから声をださなくとも頭の中では「声」を出しており、
その声が「頭の中で」聞こえている。
それと同じように、譜面を見ていると頭のなかでは「音」が聞こえているではないか?

ぼくは音符を眺めていても、頭のなかでは「全くの無音」である。
例えば、レはレという記号でしかない。
四分音符は手を一回たたくリズムの長さでしかない。
つまり、すでの知っている曲の譜面でないかぎり、譜面をみても「音」は頭のなかで流れない。

なぜ無音なのか。
その理由は、レならレという音を頭のなかで再現することができないから。
「レっていわれてもなぁ。」
頭の中で鍵盤をたたいたようなレの音の響きが想像できない。

ひょっとしたら、これって子供の時に鍛えないとどうにもならない能力なのかもしれない。
脳内に「記号」と「音」の対応を司る機能が発生しないまま大人になったのならば、
オジサンになってからだと、努力することでどうにかなる問題ではないはず。

とすれば、音楽家の方がやっているような方法をぼくは取るべきではないだろう。
つまり、譜面ではなく曲で憶えるしかないのかもしれない。


新しい曲を学ぶとき、譜面を頼りに一人で弾くことが可能なレベルまでは練習したとする。
ところが皆さんのなかで一緒に弾くとき、いくら譜面を凝視しても自分の弾くべきパートの旋律が
「全く聞こえてこなかった」。
そういう経験はいつものこと。
文字通り「手も足もでない」ということで、結構辛い。

旋律を記憶している曲ならば、自分の弾くべきパートの旋律は弾く瞬間よりも少し先に聞こえてくる。
それに合わせて指を動かせばいい。
すくなくともぼくはそうするし、それがぼくにとっての「弾く」という手順になっている。
頭のなかで旋律が鳴ってそれがガイドとなり、それに合わせて手を動かす。
譜面は、指の位置を思い出す「ヒント」にしか過ぎない。

皆さんが弾かれているときに、ぼくは音のガイドが全くない状態で、一体どうしたらいいのだろうかと
ぼう然自失になる。
なんとも悲しいし、いたたまれない。

大人になってから音符を読むことになる人は、ほぼ同じ問題を共有しているのではないのだろうか。
と思って周りを見回しても、みなさんそうでもないみたい。
すごいよなぁ、皆さん。

2010.08.19

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上野の蓮の花

【想】サービスのある文章って何?


ブログをつける。
強制的に自分に文章を書かせる方法である。
文章の上達にも練習が必要であり、しかも達成可能な目的をもった練習でないと続かない。
経験則としてだれもが頷くだろう。

つまんねぇ文章だなぁ。
そういう思ってしまうものがあるとしよう。
では、お前ならばもっと上手に書けるのか?
そう、自分に聞いてみることにしている。

何言ってやがる。
自分に書けようが書けまいが、つまらないものはつまらなぁいんだよ。

そういう回答が一番まっとうで、多くの人はそう答えるだろう。
自分は楽器を弾けないし作曲もできないけど、だからといってあの曲はいい曲ではない。
それどころか、つまらない曲のほうが多いだろう、実際。

自分の感覚的な反応は論理でどうにかなるものではない。
練習してもつまらない文章はつまらない。

何かのエッセイで塩野七生さんが「プロの文章は上手なだけではだめで、読者にちょっとしたサービスが必要になる」というようなことを書いていた。
面白いとか意外とか、あるいは情報とかなのだろうか。

実はこれがずいぶんと気になっている。
そして、それが何だかわからないでいる。
読者に対するサービスって、一体なんだろうか。