2010.05.26

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テレビドラマの影響でにぎわいがました?水天宮

【記】キーボードの交換で機嫌がよくなる


 手持ちのMacBookProのキーボードを新しいものに交換した。

 壊れたわけではなかった。見た目に問題があった。

 爪が当たっていたせいか、幾つかのキーの表面の刻印がこすれてプラスチックむき出しになっていた。

 これがよろしくなかった。

 見た目をよくするためにMacの新品を買い直すほどの資金余裕はない。

 ただし、キーボード部分ならば交換できるだろうし、価格もさほどではないだろう。

 早速インターネットで通販をやっているところを探した。

 アメリカにある店が見つかった。どうやら日本人相手の会社らしく、注文などはすべて日本語のウェッブサイトで済ます事ができる。しかし、商品の発送はカリフォルニアからである。

 交換用のキーボードは送料込みで15000円程度だった。

 4日ほどして商品が到着した。

 交換は自分で。小さいネジを外し、フレキシブルケーブルを付け替え、キーボードをつけかえる。

 マックの中身は洗練されているものが多いのだから、初期型のMacBookProだからだろうか、あまりスマートな設計になっていない。むしろアップルとしてかなり苦戦した後がうかがえた。

 なんとか装着した後、電源を入れて、内部機器のリセットを行ってみた。

 キーボードが使えるようになった。うっすらとLEDが光る機能も正常に動作している。

 少し文字を入力してみた。感触が劇的に違う。あれ、と思ってそのままぱちぱちと入力していたら、なんだか気分がよい。

 新しいキーボードだから、入力したときのふわふわ感が蘇っている。

 そうだ思い出した。このキーボードって、ぼくにとってはひどく使いやすいものだったのだ。それを思い出した。最近、すっかり感じなくなっていた。

 こうしてブログ用の文字を入力しながら絶妙な感触を楽しんでいる。

 この辺りの感触は、他のPCには一切見られない。まったくもってスゴイものである。

 というわけで、このキーボードの交換は、このPCの価値をかなり復活させるものになった。



 別に新品が良いというわけではない。

 しかし、キーボードのように、使用していくうちにへたるものはときどき交換したほうがいいだろう。

 長く使えるもの特徴には、自分で修理ができ、みがけば光るものというものがあるらしい。

 たしか、アンチ温暖化の著作を発表されている武田邦彦さんのエッセイにあった言葉である。

 それは電子機器には適用できない法則だと思っていたが、そうではない。

 こうしてMacBookProには十分適用できている。なんだか、気分がいいや。

2010.05.23

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近所にあるチーズ屋さんのウインドウ

【想】傍流を歩く


 ぼくの職場における自分の行動は、信じがたいくらいの自由度が与えられている。

 それは全員に与えられている分けではない。

 なぜ、ぼくはそれを得られたのか。

 それは、傍流を選んだからである。

 仕事のなかでの主流からそれれて傍流に足を踏み入れば、だれにも享受できる自由である。当然、その費用は孤独や嘲笑されるという形で支払う必要がある。

 そんな中で生活していると、大抵のことは自分で決めることになる。

 もっとも研究職だからそもそもが道楽のようなことをしている。

 とはいえ、それはぼくの仕事である。予算を申請し、了承されれば必要な資材なり道具なりを購入することができる。結果を発表する必要があれば、海外にも行ける。

 通勤電車で見かけるサラリーマンの人と比較したら、あるいは、人生の楽しさから考えれば、圧倒的に幸福な環境にいるであろう。

 もちろん給料はぼくの方が少ないかもしれないが、ぼくが育ったときに感じたのと同じくらいの自由がある。ぼくには十分である。

 車や家に手を出さないで、スーバーの特売品を購入し、神保町やブックオフと音楽で満足するのならば、ローンとは無縁の生活でいられる。

 さらに、2年に一度くらいの頻度で、古代ローマ遺跡や本物の名画を見るために出掛けることだってできてしまう。



 傍流を進む人が増えると多くの人が結果的に困るではないか。

 そう言われることがある。

 主流がおろそかになれば、傍流もろとも消えてしまうだろうという注意である。

 なるほど確かにそうだ。異論はない。

 しかし、それは間違いだ。誰もが傍流で生活することはできないから。

 多くの人とは違うことをするには相当なストレスに耐える必要があるし、あらゆることに工夫が必要になる。そうでないと、すぐに倒れて消えてしまう。

 だから、多くの人が傍流には実際やって来ない。

 また、多くの人が傍流にやってきたら、それは傍流ではなく主流になる。そちらが主流になる。

 今まで傍流だったものが主流になる。それで結構なことである。

 となれば傍流にいるぼくは、逆にこれまで主流と言われていたところに行くだろう。



 簡単に傍流になることができる。

 新聞を読まず、携帯を止め、テレビ・インターネットのニュースを見ないことにしたのだ。

 これを数ヶ月やったら、日々の生活がゆったりしてきた。本当である。

 考えてみれば、ニュースというものは「枠」があるから埋める必要があり、枠のために編集されてしまう。事実とは言い難い。

 スポンサーによるフィルタがあるのはどの国も同じだが、日本のニュースはマスコミが「自分は偉い」と思っているから、記事をフィルタするだけではどうにもならない文章ばかりだ。読むのが面倒である。

 そこまで面倒なことをして、アジテーションや宣伝を読む必要はないだろう。

 なので最近の唯一の情報源は通勤電車の縦吊り広告である。

 面白いから読んでしまう。すると、社会に対しておかしな認識を持ってしまうことになる。

 昼食のときに人と話すと、「驚き」の連続である。へぇ、そうなんだ、知らなかったよ。

 驚きは爆発的な楽しさでもある。

 なんてことはない、ニュースを見ないことが楽しさという形で自分に有利になってくるのだ。面白い。

 こんなことをしていると、一体どうなるのか。

 わかない。でも、危険ではないと思う。

2010.05.19

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実家のある町内の道からの風景

【想】言葉で考える


 あるときワープロに向かって独り言をいうように考えてみた。

 普通ならばノートやホワイトボードに落書きするか、そのへんをぐるぐる回りながら立って考えるのだが、そのときはMacに向かって、ひたすら文字を入力した。

 これが功を奏した。

 結論として新しい発想が生まれたわけではないし、驚くような工夫を思いついたわけでもない。たいした結論はでていない。

 それでも、考えた道筋を今でも明確に憶えている。どういう方向でいこうと考えたのか。なにを自分で納得しながら発想していったのか。その道筋を引き返していけるくらいに。

 これは実に意外な発見であった。

 すべての人がそう感じるのかは不明だが、ぼくは驚いた。

 実は以前にもそういうことをトライしたことがあった。

 そのときははかばかしい成果は得られなかった。だから止めてしまったのだけど。

 どうして今回は気持ちよく考える事ができたのか。前回と今回とで何が違うのか。

 文章能力が上がったからか。文章を書く練習ならば細々と続けているので、その効果がようやく現れたのかもしれない。

 そう思いたい。

 が、主要因ではない。それでは無関係ではないだろうけど、文章能力は関係ない。

 文章が上手になったのかを知るのは難しい

 なぜなら自分の文章って、客観視できないから。

 何年も努力しているから腕があったがとは思いたいが、まぁ、わかりずらい。

 ただし、ダラダラと書き続けるためのコツ(呼吸)のようなものは、以前と比較すれば獲得している。本人はそう思っている。

 考えるとは言葉を使うことでなしうるのか。

 論理を使うものはイエス。構造や論理を扱わないものはノー。

 考えるとは、すくなくともヒラメキを追いかける途中ではない限り、言葉を使うといっていい。とくにぼくような場合は。

 発想に煮詰まったら、ワープロに向かって、今考えていることを言葉にして記録してみる。 そこで考えていることを自分でもよく自覚できる。哀しいくらい、はっきりと見せつけてくれる。

 おれだって考えているさ。

 そういう「言い訳」がどの程度通用するのか、自分でもよくわかる。

 この方法、しばらく研究してみることにする。

2010.05.18

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実家の窓から見えるスカイツリー

【想】文章の書き方など、ないのか?


 正しい文章というものがあるのだろうか。ずっと疑問に思っている。

 その場合の「正しい」とは、言いたい事が「そうそう、そうなんだよ」と口にだしてしまうように表現されていることで、文法として「正しい」かどうかは考慮していない。

 上手に表現できるようになれば、その人の書く文章は「ある型」に集約されていくのではないか。プロの人はそういうことができる人なのではないか。

 その「ある型」が「正しい」ということなのだろう。そう思っていた。



 それはそうと、喫緊の問題として、ぼくは改行について知りたい。どういうタイミングで改行をするとよいのだろうか。

 大学の頃の英語の授業で、トピックセンテンスという言葉を聞いた。

 パラグラフの先頭の一文は、そのパラグラフの要約になっている。

 そういう書き方のようである。

 このように書かれていれば、時間がないときは面倒なとき、各パラグラフの一行目だけを拾い読みすれば、その文章の意図するところが理解できてしまう。スゴイ時間短縮になる。

 その授業の例題にあった文章は、確かにそういう構造をしていた。実際にビックリしてしまった。



 理科系学生として勉強してきたぼくには、そのとき衝撃を受けた。文系世界にも、こういう構造があるんだと知ったのだ。

 ぼくは文系には偏見を抱いていた。

 彼らは「感性」などというあやふやなものを基準とし、だれがすごいのかを較べている人たちなのだとずっと思っていたのである。

 でもそうではないらしい。反省した。

 と同時に、これまで捨ててきた文系の世界に興味を持つようになった。

 まぁ、ずいぶんと遅い文章の世界への出発だったわけである。だから、簡単なことで躓き先にすすめないでいる。

 小学校の国語の作文の宿題から、改行についていつも悩んでいた。どういう状況で改行したらいいのか。

 その解決として、大学以後は、ある種のトピックセンテンスを基準に置いた。

 つまり、パラグラフ内で意図している目標が変わったときに段落を変えればいい。

 「要するにこうだ」ということを言いたいと思っている間は段落を変えないで、文を続けて書く。言いたい事が変わったら、段落を変える。

 大変シンプルな方法である。

 するとどうだろう、一段落がずいぶんと長くなってしまった。別段これで構わないと思っていた。

 問題はある。段落が少ないと読み難いということ。とくに、ブラウザで読むような文章では、読む気がしないのである。

 それでも気にしなかった。なぜなら、そもそも読者などいない文章しかぼくは書かないから。


 小説やエッセイを読むときに、段落について気にすることがある。毎回に気にしているわけではないが、「良く書けているなぁ」と感心したら、どうして読みやすいのかを気にするようになった。ここ最近のことである。

 不思議なくらい、そういう本では段落が多い。

 一文しかないのに、バンバン改段している。もったいないだろうよ、というくらい。

 一方で、読みやすさは抜群である。どうして、というくらい、すらすら読めてしまう。

 階段が多いと、リズムに乗れるからだろうか。

 それとも、段落が多いせいで、内容が薄くなっているからなのだろうか。

 なにはともあれ、ぼくも段落を増やす事にした。

 意味から段落を分けるのではなく、読むときの呼吸のようなものを目安にすればいいだろう。

 改段するときに、息継ぎをする。階段がないところは、息継ぎをしない。

 そのタイミングが上手になると、内容はともかく、すらすらと読めるものになるかもしれない。

2010.05.12

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銀座にある湾曲したファサードのへんなビル

【想】没頭するところまで


 こうして言葉をつらねることで、自分の世界を作れる人はすごいなぁと感心する。

 なんでもそうだが、簡単そうなものでも、やってみるとその難しさがよくわかる。簡単に見えることほど難しいとはよく言ったもので、ほんとにそうなんだから面白い。

 言葉を操るだけなら、寝てだってできる。そういう人もいるんだろう。そういう人が小説家やエッセイイスとになったりするのかもしれない。

 しかし、普通の人は絶対にそんなことはできんよ。

 じゃぁ、なんで普通の人が「無理」なことに挑戦するのか。ぼくが文章を書く練習をするように。

 よくわからない。

 普通の人だってやってたいなぁという動機はあるだろうし、その自由もある。だから実際やる人は多いし、ぼくものその一人としてやっているわけである。

 なまじ人から評価される必要も心配もないから、気軽にやればいい。

 そのはずなのだが、不思議なことにやってみて自己嫌悪に陥ることがある。余計なことをして自ら不幸になっている、よくない行動の典型例である。

 でも、それでも「ひょっとしたら」という想いがあるので、ち練習してしまう。

 文章を書くこと自体をことさら意識しないようになれればいいはずだ。

 そうは思うが、書いているうちに何をやっているのかわからなくなるもので、「没頭する」というところまではたどり着けない。

 それでもいいかな。

 はやいところそういう状況に至りたいものだ。

2010.05.10

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夕暮れの交差点(AKIBA)

【想】文章を考えるときの声


 文章を黙読することが多いが、黙読のときの「声」について気がついたことがある。

 自分の書いた文章を声にだして読むことはめったにない。書きながらぶつぶつ言うことがあるかもしれないが、それは文句であって、読んでいるわけではない。

 書いている途中、なんども文を読み返すが、そのときは黙読するのが普通だろう。

 黙読自体は小学校のときからやっている。

 しかし、黙読といっても、実際には音声ではない「声」を出している。そして、その「声」を頭のなかで聴いて内容を理解している。そのやりとりは頭の中だけで済んでいる。が、はっきりと「声」を聞きながら読んでいるではないか。



 黙読するときの「声」は、必ずしも自分の声ではないかもしれない。

 自分の声は知っているようで知らないような気がする、へんなものである。

 それでも、その発音を想像すれば聞こえてくるのも自分の声だと思っていた。でも違うようだ。

 これまで、黙読では「聞いて」いないと疑ってこなかった。

 いま、気がついたのだが、実際には黙読の声は「いかようにでも」なるようだ。

 物理的なものではないので、「声」は変えることができるのか。

 司馬遼太郎さんの語りをTVで見た事がある。司馬遼太郎さんの声は憶えているし、しゃべり方の特徴もなんとなく記憶している。

 だから、司馬遼太郎さんのエッセイなどを読むときは、気がつけばその声で黙読している。

 小説の場合は少しちがう。

 地の文とセリフとがあり、登場人物もいろいろいる。

 しかし、それらを読む瞬間の「声」の質感まで変えて黙読しているかどうか。そうしているときもあるし、そうしていないときもある。

 面白い本をのめり込んで読んでいるとき、小説は本旨的に映画を観ているのと変わりはないくらい、登場人物の「声」を聞いている。もちろん鼓膜からの信号を聴覚神経を経由して脳で聞くのではないから、ある種の印象なんだと思う。いってみれば、勘違いのようなもの。

 例えば、最近東野圭吾の『新参者』を読んでいるが、TVドラマを見てしまった関係で、主役の声は阿部寛の声になってしまう。無意識に読んでいても、阿部寛になる。不思議なことだが、こういうことは誰でも体験したことがあるだろう。



 黙読の際に頭の中で声を出しており、その声はいろいろに変えられる。ストレスなく変えられる。

 読むときにこうなのなら、書くときだってそういうことはあるだろう。文書を綴っているときの声はどんなものか。自分のものなのだろうか。

 この事に気づく前、ぼくは小説を読むときと同じように、自分の書いた文章を読むとき、だれの声でもなかった。

 だから、自分の文章であっても、誰が語っているのか今一ピンとこなかった。

 そこで次のような実験を試みる事にした。

 文章を書くときには、明確に「声」を設定してみることにする。

 ぼくは「分かりやすい」文章を書きたいので、聞き取りやすい声がよい。特徴のあるキャラクターの声ではなく、カーナビの声のような、どちらかといえば高い女性の声がいいかもしれない。

 だからといって、文章に女性的な要素は待ったく必要ない。単語の設定や語尾の違いなどについても、声に合わせようとは思わない。

 声が明瞭ならば、文章も明瞭なものになるかもしれない。いや、なってくれるのではないかと期待している。

 そんな簡単なことで、文章の明瞭さが変わるとはにわかに思えない。が、ひょっとしたら変わるかもしれない。

 少なくとも、書いている方は少し責任のようなものを感じるから、なんでもいいから文字を書くというようなことはしなくなるかもしれない。

 こんなことは小さな工夫でしかない。

 しかし、ビックリするような違いに発展してくれないか。ムシのいい話だが、今少し期待している。

2010.05.05

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「サン・ラザール駅」を拡大してみる

【想】面白い本とは何だろうか


 面白い本とは何か。

この答えとしてこんなことを考えた。

 面白い本とは、要するに「こういう本を読みたかったんだよね」と言えるもの。この本を選らんで良かったと思うもの。

 面白いから良かった、のではなく、良かったと言えるから面白い本なのだということ。

 その順番が大切。つまり、結果的に本の評価が決まるのであって、読む前に決まっているものではない。そう納得している。

 どんなに偉い人が評価しても、それは個人的なもの。自分が読む前に「その本の評価」などというものは存在しない。

 自分と関係なくその本の評価が決まるなど、文字通りナンセンスなことだろう。


 評価は約束事であり、実体はない。

 だから、あるとかないとか、そもそもそんな議論の対象にならない。

 ということは、誰が何を言ってもかまわないし、言ったことでなにも変わらない。他人の評価は自分にとってなんの意味もない。

 実体がないものだから、本の評価は読む状態によって大きく左右される。また、一度下した評価であっても時間が経てば変わってしまう。

 ちょっと考えてみればわかる。

 面白い本とは本の「評価」ではなく、自分の状態についての記述だ。自分の気分を表明しているにすぎない。どうしてそれが本の指標になるのだろうか。

 本を読めば何が頭に浮かでくる。そして、それは読んでいる人の「個人的な」記憶に関係している。

 読んだ文章から連想する知識や感覚に、気持ちが自然と反応してしまうのだから、それらはすべて個人のものだろう。

 だから、他人にはあまり参考にならない。

 当然、絶対的な評価はない。巷にいる評論家の評価はその人の評価だから。読んでいない本については、ぼくはぼくなりに評価するまで「評価不明」のままになる。


 読む人全てに同じものを想起させることができれば、その本は普遍的な価値をもつ。

 が、それはめったにない。

 ぼくの読書メモのささやかな効果は、その普遍性を追うための一つの指標になるくらいだろう。

 歳を取っていくうちに自分は変わっていく。そのとき、どんな風に変わったのかを自覚することは大変難しい。なにせ感覚が変わっているのだから。変化したことを知る術がない。

 そのとき、この読書メモが役に立つ。

 印刷された本は変わらない。だから、同じ本を読んでみてから読書メモを付けてみると、過去につけた読書メモとどれだけ違うが具体的に知ることができる。注目しているところ、印象、そして説明するロジック。こういうところが、具体的にわかる。

 どれだけ自分が歳を取ったのか。

 それは写真で比較するだけではない。考えていることは写真に写らない。

 そんなとき、この読書メモを読み返して、自分の変遷を辿るのは、ちょっとした趣味になるかもしれない。

 変化してく様を見るだけならば、自分の読書メモでなくとも構わないはずで、そんなことを考える資料にこのメモがなるかもしれない。

2010.05.02

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リビングに置いてある本

【想】読書メモが積もっていく


 最近読書メモをつけていない。

 読んだ本の感想や印象を綴るだけでいい。ならば簡単だろう。そう思っているけど、いざ付けようとすると何も浮かばない。

 これまで800冊以上の本についてつけてきた。せっかくだからこれからも続けていきたい。そう思っているいる。

 だけど、付けてないものが貯まってくるとおっくうだ。憂鬱になる。

 たまればたまるほど付け難くなってくるから不思議。まるで、見ようと思って録画した番組がHDDレコーダーにたまってくると、テレビを見る気が萎えてしまうのと同じ。

 きっと同じ心理メカニズムが働くのかも知れない。

 現時点で読書メモをつけてない本は30冊以上になっている。週末付け続ければなんとかなるかもしれない。

 しかし、せっかくの休みをそれに費やしていいものか。読書メモの目的はあくまでも文章上達のためにある。

 ならばメモを付けなくてもどうでもいい。それは間違いない。

 だから、ここで止めても誰もこまらない。そう、確かにそうなのだ。

 では止めたら何が起きるか。

 何も起きない。その「起きない」は、自分の文章能力についても言える。メモを続けたから文章が上達するとは限らない。

 が、止めたらほぼ間違いなく上達は止まる。

 もう年齢的に「自然に上達する」ことなど期待していない。むしろ、何もしないと急激に衰える。

 そこまでわかっていて、ぼくは読書メモづけを止めた方がいいのだろうか。

 少し方向を変えて考える。

 これまでの方法で文章は上達したのか。

 少し確証を持って言えるのは、5年前と較べれば少しはマシになったこと。長い文章を書くことはできないが、意味が通じるものはかけるようになった。

 この調子だ。

 昔より、文を生み出すのがラク。ならばそれでいいじゃないか。

 もう忘れてしまった本のメモは、もう一度読んでから書くかな。そのほうが身のためだ。

 良いようにカンガエルカ。

2010.05.01

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水天宮

【想】文章の上達


 多分だが、言葉の上達は積み重ねの結果にあるのではないかもしれない。

 それなりの期間、本を読み、読むだけでなくブログを書いてはきた。結構な数はたまったはずだ。

 が、それでも一行に上手にならない。

 ならない。

 ならば、質は量から転化する、という考え方は、文章の上達には当てはまらないのかもしれない。

 なんだよ、こんなはずじゃなかったのに。

 その事実を薄々感じてきたためか、本を読んでもその読書メモをつけるのが面倒になってきている。

 書かないで30日くらい過ぎてしまった。

 もう止めちゃおうかなぁ。