2010.02.28

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ロードス島でみた夕日

心の安全弁


 なんだか嫌なことが頭にこびりついてしまって、昨日から不機嫌がつづいていた。とはいえ、奥さんには関係がないし、誰が悪いわけでもない。なので、不機嫌さを顔に出さないようにしていた。

 嫌なことって、ホンの一瞬の出来事だったりするのだけど、それがもとで人々への不信につながってしまう。さらに、過去の事を思い出して「嫌〜な」気分が肺の辺りに充満する。嫌な気分が続くだけなればまだいいが、嫌な事ばかり何度も頭の中で考え、何をしていても楽しめなくなる。

 そういう現象に気がつき、昔からそうだったよなぁ、どうすりゃ気分が晴れるかなと自分なりにいろいろ試してみたが、最終的な結論としては「嫌なことを突き詰めて考えたところで、何もでてこない。そりゃ、そもそも問題がないのだから、解答があるはずない」だった。

 もっといえば、嫌なことを思い出して、嫌な気分に浸かることは、頭の中を毒素で破壊しているだけであって、その状態に長くいたら身体に悪い。それに慣れることはないし、なんらかの結論にたどり着いてさっぱりした気分になれるわけでもない。要するに、嫌な気分をすることを考えていいことなど何一つない。ぼくはそういう結論に至った。今でもそう思っている。心配することと嫌な気分になることは少し違うが、心配も取り越し苦労ならば全く同じ。そうでなくても、「考える事が現実に影響をしない」のであれば、心配という行為は全く無意味なことである。

 しかしここが微妙なところなのだが、わかっていてもできない。だから困ってしまう。

 嫌なときに嫌なことは重なるものである。嫌な気分で何かをすると、かなり注意力が落ちているせいだろう、簡単なことでも失敗する。これは嫌なことは考えるだけでも毒なのだの一例であろう。

 ところがちょっと面白い身体の反応を感じた。今日も「うっかり」と失敗した。家に帰って本を読んだりビデオを観たりしていたら、なぜだが眠くなった。なので、そのまま昼寝をした。普段昼寝の習慣はないが、身体の症状にしたがって寝た。

 寝たのは2時間くらいだが、目覚めると、嫌な気分がなくなっていたのである。さっぱりしていた。さっきまでの嫌な気分が少し離れたところにあるような感じがする。

 なるほど、寝るってのは一つの処方箋なのか。ひどいときは夢でも嫌なことがでてきて途方に暮れたことがあるれど、普通は夢など見ない。昼寝なのに夢をみないで寝てしまったのも不思議である。嫌なことを対岸の風景のような気分で回想できる自分がいる。

 考えないのではなんの解決にも繋がっていないじゃないか。そう思うかもしれない。実際、ぼくもそう思っていた。何かを解決するには自分が努力しないといけないと自然考えていた。

 しかし、考えないことが解決につながることもある。嫌なことは、その現象が自分の頭の中にあるだけであって、物理的には存在していない。ぼくの記憶がぼくの気分に影響し、結果的にぼくの生活に傷害をもたらしているだけ。考えなければ、それも消える。そういう単純な話である。

 「この風景をみたら、嫌な事も忘れてしまいますものね」。先ほどテレビを観ていたら、そんな言葉を聞いた。

 なるほどそうだ。本当にそうだよねと思った。

 南イタリアの風景を前にしてのナレーションだったが、こんな風景が目の前に広がっていたら嫌なことがあっても、風景をみるだけで嫌ことは忘れてしまうだろうと思った。南イタリアほどキレイな風景を観る事ができる。地中海の明るい光、青い空と海。なるほどイタリア人が暗くならないわけだ。

 こんど嫌な感情が頭にとりついたら、ちょっと休んでお気に入りの風景を見に行くことにしよう。そして、好きなものを食べる。奥さんと一緒ならば、それがぼくの味わえる最高の幸せだから、ならばそれ以上の処方箋はない。

 単純な言葉、自然なことばに生活の知恵は隠れているものなんだ。

2010.02.21

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もう長いこと使っていない運用システム

技術系ブログをつける人の性格像


 計算機関係のことで知らないことに出会うと、とりあえずGoogleに聞いてみる。すると多くのページがヒットする。その多くはブログのエントリーである。

 技術系の検索ならば技術系のサイトの記事が検索結果リストに挙がることが多く、参照すると便利である。しかし、かなり限定された状況でのトラブルや逆に「人には聞けない」(つまり低レベルな)ことだとブログの方が都合が良い。

 なるほど、ふむむ、同じ問題を抱えている人って多いんだなぁと感謝しつつ読み、そして実践する。すると自分の問題があっという間に解決することも少なくない。

 そういうときには日本語で書かれた記事を読むことが多い。ぼくが日本語環境のPCを使っていることと、症状を日本語で検索するから当然そうなる。

 そういう探し物をしているときに読むブログは、不特定多数の人に向けられた「文章」ではなく、友達に向けたボヤキや自慢を記述するときのエクリチュールものが多い。そして、その記事の内容がしっかりしているほど、不思議と似たような物言いになってくる。おそらくは書いた人の性格も似たところがあるんじゃないかと推測する。文は人なりというし。

 こういう文章を書いている人は、似たような性格なのではなく、似たような人を目指して演技しているのかもしれない。もしそうならば、彼らは同じような人を目標としていることになる。それは誰なのか。最近のオタクコミュニティーのなかで支配的なマンガなりアニメなり小説なりの登場人物なんだろうか。

 彼らが共通している物言いは、

  1. 自分の技術は他とは一味違っており、たぶん多くの人よりも優れている。しかし、それをあえて自慢しない。
  2. だれにもフレンドリーな口調を装っている。
  3. 「あなたは変わっていますね」と普段から言われているが、そんなことを気にしたこともない。
  4. 好きなことには熱中する子供のこころを秘めている。

 というところだろうか。トレンディードラマのなかに該当するキャラクターが存在するのかどうかは知らない。でも、不思議とこういう人物像になりたい技術系オタク?の人が多いようである。そして、ぼくの偏見だが、(1)ー(4)については全部「そうなる負振り」を演じているだけで、それぞれに対する実際は、

  1. 自分は野暮なことしないと思っているだけで、実際技術があるかは大いに疑問。
  2. 基準以下の人はゴミだと見なし、基準以上の人を神だと思っている。
  3. 変わった人と言われるのを待ち望んでいる。
  4. 大人なことができない。

 だったりするのだろう。

 これはぼくの勘違いであり、偏見なのは自覚している。それどころか、ひょっとしたら自身を他人に投影しているのかもしれない。そう言われそうな気もする。

 で、それで何を言いたいのか。実のところそんな主張はない。ただ、どうしてみんな「自分がデキることを自分ではなんでもないことだ」という振りを装っているのかが気になったまでである。

 いい人を装っていようが、実際にいい人であろうが、かれらに接する人からすれば同じである。ぼくからすれば、インタフェースより向こうの人格がどうであろうと、そんなことは余計なお世話だ。

 キャラクターを装っている人は、ある重大な欠陥をかかえているが、それをみなさん気がついているだろうか。それは、自分が自分であるためにはどうやっても他人の評価が必要になってしまうことである。

 いつも気分がよく、自分ができることを自慢しない気持ちがいい変わった人。自分がこういう人だと他人から思われることが生活の目的であり、もっといえば必要になってしまう。

 これはなんと大変なことだろう。そして、多くは失敗するはずだ。他人からの評価ほどいい加減なものはないから。自分が他人に抱く評価が確固としたものだろうかどうか、ちょっと考えてみればわかりそうなものなのに。

 ウェッブ上の情報に人格は必要ない。ただ、情報だけがあればいい。だからこそ多くの日とのサイトを検索し、そこから必要なものを引張りだすことができる。ウェッブは、味方を変えると、なんだか味気ないものである。

2010.02.20

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内之浦の海

ブログのスプリット


 下手なくせにいろいろと文章で記録しておきたい。

 なるほど、それならノートに残しておけばいいじゃない。

 そう考えるのが普通かもしれない。が、どうせならネットからそれらを引きだせるようにしておきたいなと思っている。今は多くのウェッブサイトがあるので、個人のサーバーの中身などgoogleで検索するのは難しいから、サーバーにメモ類をアップしても、人に覗かれる心配はいらない。

 そんなことが理由で、とりあえずWebに記録をつけている。いわゆるブログをやっている。クセなのか、思いついたことをアップしているうちにカテゴリー別にしたくなり、間口が広いが底が浅いサイトになってしまった感がある。まぁ、誰に迷惑をかけるわけではないし、気楽にやっていけばいい。やってはいけないなどという制約が、自分のサイトにはない。

 ずいぶんと前に野口悠紀雄さんの著作の中で自分のウェッブサイトについての考え方を読んだことがある。自分の作るサイトを一番使うのは自分だろう。自分が便利に使わないものをどうして他人が使うのか。

 不完全だが、そんな内容だったと思う。10年前とはウェッブのあり方がかなり異なっているが、野口悠紀雄さんの考え方はそのまま通用する。自分のサイトも自分が一番使うようでなければいけないと常々思ってはいる。が、実際はサーバーを維持するための技術を学ぶ実践の場になっており、自分のサイトの使い方としては、他のページへのリンク帳的な使い方以外がメインでしかない。もっと精進せねばならない。

 ブログの一部にはMovableTypeを使っている。最近のバージョンアップを機に、これまでとは少し違ったことをメモしたい。内容はメモに過ぎないが、自分で考えたことをまとめる以外にも、仕事のメモ帳としてどうつかえるか、工夫していきたいなと思っている。

2010.02.14

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上野公園

DOGUっていい


 上野で開催してる土偶展を見に行った。大英博物館で縄文期の土偶を集めた展覧会が開催されたらしく、その会期が終了し土偶は日本に帰国した。せっかく集まっているのだからついでに日本で展覧会を、というものである。なんだか人を喰った企画にも感じるが、土偶が見たいので寒い中上野公園へ足を運んでみた。

 作品数が多くないので会場は一室だけの小さな展覧会であったが、来客数はそれなりにあったらしく、入場制限していた。部屋が小さい当然かと思う。ルノアールやゴッホの絵が展示されると会場は満員電車と化すのが普通だが、そこまでは混んでいなかった。新聞社がタダ券を配っておばさん達を呼び込んでいないからだろうか。

 お目当てはだれもが教科書で見て印象深いであろう「遮光器土偶LinkIcon」である。左足が書けているあれ。それ以外の土偶もポスターには掲載されていたが、まぁ遮光器だけでもみれればいいだろうと思っていた。

 部屋に入りいくつかみたところ、土偶たちは思いのほか出来がいい。もっと雑な作りなのかと思っていたが、それがどうして、服の文様なども細かく表現されているではないか。作られた当時の色合いについてはかわからないが、現時点の外見はその質感をしっかり感じさせるもので、表面の風合いからその重さを想像させてくれるものであった。

 いいじゃんかよ、土偶。

 気に入った土偶を数体を眺め、どうやってつくるんだろうかなどと想像していた。縄文期になじみや愛着がなくとも、見る人がみれば「いいもんだ」とわかるだろう。大英博物館で展示しても、まったく遜色がない土偶だから、展覧会の質は高かったはずだ。大英博物館での会場はグランドコートの特設展示スペースだったのだろうか。

 土偶の推定年代は紀元前2000年から1000年という頃のものらしい。縄文時代といっても後期のもの。大英博物館博物館にはアッシリアのレリーフがあるが、それらはBC800年代だったから、縄文はその数百年前のもの。地球上の全ての場所で同じように文明が興隆するわけではないから時代の比較にあまり意味はないが、アートとしては十分張れるものである。ちょっと前衛的だけど、現代アートほど崩れてないし。縄文人、結構やるなぁという感想をもった。

 写真やテレビ映像で「知った」ことと目の前で見ることとは開きがずいぶんとある。だれもが「そりゃそうだ」ということだが。土偶のおおまかな色や形、大きさについては知識としてあるが、現物を前にするとその「質感」が伝わってくる。どんなに写真を見ても、画像から「重さ」を触覚的に想像することはできないのだ。はっきりとわかった。現物からは手触り感と重さが直接伝わってくるのだ。

 以前安藤忠雄の講演会でこんな愚痴を聴いたことがある。ヴェネツィアにあるパラッツォ・グラッシにある「プードル」の彫刻?がある。LinkIcon風船でつくったようなしょうもないオブジェなのだが、金属でてきているため重く、何トンかある。そのプードルのビュー・グラフを安藤忠雄事務所のスタッフに頼んだら、プードルをヘリコプターで吊り上げている合成画を作ったそうだ。安藤忠雄さんは「アホか」と一喝していた。そんなに重いものがヘリで持ち上がるわけないだろうというわけだ。その話を聞いたとき、まぁそうだろうと思った。

 しかし、そのスタッフが写真だけを頼りにして合成画をつくったのだとしたら、「無理もない」気がするようになった。というのは、理論的には重いことがわかっていても、画像から重量感が伝わってこないからだ。また、そのアートも「質量が全く伝わらない」からこそアートになっているはずだ。では、安藤忠雄さんはなぜ重いという実感があるのか。簡単である。現物を見たからだろう。だから、触ってみないまでもその重さを触覚的に知っているのだ。そして、こういう感覚は、持っている人は持っていないという状態を想像することはひどく難しい。だから持っていない人がバカに見えてしまうのだ。

 この会場で土偶をいろいろと見ていたが、遮光器土偶は逸品であった。なんだかオーラがある。これを作ったのは縄文期のマエストロだろうが、当時から話題になったのか。それても全く評価されなかったのか。気になるところではある。結局壊されないで埋葬?されたのだろうから、評価されたのだとは思うが、だとしたら縄文期の人のセンスは、現代人に受け継がれているはずだ。だって、ぼくは「いいなあ」って思うもの。理屈抜きに。

 本物はいいね。

2010.02.13

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夕暮れの街角(ローマ)

言いたい事を掴むコツ


 言いたい事がある。そう思う瞬間は日々何度か到来する。ぼやっとしているときに、こうすればいい、ああなればいい、どうしてなんだろうと思えば、それらはどれも口にして見たいこと。それらはすべてアイディアのアイディアのような段階のものばかりだが、それでも数をそろえればいくつか意味のあることを言えそうな気がする。

 ブログをつけている。ならばそこで書いてみればいい。ブログってそのためのものだろう。しかし実際のところ、そんなエントリーを書いたことはほとんどない。思いつきでメモを頼りにエントリーとしてまとめたものはほとんどない。メモを書きつけて数行すると、頭が白くなってしまい、後で書けばいいやと思って別の作業をしはじめてしまう。そして、それっきりになる。そういう形で埋もれてしまったものがわんさとある。別に誰も困りはしないし、それが面白い話に発展していくこともないから、とくに問題はない。

 頭の中にしかないアイディアは、自分でも素晴らしいものに思える。だが、一度頭から出して(つまり、絵にしたり、言葉にしたりして)しまうと、ずいぶんとみすぼらしいものに見える。「もっといいものだと思っていたが、実際こんなもんか」とがっかりする。そうなることがわかっているので、なるべく頭から出したくないという気分もある。研究テーマを出すときに考えていることを表現するけれど、しょぼい事しか考えていない自分を重し知らされることは何度もある。同僚に話を向けても同意されるから、たぶん多くの人に当てはまる真実なのだろう。人はそういうクセを持っているようだ。

 当然、ブログのアイディアも同じ。書こうかなと思ったとき、至極のテーマを思いついたと感じるが、こうやってメモを取りはじめると馬脚を表してしまう。なんてことはない、そういう当たり前のことが起きているだけなのだ。

 どんな人でもそうなのかと疑問に思うが、同じだろう人が多い反面、書くものが全部面白いという人もいるようだ。ぼくが好きなブロガーや作家は、一時多くの作品を継続的に発表し続けることがある。ブログはほぼ毎日更新されている。それでいて、結構面白いことが多い。不思議としか言いようがない。ブログの内容は思いつきを書き連ねているだけではなく、結構な調べがあったりして、どうして毎日こんな品質の高いものを出せるのか不思議になる。こりゃおれがいくら練習しても追いつけまい。多くの人は想感じるだろう。

 日本語の善し悪しは、論理構築能力の明確さ、そのスピード、たとえ話の引き出しの多さ、そしてなにより日本語のリズムの良さで決まる。これらが多い人はその書くものも面白い。当たり前である。作家としての評価にはこれら以外の価値軸もあろうが、ブロガーとしてならばこれらの指標で十分評価できる。全部をクリアできるブロガーなどほとんどお見受けできない(もちろん、全ての条件をクリアーする人もいる)。日本語については、物を書くことを仕事としてやっている人ならば大きな問題はない。当然だろう。一方で、ぼくを初めとした素人は、読みやすさのレベルでつまずいてしまう。

 アイディアの面白さと文章、両方のレベルをあげるには何をすればいいのか。書店には文章作法や分かりやすさの本は並んでいるが、そもそも面白く為の本はない。その理由は、そもそも面白いことを書く作家がそういう本を書かないのか、あるいは面白いことを書く作家さんであってもなぜ書けるのかわからない、表現できないからであろう。

 作家塩野七生さんのエッセイに、息子さんの書いた文章についてのコメントがあった。売り物にはならない理由は、文章が下手だとか内容がまずいとかいうことではなく、読者へのちょっとしたサービスがないからだということだ。編集者が付いて教え込めばなんとかなるだろうと。

 売れる文章との違いは、日本語がどうのこうのという問題ではなく、もっと微妙なレベルでの差になるのだろう。確かにプロの言葉である。

 ふぅ。素人がどうがんばったところで、まともな文章は書けないのかも知れない。しかし、それでもことあるごとに書いては読み、書いては読みを繰り返すよりない。目的はプロになることではないのだから。単調な繰り返しであっても、「気づき」を求めて自分を知覚していれば何かわかるようになるかもしれないではないか。

 要するに、コツなんてのはないのデはないかという話である。

2010.02.07

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パリ11区にある公園にて

たまたまそうなったこと


 ハイビジョン大画面テレビを見るようになって、自然に関する番組に感心をもつようになった。クイズや温暖化不安を煽るような番組ではなく、早朝や深夜に「つなぎ」として放映している「フィラー番組」が気に入っている。そこにはナレーションはなく、単に自然を撮影し、心地よい音楽が付いているだけ。人の意図などが見えにくいので、なんだかほっとするのである。

 今日も「樹海」という番組を眺めていた。富士樹海の動植物をハイビジョン撮影しただけのもの。雲や日光が時々刻々変化するので時間が過ぎていくことを感じる。字幕などで情報が提示されないのがよい。画面に登場する植物は知らないものが多いけれど、それは都会で育った人ならば仕方ない。知らないがゆえに、名も知らぬ花がキレイだったりして、ちょっと驚く。植物について勉強してからこの番組をみると楽しいだろうな。そんなことを考える。

 「樹海」で鳥の子育ての映像があった。鳥の名前は知らない。巣の中に何匹がいるヒナにせっせと餌をあげている親鳥。よくある光景である。ヒナは巣の入り口に向けて口を開け、ピーピー鳴くことしかしない(できない)。親鳥がやってきて、餌をヒナのどれかの口に餌を放り込む。編集のせいかもしれないが、4,5匹いるひなのうち餌を貰えているのはつねに入り口付近にいる2匹で、回数は圧倒的に多いようだ。あれ?と思った。親鳥はたまにしか映らない奥にいるヒナにも餌をあげているのだろうか。もし、順繰りに餌をあげているとしたら、親鳥は誰に餌をあげたか記憶しているはずで、しかもローテーションを「意図的」に行っているはず。それにはかなり高度な知能が必要になる気がする。映像を見ているうちに、次はどのひなの口に餌を入れるのか気になっていたが、入り口付近の2匹ばかりが餌を食べていた。

 動物は発育の弱い子供を捨て、強い子供を育てるという行動を本能的にするものだと思っていた。いや、そう教わったのかもしれない。生まれたときに成長の度合いが他と較べて遅かったり、なんらかの障害があったりすると育ててもらえない。いわゆる弱肉強食のルールは成長過程にもある。そう思ってこのひな鳥の餌について眺めていたのだが、どうやらぼくには勘違いがあったようだ。つまり、親鳥は子供の生育状況を見て育てるか育てないかを「判断」するわけではないようだ。たまたま卵の位置が入り口に近いところにあり、そこで孵化して口を開けたら餌が貰えたというだけなのだ。餌が多く貰えるのは場所の偶然であって、発育は関係ない。 餌が貰えるか貰えないか。それはヒナに理由(責任)があるわけではない。卵があった場所という「偶然」が決めているのだ。奥にあった卵は餌が貰えないから、成長が遅くなって、結果的に死んでいく。つまり、生か死かを決める理由に因果があるのではなく、「たまだま」なのだ。

 なるほど。これが「不条理」というものなのだろう。自分が悪いわけでもないのに、自分が損害を被り、やがて死に追いやられるのに、その理由は「たまたま」でしかないとしたら、なんとも不条理ではないか。人ならば、それでも「なぜ」を問うだろう。どうして自分がそんな目にあわなければならないのかと。何か知らないが、自分には知り得ない理由ために自業自得で損をしたのだ、あるいは、誰か他の人のせいで自分は被害にあったのだと思いたくなるだろう。

 自分が悪いわけではないのになぜ自分がこういう損な目になぜあうのか。その理由を「前世の因果」としたら仏教になるし、「神がそうしたが、それは自分たちを選んだからだ」としたらユダヤ教になる。不条理に耐えられなくて説明を考え出す。おそらく、それが宗教の始まりだろう。どんな人でも不条理な目にあうから、どんな人でも宗教をもつのは当たり前なことなのだ、と理解したらどうだろうか。

 連続殺人事件がときたま発生するが、その被害者は「たまたま」死んだのであって、その人に否があるわけではない。自分に理由がなくとも死んでしまう。巣の奥にいるヒナもこれと同じ状況なわけである。死者は宗教をもつことはないが、一方で被害者を愛おしく思っていた人はひょっとしたら宗教にすがるのかも知れない。やり場のない「どうして、おれが」という気持ちを着地させるために宗教が発明されたのだなとぼくは確信した。

 餌が貰えなかった後ろにいたヒナは、何かを恨みながら死んでいくのだろうか。テレビをみながら、自分はすっかり「被害者」に同情している。自然というのは、個々の出来事については「たまたま」な結果になることが多いが、それを認められない人が宗教に頼るのだろうな。

 そんなことを考えた。

2010.02.01

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雪が降っている風景

雪が積もる


 寒い寒い。寒いはずだよ、雪が積もってる。夜になり車通りが少なくなる。人通りもなくなる。街灯が照す地面に雪が積もっていく。見ているだけで寒くなる風景である。と同時に、不思議と「温かい」気分にもなる。

 東京で育ったぼくとしては、雪は珍しい。走り回りたいような気分がするくらい。とはいえ、小学校や中学校時代にはもっともっと積もったはずだ。雪かきをしたし、等身大の雪だるまも作れた(といっても、小学生の等身大だけど)。

 最近は温暖化で雪が降らなくなった、のではない。単に都市化し、ヒートアイランド化したためである。マンションというコンクリートが立体に積み上がっているのだから。

 今はそんなことを言いたいのではない。雪が降った夜に感じる「深々と」した味わいについて。どうして、寒いけれど静謐な気分になるのか。降りしきる雪を見ているとなんだか詩でも浮かんできそうな気分になる(が、実際には浮かんでは来ない)。

 それにはいくつか理由が挙げられる。雪による消音効果、あるいは非日常性などか。雪が音を和らげる(ような気がする)ので気分が穏やかになる(本当か)。都心が静かになることは稀なので、それも含めて「非日常」的な世界に囲まれてしまったことによる興奮があるかもしれない。雪は気分を穏やかにし、同時に気分を高揚とさせるわけだ。両方の効果を足したらゼロになるような気もするが、実際はそうはならない。反対の効果を与えるものを足すと、なんだか不思議な環境が生まれるようだ。

 この効果を確認するには、雪が降った日に、都心に住む人のブログエントリーが増加するかを見ればいい。一つの指標になるだろう。携帯電話の通話が増加するかでもいい。きっと多くの人が誰かに何かを話したくなるはずだ。なるほど、そんなことをしてみたいが、残念ながらぼくにはその方法がわからない。知りたいものである。

 などと、なんの役にも立たないことを考えつつ、布団に入る。やっぱり暖かいのが一番である。自分には部屋があって良かった。縄文人でなくて良かった。そう思う。