2010.01.31

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ローマ郊外でみた窓辺のゼラニウム

カラスの散髪屋


 自室のベランダにゼラニウムの花を3鉢ばかり置いている。イタリアなどでは外から見えるようにベランダから道側に鉢をつるしたり置いたりしているが、家ではその逆で、部屋から花が見えるようになっている。日当たりを稼ぐために床から持ち上げようとしたらそうなった。

 赤いゼラニウムは一年を通して花をつけてくれる。ソファーにもたれてベランダから外をぼんやりと見ようとすると自然に花を眺めてしまう。日光に当たるとゼラニウムの朱色は発色して輝く。よくまぁ、たいして土も肥料もない鉢なのに育つものだなと感心する。

 奥さんの話では、最近カラスがやってきてベランダにとまり、ゼラニウムの花を突っつくそうだ。そのせいで花が落ちてしまうとぼやいている。しかも花がないときは大きめの葉っぱを突っつくので腹立たしいと。

 昆虫がいるわけでもないので、何かを食べているのではない。遊んでいるのだろうか。そういえば、最近花があまりないなと感じていたが、カラスのせいなのか。そう思ってまじまじとみると、3鉢ともに背丈がキレイに揃っている。まるで散髪をしてもらった後のようだ。

 別の場所にゼラニウムがもう一鉢ある。こちらは背丈が伸びて花もたくさん付いている。場所的にカラスは近寄れないところにある。なるほど、だからこちらは伸び放題なのかとわかった。日当たりが良い場所はカラスに散髪されるが、日当たりの良くないほうはむしろ伸びるというわけだ。

 春になると花がキレイになる。鉢植えならばそろそろ準備を始める頃なのだが、今年はどうしようかと思案する。カラス対策をしないといけないのか。とまぁ、なんだか平穏な日曜日が過ぎていく。

2010.01.29

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授業でつかうKeynoteファイル

授業の準備


 来週の月曜日に授業があるので、その準備を始めたところである。授業があるといっても、する方。大学院生が対象の90分だが、受講生は最大二人だし(一人も来ないこともある)、僕とは専門が違う学生さんなので、とりあえずぼくの好きな話をするつもり。アカデミックなことをしゃべってもいいのだが、それではぼくも相手も面白くないだろう。だったらぼくが面白いと思っていることをしゃべれば、相手はどう思うにせよ、少なくともぼくは楽しい。まぁ、それでいいだろう。要するに雑談だ。研究所の中で開催される講義だから講師は研究者であるのだが、いろんな人がいて、しかもぼくのようなレベルが低い?人もいるんだなぁと学生さんが思えば、それはそれで意味があるはず。そう覚悟している。

 内容はデータ処理について。ぼくはある衛星の姿勢決定処理を担当いるため、理論と実際とを知っている。衛星で動作しているソフトウエアも地上に送信されたデータ処理も、どちらもぼくが好き勝手にやっているので、その衛星の姿勢決定についてはぼくが世界で一番知っていると言えるはず。だからといって高度なものではないけれど。とはいえ4年もやっていればデータ処理についていろいろ考える。「こりゃ変だ」とか「ナルホドなぁ」とか、まぁ現場で知り得たことがらは少ないながら持っている。それを講義内容として使わない手はない。

 昔ならば講義の準備はノートを作る事だっただろうが、今はちがう。黒板ではなくノートPCの画面を使って行うことが多い。いわゆる黒板へ書くことはメモ的にしか行わない。経験がないだけに、やれと言われてすぐにできないだろう。今後もそういう機会はないだろう。ところで今の大学や高校ではどうやって授業しているのだろうか、と疑問になる。

 さて、講義の内容。半年の準備時間があったが、結局前日にやるようなものだ。夏休みの宿題と同じになっている。資料を作りながら輪郭線を決めている状態である。ぼやっと考えていたときに「いいな」と思っていたことは、具体的に書きだしてみると「もうひとつ」だとわかることが結構ある。思ったよりも貧弱なのだ。だから資料を作りながら路線変更をしたり、新しいアイディアを探したりする。作っていくうちに考えていたものとは違うものになったりする。結末を決めないで書きはじめる小説家も結構いるらしく、どうなるのかわからない展開を書きながら楽しむことがあるそうだが、ぼくもそういう口だなと思う。この講義内容も、ちゃんと着地させることができるのかどうか。自分でも楽しみである。

2010.01.28

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My定盤の上で部品加工

活動記録に変えてみる


 日々の作業について少し記録してみようと思う。これまでは日記ではなくエッセイの練習をしようと、あれこれ考察したことをブログにつけていたが、それを続けていても書く量は少ないから文章の上達には遠いなと判断したから。ならば今度は、頭の中での出来事とは別に毎日の生活のなかで自分が行動したことや見たことを断片的でいいので「記録する」ことを試みる。これはこれで実験だから、うまくいくかどうかはわからない。

 ささやかなものだけど、研究のアイディアを実証ために小さな装置を試作している。研究所の中で自作することなど異端な行動で、あまり良い目で見られないのだが、なかには会議に飽き飽きしている人もいて、そういう人は不思議な顔で活動を見ている。

 予算額が大きな研究は、基本的にチームで行うことになり、具体的な活動は「発注作業」になる。装置などは「作ってもらう」のだ。もちろん、そんなことは当たり前だから、言葉で表現するとしても「我々は設計したが製作は指示した」という。工場がないから当然だという同意が研究所にはある。考える人が高級で高給であるというのだ。ところが実際に作る人でないかぎり「加工図面」なんてひけないから、具体的に何をやっているのか心もとない。「よろしく」と言っているだけだとぼくは思っている。要するに、何もやっていないのである。

 そういう研究活動と決別してみようと思い、材料のレベルから購入し、加工と組立までを含めて自分でやってみることにした。もう2年になる。当然装置は上手にできないから発注したものよりも見劣りする。しかし、一度失敗すると身にしみるし、失敗しそうなところに注意が向くようになる。他人の作ったものの「見る場所」が変化してくる。「どうやったのだろうか」と、表面的なことではなく、工具や手順などにも注意が向くようになる。この充実感と安心感はかなり精神衛生的にも都合がよい。

 もう2ヶ月で現在試作中の装置を完成させようと活動している。完成が待ち遠しいな、という素朴な感想になる。完成が送れるとしたら、それは自分の作業遅れ以外に理由はない。そこがまた面白い。

2010.01.09

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オルセー美術館で本物を目の当たりに

美術ってなによ


 美術に興味をもったのは大人になってからである。「教養」として身に付けようと思ったわけではなく、テレビ東京の「美の巨人達」という番組を気に入ってみているうちに自分でも美術館博物館に足を運ぶようになり、遅まきながら美術をもとめて海外旅行へも行くようになってしまった。いわゆる「本物」をみたわけで、なまじ美術に対して免疫がないぶん「すごいもんだ、キレイなもんなんだなぁ」とすっかり感心したことがきっかけだった。いい歳したオジサンなのにずいぶんとナイーブなものだが、ぼくのような反応をしてしまった人は結構いるんじゃないかと思っている。

 小学校からはじまる学校教育での美術の授業にとくに感心を持ったことはない。ふつうそうだろうと思うが、美術は工作とセットで実施されることが多く、男子は工作のほうが好きだったはずで、そっちの思い出しかない。絵を見ることが面白いはずないし、かっこよくもない。乗り物とヒーローに関係がないなら子供の興味を引くことはない。

 美術との関わりを子供にまかせてしまうと、ほとんどの人はそういう形で大人になっていくだろう。それは必然的な結果とすら言える。なにせ美術は生存に直接し関係ないのだから。もっとも、そうだからこそ美術は「文化」なのである。美術について理解を持つためには、個人的な興味以前に、その人が生きている環境に「美術が普通に存在」している必要があり、それは親や住んでいる街の住人がどういう人かに大いに関係するのである。フィレンツェやパリで育った人とインドや東京に育った人では、西洋美術に対する感覚が同じはずないではないか。もっとも、江戸期の日本には美術があったし、インドでもそうだっただろう。環境が感覚を支配している。ふつうの生活に美術は溶け込んでいるはずで、別の世界の人から見ると美術が発見されるのである。

 東京育ちで厄介なところは、美術を感覚的なものだと考えないで「象徴」としてとらえてしまうところである。例えばルイビトンのバック。形や色合いや素材を愛でる気持ちが理由でバックを身に付けるわけではなく、「私はルイビトンを身に付けるにふさわしい人なのだ」という主張をするために、ある種の論理的な帰結から身に付ける人が圧倒的だ。感覚ではなく論理である。感覚に訴えるファッションですら論理的な行動結果になるのは別にブランドを欲する女性ばかりではなく、男女や年齢を問わない。自分のあるべき位置を示す象徴、あるいは知識の有無を規則学問の一つとして美術を身に付ける人全員に言える。

 こんな生活環境では美術を好きになる人が増えるはずはないと思う。自己主張をする方法はどれもこれも緊張を強いる面倒くさいものだ。できれば避けたいと本音では思うはずだ。気づかないと美術も一緒に消えてしまうのである。

 しかし、なぜ義務教育にあるのだろうか。学習指導要領には役所的な説明があるだろうが、ぼくなりに存在理由を考えるとすればこうなる。社会生活の中では気づかれないかもしれない種類の「感情」の存在と、その感情を上手に使うことで生活を「良きもの」にできる可能性を追求するため。どうせ生きていくのならば楽しい方がいいし、そのための工夫としての美術は人類誕生のころからあったはずだから、これからも伝えていきましょうというものだ。

 美術は人の感情や気持ちを制御するための一つの工夫であったはず。しかし今では、普通の人は自己主張のための道具としての教養の一つとして捕らえ、本音としてはいらないものと考えているというのが今の美術の扱われ方だと思う。逆説だが、そういう環境で生きていたら、美術の意味を知る事なく死んでいくことになり、結局何も伝承されず、要するに美術はその地域、社会では絶滅することになる。

 もしも美術が本当に生存に必要がないものならば、原始の社会における洞窟の壁画などはなぜ存在したのだろうか。古代から中世、近代にいたるまで人類の残したものには必ず美術をまとっているのはなぜなのだろうか。生存という言葉が文字通りの意味で使われてきた時代、社会においても美術は存在した。ならば、現代人が思っているほど美術は生存に関係がないものではないだろう。単なる見栄の問題として扱うものではない。とはいえ、実際問題、展覧会で観賞し「いいなぁ」と思うだけならば生存に必要だとはゆめゆめ思えないという考えも全く的を得ている。

 美術は道具ではない。味なのである。味のない食べ物は食べたくない。人はそうなっているものである。同じように美術のない物はつまらない。栄養がなくとも味をとることがあるように、効用がなくともキレイなもの生きなものをとることがあるのである。人はそうなっているから仕方がない。

 美術好き、といってもぼくは観賞家ではもなく、評論家でもない。その意味で「素人」である。ただし、美術は技術とちがうので、訓練を積まないとわからないというたぐいのものではない。見る側に断つだけならば、なんの修業も必要ない。むしろ、何も知らないほうがいいだろう。必要なのは自分が感じたことを「あ、感じているなぁ」と自覚できることである。これは「教えようがない」ものである。一方で、美術を愛でるにやってはいけないことがある。それは絵を画像情報として記憶することや解釈すること。学校の勉強ではないし、ましてはテストに備える必要はない。

 美術の効用があるとしたら、それはおいしいご飯と同じである。キレイなものを愛でる目的は、結局は感情を沸き上がらせ、それに満足するだけである。ちょうどおいしいものを食べるのは味覚を満足させることを目的としているのと同じである。感じたらそれで終わりなのである。あとに何かが残るわけではない。

 そうか、それだけなんだ。それに気がついて初めて、なるほど美術は教養ではなく、たんなる道楽であり、美術が好きだというのは酒が好きだというのとなんら変わりがないことなのかとわかった。知識としてではなく、味わうことで初めて自分のものになるのだ。味わって終わりなのだ。

 そんな気づきのあと、美術館へ行くのは映画感へ行くようなものだと考え、決して教養のためでも勉強のためでもないと言い聞かしている。子供の頃からの刷り込みから駄客するのはなかなか難しいから、意図して思い込みを怖さにといけない。美術を見に出掛ける=お気に入りの喫茶店へ行く、なのだ。ならば、コーヒーを飲んで美味いなぁと思えばそれで終わりというこいうと同じで、絵を見ていいなぁと思えば終わりなのである。

 なんでもそうだが、観賞するようになると、自分でもやってみたくなるものである。美術的な物が好きになったら自分でもやってみたくなる。ただ、普通の人は作品を作る機会もないしその必然もない。できるのは、ノートを書くときとかメモを書くときか、報告書や論文を書くときくらいであるのだが。そこでブログの登場ということいなる。 

2010.01.01

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九州行きの飛行機から見えた富士山

自分への配役


 自分の素の姿をそのまま受け入れると、いろんな意味で面倒がない。遅ればせながらそんなことに気がついた。

 俺ってこんな人のはず。美学とまではいかなくも、どんな人でも「おれってこういう人だろう」というイメージをもっている。そしてほぼ全員が「そういう人」ではない。そんな自分に少なからずイライラし、つまらない心労を背負ってしまう。なんの必然もないストレスをわざわざ自分で生みだし自分で苦しむわけである。

 しかし、そもそも自分が抱く「こうう人」というイメージになんの物理的な根拠も生物学的な必然もない。つまりそのイメージは自分を観察した結果ではなく、ある種の空想なのである。

 だからー、と立ち止まって考える。考えてみれば不思議なことだろう。なぜ生物個体としての自分自身を頭の中でこしらえたイメージに一致させようとするのだろうか。こうありたいなどと考えるのはなぜなのか。

 自分が抱く「あるべき姿」のイメージを全て無視すると、心労のかなりの部分は消えてなくなるものである。なぜなら心労の大半は、そのあるべき姿と現実の自分とのギャップに腹が立つことが原因だから。はっきりとそう意識しないまでも、他人がそうしている。その姿を見ているうちに「そうすることが当たり前だ」と刷り込まれてしまい、自然とそう考え、そう行動してしまうのかもしれない。

 努力してもこの心労はなくならない。なぜなら努力しても思った通りになるわけではないから。自分自身を変化させることはたいていできない。そもそも自分というものを自分で監視できないので、自分とはどういうものなのかを自分で把握できない。今の自分がどういう状態なのかを知りえないならば「こうなりたい」という状態へと変化させる方法はない。となれば、ギャップを埋める努力はとんちんかんなものに成らざるを得ない。要するに、そこにつぎ込む苦労とストレスは、そもそもからして報われない構造になっている。

 自分の有り様は変えなくていいと思っているが、それは努力全般を否定しているわけではない。努力して意味がある場合とない場合があり、ない場合は止めようと言っているにすぎない。現状把握が正しくできれば、努力には具体的な効果がある。まったく当たり前のことなのだが、多くの人はそのことを見て見ぬ振りをする。ぼくもそうだった。思い描く自分になるには努力するよりないし、そうならないのは努力が足りないからだと思ってしまうものである。

 現実は考えた通りに動かないことが多い。考えた通りにならないのは、その考えが間違っているからである。それを認めるかどうか。それは科学以前と科学以後のどちらに生きるのかを問われているようなものである。やってみたこと(実験)がうまくいかないのは考え(仮説)がダメだったというわけだ。その場合、仮説を捨てるのが科学だが、なかなか多くの人がそれをできない。

 どうやったら自分を変えられるのか。こんなことはわかり得ない。人は千差万別であり、その人が生きている環境も千差万別ならば、方法だって千差万別。ということは、「これ」という方法を不特定多数の人に向けて発することはできない。

 ところが多くの人は「それが可能だ」と思っているし、精神科医やセラピストあるいは宗教家などは「それは可能だ」と言うだろう。たしかに、それは「ある条件では本当だった」といえることがあるかも知れないが、通販で売られているダイエットやサプリメント製品のように「本人の感想です」という注釈を付けない限り嘘である。変えようとしている対象そのものを言葉で表現しつくすことができないならば、表現できないものを変化前後で比較することもできない。もし自分を言葉で表現できなければ、どうして「自分が変わった」と言えるのだろうか。

 学校選び、仕事選び、役割選び。こういったものは自分への配役だと思えば良い。努力して自分が好きな役割を獲得しようとする。そして、思った役割を得られないで終わる。よくあることである。ここで生まれる心労は、努力したのに報われないという怒りである。世の中はこの種の怒りで満ちている。

 しかし、本人は納得していない配役であっても、無関係の人からみると妥当だと感じるものは少なくない。面白いことである。利害関係にない人からみると「なるほどなぁ」という配置だったりする。自然に決まったような場合はとくにそう。結果的に成功した集団は大抵そういう布陣になっている。

 キャリアの扉にはこちら側にノブは付いていない。そんな意味のことを内田樹さんのブログで読んだことがある。就活をしている学生さんに向けたメッセージなのだが、これはなにも就活だけに当てはまる内容ではない。社会での配役にはほとんど通用する考え方なのではないかと思っている。