2009.11.23

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ラ チッタデッラの路上アートと落ち葉

マドンナーロ


 1年半ぶりにマドンナーロさんにお会いした。前回は2008年の3月、京都駅近くのショッピングセンターで描いていらっしゃるところに出掛けて行った。今回は川崎だそうだ。例によって、nakayamaさんという方からメールを頂いた。感謝感謝。

 今日は路上アートパフォーマンスの最終日。一連の路上画は残っているだろうか。そして最後の一枚に取りかかっているだろうけど、雨の影響なんかはなかったのか。夕暮れ前にちょっとだけ覗くことしか時間的に難しそうなので、マドンナーロさんもお忙しい時間帯であろうから、ちょっとだけ挨拶して帰ればいいやと考えて川崎の駅を降りた。

 会場はLinkIconラ・チッタデッラなんとかというショッピングモールのようなところらしい。駅まで行きゃわかるだろうと思って、方角だけ検討つけて歩き出した。看板があったので迷わずたどり着けた。川崎に初めて降りたのだけど、なんだか地方都市のような雰囲気がする。水戸や仙台の街を思い起こした。

 モールの一角で路上画を描いているLinkIconTOMOさんを発見、そばに立って描いていく様子を見ていた。不思議である。路面にチョークで下書きしてある線の内部にパステルやチョークを置いていく。手でこする。はけでぼやかしてみる。あれこれやっていると絵の一部が立ち上がってくる。どんな名画であっても人が描いたはずである。あまりに名画だと人が描いているところを想像できないのだけど、目の前でチョークをつかって5分もすると一部ができ上がってくるのを見ていれば、なるほど絵は人間が描いているのだとつくづく納得する。

 ぼくはこのアート・パフォーマンスが好きである。というのは、描いている途中をよく見て、自分でやっているかのような想像をし、できれば腕や指に伝わる感触を感じているかのようなフリをし、そして下書きから完成までの絵の変化を頭にたたき込むのである。メンタルリハーサルというやつだ。「じゃぁ、お前、やってみろよ」と言われて「いいですよ」と言い返すために。いや、そんな機会はないだろうし、あってもできはしないのだろうけど、物事は「自分の番がやってくるからその準備」という視点で観察すると、大変面白いのである。

 最近読んだ本にこんな一説があった。それを思い出した。

 私は(中略)仕事の実力を過信している父のようにも、議員時代の余光を引きずっている祖父のようにもなるつもりはなかった。(中略)年齢とともに成熟し、磨きがかかってくるような技能、あるいは文学、芸術に関わる未来を選べばいいー(初野晴『初恋ソムリエ』)

 人の手からわき出てくる路上画、しかもなんの変哲もなさそうなチョークからこんな絵が生み出されているところに立ち会ってしまうと、「おれも芸術家を目指しゃよかったな」などと思ってしまう。ダメだっただろうけどね。

 屋外での作業は日没とともに終了しなければならない。もう10分もすると暗くなるだろう。一応TOMoさんに挨拶をして、今回描かれた作品を見て回り帰途についた。

 音楽でも美術でも、それで生きていくには大変なことなのだけど、それでもなんとか生きていける目処を立てられれば、普通のサラリーマンなんて阿呆臭く見えるだろうなぁ。いや、それは隣の芝生なのだろうか。

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2009.11.14

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近所の神社

メモとりの心理的変化


 メモをとるのが楽なっている。あれっと思った。これまでは、あぁメモしたいなぁ、やらなきゃなぁ、あぁ、どっこいしょと。そう自分に言い聞かさなければならなかったのだが、今は自然と文字を入力している。文章が苦手という人ならばわかるだろうが、そもそも入力という行為からして忌避してしまうのだ。そうだったのだが、今は身構えなしでスタートできる。これも、こうやってブログを付けはじめた効果であろう。ただ、変化を体感するには実に数年かかってしまったから効率は悪い方法ではある。

 メモはメモというレベルであって、単純な内容でしかない。込み入った内容を含んでいない。込み入っていないので、箇条書きのようなものもあるし、図まで入ったりする。いわゆるノートに書く程度のことである。だから「文章を書くのが楽になった」とは言えない。文章の上手下手の変化はもっと時間がかかるのだろう。

 何言っているんだ。そんなことたぁ誰だってやってる、何を今更。そう感じる人もけっこういるだろう。社会で働く人のほとんどはそう言うかもしれない。

 世の中には「記憶してしまった」ほうが面倒がないと思い、メモする必要なんかないよ、それくらい憶えていられるよ、ということでメモを取らない人がいる。面倒なことしなくても、面白ければ憶えているし、つまらなければ何やっても忘れてしまうよ。そういう発想である。これまでのぼくはそうだった。だから、メモをとるという行為が妙に新鮮なのだろう。

 メモ書きについてそこまで持ち上げる理由は、それが愉快な作業だからである。ある意味好きにイラストを書いたりするのと同じのりで作業できることに気がついたからである。

 メモと他の文書類、たとえば報告書や論文はまったく違うものである。ぼくも職業柄論文などを書く機会があり、すくなくとも後者の文書の形式についてはある程度知っている。知ってはいるがあまり書きたくない。そういう文章書きは時間がかかるので、あまり気が進まないし、無理に書いたところであまり面白くないものならないからだ。

 文章を書いていた動機は、そうしなければならなかったからである。だから書いたものを褒められた経験はほとんどない。ワープロをたたきはじめるとなかなか進まなかった。どうしてこんなに苦しいのだろうかと自己分析するに、要するに言葉を書くことに緊張してしまい、考えるという行為が追いついていかなったからだと思っている。文章を書いているうちに、何を考えていたのか忘れてしまうことも多々あり、しまいには何をやっているのか自分で道に迷ってしまっていたのである。これじゃぁ、文章どころからメモを取ることすら楽しいはずはないだろう。

 最近はそれが苦にならない。それどころか、考えていることをまとめることはそれなりに意味がある行為に思える。だから楽しい。一体どういった風の吹き回しなのだろうか。頭は都市を取るにつれ回転が鈍くなるのだし、コンピュータのスキルはずいぶんと昔に止まったままだ。となれば、変化があるとすれば、言葉をつむぐ労力が軽くなったことにあるはずだ。そもそも、書かなくてもよい文章をこうして書いているのだからずいぶんと自分が変化したじゃないかと思う。ぼくがそういう気分になれたということは、大抵の人ならばできるようになるということでもあろう。

 気軽にメモを付けられるようになった最大の理由はこのブログを付けるようにしたことだろう。ほかにない。あるわけない。こうして必要もないのに言葉を書く訓練をしているのだから、それが何年分か積み重なればそれなりの変化はある。変わらないわけがない。一体だれが読むんだろうというブログは、こうして自分に大きな意味を持っていたのである。

 もちろん、だからといって面白いものがでてくるはずはない。いろいろと批判にさらされないと良いものは生まれないのはわかるが、好き好んで非難されることもないだろう。言葉のプロではないのだから、そんなことは気にする必要は全くない。あるわけない。ぼくの場合は、書いてみたいから書く、ということが許される素敵なポジションにいる。素人の人ほど、言葉を紡ぐ練習の機会を無理にでもつくったほうがよい。そうすることで、上手な人の文章というものがいかにスゴイことなのか、好き嫌いを越えての視点を得る事ができるから。

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2009.11.12

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持て余す理由


 なんだかんだでぼくはPCを8台浸かっている。べつに自慢ではない。それぞれ理由があって置いているのだから。全て新品ではない。ネットで中古を買ったものもある。

 着ないだろう洋服を買ったり、読めないとわかっているのに本を買ったりするのと同じなのか。他人から見るとそうかもしれない。パソコンは一台でいろいろできるところがよいのだから。しかし、それらとは違う動議がある。

 一台で何役もこなせるからパソコンはスゴイ。これが昔のPCの売り文句だった。が、あまりそう言われない。結局、メールとウェッブと年賀状印刷マシンである。目的が絞られてきたのである。ぼくはもっと面倒な状況になって、結局のところ使う場面ごとに一台準備したのだ。機械を制御するPC、CADマシン、プログラム用、試験装置操作用。これらを一台でこなすと非常に面倒なことになるのだ。

 最近のパソコンの性能は不必要なくらいスゴイから、一昔前のDELLを購入すればことたりることが多い。もう使わなくなったけど捨てる必要がないものが売りにでてて、いいなと思うと買ってしまう。するとPCが増える。なんだ、洋服集めと同じじゃないか。

 ついつい買ってしまう理由は物欲だけではない。自分の能力の過大評価がある。

 あれもこれもやりたい。できるだろうから買ってしまおう。が、買ったはいいがいまいち時間がなく、思ったようには使えない。インストールまではしてあるが、すっと電源を入れてないというパソコンも残念ながある。自分の能力を過大評価していたことが理由なのだ。これは靴集めと同じ動機とは微妙に違うと思っている。ただし、死蔵するパソコンはほとんどない。たいていは半年もするとそれなりに稼働するチャンスを見つけることができる。だから、無駄遣いでは結果的にはない。ただ少し早く買ってしまったというだけである。

 おれってもっとできんだろうな。そう思っていたのは「勘違い」だった。無駄遣いの原因の一つだとわかった。昔ならば適当な言い訳を考えたものだが、今では素直に「見積もりの誤り」を認めてしまう。自分が思っているほど自分ができる範囲は広くなかったです。すみません。結果的には無駄になりませんでしたが、無駄使いに成った可能性も大きかったです。そう反省することも多い。

 これは別にパソコンに限ったことではない。ぼくの場合は本の買いすぎという悪癖がある。このクセも自分の読書能力を買いかぶりすぎているからだろう。思ったほどぼくは本が読めないのに、本好きなんだなと自分で勘違いして、結果的に買いすぎてしまう。

 バイキング(ビュッフェ)で取りすぎて残すような失敗はだれでも一度はやるものである。最初の一回は「自分の食べられる量」の見積もりの失敗である。しかし2回目以降同じことをやったとしたら、それは欲張りなだけである。ならば本もPCも買いすぎは一回目の反省は許されるだろう。しかし2回目以後は許されない。たんなる愚か者である。

 今こうして文章を書いているMacの机には両隣と奥に本がうずたかく積まれている。マウスを動かすスペースはない。USBメモリも指すほどの空きスペースはない。どうして、こうもう本を買いすぎてしまったのだろうか。ため息がある。これは愚か者なのだろうか。

 半分イエスである。しかし、本を買うそもそもの理由は「もっと勉強したいなぁ」という衝動である。それはそれで「良い事」だと思う。映画を見て楽しみたいという意味で買う本よろりも、こんなことを勉強してみたいなと思って買った本。その様子は京都市内を囲む山のように積まれている。

 そもそも理由はむしろ立派なものだが、まぁ、自分を考えよということか。

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2009.11.10

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それは宗教かも ABCによる判定方法


 The Lost Symbolを読んでいる。ダン・ブラウンの最新作。なにはさておき、早く読みたい。年末頃に翻訳がでるだろうか。待っているのはちょっとしんどい。ならば挑戦的だがぶ厚い洋書で読みはじめてしまえ。

 さすがはダウンブラウン。洋書であることをすっかりと忘れ、先へ先へとイメージを追いかけ、気分が高揚する。わからない単語などジャンプしちゃえ。ちょっとくらい意味がとれなくてもいいし、あるいは一,2回読みかえして先に進む。意外にそれでなんとかなる。と思うようになった。

 英語を勉強しておいて良かったと思う。といってもかろうじて話が追える程度のものだが、それでも本文が面白ければぐいぐいと引き込まれるから楽しい。楽しむためのツールとして僕の英語力は十分使えている。

 この本の内容については全く紹介するつもりはない。そりゃそうだ。これはミステリーなんだから。だから本筋とはあまり関係がないところを話題にしてみる。

 宗教とはなにか。こんなことに対するダン・ブラウンの見解がわかる。ダン・ブラウンの興味が何処にあるのかが垣間見えてくるのだ。

 宗教と政治の話をパーティーでするなと言われている。こんなことは語り出すと面倒になる。楽しむはずのパーティーがケンカ別れになるからである。他人と気持ちを共有うることが難しい話題なのである。人の好き好きは違うものだが、こんなにまで感情がこじれるのかと呆れることもある。

 だから少し次元をあげて考えてみる。「なにが宗教と呼べるのか」。この判断基準としてABCという名称で呼ばれものがある。三つの条件がそろえば、それがなんと言われて言うようと「宗教」なのだそうだ。ラングドン教授がThe Lost Symbolの中で語っている。

 ABCで表現できる条件とはこうである。Assure(救済を保証する)、Belive(理論・教義を信じさせる)、Convert(その人を勧誘して信者に変えようとする)。

 どんなものでも人の活動がこの三つの性質を持つものは『宗教』である。

 なるほどなぁ。新興宗教かどうかという対外的な集団名称とは無関係に、ABCの三つが見受けられた注意すればいいのか。それはサークルかもしれないし、研究会かもしれないし、同好会かもしれないし、町内会なんてのもあるかもしれない。あるいは、ある種の会社の部署という形かもしれない。

 ミステリーを読んでいるだけなのに、勉強になってしまうとは。

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2009.11.08

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マンガミュージアム広場の恐るべき風景。みなマンガを読んでいる。

内田樹・養老孟司対談『世界に冠絶する日本のマンガ』


 内田樹さんと養老孟司さんの対談『世界に冠絶する日本のマンガ』を聞きに京都へ行った。京都は遠い。新幹線の往復2人で5万はかかる。そんなにお金をかけてまで行かなければならんのか、とも一瞬思ったのが、もう講演を聴くチャンスがないということなので決断した。スゴイ赤字だ。費用はかさむがせっかくだから嫁さんも一緒に連れて行った。

 内田樹さんは一般向けの講演のたぐいを今年一杯で止めると宣言している。来年が大学で過ごせる最後の年だから出張のようなものはしたくないのだそうだ。1月以降のスケジュールは入ってないと。有名作家になりたいわけでもないから本が売れる必要もないのだろう。すでに悠々自適モードなのだそうだ。大学の教官というものは、是非ともそうあってほしい。どの道偉い先生は自分の手で研究をやることはない。ならば、自分でやらない人は退官後自由に何かをやっててもらいたいものである。内田樹さんのような人は少ないし、ぼくもそういう人生を歩みたい。それならば講演会がなくなっても仕方がない。

 対談の会場はマンガミュージアムということで、どんなところなのだろうかと思っていたが、市内の廃校になった小学校を階層してマンガを並べた図書館のようなところだった。ただ、配架されている蔵書が全部マンガである。マンガの数は思ったほど多くはなかった。それでも自由に引っ張りだして好きなところで読めるのはありがたい。公立の図書館ではないから数百円の入場料を払う必要がある。これだとマンガ喫茶とかブックオフの方がいいんじゃないかなとも考えたが、いやいやスゴイ盛況ぶりである。

 養老孟司さんによれば、これだけ真剣に本を読んでいる人がいる図書館は世界にないそうだ。というのは、うるさくしてもだれも注意しないから。普通の図書館でうるさくすると注意されるのは、読んでいる人はみな「実は読みたくないから」なのだそうだ。本が面白かったら他人のことなど気にはならない。

 講演は1時間半で終わった。楽しいものだった。内田樹さんを初めて生で見て、その話し方を聴いてうれしかった。なるほど、こんなふうに面白い話をされる人なのかと。こんな先生に教わっている学生さんたちがうらやましいなという気分になった。また青年に戻って大学へ行けといわれたら自分の出身校へ行くけどね。

 夕飯。京都で思い出のある百万遍の串八でご飯を食べて、MKタクシーで駅まで戻って新幹線で帰京した。東京駅前に自転車を止めておいたのだが、撤去されることもなく、それに乗って空いている日本橋を通ってスムーズに帰った。

 結構お金を使ったけれど、高価な物よりも「大切」に扱わなければならない記憶をもった気分である。お金の使い方として、決して悪いものではなかったと思う。

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2009.11.03

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ビバ・おれんち 人形町散歩


 近所に住んでいるわりに散策をほとんどしたことがない人形町をぶらぶらしてみた。観光地というほどの呼び物はないが、観光地っぽい商店街がある小さな街である。芝居をやっている明治座や戌の日に混みあう水天宮があるくらいで、それ以外の目的でここを歩いている人は近所の人なんだろうと思う。

 ぶらぶらするときには二つのコアとなる店が必要になる。書店と喫茶店。まぁ、そうだろう。何か面白い事はないかなと思いながら店内を歩くことがすでに娯楽であり、疲れたら座ってコーヒーを飲むことも娯楽である。両者ともに(比較的)安上がり。好みのお店が見つかれば、休日のデフォルトの過ごし方として利用できるし、それはそれで幸せが増えていいことだ。

 人形町の街は通りに面したところばかり店があるわけではない。一本裏通りにも老舗があったりする。飲み屋か食べ物が多いので、ハシゴするわけには行かないし、ぶらぶらするときに立ち寄るにはよくないが、いつか入ってみたいなぁと思いながら内部を想像する。そんな楽しみ方しか今は思い浮かばない。

 こんどは初音という甘味処や玉英という親子丼屋に入ってみたい。あるいは、魚久で鯖のかす漬けでも買って帰るかな。新宿や渋谷にはもともと興味がなかったが、最近の嗜好はさらにオジサン化してきたと自覚する。まぁ、それもいいかな。

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2009.11.01

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記憶の中の古本市


 少し寒くなると神保町の古本市が頭に浮かんでくる。毎年この時期に神保町の街で開催される大型の青空古本市である。神保町は頻繁に訪れる街だけど、少し寒い程度の時期が一番ぶらぶらしやすい。これからが古本巡りの時期かなと思ったりする。

 スズラン通りという靖国通りから一本入った裏通りでは商店街の人がワゴンを出している。本ばかりではなく、それぞれのお店の商品をワゴン販売しているので、雰囲気は模擬店でにぎわうお祭り会場のようなもの。季節は秋なので、学園祭ようなものかもしれない。人が多いのでワゴン商品を物色するのも結構面倒である。

 毎年この古本市で購入する本はさほどない。古書会館下の広場はわりと面白いものがあるので、そこを中心に物色する。あとは芳賀書店のあたりから書泉グランデまでの靖国通り沿いのワゴンを一つ一つ覗きながら歩く。偶然いいものがあることもないとは言えない。
ここへは物を買いに来るというよりも、雰囲気を楽しみにぶらぶらしに来るのである。そういう人、結構いるのではないかと思う。

 読まないで積まれている本が自宅でかなり増えてしまっているぼくとしては、さらに古本を購入する理由は「ショッピング」と同じで、最近は少し自省するようにしている。それでも通勤でそれなりの本を読むから積ん読ばかりではない。古本はどちらかというと読むよりも集めることに重きを置いているような気がする。

 好きな雰囲気というものがある。情熱的に好きだというわけではないが、かといって忘れてしまうことがない風景のようなもの。毎年秋が近づくと「あぁ、古本市はまだかなぁ」などと楽しみになる。が、実際問題そんなに楽しくない。にもかかわらず、思い出が実に「よい風景」として心に残る。

 ぼくは思うのだが、理想的な場所や生活というものは、過去の記憶にしかないのではないか。最中のときは楽しくなくとも、思い出に一度格納されると完全なる郷愁となるものが多い。歳を取るにつれ、全てのものがこういう気分で思い出せるようになるのかも知れないとなると、年を取ることはなんと楽しみなことなのだろうか。