2009.10.05

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新型インフルエンザって、そんなに怖いのか?


 マスコミの報道につられてついついとインフルエンザに不安を感じてしまう。自分が罹ったらどうしようかという恐怖である。パンデミックという聞きなれない言葉も耳にする。なんだか新型の病気ような感じである。さすがにこの冬は乗り切れないだろう。

 しかし、マスコミの報道をそんなに真に受けていいものか。冷静に考えれば、これまで「まともな」報道などほとんどなかったのだから、この報道もそうじゃないかと冷静になる。恐怖や不安を煽るのがマスコミの実質的な目的だから話1/4で聞くべきだろう。とすれば、本当に今回のインフルエンザはそんなに恐怖なのか?

 役人や政治家は正しい状況認識を「構造的」にとれないようになっている。国民が1億人以上にいるのだから、とんでもなく運が悪い人はいるだろう。そういう人が「政府や役所の情報のせいだ」とクレームをつけてくる。裁判になっても、役所相手だとクレーマーの人が勝つようマスコミが応援するならば、役所というものは面倒だから「最悪の状態」を想定し、それを「基準」として対応をとることになる。役所がそういう情報を政治家にあげ、それをマスコミがセンセーショナルに報道する。誰かが悪いというよりも、そういう社会構造になっているのだから仕方ない。

 では普通のぼくはどうしたら良いか。情報を自分なりに抽出するよりない。マスコミの報道の全部が全部おかしいわけではない。こちらから「注意して探す」と中立な情報は結構みつかる。報道されていることを聞くという態度ではなく、自分から仮説をたて探すのである。この方法は一昔前ならば大変だった。それこそ、まともにやったら「研究」だった。ところが今は違う。ウェッブを使えばかなり探せる。情報が英語でいいのならばほぼ無限といえるストックがある。日本語でも相当な量がある。だから、コツさえ掴めば自宅でできる。

 具体的にどうすればいいか。インフルエンザならば毎年どのくらいの人が死亡するのか調べること。数字の由来は正確であればあるほどよいが、だいたいを把握すればいいのでちゃんとてそうなブログからでもいいと思う。そう思ってアメリカのインフルエンザ死亡数をみると、毎年4万人くらいだそうだ。アメリカの自動車事故死亡者数は4万人くらいだから、だいたい同じ。今回のインフルエンザ死亡者推定の最悪値は9万人だとか。これも、マスコミが精いっぱい煽った数値である。ということは例年の倍。従来のインフルエンザよりも死亡率が高いのだとすれば、そもそもインフルエンザにかかる人が二倍以下ということである。日本のインフルエンザ患者数は例年1000万人程度である。アメリカの単純予測を適応すれば2000万人程度、大目に見積もって3000万人というところで、三人に一人。以上は最悪の結果であって、現実には五人から六人に一人と言う程度であろう。

 確かに多いが、それで国がどうなってしまうというものではない。それに、最近の報道では罹患しても病院に行かないで、寝てればいいそうではないか。なんてことはない、ただの風邪なのだ。(そもそも風邪という単語はインフルエンザを意味するそうだが)一週間寝ていれば復活する。怖がる必要があるのは、休めない予定がある人だけだろう。しかし、そういう人はべつにインフルエンザでなくても注意しなければならないのだから、これといって新しい情報は増えてない。

 ここまで考えたら、なーんだという気分になった。アホ臭いからマスクなどはしないでいよう。買ったものは花粉症の時期にまわせばよい。

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2009.10.01

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財産としての旅行


 海外旅行へ行く機会を得た。めったには行けないだけに、行く前はあれもこれもと欲張りな予定をたててしまう。ヨーロッパだと時差と慣れない英語、あるいはお店や交通機関での習慣の違いにストレスを感じるため、「ゆっくりする」などとはほど遠い。せっかく来たのだし、もう来ることはないだろうし。そんな焦りを感じながら街を歩き回ることになる。しかも、割安な食事にありつけることはあまりない。だから、生きていることを楽しむ、などというような経験を全くできないまま帰国することになる。なんでまた、旅行なんて来たんだろうかと心に片隅に思いながらの家路である。

 ところが帰国後一週間もすると旅行中の出来事は全て「夢のような時間」に変身する。現地では素晴らしい感じなかった景色や時間がなぜか蘇ってくる。日々の生活においても、就寝前のゆっくりしたひとときに思い出したり、街を歩いているときにフッと場面がよみがえったりする。思い出すことは素晴らしい体験だけだから、結果的に旅行へ行ったことは一生ものの財産をつくることなのだ。旅行で得られたものは結局のところ思い出だけであり、よく考えれば人生も墓場までもっていけるのは思い出だけだ。ならば思い出を一気に蓄積できる旅行こそ人生の財産を獲得する機会なのだ。一生ものの思い出をたくさん手に入れられるならば、現地でどんなにつらかろうと旅行に行くべきである。そう、自分なりに発見した。

 旅でいろんなものを見て、いろんなものを食べる。気持ちがいい風景も見れば、嫌な出来事にも遭遇する。それは避けようのないことであり、一方で旅の醍醐味に変わりうることだ。ただし、旅の最中に旅の良さを体感することは難しい。無事に帰った後で思い出すときになってから、旅は良いものなんだと納得できる。まったくもって、じれったいものである。しかし、こういうことを教えてくれば人や本をぼくは知らない。そんなに難しいことではないから誰でも経験則として知っているだろうけど、でもそれならば声高に主張してくれる人がいてもいいような気がする。

 ここで少し不安になる。こんな風に考えるのは自分がすでに老人の域に達しており、人生を「昨日の世界」として見ているのではないだろうか。つまり、もう未来に明るいものが見えないからではないのか。自分は中年になったのでそう考えしまうといえば、それはそれで正解だろう。若いとき、あるいは30代初めの頃は、旅先で楽しさを十分に味わっていたのではないか。なんてことはない、自分が老けたということを別の言葉で表現しただけなのかもしれない。

 しかし、「昨日の世界」を愛でる歳になったことは事実なのだから、なにもがっかりすることはない。生きることの意味については、色々な人が色々と定義しているだろうが、単純に歳をとることであることに変わりない。そして、「歳を取る」という言葉にどくらいの意味が詰まっているのかが、その人の人生の成熟度合を示しているのだとぼくは考えている。若くして多くの意味を見出してしまった人もいれば、爺さんになっても生物学的な歳のことしか思い当たらない人もいる。ぼくはその中間にいる。そりゃそうだ、ぼくは普通の人なんだからね。