2009.09.27

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壁にぶちあたっても、最近平気なんだ


 電子回路を自作していると、どうにもならない壁にぶち当たる事がよくある。

 あれっ、思った通りに動かないや。まったくわからん、お手上げだぞ。

 電子回路が一発で動くことは稀。おかしいなぁと見直すたびに自分の間違えを発見する。間違えは複数潜んでおり、「直したから動くだろう、あれ動かないや」の連続である。

 結果的に間違えを全て直し、動くようになってから振り返ると数分前の自分がアホに見えてくる。なんでこんなことやっていたのかなと不思議になる。ただし、そう思えるのは「壁」を越えたのだ。だから自分が成長したと実感する。バカな自分を発見したのになんだか喜しいのだ。

 工作するものを作る前に「間違いない」と設計を何度も確認している。100%大丈夫などとは思っていないが、それなりに自信あってのスタートだったはずなのだが毎回つまずく。こういう失敗を何度もやっているうちに、つまずきそうな場所は予想がつくようになる。だから、設計・工作の段階でそういう失敗を防ぐよう気を配る。だが、今度は別な場所がおかしくなる。この作業にはきりというものがない。諦めがあるだけだ。

 自作を始めた最初のころは失敗すると絶望的な気分になった。電子回路基板の改修は結構大変だから。それでもゼロから作り直すよりはましだ。だからなんとか修理して先に進む。そんな経験が増えてくると基板改修は「やらなければいけないこと」の仲間入りになり、面倒ではあるが絶望とは関係ないものになる。あぁ、作業が増えちまったな。そんな程度の感想でおわるようになる。いちいち観賞に浸っていられないから。それに、なんとか活動していれば偶然ヒントが見つかり、結果的に先に勧めるのだと経験上知っているから。

 この反省・格闘・前進の繰り返しに慣れてくると、完成までの作業時間予測が正確になってくる。設計や工作の時間だけでなく、作業ミスや作業の壁への対応も含めた時間が読めるようになる。間違いがないように作業しても、壁は相変わらずまた登場するだろう。ただ、その障害度と対策もなんとなく予感できるので、間違いの予測で気分が暗くなることはない。時間がかかるというだけである。

 心理的に嫌な気分になるのは未知の作業である。初めて試みる方式を採用するとか、使った事がない部品を使うとか、そういう状況は怖い。果たしてこの設計で動くのか、この方法で動作するのか、どんな不具合が起きるのか。こうした不安が胸に溜まる。

 その不安の根本は時間が読めないことである。一ヶ月作業に消費しても成果なしとなるかもしれない。研究活動とはいえ、それはそれで問題だ。

 初めての作業では不思議と必ず壁にあたる。作った回路の改修作業ばかりやっていることも珍しくない。なんでこんなことになったのだろうと愚痴を言いながら、ちまちまと作業をつづける。

 とはいえ、それが原因でその作業全体を放棄したことはない。しつこくしつこく原因究明を進めていると、なんらかの出口が見えてくるから。それを経験的に知っている。不思議なことに三日連続で作業して、それでも全く進まなかったということはない。たいていは一日費やして成果なしだったとしても、翌日の昼頃には光明が見え、帰る前にはなんとか突破している。はぁ、明日には先にすすめやとホットしながら帰るのである。

 行き詰まっているときは、途中に一日あるとよい。一日苦心しながら考えたことを夜寝ている間に頭の中で整理し、翌日さっぱりとした気分で作業を開始することができるからだ。朝になれば昨日とは別の視点を獲得でき、壁の原因が見えてくるからであろう。

 壁を乗り越えてしまうと、「なんでこんなことに気づかなかったのだろうか」と不思議な気分になる。壁を越える前と越えた後では自分自身が「変わって」しまったのだろう。何かを知ってしまったら、知る前の状態など感情的に理解することはできない。思い出せるかも怪しい。前世での出来事くらい遠い昔のことのようになる。

 自分が変わったことを実感する。それは一歩に過ぎないが、「成長したな」とうれしい気分になれる。現実の中での作業は自分の想像を越えたものが登場してきて、面白いものだ。そんな余裕さえでてくる。

 ただし、絶対乗り越え不可能な壁はごろごろしているから、どんな壁でも越えるというわけにはいかない。これまでの壁は全部乗り越えたが、それは意識的にしろ無識的にしろ出会うであろう壁を予測していたからだろう。未知のものであっても、未知は未知なりに予測できているのだ。そしてその予測はそれなりに正しかったということだ。

 未知のものを予測する方法とはなにか。自分なりに想像や予感、経験で未知を予想しているが、それをアルゴリズム化しろと言われると難しい。どうやっているのかわからない。不思議なものである。それでもできている。だからこそ研究のテーマになりえるのだが。

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2009.09.26

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本も読み方次第


 本には読み方がある。上手下手があり、それによって読んだ本が自分の味方になるか他人になるかが決まる。ただし、読み方に「正解」はない。最近になってそう確信したのである。

 本を読むことが「勉強」の具体的な行動だと思ってきた。学ぶとは何か。それは教科書に書いてあることを記憶し、なにか別の機会にその記憶を適切に呼び起こすことだと思ってきた。これが勉強の目的でもあると。

 でも、これは勘違いだった。勉強という単語にはいろんな意味があるのだ。本を読むことはすなわち勉強すること。これは誤りではないが、他にもいろんな意味があることを無視している。本を読むこと、それ以外ののこと。その両者は自分の生き方に深みを与えてくれるのだが、その言葉通りに意味を真剣に感がないで生きてしまう。

 物心ついてから学校に十年近く通っていれば、本読み=内容記憶=学校でうまくやっていく方法だと確信するのは仕方がない。それが生き方上手だと子供ながらに勘違いしてしまうのは避けられない。勉強=テスト。これは目的が手段となってしまった典型例である。

 これまで小説や論説文、歴史や哲学、その他もろもろの本を読んできた。ぼくは大学になってから本を読みはじめたので、いわゆる「本読み」の人とは違った読書癖になっている。子供の頃から書物を読んでいる人と較べれば、ぼくの言葉の操り方や文書の理解の程度は稚拙である。彼らには遠く及ばない。なのでぼくが本読みについて偉そうなことを語ることは控えたい。ただし、これだけ読んでくればそれなりの気づきはある。本読みは大人になってから習いはじめた楽器のようなものであるが、それでも未経験の人よりは遥かにいろんなことは理解できると思う。

 ここ最近になって読書についての考え方が大きく変わったのだ。これまでは本を読むときにあることが常に頭にちらちらしていた。それは究極的には他人に自慢しようという心理的な意味での目的であった。テストで点数を稼ぐためとか、何気なく蘊蓄を披露し、尊敬されようといったもの。本読みの真の動機は「それが面白いから」であるし、色々な人から話を聞くことで学ぶ機会がないことを補うための工夫であることだと人には言うだろう。そうは言っても、「あっ、これを覚えておいていつか人に話したら、尊敬を受けるだろうな」と妄想してしまう。そういうことも考えていた。

 人に自慢するために知識を自分に取り込む。これが動機に混ざっている読書だと、ことあるごとに「覚えよう」としてしまう。その本のタイトルでもフレーズでも、何かのときに人に言って自慢しようと思ってしまうのだ。これをやりはじめると、本の世界に入っていけない。小説であっても論説であっても、最初は著者と同じ視線に降りる必要があるが、それをやりにくいという弊害がある。

 読んでいるときに「普段の自分」がでばってくると著者の言っている事を自分の頭で「考える」できなくなる。著者とは反対意見の立場に立つなど批判的に読むことも読書の一つの方法だが、それは読書が終わったあとにでも思い返せばよい。まずは、著者の視点で話を聞くべきだとぼくは思っている。そうしないと、反対意見を無意識のうちに「無視する」か「無価値だとして捨てる」ことをしてしまい、内容が全く理解できなくなってしまうことがあるから。最初は読者と同じ視点が必要なのだ。

 あるとき、ふとした事から「読んだ本について誰かに語ろうなど一切考えなくていいんじゃないか」と思いついた。この覚悟があれば、内容について記憶しようなどと考えないですむ。ちょっと実践したのだが、予想以上に本の内容に集中できたのだ。逆説的だが、結果的にこっちのほうが内容全体が頭に入るようだ。しかも、細部も結構覚えている。そんな体験から、読書としてはこっちの方法がよいと判断し、今後はそうすることにしたのだ。

 もうひとつ。読書で読んだことを誰かに情報として伝えないことにした。学んだことは自分の考え方を向上させることに使い、自分の行動に反映させていけばいいではないか。そう考えたのだ。そして、知識をそのように使うだけなら、引用元などをいちいち意識しなくてもいい。著者やタイトル、引用元など本について他人に語る必要などない。知識の有無についての確認など他人としあう必要もない。どこかで読んだ、という引用で十分だろう。会話ならばその程度で十分だ。

 こんなふううに考え方を切り替えたところ、本を以前より読めるよううになった。冊数も増えているし、過去読んだ本も読み返すようになったので、以前よりも高いペースで学びができているのではないかと思う。面白い本で内容を忘れてしまったものならば、新しい本と変わらない。また読めば楽しい。本当だ。推理小説ですらそうなんだと気がついた。本読みにもコツがあるんだ。ただ、他の人がそうしても逆効果のこともあるだろうけど。

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2009.09.23

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誰に向けてブログを書くのかの答え


 誰に向かって文章を書くのだろうか。ぼくのようにあてもなくブログをつけ続けている人はそんなことを考えることもあるだろう。

 それは文章の練習のため。そんな動機ならば読者は必要ではない。読む人がないブログ書きは悪い事ではないのだから。それなら気にすることなく続ければいい。それがぼくなりの答えであった。とはいえ、繰り返しこの疑問が思い浮かぶのだから、自分でも納得できていなかった。

 最近、新たな答えを見つけた。池田晶子さんの本を読んでいて、そのヒントを見出したのだ。こんなものだ。

 ずっと遠くにいる、自分がもっとも尊敬する人に向かって書けばいい。

 なるほどそうか。ブログにもいろいろ種類がある。単に自分の感情や気持ちを文字にするものもあるが、第三者であっても理解できる文章もある。ぼくは後者のつもりである。

 作家でもないのだから読者を面白がらせる必要はない。そもそも世間の人に向かって言うことなどあまりないではないか。第三者を意識しているときに、こう考える事もうある。誰に向けての文章なんだろうか。知っている人へならばブログではなくメールすればいい。あるいは会って話せばいいのだから。

 ブログの読者はだれか。それがずっと疑問だったのだが、なるほど現存する人である必要がないのかと気がついた。簡単に会えない人など自分から距離のある、できれば自分が尊敬する人に向けて書けばいいのだ。

 ブログが存在意味を持つ状況として、空間的にも時間的にも遠くにいる自分の尊敬する人へ向けての文章とする。これならかなり真剣に内容も文章も考えざるをなくなるし、結果的に自分の能力を高めることになるだろう。

 尊敬する人の外にも、未来への自分も読者だろう。1年もたてば自分ですら他人のようなものであり、ならばせめて自分が読み返したときに意味がとれる文章レベルを保てるよう努力せざるを得ない。単なる感情表現の単語を書いてしまうと、その熱が冷めればさっぱり理解できない戯言になる。それでは自分を含めて読者が存在しなくなってしまう。論理や面白さがないとダメなのだ。

 性懲りもなく、ブログをちまちま付けるのはこんな考えが支えてくれるのだと思う。文章を書くこと自体が好き。そんな状況ならばこのようなことをうだうだ考える必要もないだろう。これも子供の頃からやっている人には勝てないということか。

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2009.09.22

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長く考えることができるのか


 ブログをつけるようになってから数年たった。文章の上達はおぼつかないが、それでも書いたものに何がかけているのか知ることはできた。一見無意味なことでも続けてみるもんである。収穫はいろんな形でやって来る。

 最初は文章の上手下手が目についてしかたがなかった。日本語を巧みに操る、語彙が豊富、面白い内容がある。自分にも出来そうだと思っていたがやってみると全くダメ。書いたものを読者の視点から見れば一発でわかる。ブログとはいえ、ある程度つづけていれば客観的な目をもてるようになる。そう思っている。

 もうひとつ知ったこと。それは、文章の善し悪しは考える量(時間)に大きく依存している。文章が上手下手は、そもそもの考える上手下手で大枠決まってしまうということだ。

 全く当たり前である。そんなことは誰でも知っているだろう。言われてみれば当たり前であっても、それを記憶しているだけの場合がある。ぼくは長く思考することが不得意。それこそがまともな文章を書けない原因なのだろうと。集中力が足りない、飽きっぽい。いろいろ言われたとしても、自分の感情は自分でどうにかなるものではない。それを表に出さないことは訓練次第で可能だが、気が散るか散らないかは、「意識」でどうにかなる問題ではない。ある意味、努力ではどうにもならない。

 どうして長く考えることができないのだろうか。性格が支配的要因であるが、その他のものとして記憶力が足りないのではないか。

 ふっとしたことが疑問になり、あれこれ考え始めるとしよう。考えればそれなりの結果に到達する。そして、その結果をもとに次のことを考え始める。思考とは結局はこの連続である。発想が豊かな人は、その途中でいろいろなことを思い出して流れを変え、意外な結論を引き出しているのであろう。人によってはそれを「面白い」と感じる。

 ちょっとしたことであっても面白い結論に至るにはこの過程を何段も経る必要がある。中間段階での結論がたまってくる。それらを記憶しておかないと過去に戻れなくなる。あるいは、考える最中に多くの関係ありそうなことを思い出し、新たな展開を探る必要がある。そして、それらを全部同時に行う。記憶力が悪ければ何を考えているのかわからなくなる。それに、考えた過程を説明できないので他人が納得できる内容には成り得ない。納得できなければ戯言である。他人が面白く思ってくれるはずもない。よい思考ができかるかどうかは、要するに記憶力次第である。

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2009.09.21

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それ自体が楽しいか

 大人になってからの勉強は長続きしない。習い事であっても、自習であっても、さぁやるぞという出だしの勢いはすぐにしぼんでしまうものだ。勤勉な人ならば続けていくだろう。しかし多分に義務感からの継続であって、苦しい努力に違いない。続いたとしても楽しいのかどうかは大いに疑問である。

 言葉を憶えるとき、それが楽しいからという理由で子供は反復練習しているはずである。役に立つから、などという理由で何かをするるのあろうか。言葉を獲得する段階でそんなこと想像だにできない。そもそも言葉がわからない状態なのだから、言葉の効用など知る由もない。ギターの弦を弾くといい音がする。それが楽しいからと言う理由で弦を弾き続ける。こんな動機で言葉を獲得していくのである。楽しさという報酬につられ、ぞくぞく勉強するのである。もっとも、これはぼくの仮説でしかないのだが。

 大人だって同じ動機があれば子供と同じように学ぶことができるはずだ。頭が固いからとか記憶力が低下しているとか、そういう理由で学習が遅いのではない。単純に、夢中になれるほど楽しくないからであろう。興味があるから習い事を始めたのだとしても、仕事を止める、家族を捨てるなんてことができるほどに楽しいことなどない。集中力が内容なものだ。となれば学習効果などたかがしている。だからすぐに子供に抜かれるのである。

 自分なりに学習のメカニズムを想像するとこんなところになる。であるから、どうすれば新しい習い事をものにできるかもだいたいわかる。が、しかし、わかっていても上達できるというものではない。方法が未知だからとか先生が良くないからとか、そういう理由で上達しないのではない。ここが大人の習い事の厄介なところである。

 その習い事、本当にやりたい事なのか。それって本当に楽しいのか。この問いを自分に何度も問い続ける。そして、はいそうです。そう答えられないならば、どのみち途中で止める事になるだろう。

 一方で、やる前から好きなものなんてないという考え方もある。やりはじめてすぐに夢中になるものなどない。結局のところ、長く続けるうちに楽しむコツがわかってくるのである。それがわかるまで続けられるかどうかが問題なのだ。こういう解釈である。

 しかしよくよく考えると、やり続けないと楽しみがわからないならばすでの子供の学習と違っている。大人の解釈である。何かができるようになってからそのことが好きになるという考えは大人の学習に当てはまるものだ。
 大人になってから子供の学習方法を実践するのは原理的にむずかしいのだ。少なくとも、自分の意志でどうにか名る問題ではない。ならば上達しようという過剰な野望や上達しないことからの自信喪失など無縁になったほうがよい。単に、楽しいからやる、という態度を取り続けるほうが無難な気がする。

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2009.09.08

ウェッブは・・と・・のもの、というがホントだ


 ぼくは結構ペッパーランチが好きで、嫁さんはパートで働いているときの昼ご飯はほぼ毎日ペッパーランチで食べているそうである。好きな食べ物屋さんがしまっているのは残念だ。狂牛病問題のときに吉野家の牛丼を食べられなかった人ならばその気持ちは理解できるはずである。

 しばらく前に読んだ『ウェブはバカと暇人のもの』を思い出した。それは、ペッパーランチのことでの報道があったらだ。要するに、食中毒なんだけど。食中毒の対応が悪いという意見はあろうが、無関係の人が対応が悪いといって「怒る」理由がさっぱりわからない。被害者や関係者ならばわからんでもないのだが。

 ペッパーランチにおける一日あたりの食事の提供数は数万あるだろう。それに対して食中毒を被った人は数人〜十数人。食べた人の半分だとか、全員なったとかならばともかく、どうでもいいような数値である。でも、災難な人は腹立たしいだろう。子供がそうなったら親は怒るだろう。でも、そういう人の数を全部たしても数十人のはずである。そういう人が声を上げ、保健所も発表する。それはそれで、まったく普通の流れである。お店の衛生管理はちゃんとして欲しいから。

ところがLinkIconJ-CASTニュースにあるように、社長のブログが炎上したり、アマゾンのブックレビューも変なコメントで埋まっているようである。これらは、事件と関係ない人がやっている。正しくないものは去れ、というバッシングを正義の人たちがやっている。彼らはそう考えているようである。一体誰のためにやっているのだろう。そんなに「正義」の人になりたい人が多いのだろうか。ネットで匿名のまま他人をたたく人を誰が尊敬するというのだろうか。

 こうものを実際目の当たりにすると、なるほど『ウェッブは・・・』に書いてある通りでビックリする。その通りのことをやる人が実際いるんだなぁと理解できた。というか、呆れた。なるほど、これは確かに日本のネットは「残念な」状態なんだろうな。

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2009.09.06

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推敲する方法


 下手な人が書いた文章の特徴に、誤字脱字、日本語のねじれ、袋小路がある。ぼくが書く文章もそう。とはいえ、他の下手な人の文章を読む機会は少ないので、これはぼくの思い込みかも知れない。と冷静に反省しようととても、下手な人の文章の特徴は自分の文章を見ればいいと思うので、誤字脱字とねじれなんだろうなと思う。逆に言えば、つまらない文章でも、これらがないと良い文章になる。

 なぜ誰でもわかるような失敗を下手な人はするのだろうか。その理由はわかっている。文章が下手な人は書くことが嫌いであり、自分が書いたものすら読みたくないから。当然、推敲なんかしない。まともな文章を一発で書くのはどんな人でも大変なのだろうから、文章書きが下手ならばなおのこと大変で、一発目で書いた文章は日本語として成立しているかすら怪しいレベルのはずだ。

 なのに推敲しない。するとどうなるか。ちゃんとした日本語になっていると書いた人は信じても、それを読者として目にする機会を避けてしまっては、自分の現実を知りようがない。読んだらそれがいかにひどいか知ってしまうから、いかに読み難くつまらないかを知ってしまうから。それが理由で避けているのだが、ダメなところを思い知らされる機会が持てないのならば、その技は上達しようがない。

 プロの作家は一発で上手に書けるのか。よくわからない。恩田陸さんのエッセイに、それは不可能だとあった。一方で、茂木健一郎さんは、原稿を書く時間がなくなってきたので一発で(修正なしで)仕上げるよう訓練し、今ではその技を会得したと言っている。作家によっても大きく違うみたいだ。

 普通の人も一発で文章を書かざるを得ないときがある。いわゆる「テスト」とき、アンケートで回答するときである。解答欄として結構なスペースが空けられていて、そこに文章で回答しなければならない。そんなときはひるむし、書くのがおっくうになる。テストならば一応消しゴムが使えるけど、あれこれと日本語をいじる時間はない。アンケートではボールペンを使うことが多いので、なかなか修正できない。だから一発で文章にしなければならない。

 まともな文章を書く機会として、テストとアンケートしかなかった人(ぼくも含む)は、一発で書いて終了ということばかりしていたはずで、自分で書いたものを読み返す機会がなかったはずである。ならば文章が上達するはずはない。逆に、自由に文章を書く機会を持てた人ほど推敲する機会があったはずで、そういう人は結果的に文章が上手になっているのではないのだろうか。

 万年筆で書く人とワープロで書く人とがいる。万年筆の人は生原稿が残るので苦闘の過程も見ても後から辿れる。司馬遼太郎さんの生原稿を展覧会でみたことがある。スゴイものだった。どこからどう繋がっているのか、赤や青の訂正が原稿の余白にところせましと書かれていて、よく読めるなぁと感心した。なるほどそれはある種の芸術だった。そういった、整然と文字を辿れない原稿を推敲するには、ゲラにしてもらった後しかないような気がする。ということは、プロしか上手になれる機会がないような気がする。

 一方ワープロだと悪戦苦闘の過程は記録に残らない。追加削除修正は楽だろう。書いている最中でも仕上がりはキレイに見返せるので、推敲はやろうと思えば楽。ワープロを使えば使うほど推敲の機会が多く得られるので、万年筆よりも文章のレベルは高くなるはず。それでも推敲なんてやらない、というタイプの人は損な事をしている。もったいない。

 なぜ日本語の文章書きが下手なんだろうかと反省すると、そんなことを学校で勉強していないからではないか。文章といえば読書感想文ばかりで、文章の構造について添削を受けたことなどない。いまだに「、」の入れ方すらはっきりして決まっていない。大人になっても我流でいくよりないところがなんとも寂しい。つまりは、母国語である日本語をよくわかってないのである。普通の公立学校で教育を受けてきた人ならばそうだろう。

 文章の書き方を勉強したことは一体何なのだろう。小学校でそんな時間はあったのか。作文というものは書かされたことはある。タイトルを一行目、名前を2行目の下に、そして、段落の一文字目は空白にする。そんなことしか覚えてない。推敲するという言葉も憶えているから、読み返して直すという行為も習ったようなきもする。ただし、技術そのものは教えられないだろうから、習っていないのは確かだ。それらは全て小学校での話で、中学高校ではそんな時間はなかった。

 推敲は技術である。教えるには実例を示す必要がある。言葉で説明してもダメ。教えてもらっていない以上、ぼくは推敲というものを我流でやっている。技術というものは師匠について習うよりないのだが、その機会がなかったのだから仕方がない。

 そんなことをいつも不満に思っていたときにLinkIcon内田樹さんのブログの推敲について書かれているエントリーを読んだ。実に興味深く読んだ。内田樹さんの文章は大好きで、そんな感じに欠けたら言いなと思っていたが、そんな文章はこういう過程を経て書かれているのか。
 推敲は結局のところ、読みやすさを磨くこと。では、どうやって要るのか。

「リーダーフレンドリーネス」というのは、コンテンツの問題というよりは「呼吸」の問題である。
アイディアそのものはもう書いてしまったので、あとはそれを「一気読み」できるようにつなぐ仕事が残っている。
頭から一気に書き直して、細かい話はともかく「ぐいぐい」読めるように「道を通して」しまうのである。


 なるほど。そうですね。さすがにブログで具体的な改訂を見せるわけはいかないだろうから、考え方の方針だけでも満足するよりない。

 ところで、本を一冊書くような場合、その量たるやすさまじいはずで、推敲だけでもどのくらいの時間がかかるだろう。一冊になると、単に読み通すだけでも数時間はかかるから、それに手を入れるとなるとその倍以上になるだろう。何日も連続でやるのだろうか。

だから、毎日1頁目から書き直す。
廊下にワックスがけをしているようなもので、繰り返しているうちにだんだん最初の方は「通り」がよくなる。
先の方まで滑って行って、滑りが悪くて雑巾がひっかかるところに来たら、そこに腰をすえて、ごしごし磨く。
磨いたら先に進む。
それを毎日繰り返す。


 なるほど。推敲とは文章の雑巾掛けなのか。ならば、同じところを何度も往復する必要がある。一休さんや丁稚の小僧さんが廊下でやっているあの作業なのか。こういう具体例を示してくれれば、ぼくにも一気に理解できる。「もう、わかっちゃったもんね」という感じになる。

 文章の雑巾掛けは楽しいのだろうか。雑巾掛けは実用と修業をかねたものだから、推敲も実用と修業をかねているのかも知れない。やればやっただけで効果はあるが大変だ。どこまでやるかはその人にかかっている。他人に差し出す文章ならば、十分に磨いておく必要はあろう。どんな職人でも出来たものを磨いてから人に渡すものだ。ならば文章だって他人に渡すために磨くのは良い悪い以前の「当たり前」のこと。

 推敲は最初から行う必要があり、しかも最後までやり通す必要がある。そのためには、朝から作業する必要がある。でないと終わらないから。夕方から始めると最後の辺りにたどり着くには眠くなってしまう。それでは完成しない。だから、朝からやるやる必要がある。それに、一眠りすれば書いた時とは別の人の視点になっている。何度も行うには数日必要になる。ちゃちゃっとはできない。時間がかかるのだ。

 文章作成に時間をかけられるのは、結果的なことだが、その人が文章を書くのが好きだからだ。結局はそこに落ちる。生まれながらに上手な人もいないことはないだろうが、プロですらたくさん書いているうちに上手になったはずだ。推敲は書いたものを自分で読むという行為なのだから、読むのも書くのも好きな人ならば、一石二鳥。些細な文章でも推敲していかないとだめなのか。小学校時代に学びそびれた事の必要性を人生の後半になって気づくことができたのか。遅かったけど、手遅れではないと信じたい。

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2009.09.04

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普通の人って、ホントにいないものだ


 普通の人って本当にいないなぁ。普通とは、どこにでもいる、それ自体でめずらしくもないことだが、そんなものは実はないんじゃないかすら思えてくる。

 なぜ政治家や高級官僚には「普通の人」がいないんだろう。マスコミの報道を読むと不思議になる。もっともマスコミの報道はセンセーショナルで情報も変にフィルタされたものだから、報道には眉毛に唾をつけて読む必要はある。がしかし、政治家や官僚についてを耳にするにつれ、社会機能のための仕事なのに「なぜ自分のことばかり議論しているのだろう、問題にしているのだろう、普通の人よりも地位も給料もたかいのに」と呆れてしまうのだ。それでも日本がまわっている理由は、80:20の法則のおかげであり、彼らの中の2割の人が普通にやっているからなのだろう。

 どうしてまともな人がいないのかの理由は、おそらく「政治家や官僚」の仕事そのものに埋め込まれた自己保存のメカニズムのためで、そのメカニズムに適用すればだれだって今の政治家や官僚のようになるのだろう。そのなかで例外的な人がいて、そういう人が実際の社会を支えてくれている。そして、そういう人は損ばかりしているのだろうな。などと漠然と想像してしまう。だから、役職にある全員が普通の人として普通に働くなどはどうやっても無理なんだろう。

 そんな中で、最近の選挙の結果まともな経歴の人が政治の全面に出てきたと思って少し期待している。スタンフォードでPh.Dを取っている人、応用物理を学んだ人。こんな人ならば物事をまともに考えることができるはずだ(鳩山さん、菅さん)。岡田さんもお金に苦労することはなかったはずだから、彼なりの理想のために働くはずである。貧乏から苦労して政治家になった人は、どうころんでもお金や権力に顔が向いてしまう。それは人間の心理として仕方ないことだから、諦めるよりない。政治家でも官僚でも顔を見ればわかる。今回の政治のトップに立つ人の顔ぶれは、「へぇ、まともな人たちじゃん」と思い、期待してみようかという気分になった。

 そう思っていたが、でもやっぱりそうでもないみたい。LinkIcon極東ブログさんのエントリーを見ていてちょっと驚いた。ファースト・レディーさんが「とんでも系」だったとは。なんでまた、LinkIconこういうところにいるんだろうか。悪い人じゃないんだろうけど。おかしな言動を振りまいたり、政策に影響しなければいいけどと不安になる。歴史をひも解くと、そういう人が原因で普通の人が迷惑を受けた例は結構あるから。

 とんでも系かぁとがっかりしていたが、まぁ、でもある意味、敬虔なクリスチャンのファーストレディーであっても結果的に状況でも同じかなと気がついた。何を考え、何を信じようとも、その人のなかで収まっている間はそれで良しだ。それで、いいじゃないか。はぁ(ため息)。

 本当に、普通って「なかなかない」ものだ。日本で一組ぐらい、すげぇなぁという人が日本代表をやってもいいと思うのだけどなぁ。まともに考えられて、まともな感覚をもっている人が代表になってもらいたい。ずば抜けて優秀という人でなくともいい、まともな(普通な)人でいい。それって、高望みなんだろうか。

 なるほどサッカー選手や野球選手に対して、熱いエールを人々は送るわけだ。彼らは納得できるスゴイ人だから。だれもG20やサミットに熱いエールなど送るはずもない。地位だけの人なんて、ばれているんだなぁと納得した。