2009.08.15

IMG_6376.JPG

いらだたしさを哲学する


 思い出すとイライラすることは誰にでもあろう。少なくとも周りの人の会話を注意して聞くと、腹が立つとか思い出すだけでイライラすると言っていた人は何人もいた。ならば怒りを口にしない人もたくさんいるだろうから、思い出して腹を立てる人というのは珍しくないといえる。

 そういうイライラの対応方法はいろいろあるようだ。一番率直なのは、口に出してその怒りを追体験すること。もう少し弱めると、愚痴を言うとか文句を言うことになる。そんなことをしても怒りの原因は何も解決されていないのに、文句を言えば気分がすっきりすることもあるから。ある種の即効薬であり、誰もがそんな経験をもっているだろう。仲の良い人はそのはけ口になるのだが、それはそれで仕方ないと思っている。お互い様ということである。こういうことは人として自然なことである。

 しかし、それだけでは時間が経つとまたイライラが頭をもたげてくる。何かの拍子にむらむらと思い出し怒りをすることになる。怒りは以前より和らぐことはなく、結局前と同じなのだ。怒りを表現することで外にぶちまけても「何もならなかった」というわけ。おなかが空いたからご飯を食べるが、しばらくするとまた腹が減る。こんな感じに近い。この繰り返しは、人である限り仕方がないのかもしれない。

 納得するだけでは、何の解決にもならない。怒り、不愉快さを根本的に消し去る方法はないのであろうか。はっきりと言えるのは、時間が経てばいいということである。時間が経つとヴィヴィッドな感情はもう再現できない。怒りも昔の良い思い出になっていたりする。ただし、それには20年くらいはかかる。そんなに待ってられない。今この瞬間の怒りをどうすればいいのか。不愉快のまま時間を過ごすのは堪え難い。

 これも経験則なのだが、最もコストがかからないベストな方法は「考えない」というものである。ぼくが一目置いている先輩のような人と話をしているとき「思い出すだけで腹が立つ。もう、この話はしない、思い出さない」と言って、さっと話題を変えてしまったことがあった。別の話題で話が弾めば、もう腹立たしいことを考える余裕がなく、その方法はうまくいったのだと思う。考えると腹が立つならば、考えなければいい。なんと合理的な解決方法だろうか。

 仮に、目の前にキレイな風景が広がっているとする。ベランダで咲いている花でもいい。キレイだなぁ
と思う。感じるとうか、味わうのである。そして、目を閉じる。閉じた瞬間に自分の記憶の中の花に入れ替わる。イメージを愛でることは可能かもしれない。しかし今晩の夕飯はどうしようかなど、花とは違うものを考えると花のイメージはたちまち消えてしまう。キレイだなという感覚もその瞬間になくなってしまう。こんな具合に頭の中になるイメージは瞬間的に現れたり消えたりする。それを自由自在に操ることは難しいけれど、原理的には可能である。ならばこの性質を使ってイライラを消せばいい。

 ナルホドと思って実際に腹が立つ場面でそれをやってみようとするが、いやいやどうして、なかなか出来ない。腹が立っているときに、別の話題へ移るなど無理だろう。イライラしているくらいならば可能かもしれないが、頭に血が上っていたら自分などというものは消えてしまうのだから、自分を観察することなど不可能だ。イライラしているときに「あぁ、ぼくはイライラしているな、という具合に自分の状態を記述する」という方法をスマナサーラ老師の本で読んだことがある。これだけも冷静さを呼ぶと。実際にその状況になってそうするのは目標ではあるが、方法でないだろう。

 ぼくはイライラしているとき顔に出るらしく、嫁さんに「怖い顔をしている」と言われる。思い出し怒りで不愉快な気分になっているときでもそうである。試しに、考えれば必ず腹が立つことを考えてみると、自分の表情が硬くなることに気づく(そんな物があるのが情けないが)。顔に出すのは、他人にむけてメーッセージを発信してしまっている。今自分は怒っている、とだれに向けているのだろう。

 と、ここで気づく。嫌な気分になると、自分はその雰囲気の中で生きていることになる。嫌な気分にどっぷりと浸かっているわけだ。しかし、別に他人は嫌なことがあるわけではない。他人はなんとも思ってない。他人にはイライラを感じられない。存在すらしていない。つまり、イライラというのは、自分の頭の中にだけしか存在しないのである。まったっく当たり前なことである。しかし、考えてみれば不思議ななことである。

 五感に感じられたもののイメージが頭に浮かぶ。見えるとか匂うとかがそう。ところが思い出し怒りは五感を経由していない。つまり、実体がない。対象がない。過去の記憶に対して怒っている。非常に奇妙なことだが、怒りの対象は現実世界の誰かではなく、頭の中にある誰かのイメージである。そのイメージは現実をどの程度正確に反映しているのか不明のはずだが、当事者にとっては頭の中のイメージ=現実の相手として怒っているのである。

 どんなに嫌なことであっても、五感を経由しないものはたちどころに消せるはず。考えなければ、たちどころに消えてしまうのだ。ずっと昔からわかっていたのだけど、こうしてあらためて考えるとこれは実に簡単な方法で、実際うまく生きている人はそれを実行しているのかとに気づく。なるほど、みんな頭いいなぁ。

 となれば、いかにして自然に考えはじめてしまうことから離れるか、意図的に頭の中をシフトさせるかを身に付ければいい。いやなことを考えそうになった瞬間に、強制的に別のことを考えはじめればいいのだ。なんどもそれをやっているうちに、無意識にやれるよういなるのだろうか。トラウマだのと言われることは、心理的な解説を聞く限り、無意識に考えないということをやっている。思い出さないようにしている。ならば、今からだってできる、たぶんできるだろう。

 ではどうするか。すべては仮説でしかないが、まずは「かなり好きなこと」を持ち玉としてつねに持っておくこと。なんでもいいのだが、それを考えるとついついそれについて考えしまうようなものがいい。嫌だなと思ったら、すぐにそれを考えはじめればいい。が、しかし、そんなものとが都合よくあるのだろうか。

 ここでまた一つ気づく。何かに夢中になれるものを持っている人は、イライラに対しても強いということだ。何せ思い出してイライラするような心の隙間がないのだから。常にあることを考えていて、そちらに意識を向けている人ならば、五感によらないものを考える「理由」がない。また、考えようにも、頭の中にその場所的に時間的にもその余裕がない。だから、考えようににも考えられない。さらにいいことがある。その人にとってイライラするようなことはないのだから、周りの人から感情的に忌避される理由はなく、だからこそその人は自然と周りの人から応援されるかもしれない。

 結論を得た。イライラする、腹が立つとうことで困っている人は、要するに「ヒマ」なのだ。そんなことはどうでもよい、と言えるようなことを持っていないから問題になるのだ。こう言う当たり前のことがわかってきた。若い世代に向けて「夢中になることを探せ」と助言するシーンをいろいろなところで見かけるが、あれは勉強だとか職業だとかそういうことを目的に言っていないのだ。もっともっと、人生の過ごし方の最大のコツのようなものを言っているのか。

milk_btn_pagetop.png

2009.08.09

IMG_6297.JPG

条件をそろえても幸せにはなれないようだ


 最近不思議なニュースをよく目にする。一般的に成功したと言われる人たちが、逮捕されたり自殺したりする話である。なぜだろうかと首を傾げるのだが、記事を読めばそれなりに理由があることがわかる。成功して幸せになったんだろうなと思っていても、実は実生活ではそれほどうまくいっていないことが多い。ショッキングな報道の後で、そう言えばメディアで名前を聞かなかったなと思い出す。全く、人はなかなか幸せになれないようである。これは、世の東西を問わないらしい。

 ここ数日ニュースをにぎわしているのは、麻薬の話である。いろんな人が立て続けに逮捕されているし、なかには超有名人の名もある。ワイドショーはネタにことかかない。あることないこと昔のことだのを尾ひれ背ひれを付けて放送すればいいからだ。逮捕される人ならば「悪役」として扱ってもクレームは来ないのだから、もう好きなように言えばいい。さぞかし楽しいだろうと想像する。もちろん、それはそれである種の背徳行為なのだが、そんなこと誰も気にしないだろう。なにせ、マスコミは「バカと暇人」のものなのだから。

 そんなときにフッと考える。普通の生活をしている分にはおそらく十分過ぎるリソースがあるはずの人が、なぜ幸せになれないのだろうか。基本的な問いである。芸能人に限らず、いわゆる有名な人は何かと注目される分、ニュースに記事になりやすい。成功はねたまれるものだから、当然中傷や失敗を喜ぶ記事が出回るのも頷ける。しかしそれらは所詮、紙の上のことであって、社会生活自体はその人たちの問題だろう。要するに、幸せに暮らしていけるかどうかはその人たちの問題。もちろん非常に偏ったニュース源からの判断になるので、実際のところ有名人さんたちは普通の人よりも遥かに幸せに暮らしているのかもしれない。むしろ、有名人が幸せに暮らしていることを普通の人に悟られない用に、不幸なことばかりをニュースにしているのだという理解もあり得よう。結局のところ真実はわからないのだけど。

 甲野善紀さんの本で「人生の税金」という考えを読んだ事がある。何かで成功し、それが社会的に有名なるくらい成功すると、その人の一生にはその幸せな結果に対する「税金」のような出来事が起きるというのである。人生においてある出来事で成功すると、別の意味で不幸に教われる。借金だったり、病気だったり、犯罪だったり、子供の行為だったりといろいろなパターンがある。この「税金」によって、トータルで見た場合、普通の人の幸せ具合と変わらないものになるというのである。なるほど、それはある種のバランス論であろう。

 全ての人、という言い方がされているものは大抵嘘になっている。そうではない人が必ずいるからである。ともあれ、有名人の人は一体どのくらい幸せなものなんだろうかと興味をもつ。と同時に、普通の人もどのくらい幸せなんだろうか。そこまで考えると、なんだ、両者ともに知り得ないではないかと気づく。このようなものに敏感に応答できる人が政治家になるのが筋なんだろうけど、などと正論を考える。ついでに言えば、これでも無駄な思索である。

milk_btn_pagetop.png

2009.08.07

IMG_6373.JPG

同じことをぐるぐると考えてしまうとき


 なにとはなしに同じことをぐるぐると考えているときがある。さっき考えていたことをなぜまた今も考えているのだろうか。そんな疑問を感じているうちに、またしてもおなじことを考える。それが気分が良いものならば幸せなことなのだが、どういうわけか嫌なことだったりするので手に負えない。ため息がでるような深刻なものというより、さっきすれ違ったおばさんから「あら、危ないわねぇ」とへんな言いがかりを就けられたことへ不愉快さといったもの。どちらにしろ、考えたってどうにもならないこと、もっといえばどうでもいいことなのだが、気がつくと考えているのである。

 自分が何を考えるのか。それを決めるのは自分の意志だと思っている人が多いかもしれない。いわゆる自由意志を信じている人はそうだろう。ところが実際には、なにをやるにしても自分の意志が決定権を持っていないような気がする。さぁ、こんなことを考えよう。そう意気込んでいても、ほんのわずかな隙に考えていることが別のことにすり替わってしまい、結局のところ同じ内容を考えてしまったりする。ふぅ。ちょっと面倒くさい。考えることすら自分の好きにできないようである。

 やる気を出す方法。そんな方法があるかのような期待を抱くが、そもそも「気」というくらいのものだから、自然なもののような気がして、だからこそ意志でどうにかなるものではないはずだ。気分がのる、のらないという言葉に違和感を感じる人はいないだろう。気分の行方は雲行きのようなもので、眺めているよりもない。雨乞いのような人為的な「お願い」くらいしか自分ではできない。しかしそれではどうにもならない。気分については、「気分予報」くらいしか抵抗手段がないと思っている。

 となると、仕事をするにしても遊ぶにしても、自分の気分がこの先どうなるのかと常に予報を自分の胸に問い続けるよりない。とはいえ予報は外れるものであるし、突然変わってしまうこともあるが、ある程度は当たる。そんな具合に、自分の心の行方も把握できるはずである。そして実際、多くの人ができている。だから社会は回っているのである。

 考えても仕方ないがことがある。いや、考えること自体がよくないときがある。雲行きを心配していても意味がない。対策をたてて行動するよりない。それと同じで、考えていても無意味なこともある。そんなときは考えるよりも行動するほうがよい。もちろん、そうわかっていても考えてしまうものなのだが、だからこそ行動するのである。行動のするしないは気分と関係なく可能である。行動は意志の力が支配的だから。まずは立ち上がり、玄関へ行くこと。これは完全に自分の意識の支配下である。もちろん、気分が乗らないこともあるが、それでも身体を動かすことはできるはずだ。

 頭というのはまったく困ったものである。ここでアルコールでも飲むとろくなことにならない。いっそ水泳するくらいの運動はいいことだが、あいにくそういう施設は遠いし、しかも混んでいるのが普通である。だから街を歩くのである。好きな街をぶらぶらし、なじみのある喫茶店でお茶を飲む。完全なる無為である。無為に意味はないが、そもそも人が生きていることもたいした意味はない。とくに、生産性などという言葉を使う人からは、一目散に逃げた方が良い。ただし、ここで困ったことがあるかもしれない。というのは、お茶を飲んでぼぉーとしていると、また嫌なことが頭の中を回りはじめるからである。

 では、なぜそんなことを考えるのか。その答えは単純である。やることがないからだ。気になることがないから。頭は高性能なマシンであり、仕事がない状態に耐えることはできない。だから勝手に動き始める。とういうことは、何か仕事を入れてやればいい。何かする事があれば、それをしつこく考えはじめる。つまらないことをついついと考えてしまうことがあれば、それは自分が最近なにもしていないということのサインである。

milk_btn_pagetop.png

2009.08.05

IMG_6329.JPG

一言がきっかけだなんてあり得ないだろう


 広告によくある嘘に、ある一言がきっかけでこれまで出来なかったことができるようになった、というものがある。似たよなものを探せば、いろいろなバリエーションがあることに気づく。たいてい一行広告か、新聞やWEBの端にある小さな広告スペースに掲載されている。そして不思議なことに、なぜか目立つのだ。

 有名な人が有名になるきっかけは、だれかの一言だった。そういった話を読んで見ると、その人の上司なり先生なり先輩なり、あるいは恋人や奥さんからの励ましの言葉だったりする。あるいはある言葉によって、ひらめいたというのだ。天啓。それがきっかけとなって現在のぼくがある。そういう落ちである。よく書けていると、思わずジーンとくることもある。あぶないあぶない。思わず信じそうになった。これは広告である。心を動かして商品をかわす芸術?である。見事に負けそうになった。

 そもそも、一言で人が変わるわけがない。一言で変わるのならば、それは魔法の呪文だろう。ちちんぷいぷい。大人になって真顔で呪文をとなえる人はない。魔法など「ない」ことを経験から知っているはずだから。

 ぼくが勘違いしているのかもしれない。一言で人生が変わるなどという魔法を信じているのではない。単に、それで人生が変わるきっかけになればなぁと期待しているだけなのだ。こう説明する人もいるだろう。努力はちゃんとするが、努力を始めるきっかけが欲しいと。それならば味納得する。が、それでもその人はダメだろうなと思う。というのは、自分が何かを始めていないのは、きっかけがないからだと堂々と自慢しているからである。きっかけがないのが悪いのだと。

 何かを始める人は、はっきりとした外部からのきっかけなんて持っていないのではないかと想像する。きっかけらしいものがあるかもしれないが、劇的なものはない。全てのケースの実体など知り得ないから、根拠がないから無意味だというかもしれないが。ただ、行動を起こしただけだ。

 行動を起こしたからにはきっかけがあるはずだ。そう思って探したのが人に話すきっかけ話なのだ。それに、成功談は面白いほうがいいということで、自分で語るときにはすでに脚色されるし、他人が書いた本やドキュメントなどは「おとぎ話」になっているものだ。面白い方が「売れる」から。そういう単純な理由によって。それをみんな探すわけだ。

 魔法なんてない。同様に、人を変える一言なんてのもない。過去を振り返って想像したお話。ただ、どういうわけか人は自分の行動について、ついつい外に理由を求めてしまうけれど、なぜ自分の内側に目を向けたほうが手っ取り早いだろうな。

milk_btn_pagetop.png

2009.08.03

IMG_6301.JPG

意見なんて主張せんでいい


 ブログでもメモでもそうだが、ついつい「と思う」と書きそうになる。なにを書くにせよ自分がそう思って書くのだから「と思う」のは当たり前。ならば「〜だと思います」は必要ないだろう。いらない文字を読むのは面倒だし、なにより無駄だ。だからなくていいはずだ。

 「と思う」と書く人は「書かれたことは正しい」と勘違しているのかもしれない。自分を反省した上での仮説でしかないが、文章を読み慣れない人にとって文章になっているmoものは正しいと保証されたような気がするもので、メディアで活字になっていれば信じてしまうとしてもおかしくない。教科書や新聞、説明書などを通じてしか文章に接する機会がなかったならば、文章は「正しいものだ」と仮定してかまわない世界で生きてきたのだから、いちいち内容を疑わないのは当然である。だからあえて「と思う」と注意書きを入れたくなるのだ。それはぼくがそう思っただけ駄という表現、親切心の現れなのだ。

 「と思う」と書かれた文章からは、学校の宿題のような印象を受ける。それだけで稚拙な感がある。稚拙さと同時に、他人の意見という「うっとうしさ」を感じる。見ず知らずの人の主張を読むときに「〜と思う」と書いてあると心理的な抵抗を覚えるのだ。読者が書いた人を知っているならば耐えられるかもしれないが、誰かのブログを読むときに「〜と思う」とあれば、そのブログは確実に読んでもらえないのではないか。

 なぜ拒否反応が起きるのか。自分の感情の動きを反省すると次のような説明になる。読むとは、言葉が頭の中で反芻されることであり、それは他人の考えを自分の頭の中で再現することである。つまり、読んでいる最中は頭の中を他人に乗っ取られるのだ。「思う」ことは「感じる」ことでもある。そう思うなぁ、という気持ちになっているのだから。それを自分の頭の中で再現されると、自分の感覚までも乗っ取られることになる。その状態は普通の人ならば嫌う。

 一方で、知人だったり尊敬する人だったりする人の感情が自分中で再生されるのはある種の歓迎されることもある。積極的にそうしたい場合もあるだろう。知っている人と知らない人の違いは、情報の有無だけでなく感情面の扱いで決定的に違ってくる。

 「〜と思う」という文章は、そもそもそこに文字を置いた段階で目的を終了している。それを書いた人の行為は、思った段階で終了している。思ったことの次を推論して行動するのは読者ということになる。例えて説明すれば、王様が腹が減ったぞと言ったのに対し、言われた方はご飯を用意しなければならなくなる。無言の命令を受けるのは読者なのだ。極端に言えば、人に向けて考えを発信するとき「私はこう思う」というタイプの発言は、ともすれば他人にもそう思えと言っているようなところがある。それを感じてうざったいと思う。

 もし人にそう思ってもらう必要がないとしたら、そんなことを書く理由に何があるのだろうか。「ぼくを知ってください」ということだろうか。誰に? 不特定多数の人にか? 目的は人の内心にあるのだから、もう他人からは見ることは出来ない。不特定多数の人に向けた文章で、見ず知らずの人に向けたものだとしたら、「と思う」は本質的に必要ない。だから、いらない。