2009.07.16

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ある日突然過去10年が消えてしまった


 ここ10年仕事のほぼ全ての時間を費やしてやってたことで、その過程で作成したファイル一式が全て消えてしまった。HDDのクラッシュではなく、自分で勘違いしてフォルダを削除してしまったのだ。勘違いとはいえ、意図的に徹底的にやったことなので復活させることができない。それらのファイルは一時は4台のPCにバックアップが存在していたのだが、セキュリティーが厳しくなりつつあったこともあり、面倒な情報が混じっている可能性があるものは原本を一ヶ所にまとめ、手厚くバックアップすればいいという方針をとることにした。しかし、バックアップをつくる過程でのファイル整理の際原本すら消したようだ。当然バックアップの対象になっていない。だから、何も残っていない。

 自分でつくったファイル一式をなくすとは、本当にまったくなんという失敗なのだろう。
近親者を失ったときのような気分である。「無くなった」という状況が信じられない。そして、無くなったという哀しさを実感できない。もう、どうあがいても見ることができない。無いのだ。いやー、ジョーダンだったのだよ、びっくりした?という感じでどこかのHDDから見つかりそうな気がしたので、所持しているPCを全て検索したが、ないものはないという状況だった。そう、ビックリである。あれこれひっくり返して探したが、でてこない。ははは、と笑い話としてみなに説明していたが、もうダメだとわかって、少し実感してきた。ぼくの30代を費やしたファイル群がなくなった。

 では、今日からこまるのかといわれると、困らない。というのは、そういった文書は一端提出したらそれで役目を終えているからだ。調べ物をするのならば、原本でなくていいのならばネットから拾える。ただし、まとめるまでに使った資料だの図のデータだのはないので、再加工して別のことに使うということが一切できない。こんなわけで、もうこれまでやってきた作業を続けるつもりがないのであれば、困らない。

 とは言っても、思い出が消えてしまったという寂しさはどうにもならない。若い時期は足場やに過ぎ去るから仕方がないものだが、思い出の断片まで消えてなくなると、それはそれで寂しいものである。懐かしさを語るよすががないのである。現時点では特段重い失敗ではないが、今後がっかりする要素ではある。もう、永遠に失われたファイル。よみの国へ流れていってしまったのだ。

 そんなことは起きないだろうと思っていたようなことが平然と起きる。それにはぼくも驚いた。人生何が起きるかわからない。もっとも、ぼく自身は元気でいまのところ仕事の続きもやれそうだから、人生が終わってしまうわけではない。幸いにして。しかし、交通事故に限らず、いつどんな不幸に出くわすのかはさっぱりわからない。人間の人生も何かの拍子のぱったりと終わってしまうものだろう。そう、毎日のニュースに溢れているではないか。今後のニュースにぼくの名前がでてこないと宣言することはできない。それはわからない。

 人生を生きるということまで考えてファイルの消失を評価すれば、とくにたいしたことはではない。そう、失敗談としてみんなに話して笑ってもらうというネタになる。まだ手も頭も動くのだから、明日からファイルの復元と同時に、新たに解析を進めていくことにして、今後生み出すデータを増やすことにしよう。

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2009.07.13

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子供の頃の教育が今をドライブしているのか


 他人を見ていても自分の過去を反省しても、子供の頃の記憶は一生もののようだ。トロイ発掘で知られるシュリーマンは「子供の頃に受けた一番最初の感動は、その人に一生つきまとう」と言っている。感動ならばプラスの出来事だからほほ笑ましいことだけど、マイナスの出来事は早く忘れたほうがいいのに一生つきまとってくる。嫌な思い出はなにかにつけ思い出してしまうのは普通のこと。今と何の繋がりもないことであっても、嫌なことが続いているかのような気分を味合わせる。思い出し笑いがあるように、思い出し怒りや思い出し悔しがりは普通にある。嫌なものである。

 養老孟司さんの本で読んだのだけど、歳を取れば取るほど子供の頃に受けた教育の影響が強くなるらしい。だから母親の教育は恐ろしいと。中年になったぼくには、なるほどと頷く。それ、本当だよと。

 母親が子供の頃のぼくに言って聞かせていたことはぼくにとってはある種の正義である。「こうしなさい」と言われた通り考えている自分を気づくのだが、当然それは他人と共有できないことも多いだろう。この歳になれば正義論など「誰かの」正義論でしかないことを知っているので、トラブルは全て避けて通ることにしている。自分が正しいという主張はしないに越したことがないから。社会レベルの諍いも個人レベルのでトラブルでも、自分が正しいということが問題の解決にならないという経験があるからだ。

 だから、正しいとか間違っているとか、数学や物理のような実験で決められる性質ではないものに判断を下すとき、母親の教育結果が強く影響してしまう。暇なときの時間の使い方などは父親がやっていたことを自分でもやっていたりする。怖いことだが、両親の影響というものは歳を取ってから勢いが増してくる。青年期にはそれなりに自分で考えたことをやっているが、人生をドライブするような本質的な決定を下す機会は青年期にあまりない。もちろん二股に別れる道を選択することはあるかもしれないが、そのときはさいころを振るようなところがある。

 一方で、歳をとってくると行動の選択は確実に自分の人生に跳ね返ってくる。何をやるにしても。ならば、人生をドライブする能力は青年期よりも中年の今の方があるのだ。そして、その基準には母親の影響が深く影響している。なるほど教育というのは実に怖いことなんだと納得する。

 三つ子の魂百までというが、三つ子の魂は中高年になると際立って蘇ってくるのではないか。

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2009.07.04

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カルチャーセンターで子供の頃の幻影を見る


 カルチャーセンターに講義を受けに行った。本で勉強するのもいいが、たまには先生から教わるのもいいだろうから。一回あたり4000円くらいの出費になる。授業の進め方は先生によってまちまちだろうが、受講者は年金生活者か有閑マダム、あるいはOLかであるため生徒側に何かを期待することはしてないようだ。授業といっても、いわゆる特別講義のような雰囲気がある。

 これまでいくつかの授業を受けた。授業していた生徒さんを観察した結論は、彼らは「なんか面白いことないかな」という動機で来た暇つぶしの人だろう。TV番組を収録会場で観ているという感じがぴったりする。受講者の顔に真剣さなど微塵もない。むしろ、真剣に聴いていると「なにつまんなそうな顔をしている」と言われるくらいである。考えながらではなく、感じながら講義を受けることが推奨されるのだから、要するにエンターテイメントなわけである。

 何冊も著作を読んだことがあり、その内容がとても勉強になった先生がいて、その人がカルチャーセンターで開講してたので、これまで受講してた。月に2回くらいだった。受講者はリタイアした人とおばさんという、暇つぶし組の人である。なぜそこまで言い切れるかといえば、どんな質問をするか、講義中の先生とどんな言葉で交流するのかをみていれば予想がつくからである。ぼくだって無駄に歳はとっていない。

 その先生の講義が最近目に見えてつまらなくなってきた。他に忙しいのだろうか。来期は受講するのは止めようなどと講義中に考えていた。講義がつまらないので、視点を変えて生徒さんの受講態度を観察していた。過半数の人は聴いているのか聴いていないのかわからない顔だった。ということは多分聴いていない。ただ、いるだけである。だったら来なければいいのにと思うが、まぁ、ぼくもこうしているわけだから仕方ない。それに、人生の先輩たいる人が余生をどう過ごすのかについて意見などをもつ必要はないので考えるを止めた。

 その中で一人のおばさんの態度に目がいった。その人は講義中オーバーにうなずくようなアクションをしているのだ。ちゃんと授業を聴いている。その内容に共感しているのだろうか、そういう人もいるんだなと思いかけたとき、ずっと昔の記憶が蘇ってきた。こういう人、小学校や中学校にいたようなきがするのだ。よくよくその人の行動を観ていると、先生から生徒への答えを期待していない問い掛けのときにオーバーアクションして答える。文字や記号などをあえて空中に書きはじめる。それも、自分で思い出すためにはどうしても仕方ないのよね、という具合に自分用にやっているかのようなそぶりをして、周りの人に「私は正解を知っている」と知らしめているようだ。

 こういう女の子いたよな。そうそう、中途半端にできる子で、わたしって頭いいのよ系の子。そのおばさんは、おそらく子供の時にそうやってきたのだろう。周りに自分の頭の良さをアピールするのは大抵女の子であった。「全然勉強していないのー」と周りの人に言って、80点くらいを取る人。いたなぁ、嫌な奴。ただし、高校、大学、大学院という課程ではそういう人を見かけた記憶はない。「真に頭のいい人」というのをこれまで何人か見たが、そういうレベルの人は決してそういう他人へのアピールなどというマネはしなかった。全く別次元のレベルの頭の良く、問題と向き合っているときに他人の評価などは全く目に入っていなかった。

 目の前いにいるおばさん、つまり空中に文字を書くことで自分が正解している人を周りの人に伝えるタイプの子は、決して進学校へはいけなかったし、大抵はこれと言って物にはならないという結末だった。このおばさんは、おそらく小学校や中学校時代、今と同じ方法で自分を周りの子供にアピールしたのだろう。その後勉強と真剣に向き合うことなど体験しないまま普通の生活してきて、子供が独り立ちしたのでまたカルチャーセンターに通い始めたというところだろう。そして、小学校と中学校でやっていたことを周りが爺さんおばさんの中でまたやりはじめているのだ。この人は50過ぎであろうと思うのだが、結局学ぶ方法を獲得しないまま来てしまったし、この先もそうなんだろう。そう、この人の頭の中身はタイムスリップしてきたようなもので、おそらく頭の中は昔のままなのであろう。

 そんな想像(あるいは妄想)していたら、なんだか猛烈に哀しくなってきて、もうその人の方を見ることすらできなくなってしまった。結局、学ぶことに関してこの人は大人になれなかったのだ。そして、この先も成長しないだろう。

 この教室を見渡す。カルチャースクールでの講義とは何なのだろうか。学ぶとは何なのだろうか。学ぶ方法を教えずして、コンテンツを発信し続けるしかない先生には同情を感じるし、決して内容が定着することはないであろう人に対して時間を費やしてくこの空間は、地獄絵図のような気がしてくるのである。

 よく、いくつになっても学ぶことが大切だと言われる。それは確かにそうである。学ぶなとは言わない。ただし、人生の後半に入ったら、義務で学ぶ必要なんてない。つまらないことをやる必要なんてない。学ぶためには学ぶ方法をまず獲得する必要があるが、そういうことに思い至らない人ならば、単に楽しいことだけをやっていた方が人生の充実度はずっと高いものになるだろう。通うところがないからカルチャーセンターに来るとか、惰性で来るとか、そういうことが動機なのだろう。しかし、もう生きている時間が僅かな人がなぜ無意味なことに時間を費やしているのだろうか。

 好きなことをやっているときはうれしい顔をしているか真剣な顔をしているかのどちらかである。そのどちらもでないのならば、やらなくていいことをしている。これまでは新しいことを学ぶ場だと思っていた場所に集まる人の講義中の顔を見ていたら、結局この場所は人生の楽しむ方法を知り得なかった人からの集金装置に見えてきた。背筋の寒い気分がしてきた。カルチャーセンターもウェブと同じくバカと暇人のためのものではないかと思えてきた。

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2009.07.03

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バカであり暇があるのは普通のことだろう


 『ウェッブはバカと暇人のもの』という本の印象が強すぎて未だに身体に残っている。物事を見るときついつい、バカどうかが気になるのだ。これまでならスーパーや駅などでうざったいおばさんを見たとき、たんにそう感じるだけだったのが、こいつはバカだから仕方がないや、と思うようになってしまった。これはある種のおごりであり、あまり良くない傾向であるのは間違いがない。説得力がある本を読むと、どうしても日常がその世界観に影響されてしまう。自分もバカである可能性は大いにあり、注意しよう、という態度を毒消しのごとく念じないと社会人としてバランスがとれなくなるかもしれない。

 自分だって誰かに迷惑をかけているかもしれない。生きていれば誰かしらを不愉快にさせているだろう。それがあまりひどい場合には、周りからそういうメッセージを受け取るはずで、日々の生活でつねに注意しておけばおかしなことにはならない。ただし、個人のブログがくだらないというようなことは無視してよい。あくまでも、物理的な障害を置いてやいないかを見るだけで終了し、相手の気持ちについては考慮する必要はない。これが、ぼくの線引きである。

 ブログをつけることで誰かに迷惑をかけることはない。ただ、そのブログの意義はなんなのかと言われる、他人にはわからないだろうとしか答えられない。文章の練習がてら楽しくやっているからいいではないか。他人にとって無価値なことだと百も承知でやっている。それでもこの行為についてバカだの暇人などと言われるとがっかりするだろう。バカで暇人でわるかったねと考えるだろうけど、それでも世の中の人はそんなに偉大な人が多いのだろうか。

 その本で主張されているバカや暇人は、辞書に載っている意味とは指し示す内容が少しこのとなっているようだ。記憶力が悪いとか論理の使い方が下手だという人を指してバカだとは言っていないし、猛烈サラリーマンではない人(いわゆる生産性の小さい人)を暇人と言っているわけもない。そうぼくには読めた。クレーマーや自分自身を模範的社会人だと主張せずにはいられないタイプの人を指しているようだ。

 だから学校の成績が良くて、そこその学歴があってもバカであり暇人となってしまうことは普通にある。普通の人は自分のやっていることが「社会人として理想的なこと」などと全く考えていないので、バカでも暇人でもない。ただ、たまにいるでしょ、そういう人。ぼくも歳をとると説教オヤジになるかもしれないから、注意を怠らないでいかないとまずい。

 ただ、日本人の傾向として、陰湿ないじめがあげられ、そういう人がネットでやることがいわゆるクレームや揚げ足とりという書き込みなのかもしれない。無記名で何かをする行為が、ある種の「いじめ」と同じで、他人を集団でたたくことによる喜びに発展しやすいとこの本では説明されていた。なるほど。

 なぜアメリカでヨーロッパではそういうことが問題にならないのだろうか。いや、そもそもどのくらいあるのだろうか知らないけれど。あるいは、アジア的な傾向なのか。韓国や中国であらし行為というのはあるのだろうか。もし、日本だけの問題ならば、識字率のようなものか、ネットへの参加障壁などが関係するのかも知れない。つまり、ネットにアクセスできるということに経済的な障壁があり、ある所得基準がその人たちの教養なり家柄なりとリンクしていることで、「バカや暇人」に分類される人が存在し得ない状況なのか。識字率が高く、みなそこそこの生活ができるということの代償として、「日本のウェブは残念」という状況になるのだろうか。

 考えるときりがない。簡単な話じゃないのだろう。

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2009.07.01

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それで何ができるのだろうか


 ぼくはチェロを習っている。月に二回ほど先生のところに出向いて一時間ほど教えをこうている。一応、個人レッスン。音楽学校に通った経験のある人とは別次元の実に気楽な習い事である。音楽的な教養も持ち合わせていないので、なにを聴いても勉強になる。そもそも、身体を使った習い事を通じて、これまでやったことがない所作を身に付けることが目的である。だから単にチェロを弾いているだけ十分である。人に聞かせることや発表で弾くことが目的ではない。三十過ぎの手習いなので、そもそも上達が遅い。でもそれは始める前から織り込み済み。それでもレッスンを始めて、自分のできなさ加減にうろたえてしまった。それでも、先生のチェロをマジかで聴けるので続けている。楽器の中ではチェロが一番好きだ。

 チェロは不思議な楽器である。単に弦を響かせるだけで信じがたい音がでる。CDではなく目の前で演奏を聴けば、なんでまたこんな凄い音がでるんだろうかと不思議に感じるだろう。そして、同じ楽器を自分で同じように弾いても「全く」ろくなことがでない。その違いは、100%自分の身体の使い方から生じる。うまくならないのは、自分がうまくないからであると何の疑問の挟む余地なく判断できる。気持ちいいくらい客観的に答えがでるところが、楽器を使った身体訓練の良いところである。

 一人で弾いていても善し悪しはわかる。ただし、ある時から「ひょっとしたら今いい音が出たかも」と思える瞬間を何度か感じるようになった。もちろん、一曲なんて弾けないど、ある曲のある小節のある一音だけなのだけど、すごくいい音がすることを体験するよういなる。下手とは言え、だんだん上手になるものだから、それくらいはある意味当たり前であるのだが。こうなると、もっと上手に弾こうという気分になる。怠惰な自分であっても、さぁ練習しようという気分になる。

 先日、初めて人前で演奏する機会があった。教えていただいている先生の生徒さん達であつまっての発表会である。これまでグループ演奏に参加したことはあったが、一人でやるのは初めてであった。緊張したというよりも、なんだ成長したなぁという感慨をもった。チェロを始めた当初は解放弦を弾くだけだったのに、ホールで一人で弾く機会を得たのだから。全く、この習い事がよく続いたものだ。

 最初にチェロに触ったときのことを覚えている。おっかなびっくりだった。弓を持つのが難しかった。実は未だに弓をちゃんと持てないでいるのだが、それでも一曲弾くのになんとかなる持ち方はできるようになった。やっと初心者というレベルに達したのだ。同じ期間習っている小学生にはほど遠いけれど。

 歳を取れば何かできるようになることはないのだ。当たり前だけど、その事実を実感する。それが真実だと思うから、単に歳をとった人をぼくは全く尊敬しない。信用もしない。とはいえ、儀礼として挨拶をする、敬語使うことはする。それ以上のことはしない。同様に、人の約束事でしなない地位に入るだけの人も同じように対応する。その人が身体に身に付けているもの、あるいは、これから身に付けようとしている努力にぼくは魅かれるのだ。ぼくが尊敬するのは、実際自分で何かをできる人だけなのだ。