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2009.06.30

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できると思っているのは想像


 それくらいできるよ。人がやっていることを見ていてそう口にでることがある。ああして、こうして、こうやればいい。想像するとなんだかとても簡単なことに思える。それが確信にまで至り、それでもそう言い切れるならば、過去に似たことをやった経験があるからだと思う。もしもやったことがないならば、それくらいできるかもしれない、と少し曖昧な気分にとどまるはずだから。

 それくらいできる。これは毎日いろんな場面で心に思い浮かぶ独り言だが、実際にやったら可能性は30%くらいのはず。個人的な経験から言えば、70%は自分の能力を過大評価した勘違いである。勘違いも甚だしいというような、ひどくむしの良い想像であるのが普通だ。

 だからこそ、本当にやって見て、うまくできれば「すっごくうれしい」気分になるのだ。できると確信していたら、出来て当たり前だから、できたところでうれしくないはずだ。できるだろうなと口にしたところで、本心は「できんだろう」と知っているのである。

 最近では「脳」に関する本が多く出版されている。要するに、もっと頭が良くなりたい、と大勢の人が考えているようだ。もちろんぼくもその一人。ただし、頭が良くなっても身体が動かないなら意味はない、ことくらい知っている。なんであれ「出来ない」ことは自分には必要ない。そう思っている。

 考えただけで何かができるようにはならない。絵を描くことも文章を書くことも脳が必要なのは自明だが、同時に手を動かす必要がある。プロで活躍された人の著作にはたびたび目にする表現に、手が考え動くというものがある。意識によらない行動を指している。考え事をしながら車を運転した経験を持つ人ならば、指先が考えて動くという表現もあながち嘘とは言えまい。

 最近このことに気をつけている。なるべく身体をつかって行動するように心がけているのだ。ぼくは研究という作業を仕事にしているのだが、読むことや書くことよりも、自分の身体を使って「作る」ことに自分の時間のほとんどを割いているのだ。

 実際に物を作ればすぐに思い知らされるが、物事は思った通りに進まないのだ。誰でも知っていることだが、自分でやってみると「本当に層だな」と思う。だからだろう、多くの同僚や上司はそんなぼくの行為を白い目で見る。遊んでいる場合なのかと非難しながら。しかしその一方で、研究費を認めてくれるなど応援してくれる人もいる。

 研究に必要なものを自分で作りはじめると実に多くのことを勉強させられる。それらは、専門の業者に依頼すればお金で解決するようなことで、たとえ勉強になっても研究成果には含めることはできない。だから多くの人は「本質でない」と言い放ち、その作業をはしょってしまう。実際、その「本質ではない」作業は、研究活動のいたるところに存在し、ぼくのような新参者の行く手を阻んでくる。だからぼくの研究活動は遅々として進まない。この意味では、僕の行動は間違った選択だという判断もむべなるかなと思う。

 ただし、一度障害を乗り越えると、その時点で自分の持っている知識や技術は言葉にならないほど増えているのである。身体を通して得た知識と技術は、その人の考えの「前提」を形成するに足るレベルの信頼を置けるものになる。この絶対的な安心感は、勉強して身に付けたものに対してはあり得ない。そして、絶対的な信頼をおける知識を一度持てば、それ以前には難しかったことが、なぜそう感じたのかさっぱり思い出せないくらい「簡単」なものになってしまう。何度もこう感じた経験があるが、あれは驚きであり、勉強する根本動機になっている。。

 体験なしで得た知識だけを振り回す人と話をすると、相手の意見の自信の程を見透かすことができる。だからそういう人相手に反対意見を本気で言えてしまうのである。経験から来る知識(あるいは、現実に接地した知識)を持っている人は、精神的には強いのだ。これが経験が人を変えるカラクリである。

 もちろん頭のよい人たちはそこで黙って人の言うことを聞くことはない。経験の裏付けなしの知識人がやることは「お前はこんなにも知識が少ない」という事実をただ強調し、とにかく相手のレベルを下げよう下げようとする。あるいは「プロはそんなことをしない」などという限定詞をつけてくる。彼らは自分に自信がない分、論争が人格否定になってくるので、論争そのものがさわやかにならない。

 結局は、実験の問題に帰着する。できると思っていることをやるかどうか。それは実験をすることである。科学を学んだはずの人が、自分の行動という根本的なところで実験を重んじない。その態度は実に不思議なのだが、世の中にいるほぼ全ての科学者は自分の能力については科学の対象外としているようである。

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2009.06.29

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運と実力になんの関係があるのだろうか


 運も実力のうちだと言われる。運が悪かったために、自分のもつ本当の実力が発揮できなかった。テストやコンテスト会場で、耳にしそうなありがちな言葉である。自分から言えば弁解であり、誰からが言ってくれれば励ましの言葉になる。ただし、個人的な記憶によれば、この言葉は実際のところ、失敗した人への慰めの言葉だろう。

 歳をとると運不運を経験することがある。そして、そういう経験が積み重さなると現実が見えてくる。本当の実力とは、考え得る最大の能力ではない。自分が出し得る最高の結果などではない。最高の結果などというものは、おそらくはたまたま。「本当の」ではなく、「偶然の」結果である。環境も運も、たまたま自分に味方した結果なのだ。

 本当の実力と言われるものは、環境や運に左右されないものである。運が良くも悪くもないときの結果が本当の実力によるのだ。そう、要するに平均点。だいたいにおいて、何かをするとき運は良くも悪くもない。そんな状況で発揮される普通の結果。なんとも当たり前なことである。

 ではなぜ「本当の実力」などと口にすることがあるのだろうか。それは、どんな人でも自分に対する評価というものは、他人が下す評価よりも「かなり」高いからである。ほぼ全ての人がそう。それは人類の性質に違いない。ならば実際の結果は大抵「低い」ことになる。それをそのまま認めるは悔しい。あれこれと理由を考えた結果、自分は本当の実力を出せていないのだ、という結論に至るのである。

 一方で、他人の実力についてはそこそこ正しい判断する。そのときの判断材料は、いつもの結果というものを基準にしている。つまり、「ふつう」そうだったよな、という判断である。ならば、自分もそうだろうと考えることに抵抗をもってはいけない。

 こういうことは、歳をとるにつれ自分自信に過度な期待をしなくなってくると見えるようになる。自分以外の人を見る機会が多くなると自然に納得するようになる。そして、一度等身大の自分を見つめられるようになると、他人と比較することで生じる焦りや嫉妬に思い煩わさせることがなくなるのである。この納得のプロセスは、歳をとって良かったことの一つであろう。

 閑話休題。
 実際に観測できたものを自分の実力として考えること。出来そうな予想を根拠にするのではなく、実際にできたことだけをもとに自分の実力を推測すること。このクセを身に付けることができれば、生きるのは格段と楽になる。ただしそれは、びっくりするくらい出来ないものなんだけど。

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2009.06.28

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怠惰な自分からの復活


 本を読み、その記録を言葉にして自分のウェッブページに載せる。こんな単純なことでも、生活のパターンがちょっとでも狂うと維持できなくなる。5月の終わりにサーバの調子が悪くなり、その復旧作業を行っていた。それには1月以上費やしてしまった。その間は読書メモ作成を止めていたが、その間も本は読み続けていたためにメモを取っていない本の冊数がたまってしまった。一度たまるとやる気がしなくなってくるものだ。どうも気分が萎えて、面倒になってしまう。

 習慣だったことでも、あることをきっかけにして習慣から外れてしまうことがある。たとえ10年やり続けていても、ちょっとしたことで途切れてしまうのだろう。だからといってそれは全てに対しては当てはまらず、何があってもやり続けてしまうこともある。

 途中で止めてしまうこととやり続けることとの違いはなんだろうか。おそらく、そのことが好きかどうかの本音であろう。つまり、自分で習慣にのせてやり続けているはいるが、そもそもあまり好きではないことは常に止める理由を自分の中に探っており、好きあらば止めようとしているのだ。ちょっとしたことであれ、アクシデントによりその行為を止めてしまうとすれば、その行為をあまり好きではなかったのだという本音を自分で知ることになるというわけだ。

 確かに、こうやって文章を綴ることが好きで好きでたまらない、というわけではない。それは本音だ。なでやっているのかと言われれば、好きでないのは下手だからで、上手になれば楽しくなり、好きになるだろうとの仮説を元に書いているのだ。

 それは楽器演奏の習得と同じ。音楽を聴くことは好きだけど、自分で弾こうとしても上手にできるわけではなく、なんとなく練習をつづけてはいるがいつまでやれるか心もとない。そんな感じと同じなのだなとあらためて納得する。

 まったく、大人になると自分の能力を向上させるということがなかなか難しくなるものだ。