2009.04.14

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女性の車掌さんが増えたなぁ


通勤に東京メトロと東急とJRを使っている。男女雇用平等法というような法律ができたせいなのか、ここ数年女性の車掌さんが増えた。一昔前はそんなことなかったはずだ。10年前は筑波に住んでいた時期があったが、筑波に引っ越す前に女性の車掌など見たことはなかったが、その後東京に戻ってきてからやけに目に付くようになった。西暦2000年あたりに女性が電車業務につくことにまつわる環境や慣習、あるいは法律が大きく変わったのだろうか。

 考えて見れば、電車会社で働くことに男女の違いがきく部署は、筋肉労働が必要とされる整備や保線のようなところくらいだろう。男性と女性では物理的な違いがあるので全ての仕事を同じにできるものではないだろうが、男性しかできない、女性しかできないという仕事はあまりないと想像する。女性も男性も同じように社会で働きたいということになれば、ある仕事をこなせる人の数は、以前と比べて2倍あるだろう。つまり、性差があまりきにならない仕事の報酬は単純に下がったはずである。運転手、車掌、あるいは駅のサービスなど乗客から見える仕事に性差は必要ない。電車会社で働く人には給料よりも鉄道が好きな人が増えるのだろう。

 こんな仕事まで女性がするのか、と気がついた仕事は増えている。本来であれば女性には向かない体力仕事の文やでも女性の姿を見かける。女性が工事現場で通行整理をするのは珍しくない。タクシートライバーやバスのトライバーもたまに見かける。やっぱり増えているよな、ほんと。
 では、なぜ増えたのだろうか。


人は必ず働くことになる。資産で生きてける人は少ない。働くならば楽しいことがいいだろうし、好きなことをやりたいと思う人が多いだろう。しかし自分の理想の仕事に就ける人は圧倒的に少ないので、社会の大多数の人は仕事が好きなわけではないはずだ。それなのに働く女性画増えた。フェミニズムだ、ジャンだーだといっても結婚する人は多い。子供を育てるのは大変だ。ならば好きでもない仕事を続ける人が多い理由は見当たらない。なんでなんだろうか。共働きだからといって、家庭内の仕事量が減るわけではあるまい。ならば、なんで仕事なんてしているのだろうか。

 子供の頃から損ばかりしている。そんなのは人によるのであって、女性だから損をしているわけでもあるまい。得していることだって結構一杯ある。女性というとことで得をしていることは、女性からは見えないのかもしれない。当たり前だから、という理由で。となれば、目に付くは損な部分だけになる。
 男性も女性も働いている。しかし、働くことに「スッげぇ幸せ」といいながら生きている人はどのくらいいるのだろう。幸せならば、悪くない程度の思いは抱くかもしれないが、大抵の人は嫌な思いをして働いているような気がする。であれば、わざわざ働かなくて言い女性も自ら進んで嫌な思いをしにくる理由がわからない。

 ここで、おぼろげに理由が思いついてきた。そうか、何をやっていいのかわからないのかもしれない。女性ならば働くこと、というプロパガンダが耳につき、子供の頃から洗脳されているようなものだろうから、とくに何をしたいわけでもないのに働いているのかもしれない。男性でも女性でもできる仕事は、絶対に女性しかできない仕事よりも価値は低い。それなのに男性の職場にやってくる女性の動機は、惰性なんだろうな、と想像する。

 ぼくは自分の嫁さんには、好きなことをしてほしいと思っているし、そう言っている。そして、そのとおり自分が好きなパン屋でパートをしている。社員と比べ給料は少ないけれど、なんとも気楽に働ける。やることは社員とそうかわりない。面白いところだけやればいいし、無理して続ける必要もない。原理上、遊びのように働いているはずである。身の丈にあった出費を心がければ、あくせく働く必要などない。どんなに立派に働いても、立派だったねと言われることはあるかもしれないが、結局歳を取って死ぬだけである。日々をどう生きるのかを考えればいい。ならば、日々を費やす圧倒的な時間を自分なりに過ごすのかを充填的に考えるべきだろうよ。その結果、女性が車掌さんをやるのならば、それはそれでぼくらにとってはいいことだ。というのは、嫌々やっているはずはないから、乗客にはよいだろう。

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2009.04.12

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すっごいさわやか

 昨日の昼は暑かったけれど、今日はさほでもない。20度前後の過ごしやすい気温で、湿度も低い。桧の花粉はよくわからないけど、マスクをしている人は先月より少なくなったので、多くの人がこの時期の日曜日を楽しんでいることだろう。

 いつもよりは車の数が少ないかな。ベランダの窓を開けるとひんやりした空気が部屋に入ってくる。久しぶりにこうして外の空気を部屋に引き込んだ。半年ぶりくらいかな。ベランダには先日買ってきたゼラニウムがキレイに咲いていて、見ていると幸せな気分になる。願わくばミツバチが飛んでくるを。まぁ、そこまで都合よくいかないのは仕方がない。
 ソファーに座って、お気に入りの小野リサを聴いている。人生もいいものだとしみじみ感じる。感覚への刺激は程々に抑え、無為の時間をゆったり過ごすことができると、過去に嫌なことがあっても結局生きててよかったし、これからも幸せ程々に生きていこうと思う。
 こんなことをいうとずいぶんと爺さんになった気がするが、もう不惑の歳なのだから問題ないだろう。中年のベテランになろうとしているのだから、気持ちのモードも切り替えて、こんな感じでいいんじゃないかと思う。ぼくは無理しないことにしているので、中年モードにどっぷりとつかることにする。

 40歳からの10年は、「なにもしない」時間をどう作るのかがポイントになるだろう。何かすることがあると何も考えることが出来ない。何もしないからこそ思索する時が訪れるのだと、森本哲郎さんの本で読んだことがある。確か、スペインの思索家オルデガの引用だったはずだ。
 確かにそうだなと、何もすることがない今そう思っている。何かを考えようにも、先の先を心配していたら思索が浮かんでくるはずわない。頭の中に隙間ができないではないか。心配事はレベルの差こそあれ、その人の生き死に関係することだから頭の中では最重要な場所を使ってしまう。しかし思索は、これといって生きていくうちに必要なものではないので、空きスペースがあったら浮かんでくるのだろう。頭の中で考えるための場所が多ければ多いほど、時間が長ければ長いほど考えた成果物は大きなものになる。ならば、心配事が多い人に良い思索ができるチャンスは少ない。そんな気がする。


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2009.04.10

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出力する機会を強制的に作って見た

 情報を頭に取り込むよりも、自分が出力する機会を増やした方がいい。インプットと同じくらいアウトプットすることが大切だ。アウトプットを通じて学習は完成する。
 こういうことをよく耳にする。本を読んで勉強するだけでは、自分がどのらい学べたのかわからない。それを自覚するのは、自分で何かをするときだ。知っているつもりでも、見方を変えると全然だめだったりする。
身体を使うことならばなおさらそうで、見聞きしたではほとんど無意味であると知る。自分に入れたものは、外に出してみることで確かめないと、つまり自分でやってみないと意味がない。

 こういったことは、誰でも経験則として知っている。畳の上の水練について、誰もがバカなことの代表例と思うだろう。できるわけないじゃないかと。
 しかし、それでいて自分にはその法則が当てはまらないと思っている人が多い。かくいうぼくもその気がある。たぶん、想像の中の自分はなんでもできるし、そもそも自分についての評価は甘くなりがちだから、ついつい「でもぼくは何でもできるさ」と考えてしまうのだろう。

 ぼくはこのブログを通じて文章を上達させたいと目論んできた。書く機会が増えれば、それだけ上手になるはずだと考えているからだ。
 で、実際どの程度のブログを付けたのかといえば非常に心もとない。3年くらい間に書いたものをざっと見ても、たったこれっぽっち、とがっかりする量しか書けなかった。150くらいかと思う。自分ではがんばったつもりでも、以外に量がこなせていないものだ。ここは一つ冷静にそれを認めて見たほうがいい。
 ぼくがブログをつけるのは、たいていは土日の夜である。何を書いてもいいページと読書メモとを書こうと努力するが、まったく書けないことが多い。
 読書メモは読んだ本について書けばいいので、題材に困ることはない。単に、書くのが苦しいだけ。朝のジョギングと同じで、やるまでが一苦労。
 題材が自由なこのページは相当つらい。どこかへ出掛けたとかそういうことがないと、話題がない。無理にでも考えると抽象的なことが多くなって、自分でも暗い気持ちになってしまう。
 これではいかんと思い、写真をつかったページに変えて見たが、いくつか書いているうちに昔と同じで抽象的なものになってしまう。このまま続けていても、辛いだけで数が増えない。何か変えないと。そう思っていた。

 じゃぁどうする。一日の時間は限られている。仕事外の時間もそんなにない。土日にがんばればいいやという方式は絶対にコケるからとらない。とすれば、平日に時間をつくるよりない。家に帰った後は眠くなるのであまり時間がとれない。ならば、電車の中の時間を使うよりないだろう。
 通勤電車では本を読んでいた。他に何もすることがない状態では最適な行動だ。行きの電車のなかはそれなりに混んでいて、パソコンを取り出すことはできない。しかし、帰りのほうが比較的空いている。空いているが常にパソコンを広げる余裕はない。毎日時間がとなれないならば、自分の生活を変えることにはならない。そう考えていたら思いついた。最後尾の車両に行けばいい。急行ではなく各駅にすればいい。
 実際、帰りの電車を変えてみると席には以外に余裕があることがわかった。ほとんど毎日ゆったりと席に座れる。渋谷を過ぎると少し混むけど、満席になることはない。だから、パソコンを広げていても問題ない。こうして毎日1時間はブログを書く時間が確保できたことになる。
 この変更によりブログを付ける時間は増えたが、その分本を読む時間は減った。通勤時間の半分は本が読めなくなった。長期的には冊数が半分くらいに減少するだろう。メリットがあればデメリットもあるから仕方ないだろう。
 強制的に一日一時間を文章書きにあてることで、一体なにができるようになるか。電車の中では見知らぬ人たちに囲まれているということもあり、適度な緊張がある。あまり明るい気分になれないけど、暗い気分にもならない。だから、まぁまぁ普通の自分をキーブできるはず。ならば、そこから生まれる文章は普通の自分の姿なのだろう。これはこれでとてもよい方法なんじゃないかかと思う。

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2009.04.09

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学生さんが消えた

 少子化だからではないだろうが、職場で関係している研究室に今年度新たな学生は来なかった。毎年3,4人は入ってきたのだけど、今年はゼロだ。今年の3月に4人卒業して、補充はゼロだから、研究室の学生さんは純減し、3人になってしまった。M2が二人、D2が一人。今年の研究室に活気を期待するのは無理だろう。
 ここ数年、ぼくは学生さんとの作業する機会はなかった。しかし、無縁ではなかった。研究室に立ち寄れば、そのときいた学生さんと無駄話を楽しんだし、いろいろ新しいことを教えてもらった。すぐにでも何に役に立つという情報でなくとも、単に驚いたりして楽しんでいた。
 今年は学生室に人がいない。D2はあまり余裕がないだろうから、無駄話に花が咲かないだろう。なんともつまらない。単にぼくが寂しいだけではなく、不安にもなる。この研究室が没落の過程に入ったのかもしれない。
 学生が少ないと研究活動の質が低下するのは当然として、それだけでなく学生の学習結果も下がっていくだろう。学生自身にとっても損である。研究室の学生はばらついていたほうがいい。パワフルな人がいて、静かな人がいて、全体てきにガヤガヤしていた方がいい。その中には、学生同士で仲がいいのやいがみ合っているのがいてもよい。女の子がいて、憧れや失恋などがあってもいい。要するに、思った通りにはいかないもんだなと生活として実感できるチャンスがあったほうがいい。
 今年の研究室は3人だ。一人は博士課程の学生だから、実質二人。しかも彼らはお互いにあまり感心がないようだ。多分飲みに言ったりしていていないだろうか。昼ご飯も一緒に食べない関係だと、卒業に研究室生活を振り返ってもつまらないだろうな。学校生活を締めくくる最後の期間なのに愉快なことなく就職するのか。かわいそうだなと思う。
 そういう研究室の雰囲気が影響するのか、M2の学生さんの就職活動の話は実につまらない。何をやろうというビジョンがない学生生活は今では当たり前だが、それでもどんな学生でも就職にはこだわりが合ったように思う。それすらないならば、なのためにこれまでやってきたのだろうか。ちなみに、彼らは東大生なのだ。受験戦争の勝者かもしれないが、ぼくからみれば完全な敗者に見える。今からでもなんとかならんものだろうか。

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2009.04.07

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だんだんよくする、以外の発想

 物事に習熟するときは、「だんだんできるようになる」と思っている。普通そうだろう。少なくともぼくはそう思っている。自転車でもチェロでも積分計算でも、あるいは人との付きあい方でも、だんだん上手になるもんだという経験則がある。
 何かが急に上手になる。そんなことはない。それはレベル的にも、時間的も言えてしまう。時間をかけていくうちに自分が慣れていき上達する。これが原理的なことだ、とすることに異議を唱える人はいないだろう。
 ところが違うかもしれないと知った。
 甲野善紀さんは著書の中で、こんな主張をされていた。ある種の身体の使い方は徐々に出来るようになることは決してなく、できるかできないかの状態しかない。そういう身体の使い方はいくつかあるが、それらに共通しているのは、複数の動きを同時並行的に実施するところなのだそうだ。
 これは示唆的な言葉である。それはこう考えられるからだ。物事の複雑さというのは二種類あり、手順が増える(約束事が増える)ことと、複数のことが同時に起きているということがある。そして、約束事が多いで難しいことは、だんだん慣れていくことが可能だが、複数のことを同時に実施する難しさは、慣れでは対応できない。同時にやっているかどうかだけが問題になるから、途中の段階というものがないのだ。
 身体の使い方がそうならば、身体以外のことにも当然そういう現象はあるだろう。もっといえば、勉強など、理解する難しさにも同じ壁があるかもしれない。
 数学や物理が難しいと言われることがある。この難しさに、いまの話を適用したらどうなるか。難しさにも二種類あり、そのどちらの難しさが原因で数学や物理ができないのかを知れば、その克服が少し楽になるのではないかと期待してしまう。あるいは逆に、その違いを見極めないで単に繰り返し練習しても解決は期待できないのではないか想像してしまう。要するに、学習時にであう壁を突き破るヒントになるのではないか。

 手順の多さに原因があるタイプの難しさに対しては、記憶強化により克服することが有効である。
 そりゃそうだ。だれだって思うだろう。問題はどうやって記憶を鍛えるかだ。そう言って怒り出す人がいるかもしれない。
 記憶強化で克服できるものは、これまで通りの努力が必要なのだろう。王道はない。習うよりも慣れろ。数をこなすことで、身体に記憶させてしまうことだ。いわゆる「根性」の問題でどうにもなる。
 世の中の多くのものが、こちらの難しさである。ただ希望が持てるのは、やればできるということだ。
 一方、複数の行動を同時にとらなければならないタイプの難しさは、例えば楽器に多くある。典型的なのは、ピアノを両手で演奏すること。弦楽器では両手で違う動きをするから、これも該当する。身体を使ったことに多い。
 こういうものは、費やした時間と出力とが単純に結ばれない。単にがんばっても上達しないのである。そして、世の中で本当に難しいとされていることは、こちらのタイプの難しさなのだと思う。
 これまでは、すべてのことは努力で解決できると思われてきたのだろう。ぼくもそう思ってきた。努力が足りないか、それでもだめなら能力がないとして処理してきたのだ。しかし、そうではない。何と何を同時やればいいという発想が無かったのだ。だから、だめだったのだ。このことに気づけば、いままで困難だったことのいくつかは克服できるのではないか。
 では、複数の同時並行実行の難しさを克服するにはどうしたらよいのか。たぶんだが、簡単な方針はないだろう。難しさは、問題ごとに異なるからだ。
 では全く無いのか。不確実だけど、一つヒントがあると思っている。扱っている問題を視覚が役立つような形に読み替えることができれば、あっさりと解けるのではないか。そんなことを思っている。

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2009.04.02

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村上春樹さんはなんでまた敵が多いのだろうか

 よく分からないことがある。
 ぼくは文学小僧ではないし、文学好きでもない。だから村上春樹さんについては、人気作家という以上のことは知らない。作家個人がどういう経歴の人なのか、その作品はどういう評価を得ているのか、文学史上の立ち位置はどこになるのかなど調べたこともない。ただ、ノーベル文学賞をとるのではないかというニュースは知っているし、最近イスラエルで受賞したときのスピーチの原稿を読んだことはある。その程度の知識しか持ってない。
 ブックオフで村上春樹さんのエッセイを買って、つらつらと読んでいた。その中で、差別問題を扱ったくだりに興味をもち、ウェブでその内容を調べてたのだが、びっくりした。村上春樹さんの悪口がそこかしこのブログに書かれていて、それらのページが検索結果として大量に表示されるのだ。その口の悪さに驚いたのだ。

 村上春樹さんの本はこれまでいくつか読んでいるが、好き嫌いが別れるような小説はなかったはずだ。好き嫌いというのは、何かを評価し、一方で何かをけなすときに生じるのだと思っている。村上春樹さんの小説は、基本的に「世間」が登場しないし、時事問題も扱われない。もっといえば、要するに村上春樹さんの中で話が閉じている。だから、読者に行動を規範を訴える説教はないし、悪いことを弾圧する正義も登場しない。そこには、面白いかどうかだけで、何かを非難したり称賛したりという行為は生じ得ない。となれば、嫌いな人は一体何を嫌っているのだろうかわからないのだ。
 物事には、プラスの面とマイナスの面を合わせ持っているものだから、人気がある以上、嫌われる対象にもなるのは仕方がない。それにしても、なんでまぁ普通の人からここまで「あまい」「レベルが低い」だの「作家の資質がどうのこうの」などと言われているのだろうか。不思議に思った。だってさぁ、その評論している人は市井の人だよ。作品を書けるわけではないのだから、読書の感想以上を書くにはちょっと無理だろうよ。止めておいた方がいいんじゃないだろうか。ぼくも本の感想はいろいろ書くけど、評論はする気がない。無意味だから。

 人生の歩き方の基本というものがあるとすれば、他人の歩き方に口を挟まないことだろう。人はそれぞれ体つきが違うのだから、歩き方の細部は体つきによって異なるのは当然だ。問題は、疲れないで歩けるかどうかだけであり、他人との話題にするのは、どこを歩くか、どこへ行こうかということだけだろう。

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2009.04.01

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つまらないならば

 パソコンは結構使う。ネットも使う。しかしインターネット中毒の人ほどネットを使い倒していない。学生さんほど使いこなしてもいない。パソコンもネットも、もっと上手になりたいけれど、過激なまでには使おうという気分にならない。好きだとは言え、ぼくはオタクの人ほどパソコンやネットが好きでないのだろう。
 そんな程度のインターネット生活なので、気に入っているウェッブサイトは多くない。がんばってサーフィンをはじめても、10分ももたない。結局はアマゾンやニュースや天気予報など、アドレスを覚えているページを眺めている。要するに、この方面に実のところ興味がないのかもしれない。
 一応理科系だし、コンピュータはそれなりに知っているのだから、もっとページをめくってもいいはずだ。他の人は一対どうしているのだろうか。どうやって探していいのかわからない。とはいえ、アマゾンと天気予報があれば困らない。検索で時間を使うこともないから、本も読めるし楽器も練習できる。実はいいことだらけなのだ。しかしそれでも知り合いから「こんなページ面白かったよ」というメールが来ないものかと期待している。
 これでは先に進めない。困ったものだ、このご時世にネット中毒じゃないなんて、と考えこんでしまう。そして、そうだと気づいた。
 つまらないページしか見つからないのなら、面白いページを自分で作ればいい。自分が何を求めているのかわからないのなら、何も見つかりはしない。そんな状態でインターネット上をうろついてもあまりにも脈がない。
 こんなページが欲しかった。そんなページを具体的に作ってみたらどうか。すぐには思いつかないだろうけど、あれこれ作っていくうちに自分が何を求めているのか何を面白いと感じるのかはっきりしてくるかもしれない。ネットサーフィンはその後だ。
 面白いことはウェッブ上に転がっているとは限らない。いやむしろ、ネット上にはないだろう。ネットには誰かが入力した情報しか載っていな。誰かが面白いと思ったことが載っているだけだ。となれば、自分と同じ人を見つけなければ面白いページに出会えない。
 もし自分で面白いと思ったことをページにしたら、自分と同じような人が見つけてくれるかもしれない。ぼくはネット上をうろつくことが不得意だから、ぼくが見つける可能性は低いだろう。もし、ぼくが見つけてもらえれば、見つけた人の方が色々知っているだろうから、面白いことを教えてもらえるかもしれない。その方がずっと起こりそうな気がする。
 こんなことを考えてから数年経った。さて、実際どの程度達成できたのだか、なんだか不安である。