2009.03.27

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たくさん読むのはあまり良くないかもしれない

 量から質に転化すると思っている。例外はなく、すべてのものはそうなるんだろうと思っている。勝手な思い込みかもしれないけど、どんなことでもまず量を目指すようにしている。
 だから、本についても読んだ冊数にこだわってきた。何冊読めばいいのか。まずは100冊、次は1000冊。読んでいくうちに、本を読む行為の「意味」が自分の中で変わってきて、あるとき「本を読むとは」というような哲学的なレベルに達することがあるんじゃないか、という具合に。若干、アホぽいけどけど、まぁそう信じている。

 最初からそんなことを考えて本を読んでいたわけではない。冊数の少なさに焦りのようなものを感じるようになったのは読書メモを付けるようになってからである。どんな本を読んだのか、今まで何冊読んだのか。読んだ本の記録を付け、それをブログに載せるようになってから、「量から質に転化する」という期待を抱くようになった。そもそも、何を目的として本を読むようになったのかなど忘れている。手段が目的になってしまったのかもしれない。
 ぼくもバカではないし、信仰の人でもないから、何かを無条件に信じることはしない。すべては「仮説」だという態度をとる程度には科学を勉強をしてきた。だから、量から質への転化も仮説だと思っている。だから今やっていることは、自分の身体を使ってその仮説の真偽を確認することだ。何冊くらい読むと質が転化するのか具体的に知るために。

 こうして数年経った。最近、読書についてはいろいろと考え方が変わってきた。
 まず、読書メモを付けるのが辛くなってきた。読んですぐにメモをとる時間がないため、1,2週間後に感想を書くことが多い。読んでいる最中は素晴らしい内容だと感動し、あんなこともメモしよう、こんなこともメモしようといろいろ考えてはみたものの、いざ書く段階では何も浮かばない。ひどいときは、読んだ本の内容すら忘れていたりする。こんなことでは読書メモの意味がなくなっているような気がする。
 それに関連してか、一冊の本に対する印象が薄くなっているようだ。本の冊数を稼ぐために、次から次へと本を読むことから仕方ないことだと思う。一発で記憶されてしまうこともあるが、普通は記憶に残ったものを何度も思い返すことでより強力に頭に定着される。そして、強く記憶されたことは、なにかと考えてしまうことになる。長く考えれば物事の背景に注意が向き、自分の意見も生まれ、さらには自分の行動になにがしかの影響が反映される。本を読んだ理想的な状態のような気がする。こうでもしないと、一体何のために本を読んでいるのかわからなくなる。

 本を読む理由に暇つぶしというものがあってもいいだろう。事実、ぼくは通勤電車で過ごす時間を有効に使うために本を読んでいると言えなくもない。暇つぶしならば、別に本でなくてもいいだろう。ラジオでもipodでも、なんでもいい。聴くこと見ることだってできるし、帰宅時の電車は空いているのでパソコンだってたたける。何も読むことばかりが重要なことではないのではないかと思う。
 冊数を増やすことに注意がむくと、読む本の選び方がおろそかになり、良い本がリストに加わり難くなるかもしれない。読みやすいからと言う理由で選んでしまうものばかりになる。これでは読破した冊数は増えるかもしれないが、無意味な競争になってしまう。本を読むことが自分にとってプラスになっているのかどうか怪しくなる。

 その人が求めていることや置かれた環境によって良い本の基準はいろいろ変わり得るだろうが、本ならば何でもいいわけではない。時期によって、そのとき読むといいのにというものはある。しかし、そのような本をどう巡り合えばいいのか、その方法はよく分からない。だから冊数を増やすくらいしか確実な方法がないのだが。

 冊数については、そろそろ追わないことにする。どんな本なのか、その内容について読む前によくよく考える。少し活字中毒症状になっているかもしれないので、本のかわりに別のことをする時間を意図的に入れてもよいかもしれない。
 まずは、行きと帰りの電車内の過ごし方を変える。行きは本を読む。しかし、帰りはパソコンをたたくことにする。読書量は半分になるが、一方で、自分のアウトプット量は格段に増えるかもしれない。例えばパソコンでエッセーをまとめれば、読み書きのバランスがとれるようになるかもしれない。
 こういった組み換えは、必ずしも「吉」とでるわけではない。効果がないか、あるいはより結果を悪くする可能性もある。しかし、今のままで読書を続けると、本読みがだんだん楽しくなくなってしまいそうで、何かを変えないといけないとも思っている。

 まったく、たかが本読みなのだが、本を読む時間が限られてくるといろいろと考えてしまうことになる。こんなことをぼやぼや考えている時間があったら、本を読んだ方がいいのだが。

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2009.03.26

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おかしな渡る世間

  沖縄での車で移動中、「渡る世間は鬼ばかり」という番組の宣伝がずっと車内に流れていた。ナビからテレビ番組の音だけが流れていたのだ。今夜はこの番組の最終回だということで、スペシャル番組が放送されていた。 ぼくはこの番組を一度も見たことがないが、登場する俳優さんについては少し知っている。興味はないが、車内ではすることがないのでそのまま聴いていた。

 登場人物の中に今年東大を卒業する息子がでてくる。そして、その人の恋人が登場する。話を聞いていると、お互いの両親も互いに良い相手だと思っている。となると、そろそろ結婚かという具合である。
 ところが女の子の親が事業を失敗したかなにかで中国へ行くことになった。日本では生きていく気力がない、中国に行って骨をうずめるといっている。この女の子は父親と二人ぐらしが長い。女の子が父親の世話も焼いていたようだ。肉親は父親だけということで、ひどく父親を大切にしている。
 悩みに悩んだ末、父親と一緒に中国に行くことにし、泉ピン子の息子役の子供とは別れることにした。これをあっという間に決心しし、実際さっと飛行機で去ってしまった。息子も理解を示し、以後この話を持ち出すことはないし、しばらくすると忘れてしまったようである。

 まぁ、こういうシーンがあるのだが、本編では小さな一コマのような扱いである。全員が数日の間で「無かったこと」としている。が、そんなことはあるわけないだろう。異様な感じがした。
 作家が八十歳を過ぎて脚本を書いているから、20代で何が重要なのかなどすでに想像できないのだろう。家族という集団しか目に入らないようだ。このドラマにまったくリアリティーがないのかと驚いてしまった。どんな人がこの番組を見ているのだろうか。おそらく、高齢者ばかりなんだろうと思う。
 人気テレビドラマの脚本は、視聴者が期待するようにプロットを進行させればいい。要するにサザエさんをつくるようなものだ。見ている人も、惰性なんだろう。ストーリーを楽しみたいのではないのだと思う。

 ホテルに着いて部屋へ戻ったあと、最後までこの番組を見た。感想は、なんだこのドラマは、という呆れだった。面白さではない。が、最後まで見たのは事実である。
 視聴率というのは、こういう視聴者も含んでいる。なんだか、あてにならないものだ。

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2009.03.25

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沖縄の町並みにはアメリカの田舎っぽさがある

 沖縄には漠然とした憧れがあった。
 暖かい、春の夜ような日に訪れて、のんびりとした時間が流れるなか、沖縄の音楽を耳にしながら海岸沿いの道を歩く。
 このとんでもなくステレオタイプのイメージを抱いていたぼくには、本物の沖縄に若干がっかりした。もっとも仕事での出張だから好きなところへ行けたわけでも、街を散策できたわけでもない。それでいて沖縄への評価は無理があるだろう。観光旅行で数時間いただけなのにその町についてあーだこーだ説明するのようなもので、まったくあてにならないだろう。話をする方も効く方も、あてにならんだろうなと思って聴くよりない。ぼくの沖縄のこの印象も同じだろう。

 空港からレンタカーを借りて、恩納村にあるリゾートホテルに向かった。今はシーズン中ではないので、素泊まりならば朝食付きで一泊六千円である。東京の最安ビジネスホテルよりも安いんじゃないか。とりあえずそこで宿を取った。
 空港からの国道を走ったが、通り沿いの風景に南国のイメージなどない。ただの田舎である。レストランやコンビニが並んでいるだけで、面白いものはない。どの店もなんだか元気がない見た目で、廃れたという言葉がふさわしい一角もあった。昔にはそれなりに流行っていたのだろうけど、今はくたびれた店にシャッターが降りている。がっくり来るような風景である。これが暑い日だったら、なんともいえないがっかり感につつまれたでだろう。
 そういう風景は日本の何処の田舎にもある。国道沿いの風景はみな同じと言えば同じ。それでも、沖縄の風景は何か違っている。何だろうと思って観察していて思いついた。今は寂れいている店構えが、どこかアメリカのテキサス辺りの風景と重なるところがあるのだ。三軒くらいで店を共有している建物、駐車スペース、建物と建物の間隔。どこか、日本の風景ではない味を感じる。建物の感じからすれば、日本に返還されてから作られたものだろうと思うのだがアメリカっぽい。不思議な気がした。
 空港からは一時間くらいのドライブだが、その間にいくつもの米軍基地の横を通過した。そもそも、那覇の空港の目の前からして米軍基地だ。街中では、東京ではあり得ないくらいの低高度で米軍航空機が飛んでいる。車のフロントガラス越しであっても、パイロットの顔が見えそうなくらいである。また、普天間とか嘉手納とか、ニュースでよくみる名前の基地を通過した。こんなにまで街中に基地が食い込んでいる。これじゃぁやってられないと言いたくもなる。

 なるほど日本は戦争に負けたのだ。戦後生まれで太平洋戦争は知識だけでしかないぼくには、那覇で戦争にリアリティーを感じた。負けたら占領されて当たり前、ということだ。
 昔オホーツクをドライブしたとき、北方四島がいかに近いのかを体感して驚いた。そのとき、ずっと続く海岸線の反対側がソ連だと言う事実がぼくの頭では知識から現実に昇格された。沖縄の基地問題も、これで知識から現実へと昇格された。

 もうひとつ気がついた事がある。途中、食堂やお弁当屋さん、マクドナルドなどに立ち寄った。そういうところでは、高校生くらいのアルバイトが働いている。日本全国そうだろう。沖縄でもそうだ。ただし、違うところがある。働いている女の子の顔が、いかにもハーフなのだ。もうひとつ丁寧さがない受けこたえなどは普通の女子高生のものだが、あんたハーフなの?と聞きたくなるようなくらいの顔をしているところが東京と違う。ハーフではなく、クォーターなのか。
 そんなことを一緒にいた同僚にしたところ、沖縄の人の顔つきは縄文系が強いから、単にそういう顔つきなのかもしれませんよと言われた。なるほど、そうかもしれない。いわゆる濃い顔は沖縄の特徴でもあるだろう。

 狭いとはいえ、日本もいろいろあるなと、北海道産のミルクたっぷりアイスクリームを食べながら感心した。こうして海に入れる沖縄も日本だが、今日は吹雪いている札幌も日本なんだ。

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2009.03.20

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対談本は本でなくラジオなんだ

 自分の読書傾向を考えてみると、1/3くらいは対談本だと気づいた。本を買うときにはそんなこと気にしていない。面白そうだ。そういう予想で決めている。にもかかわらず
手元には対談本が多くある。
 本に何を求めるか。その人が選んだ本をみればわかる。対談本が多いぼくは、おしゃべりを聴きたいという思いが強いのかもしれない。

 ぼくはサラリーマンだが、テレビドラマによくあるようなサラリーマン生活はしてない。基本的に一人で、相手は計算機だったり機械だったり電気回路だったりする。だから顧客の依頼で作業することはない。仕事であっても、好きでやっているんだといっていい。
 なので人付き合いも少ないほうだ。同僚と夕食をとったり、飲みに行ったりすることはレアである。こういう生活だからだろうか、人の話をもっと聞きたいのかもしれない。その思いが無意識に対談本を選ばせているとか。
 今の生活に不満はない。しかし、興味深い人が周りにいないから、面白い話を聞く機会はほとんどない。だから面白い人の話を本から「聴く」という工夫をしているのだろう。なぜ、対談本を選ぶのかを考えると、どうやらそういう理由があるようだ。
 ぼくが本を買うときの選択基準は「著者」である。タイトルから買うことはあまりない。とくに対談本はそうだ。知らない人同士の話を聞いて面白いことはないだろうから。ならば、本は友人ということになる。もちろん、バーチャルなものなのだけど。

 対談本を読むことがラジオと同じなんだと気がついたのは、甲野善紀さんの本を読んでいたときだ。「それでは、このあたりで一息入れましょう」と本文にあった。その本は、そこで一部から二部へと進んでいるのだけど、ラジオならば間違いなくCMか音楽が入る。本を読んでいるのに、CMや音楽を期待してしまった。そのとき、「ぼくは本を読んでいたのではなく、ラジオを聴いていたのか」と悟ったのだ。
 本を読むのとマンガを読むのに違いはない、ということ以前ブログで書いたけど、本を読むこととラジオを聴くことにもあまり違いがないと知った。これに気がついて一段と本を読むときの心理的障壁が低くなった。

 結局頭の中にどう取り込もうとも楽しは同じ。本とかラジオとかの媒体の違いを気にしなくてもいいだろう。どうだっていいのかもしれない。本だろうかラジオだろうが、「人の話を聞いている」という行為をしているのならば、媒体の違いはさしたる違いはないのだ。なぜなら、数年経つと読んで知ったのか聴いて知ったのかの分からなくなることはよくあるからだ。
 要するに、自分は何をしているのか、というのは意識が決めているのであって、その行為で決まるものではないのだろう。これはぼくにとって一つの発見だった。

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2009.03.13

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尊敬の怖さ

 毎日幸せに暮らしていると胸を張って人に言うことはできるが、本心でそういっているのかと自問すれば、そうとは言えない人が多いだろうと思う。
 幸いなことに、ぼくは物質的に何不自由なく暮らしている。衣食住は十分過ぎるほどあるし、身体の具合もよい。どこかが痛いとか、身体で何かがかけているとか、そういうことはない。自宅でも、職場でも嫌な人に囲まれているということもない。さらに、いまの仕事は自分に一番合っていると思っている。言葉にするとストレスなどありようがない。
 論理的には何一つ問題がないどころか、幸せの極限の状態にあるはずなのだが、なぜだろうか、必ずしも本心はそう思っていないようだ。さすがに不幸とは思っていないが、なにかしら「問題がある」と感じているし、現在と未来とに不安を持っている。まったく、不思議である。

 衣食住に満足すると次に人は他人からの尊敬を求めるようになるらしい。厳密な定義はすこし違うかもしれないけれど、マズローの欲望段階説ということで読んだことがある。
 まずは生きる。食べる。こういう基本的な欲望は全ての生命で働いている。当然だろう、生き延びる必要があるのだから。家を確保する、家族を確保する。そういうことが底辺にある。
 そういうものが足りるようになると、他人から尊敬されたい、大切にされない、敬われたいという欲望が湧いてくる、らしい。そう言えば、どこの国であっても、いつの時代の話であっても、そういう人が登場する物がありは常にあるし、実際歴史上に登場している。そして、そういう人はたいてい不幸になる。まったく不思議なことである。
 こういうことは勉強などしなくても、あらゆる物語の原形に仕込まれている。だからどんな人でも知っている。そして、「それって、普通の生活をしている自分には関係ないよね」で済ませている。
 しかし、多少なりとも自分にも「尊敬されない」と思っているところがあるはずなのだから、それが王様のわがままほどでなくとも、それは意識しておくほうがお得だろう。同僚から敬意を払われたいし、後輩からは尊敬されたいなという気分を感じていると自覚しつつ身のこなしを考える。日々の生活の仲で注意していれば、「他人から尊敬されたい」という欲望が働いてしまうことに気づくことができる。
 もし、他人から尊敬されたいとと思っていることに気づければ、嫌なことから回避できる。自分の感情の由来がはっきりすれば、対応もとりやすい。
 なぜイライラするのだろう、なぜ嫌な気分がするのだろう、なぜ悔しい気分になるのだろう。こういったネガティブな感情の原因をつきつめると他人からの尊敬がないという状況にネガティブな思いを抱いているのである。非常に単純なこと。なんだ、そういうことだったのか。

 自分の抱くネガティブな感情の原因がわかったらどうするか。なるほどそれが原因だったのかとわかったところで嫌な気分が収まるものではない。気分はなかなか切り替わらない。嫌なままである。だから何かをしなければならない。
 電車の中で泣き叫びながら親に何かを要求する幼児のことを思い出して欲しい。たいていの人はそういう場面に遭遇しているだろう。あるいは、自分の子供の頃の記憶が残っている人もいるかもしれない。幼児の要求は、要するに無理なことが多い。泣いて叫んでも実際問題どうにもならないこともある。周りのオトナはそれを知っている。親も困惑しながらも、無理だと知っている。ひょっとしたら、泣き叫んでいる幼児も知っているのかもしれない。こういう状況下では、泣いてもムダだし仕方ない。歳を取るにつれ、それが分かっていく。
 同じように、自分が不愉快になったところで、その不愉快の原因が解消してしまうことはない。衣食住のレベルの要求ならば満たすことが可能なものが多い。しかし、人からの尊敬という「他人の感情」を自分の都合でなんとかできるものではあるまい。
 それが腑に落ちるように理解できれば、別の言葉で言えば「感情として理解」できたときに、他人との関係において不愉快を思い煩うこがなくなるのである。タンスの角に小指をぶつけたときのように、一瞬痛いが数秒たつと和らぎ、数分経つと忘れてしまうものなんだ。感情も小指の痛みも待てば消えてなくなる。

 嫌な気分を感じ続けること、腹立たしいことをずっと感じ続けることは、おそらく何の意味にもならないだろう。人生に置いては無駄な行為である。自分にとってストレスを蓄積するだけで、百害あって一利なし。
 嫌な感情を持ち続けることは、おそらく無意識だろうけど、自ら行っていることである。おそらく、怒っている自分を他人に見せつけることで他人からの謝罪を求めているのではないかと思う。不愉快さを他人に見せつけることで、他人に何を期待しているかといえば、他人からの癒し、あるいは、尊敬している人にこんな思いをさせてしまい申し訳ありませんでしたという謝罪なのだと思う。これはぼくの仮説であるけれど。
 中年のオジサンのデフォルトの感情は不愉快なのではないかと思う。街を歩いてみるオジサン達は、とくにサラリーマンの人たちは、どんな場所へ行っても、だれと会っても不愉快な気分を感じており、それを遭う人に見せつけるのではないかと勘ぐっている。だからオッサンは嫌だ。そう思うのは当然であり、ぼくもまたそういう人には近寄らないようにしている。
 そのようなオジサンたちは、若い頃からそういう人だったのだろうか。かなり多くの中年以後のオジサンにこの不愉快病が蔓延しているとすれば、それはその人の性格ではなく、そうなる社会的あるいは生物学的なメカニズムがあるのだろう。いったいどんな必然で、オジサンが不愉快な想いに捕らわれてしまうのだろう。もし、そんなメカニズムがあるとすれば、それを解明することで不愉快なオジサンになってしまうことを予防できるかもしれない。
 不愉快になるメカニズム候補の筆頭は何といっても自分が尊敬されない不満だろう。歳を取れば、若い人から尊敬されるはずである。もしオジサンがそう考えていたら日々の生活は不愉快なことだらけだあろう。なぜなら、普通の人の場合、歳をとることと尊敬されることには何の相関もないから。もちろん、偉大な爺さんは大勢存在するが、それは歳を取ったから尊敬されているのではない。その人が歳をとる間になし得たことに対して尊敬しているのだ。自分が若い頃を思い出てみるといい。歳を取ったというだけの理由で
敬意を払ったことがあるだろうか。
 目の前にいる普通の人を尊敬せよというのは無理な話である。一方で、おれは尊敬されるべきであると考えている人がいて、その人が他人から敬われないからという理由で腹を立てている。この両者の間には、越えがたい溝がある。それは残念なことだけど、よく考えれば「そんなことはどうでもいいことだ」とわかるだろう。どうにもならないのだから、ほっておけばいい。こういう問題に関わっていられるほどの十分な時間を人生にもっている人はいないと思う。

 他人から尊敬されない。大切に扱われない。それは全くもって当たり前のことだと、まず理解すること。だからこそ大切に顧客を扱ってくれる接待業が話題になり、高級ホテルや高級レストランのサービスとして高価でも売りになる。普通ではあり得ないから高価なのだ。
 これだけのことを理解できれば、次のことを理解できるだろう。
 誰がどんなことをしようとも、他人の非を攻めるメンタリティーを持たない。まずは、自分を防御する、それでだめなら逃げること。自分の存在価値に対する評価は他人のものであって、その内容を詳しく知るることは出来ないし、できたとしてもこちらの都合がよいように操作することはできない。一言で言えば、どうだっていいとするよりない。
 そして、他人からどういう評価を受けようとも、それはそれでいいとして、考察の対象外にする。大切なことは、自分が生き残ることだ。自分の興味の対象を知ることだ。何かを出来るようにすることだ。そのために必要な方法として他人の評価を利用することはありだが、その用事が済んだらさっさと捨てるほうがいい。

 一人でいるとなんとなく不安になる。これでいいのだろうかと。しかし、他人に聞いたところで何の解決にもならない。他人は自分への尊敬を表明することを意識的にしろ無意識的にしろもとめてくるだけである。だから、不安な状態であるとしても、これでいいのだ。そう考え、諦め、納得し、その状態を前提として次の行動を考えていくよりないだろう。

 ずいぶんと長々と考えてしまった。有給休暇を使い、自宅で一人になってぼやっと考えることで、現在の自分の状況が見えてくることがある。身体を休めるために休暇を取る人もいるだろうけど、一人で「今」を考えるために休みをとることも意味があるなと思った。

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2009.03.09

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読むことと書くこと

 面白い本を読むのはすごく楽しい。本を読むようになる前はずっとマンガを読んでいたが、今では本を読んでもマンガを読んでも、読んでいるときの面白さにはたいして違いがない。これって、ビックリするようなことなのだけど、「この本は面白いなぁ」と思っているときは絵だろうが文字だろうが、面白いものは面白いのであって、その感じ方は大差ない。子供の頃はそんな風になれるなどと想像したこともなかった。

 最近読むマンガは楽なものばかりになっている。『ののちゃん』とか『あたしんち』とか、新聞マンガを単行本したものばかり。寝しなに読む、トイレで読む、ヒマなときに読む。数分単位の時間であっても、楽しめるから、家中いろいろなところに転がっている。
 それに比較して、本は時間が必要になるし、頭もはっきりしている必要がある。読む場所はソファーか、ベッドか、通勤電車の3ヶ所しかない。もしマンガをドラマに例えるならば、本は映画だろう。活字と絵との差はほとんどないのだから。

 この心境の変化は老化によるものなのだろうか。そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。ぼくの意見はこうだ。最近は情報の入力形式の違いにあまり興味がなくなって、要するに楽しいね、という感じ方を大切にするようになったから、小説だろうからマンガだろうか面白ければみな同じだと思うようになったのだ。結果的に、自分がどう感じているかが一番大切なこと。それを歳を取るとともに分かったのだろう。
 似たいようなことは、絵画と音楽にも感じるようになった。絵画の善し悪しは、知識でも教養でもなく、見たときの感覚で決まる。それも、見たときにどんな『味』を感じか。
 不思議なことだが、色や形にも、味覚と同じようなものを感じる。キラキラ光る水面や鮮やかな花を見ていると、サイダーのしゅわしゅわ感のようなものを感じる。なんだ、おんなじじゃねぇか。気づいてからというもの、絵を見ることが好きになったし、ご飯のおいしさにも感度があがったのだ。

 人生の善し悪しなんて、結局はいかに長く楽しく過ごせたのかによるだろう。何かをどれだけ達成したのかなど、死ぬ目前になって見返してみても誰も褒めてくれないのだから。
 

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2009.03.05

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何かを自分でしようとすると

 絵でも音楽でもなんでもそうだが、深く観賞するための手っ取り早い方法は、それを自分でやってみることだ。自分自身の行動に関係しないものは、所詮他人後だから、その物事の表層しか見ようとはしないだろう。無駄だと分かっていることに生命はエネルギーを使わないから、人もそのはずだ。だから観賞するときに良い悪いを連発する人の根拠は、なんだかよくわからない知識体系だったりする。
 ところが自分で音楽なり絵なりを始めると、下手くそながらにも良い絵がなぜ良いか、凄い音楽がなぜ凄いのかの片鱗が見えてくる。見ようとしなくても、向こうから飛び込んでくる。もちろん、それらの理解のレベルは非常に浅いものには違いないけど、それでも観賞するだけの立場だったときの「絵とも音楽とも本質的には無関係な人」という境は越えている。始めた当初にレベルが低いのは当たり前で、時間をかければ向上していくと思っていいだろう。

 プロになるならないとか、アマであるとかないということが問題にされることがある。俺はプロでお前はアマだ、というように境界を引くときに持ち出されることが多い。アマとプロということで、プロ側の人がある種の人種差別をするわけである。アマがどんなに上達してもプロにはかなわない、という論理を使いたいのだろう。
 しかし、そんな物があるわけないじゃないか。それがあるのは人の頭の中だけで、しかもプロとアマは全く違うと思っている人の中だけである。プロかアマかは人間が生活する上での都合でしかない。そもそも資産が十分にあれば、プロになる必要がない。生活の糧を得る手段としてしているかどうかなど人の問題であって作品の問題ではない。これはいかなるものにも言える。

 どんな状況に置いても、自分の身体を動かして関わるものであれば、良さ悪さが身にしみるようになる。それは楽しみが増える反面、自分のしょーもなさに気づくことでもある。プロとかアマとか、自分の身体の使い方、引いては生き方について考えるときに、職業の話をしても仕方ないだろう。

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2009.03.03

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マスクは進化した

 毎年のことだが3月から4月一杯、花粉症の薬にお世話になる。ぼくは鼻がつまるので、鼻の穴に直接噴霧する薬は一日に何度も使う。この薬、使ったことがある人は分かると思うが、強烈に効く。両方の鼻が完璧につまっている状態でも、噴霧後30秒から1分で鼻が通る。そりゃもうビックリである。非常にうれしい。その一方で、相当危険な薬ではないか、と不安になる。劇薬だからよく効くのだとすれば、使わない方が身のためだとは思う。

 ここ10年ほど花粉の時期はそういう薬に厄介になっていたが、今年は方法をちょっと変更した。もう若くないから、自然なままに生きたいので。
 まず、空気清浄機を導入した。家庭ならば3万円もだせば高性能のものが買える。花粉をほぼ完全に除いてくれるらしい。そういうフィルタ搭載のものを居間に設置した。空気清浄機からでてくる空気はなんだかキレイな気がする。すくなくとも、その風に当たっていれば目がかゆくなることはない。
 それとマスク。最近は鼻のところにワイヤが付いていて鼻のところから空気が漏れるのを防いでくれる。ただし、寒いから息がメガにあたって、レンズが曇る。前が見えなくなるのがしょっちゅうで、なんとかならないかと思う。あと、くしゃみをなんどもしているとマスクの利用は一日限りになり、経済的にペイするかが心配になる。

 屋内と屋外で有効かと思われるこれらの方法をとってみて、花粉症は乗り切れるのだろうかという実験をすることにした。
 花粉飛散がピークだったときでもなんとか過ごせた。これまで夜は寝れなかったのだけど、なんと何の薬も使わず空気清浄機だけで快適に眠ることができた。快挙である。
 一昔前、マスクなんてなんの焼くにも経たなかった。空気清浄機が効くという人にも合った事がなかった。ないよりましかな。たいていの人はそう言っていた。だから、ぼくは薬を使っていたのだ。
 しかし、だ。技術は進歩する。空気清浄機は進化したし、マスクも進化した。こういう家電や生活品を作っている人はすごい。仕事の結果がすぐにわかり、社会の人が喜んでくれる。ぼくは喜んでいる。ありがとう、開発者の皆さん。声を大きくしていいたい。

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2009.03.01

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本が読めなくなってきた

 月に二十冊は読めていた本が、今は十冊程度に落ち込んでいる。通勤電車で二日に一冊くらいのペースである。とにかく、土日に読めなくなっているし、ウィークデイでも寝しなに読まなくなってしまった影響が大きい。
 最近になって、チェロだのブログだのにも力を入れるようになったから、削りしろは本読みの時間となってしまう。一日は限られているから、何かを増やせば何かを減らすよりない。仕方がないことなのは、誰にとっても同じだ。
 そう考えていたが、それは本当だろうかと自分を疑ってみたほうがよい。確かに、やることが増えたから本読みを減らしている。しかし、それならば寝る時間を少し遅くすればいいだけではないか。今では12時に寝るほどになっているが、これを1時にしたって大きな問題は起きないんじゃないか。いやいや、そこまでする必要はないだろう。と、自分で思っているようだ。
 少し気力が落ちているのではないか。そう、自分でも疑って見る。もしそうだとしたら、どうしてなんだろう。いわゆる、寄る年波と同じで仕方がないことなんだろうか。だとすれば、今になって気にしても仕方がないことだ。
 歳が理由のことで自分を責めても仕方がない。まったく意味がない。取り返しは絶対につかないからだ。もっと若い頃から読んでいればと思うのだが、もし読んでいたら今とは違った人生担っていたのは確実だ。しかし、それが果たして今のように結構気に入っている日々になるかどうかわからないから、結果的には読まなくて良かったのかもしれない。

 数年前の読書メモを眺めると、よく読んだなぁと思うくらい日々読んでいた。読んでいる本のジャンルは当時と今で変わっていないから成長してないようで情けない。細かく見れば違ってはいる。ただ、昔と違って少しでも知識を増やそうとは思わなくなったし、よりよい自分になろうとか、友達が少ない分を埋め合わせようとか、そういう動機は消えうせてしまった。今は、娯楽の読書という色彩が強くなっている。まぁ、人生ギアチェンジも必要だから、それはそれでいいだろう。たいして気にしていない。
 以前ならば本を読んでいるであろう時間は、こうしてブログをつけたり、他のページを作っていたりとインターネットやパソコンを使っている時間に使っている。こういうことは、生活のパターンや社会の状況によって費やした結果であるページが消し飛んでしまう可能性が高いだけに、若干不安を憶えるが、そんな不安以上に大切なことがあると思っている。読むのと同じくらいに、自分が表現することに時間を費やすことにしているのだ。アウトプットにできるだけ時間をとる。インプットはアウトプットのために行う。もし、自分から何も表現しようと思わないならば、教養にまつわる情報摂取など必要ない。そんあわけで本が読めなくなってきているのだから、それは当たり前のことだ。

 このブログだって、表現の練習だ。これまでたくさん本を読んだところで、こういう出力しか今は出せないんだから、仕方ないではないか。それでも、少しでも上手になれるよう、読みと書きのバランスをとっていくよりないだろう。