2009.02.28

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森毅さんのことが心配


森毅さん、やけどを負うLinkIcon

 森毅さんのニュースを見かけた。久々だ。ところがなんと、大やけどを負ったとか。自宅で料理中に火が衣服に燃え移り身体の30%にあたる部分で重いやけどをしたそうだ。
 ぼくは浪人時代にずいぶんと森毅さんの著作によって救われた。『数学のすすめ』が今のぼくの考え方の根幹にあるのは間違いないし、この一連のシリーズを読むまでこんな考え方があるとは思っても見なかった。今のぼくの原点だ。
 だからこのニュースを見てとても森毅さんを心配している。81歳という高齢もある。回復したところで、もう寝たきりになってしまうのかもしれない。いつも通りでいいので、またエッセイを書いて欲しい。
 もっとも、本の中での森毅さんのキャラクターであれば、ぼちぼちやってくれそうな気もする。八十一歳ということだから、回復といってもどうなるのか分からないけど、それでもいつかはこの話をボヤキというか笑い話にしてくれるだろう。それを読みたい。

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2009.02.27

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本当にそうなんだろうか

 財務大臣が酔っぱらって会見し、その様子が全世界に発信された。その後、バチカンでラオコーンに触ろうとして警報をならした。新聞報道にはそう書いてある。どういう状況でかは知らないけど、事実なのだろう。
 この件についてはマスコミでそれなりに報道されている。ただでさえ政治家の言動や行動には注目があつまり、基本的には叩く姿勢で報道がなされるとわかっているのにこういうことをする政治がいる。財務大臣ならば重要度は総理の次くらいだろう。実に不思議なことである。
 なんでこういう人が要職にいるのだろう。素朴な疑問である。当然そう思う。誰だってそうだろう。マスコミのように止めさせる口実として扱うのではなく、極普通の人ならば、なんでだろうと思うはずだ。
 要職につくからには、何らかの実積や期待があったからだろう。ウィキぺディアで調べてもいろいろでている。ぼくにはその情報がどれほど意味があるのか判断つかないが、なにやらやっているのは事実のようである。学歴でいえば東大ということだから、頭が良い、というカテゴリーに入る人なんだろう。
 どころがである。本当におかしな行動をする。普通の人ならしないことをする。ある種の障害者なんじゃないかと思うレベルである。辞職であって更迭ではないから、周りの人は「普通の人」と認めているのだろう。選挙区に帰れば、そこのおっさん達から「先生、先生」と呼ばれているのだろう。なにをやったとしても、あなたは偉いという立場を獲得している人ならではの境遇である。
 でも、不思議なのだ。この人よりも普通に財務大臣をできる人はいないんだろうか。日本の人口は1億2千万で、識字率は百%近く、大学進学率も猛烈に高い。世界に胸をはっていける工業生産品を製造し、経済だって強い。だったら、普通に人前で会見出来る人だって数十万人はいるんじゃないか。東大卒だからといってその人が普通の社会人としての能力を持っていることが保証されないのだろうか。
 世の中はリーダーというものを求めているが、そんな人は一人いればいい。リーダーなんていいから普通のことができる人はいないのだろうか。
 ぼくは疑問なのだ。政党というところに普通のことができる人はいないのだろうか。人を束ねるとかどういうことはどうでもいい。役職の機能を理解して、その役を演じる程度の技術をもち、社会人として普通の態度がとれる人。こういう人は本当にいないのだろうか。本当にいないのか。

 マスコミの報道を見る限り、いないのだろう。とすると、政治っていらないんじゃないか。政治家になるのに学歴なんて入らない。だいたい総理大臣になるのに漢字を読めなくていいのだから。普通の会社の人の方がずっとマシだろう。
 世襲というのはうまく働く場合と悪く働く場合がある。政治家というのは世襲である。その方が普通の家庭で育つよりよいらしい。というのは、その跡継ぎは子供のころから親のところに来る陳情の人たちを見て育つからだそうだ。普通の社会人の子供よりも社会問題を子供の頃から考えるようになるからだそうだ。そんな話を何かで読んだことがある。そのときはそんなものかなと思ったけど、「そんなアホな話はない。歴史をみればわかる」ということを今更ならがらに確信した。
 
 だた、どうももうひとつしっくり来ないのは、側近であった役人の態度である。国際会議でのスケジュールや答弁の内容などを大臣が知っているわけはない。すべて側近の言うがままのはず。となると、あの泥酔会見は側近の策略だったんだろうなと思う。
 となると、役人達に対してすっごく不利益をなことを前財務大臣が考えていて、それを止めさせる方法として役人たちが誘導した行動だったのかもしれない。
 大臣を辞めさせるためならば普通ならばスキャンダルをつくればいい。ハニートラップを仕込めばいいのだから簡単だ。だけど、それでも間に合わなかったのか時間がなかったのか、相当強行な手を打ったのか。日本を捨ててまで我が身を守る役人というも後先考えない人だなぁと思うけど。きっと目薬を入れたんだろうか(都市伝説?)風邪薬に。酔いを増幅する効果はあるかもしれない。
 今一番聞いて見たいのは、佐藤優さんの解説。絶対書かないだろうけど、佐藤優さんの見立てを聞きたいものである。

 あるいは考えすぎなのか。本当に酔っぱらってやっただけだったりして。側近達も止められなかっただけ。でも、揃いもそろって彼らの人生って一体なんだったのだろう。そういう人たちが要職についているという自体が普通の人にとって不幸だよなぁ。
 日本はメーカーに支えられているのであって、政治家や役人は邪魔者でしかないのだなと思う。マスコミは自分たちが仕切っていると思っているだけで、調査も解説もバカっぽい。社会の人が分からないだろうと思って報道しているのだろうけどね。
 太平洋戦争時の軍部にはもっとおかしな連中がいて、辻や牟田口という人が敵よりも味方を大勢殺しちゃったのに、彼らは結局お咎めなしだったという歴史が日本にはある。偉くなればなるほど無責任になるとうところが、今も昔も変わっていない。なぜなんだろうか。
 考え出すととまらない。それでも、なぜ日本はこんなにまで生活水準を高くすることができたのだろうか。もっと世界中の人が研究してもいいのではないかと思う。日本人ができるなら、誰だってできだろう。少なくとも、政治家のレベルは問わないのだから、民衆から行動を見習うことでどうにでもなりそうなものだ。  

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2009.02.24

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就職活動の不思議

 仕事がら就職活動をしている大学生と話をすることがある。研究室には毎年修士を卒業して就職する人が数人いるので、彼らがどんなことを考えているのか、何を根拠に仕事を選ぶのか、与太話をしながら気軽に状況を聞いている。
 もう五年くらい研究室に所属しているから、その間に就職した人は二十人くらいになる。五年たつと自分が歳を取ったのか、若い人の志向が変わるのか、ずいぶんと学生さんたちが変わってくる。
 やりたいことはなんですか。就職って、その問いに対する答えを行動として表現したものだ。もちろん、全員答えられない。何をやっていいのか分からないと答える。迷いなく就職した人は一人しか見たことがない。
 ぼくは迷いはなかった。やりたいことは分かっていた。大学選びも悩んでいないし、就職に当たって「就職活動」すらしていない。こういう仕事をしたいという希望があったし、不思議とその道が敷かれ、問題なく就職できてしまった。勘違いしないで欲しいが、ぼくは優秀ではないし、秀才でもない。2浪1留である。ただ、家庭の事情がそれを許してくれてラッキーだっただけだ。自分がやりたいことがはっきりしていたから、周りの大人もガイドしやすかったのだろうし、道も教えやすかったのだろう。そして、運良く相手側の扉も向こうから開いてくれた。就職ってそういうものだとぼくは思っている。
 何をやりたいのか分からない人に、道は開けない。ガイドしようがない。とっさの思いつきで並べた希望など、底の浅さが明白なので、だれも真剣に手伝ってくれない。動機の良い悪いは別として、何かをしたいと意志している人には、どんな人でもついつい手伝ってしまうものである。そういうものなのだけど、学生さんには分からない。まったくもってじれったいものである。
 立ち話はこんなふうになる。

 「ねぇ、どの辺りをねらっているの?」

 以前はSONYだの三菱だののメーカか、研究所名だったりが返ってきたが、最近は違う。

 「東電なんてどうですねかね、と思ってます。転勤もないし、定時に帰れるし、安泰ですし。」

 冗談ではなく、マジでこういう答えが返ってくる。本当にびっくりする。そして、こういう答えが東大生から出てくることに、ぼくは驚いてしまうのだ。だったら、子供の頃から受験勉強なんてする必要なかったんじゃないのかなと。

 「なんでまた東電なの? だったら、理系なんて来る必要ないし、ましてや東大なんて通う必要なかったんじゃいの?」

 そう言ってやると、大抵は「友達がそうだから」とか「とくにやりたいことないから」とか、ありがちな回答をする。多分、回答すら考えてないのだろ。
 このやり取りには落とし穴がある。ぼくがからかわれている可能性があるから。実際そうかもしれない。
 しかし、結果的に彼らの就職先をみると、実際そういうところへ行っているので、嘘をつかれたわけではなかったのだと思っている。

 卒業後にもなにかと研究室の行事に顔をだしてくれる卒業生がいる。卒業時期やイベントなどで研究室に顔をだしてくれるかどかが、ある一つの指標になると思っている。それは、その人の今の生活と研究室での活動との関係の指標である。
 単純に言えば、研究室での活動結果がその人の今の生活に役に立っているのならば、もっといえばまずまず面白い生活をしているならば行事に顔をだしてくれる。逆に、今の生活がつまらないならば顔をだすことはない。大学生活が原因で今のつまらない生活があるのだと思っていることだろう。これはかなり確度の高い指標であろう。
 卒業生には明確な意志のもとに就職する人も毎年一人は必ずいる。そして、例外なく、そういう人は今でも研究室に顔をだしてくれる。一方、その学生さんの活動内容と就職先との関係にあまり必然性がないようなところへ就職した人は、卒業後に顔を合わせることはない。この関係は笑ってしまうくらい正しいし、多分今年も来年もそうなんだろうと思う。つまり、学生さんの未来についてある程度の予想はつく。

 だからといって、これから就職活動をする人にアドバイスしようとしてはいけない。これは仕方ないことだけど、過去の卒業生の話をしたところで「でも、おれは違うよ」と思ってアドバスをはなっから受け付けないからだ。これこれこうゆうことが過去のあって、多分あなたもそうなるよ。かなり確からしいことでも、全く通用しない。あーぁ、もったいない。そう思うのだけど、仕方ない。
 ちょっとしたSFで、過去の自分に出会うようなシーンがあるとしよう。ぼくは未来から来て、これこれこういう理由であなたの行動を変えて欲しいと説得をする。しかし、過去の自分はそれに耳を貸さない。もどかしいし、じれったい。
 これって、視点を変えると日常の出来事なんだと思う。毎年毎年繰り返し起きていること。自分はいつも特別だと思っている限り、歴史から学ぶことはできないのだ。それは、自分自身に対しても言えることだ。
 未来を知ることは、実はたいして難しくないのかもしれない。問題は、そのとき「おれは違うよ」と言ってしまうどうかだろう。

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2009.02.15

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1冊1円ならば1500円で1500冊か

 アマゾンは1500円以上の購入で送料無料になる。Bookoffのネット店も同じ設定。
 そこでフッと考える。アマゾンマーケットプレースには一冊1円の本がある。1500円分買うとすれば1500冊買える。
 ならば、一冊1円の本を1500冊注文して、送料無料で届けてもらえられないだろうか。そう想像するとなんとも愉快だ。
 実際はアマゾンでは一冊あたり送料の340円がかかり、出品者はそこから利益をとっているので無理なんだけど。本体を1円で売って、送料を安く抑えれば200円以上の利益になるのでしょう。だからブックオフよりも高い収益率になるのかもしれない。
 一方ブックオフでは100円が最安値。だから1500円で15冊しか買えない。1500冊には遠く及ばない。
 1500円で1500冊しかも送料無料というのは夢なんだよな。まぁ、当たり前なのだけど。
 こう考えると、世の中けっこう意図せずともうまくいっているのだと感心する。アメリカでは1セントでの出品があるのだろうか。デフォルトの送料設定がわからないので知らないのだが、どの国にもニッチ的な商売がちゃんと存在するのだろう。

 一頃ブックオフには100円の文庫本コーナーで長いリスト片手に本を探している人を見かけることがあった。どのブックオフでも結構見かけた。あれは、マーケットプレースで注文があったものをブックオフで100円で購入してそれを送ることでアービトラージしている人だったのだと思う。
 でも、最近見かけない。おそらく、その方法をやる人が増えて在庫が探せなくなってきたのだろう。ブックオフを倉庫にする商売もあまり長く続かなかったのかもしれない。
 これまた世の中うまくいっているということだ。

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2009.02.14

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花粉症のスタート

 暖かい。暖かい日というのは、こんなにまで浮き浮きした気分になれるのか。もうずっと忘れていた。窓を開け放ち、外の空気が部屋に入り込む。カーテンが膨らむ。さわやかだ。これだから人類は春が好きなんだ。冬は春の良さを引き立てるためにあるのだと思う。
 なんて具合にうれしい気分に浸っていたら、目をごしごしとこすっている自分に気付く。そうだ、春はこれもあるんだった。今日からゴールデンウィークまでのお付き合い。今年ももう花粉症の時期になったのか。

 晴れている。せっかくだから街中を歩く。人形町は散歩にちょうどよい。歩道脇にはなにやらパーキングメーターを大量に設置している。なんでだろう。歩道沿いの商店には人があふれている。久々に、火の国ラーメン「てっぺん」に来たのだが、熊本ラーメン「とことん」という店に代わっている。潰れるほど悪い店だったとは思えないから、経営者が代わったのだろうか。メニューに大きな違いがないし、味も大きく違っていない。
 清澄まで歩いて帰る。途中、初音であんみつでも食べようと思ったが、腹が一杯であきらめた。青空のもと、歩いているだけで結構気持ちが良い。成城石井とピーコックで買い物をして、家まで歩く。

デスクトップ.jpg 清澄の街はあまり変化がない。相撲部屋が2,3増えているくらいか。住宅値だし、マンション群は白河の方ばかりだから、落ち着いたただ住まいである。
 最近これまで歩道橋があったところに信号が設置された。昭和40年代ではないのだから、歩道橋を渡らなければならない理由はなくなってきたのだろう。お年寄りも増えたし。歩道橋はどんどん数を減らしているだろう。この歩道橋もそのうち撤去されるのだろう。 清洲橋通りは、この歩道橋から先は直線になっている。地図で見ても明らかだ。歩道橋から東を見得れば、遥か彼方まで見通せるのかもしれない。そう思って歩道橋の中央に立ってみた。
 遠近法の題材のように、一点に向かって道や町並みが集中していく。ただし、思ったほど遠くまで見えないのでがっかりだ。空気が悪いからではなく、電線や信号が折り重なってしまっているからだ。
 こんなことをしていたら、日が落ちてきた。もう夕飯だ。一日が経つのは早い。

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2009.02.11

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どんな人が死んだのだろう

 神保町にある古本屋のガレージセールにて。小宮山書店のビルにある駐車スペースには休日になると3冊500円のガレージセールが開かれる。
 神保町の古本屋では一冊100円の本は少ない。ゴミにみたいな状態のものが店頭の路面に段ボール箱に入れられているくらいで、正直これで商売しているわけではないのだろう。そこがブックオフと違う。
 このガレージセールで売られる本も状態は悪い。そもそも気の利いた本は置かれていない。神保町の古本屋は本の価値を知っている人が店主だから、良い本は高い値段で売られている。
 ぼくは文学青年ではなかったが、理工系の本についてなら多少わかる。今では理工系専門の古本屋は明倫館だけになってしまっているが、他の本屋もあっところ店の親父さんとお客さんの会話から、「よく知ってんなぁ、本の価値を」と驚いたことがある。例えば『関数解析の基礎』。全部で4版出版されている。大学時代に教わっていた先生は「あの本は3版が一番良い」と言っていた。明倫館の店頭にはなかったのだが、あるとき入荷していた。買おうかと思って値段をみた。隣にあった2版、4版よりも状態がわるいの2倍以上の値段がついていて、感嘆した。結局、翌日買いに行ったのだが、すでに売れていた。店主もお客もおそるべし、という思い出である。

 このガレージセールに並ぶ本の出所については全く知らない。知らないけれど、多分一人の本棚から放出されたものだろう。そんな感じがありありと伝わってくることがある。大きめの机に単行本の背表紙が並んでいるだけの店舗なのだが、その一角には個人の興味の変遷が見えてくるような気がする。言葉ではうまく説明できないのだけど。
 本好きの人が亡くなると、家族が蔵書を売るのだろう。本が多ければ古本屋が引き取りに行く。綺麗な状態の全集など価値がありそうなものとどうでもいい本を全部ひっくるめて購入し、書店で仕分けする。そして、どうでもいいものはガレッジセールなどで売りに出される。一定期間売れないものは廃棄される。とまぁ、こんな感じなのだろう。だから、こういうガレッジセールで掘り出し物に出会えることはほとんどない。

和紙.JPG 今日のガレージセールにあった雑誌は、なんだか昭和ノスタルジードラマの小道具に使えるんじゃないかと思った。国際文化画報。文化紹介雑誌なのだろう。当時の印刷技術の制約によるものなのだろうけど、色数が少なくてグラデーションがない、じつにはっきりしたイラストが表紙になっている。これはこれで悪くない。アートである。不思議と写真の表紙なども色あせてない。きっと本棚ぎっしりと詰め込まれたまま数十年たったのだろう。
 これ、60歳から70歳くらいの持ち主が死んだんだろうな。それを家族が全部売った。この手の雑誌には値段が付かないから、こうしてバカ売りしているのだろう。1,2週間店頭にならべて、売れないものは捨てるのだろう。
 よくみると和紙で綴じてある本もある。こういう本の中に掘り出し物があると面白かったりするだろう。社会学か何かを専攻する学生だったらやるんだろうか。などと妄想しんがら本を眺める。

 結局買うのはブックオフでというのが最近多いが、神保町を歩くことが好きだ。買わなくてもこういうものをみながらぶらぶらする。暑くても寒くても、神保町散歩がぼくは好きなのだ。

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2009.02.10

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気分さっぱりもブログの効用

 うじうじ考えているよりも、文章にしてブログにするとその思いをネットに自分からアンロードできる。紙に書いて終わりにするより、インターネット上のサーバーに送り込むことで、その思いもインターネット上に放り出せる。自分の気持ちをまるで「もの」のように、ほいっと棚へ置いちゃうのと同じ。だからといってその思いを忘れられるわけではないけれど、「もう思いもここにあらず」という気分にはなれる。
 最近なんだか嫌な気分になることが多いのだが、なぜそんな気分になるのかをきちっと言葉にすることで、自分の状態を客観化できる。なんだ、そういうことだったのかよ。そう自分でも再確認できる。そして、ネットに「アップロード」した瞬間に、その気分も一緒にサーバーへ放り出せる。するとなんだか気分さっぱりなのだ。
 
 ネットにあげたものはどういうものか。自分が考え書きつづったことにウソはない。いわゆる誹謗中傷とも違う。なにより、そのトピックをサーバーにあげたからといって誰かが困るわけでもない。自分に間違いがあるかもしれないが、影口ではなく堂々とネット上に表明しているくらいである。
 ということで、これは多くの人に勧められる方法といえよう。ブログの効用は侮れない。芸能人では無理でも素人だからこそなせる技である。素人である恩恵は十二分に受けるほうがよい。

 ブログを付けることがなんだ珍しいという時代は今では終わっている。FaceBookやTwitter、あるいははてブやmixiが普通に使われている。誰でもがブログを使える状態にあるのだから、誰もが使えば良い。どんなにエントリーが増えたって問題はない。今は検索エンジンも素晴らしいし、良いものは結局浮き上がっていくのだから、普通の人が書くブログが増えても増えても情報を受ける側にも問題はない。
 誰からも読まれないブログの存在意義を疑う人がいるが気にする必要はない。自分が考え、自分で公開しているのだから、作者当人には絶大な効用がある。つまり、読者ゼロでも著者には実りが期待できる。

 ある人にとってすっごく大切なことでも周りの人にはピンと来ないということは多いはずだ。別人なんだから別の興味をもっていて当然。おいしい御飯やきれいな女の人やカッコいい男についての話題については、どんな人でも生物的に反応してしまうだろう。しかし、車や映画や数学の話題といったものは、興味を共有できる人はそんなに多くない。自分が思っているほど他人と共通点はないものだ。だからこそ共通点がある人を見つけるとうれしくなる。たいていの人の興味が同じなら、そんなにうれしいはずがない。
 となればブログの話題も同じ。他人が読んで面白いものになるはずがない。普段自分が考えていることを書けば書くほど、読む人はいなくなっていく。だから胸を張って読む人のことなど期待せずに書けばいい。
 読者を想定して文章を書くべきだと言われるが、それは話が飛びすぎたり、感情表現ばかりだったりということに気をつけようというレベルのことであって、扱う内容は論旨の展開についてではない。
 ブログは美しい文章を期待するほうがおかしい。普通の人が「がんばって」作っているものだから、そこまで気が回らないはずだ。大抵の人がそうなんだから、それでいいような気がする。

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2009.02.09

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嫌な話しかもってこない人

 嫌な話しかもってこない人がいる。他の人には持っていかない筋の悪い話などをぼくのところに持ってくるのだ。
 今日もそういう話を持ってきた。外務省が絡んだようなもので、一定の予算がつくと協調していた。明らかに持ち上げている様子である。ぼくは腹がたったのでその話はそもそも成立していないことを論証してあげ、きっぱりとお断りしてお引き取りいただいた。
 なんだか不愉快な気分になる。もう次からは話を聞かずに断ろうと思う。時間のムダだから。

 関係者を2グループに分けて、よい話を持っていくグループと悪い話を捨てに行くグループとに分ける。そういう行動は、ある意味で自然なことだとは思う。人のやることだから。
 どうやってグループ分けするかといえば、有体に言えば出身大学だったりする。口ではそんなことはないと言っている人でも、その行動をみるとそうだったりする。くれぐれも人の言動を鵜呑みにしてはいけない。というよりむしろ、人の言っていることなど聞くと自分の判断が狂うので、他人については行動結果だけを見たほうがよい。
 大学なんて何年も前に卒業しているのだから、もう関係ねぇじゃねえかと思うのだが、職業や職場によってはずっとつきまとう。役所では国1を何番で合格したのかが一生ものらしい。そういう世界で生きることは実に哀れなものである。
 大学時代の友人で大学の先生になった人は何人もいる。卒業後何かの折りで話をすることがあったが彼らがよく「東大倶楽部」という言葉を口にしていたっけ。どいつもこいつもそう言っていた。東大倶楽部とは、人を東大卒かどうかを指標にして分類する性向をもつ人たちの総称である。
 最初それを聞いたとき、友人達がもつ負け惜しみかと思っていた。研究者ならば結果が客観的であればよく、それが歴然としていればそんなことを気にしなくてもいいではないかと思っていた。学問もの世界ならばなおさらそうだろう。
 しかし今のぼくは東大倶楽部は存在すると思っている。役所やアカデミックなどに関係する場所では、この行動癖を示す集団がうようよしているのだ。
 衛生状態が悪い場所へ行くと、感染症にかかる可能性がある。それと同じように、国に近いところへいくと東大倶楽部の嫌な気分を味わうことになる。
 不愉快に耐えながらも彼らの行動を観察しているとなぜ東大倶楽部的な行動をとるのかがわかる。彼らは東大倶楽部の人が常に優れていると信じており、それは普通の人をけ落としても、踏みつけても、それが「まったくの当たり前」のことだと自然法則のように確信しているのである。。簡単にえば、東大倶楽部以外の人は奴隷身分だと思っている。
 なぜ、そんな自信を持っているのかといえば、彼らが東大だから。実はそれ以外に根拠がない。もしそれを指摘しても、自然愛護や動物愛護を訴える人たちに、じゃぁなぜ牛は保護の対象にならないんだ?と聞いたときと同じ反応をするだろう。すなわち、「お話にならない」と疑問の存在を無視し、議論しないという方法をとる。そもそも、単純に結果を出せる人は、逆に東大倶楽部に近寄らない。

 とまぁ、こういうことを書いていても仕方ない。問題は、どうやってこの災難から逃れれればいいのかである。日本社会の問題だから、個人で出来ることは少ないのだけど、一番よい簡単な方法がある。
 それは、「関わらないこと」である。東大倶楽部の人に対しては、挨拶だけをして、なるべく遠くに離れている。関われば損をする。なにせ損なことを媒介としてしか、彼らは接触しようとしないのだから。
 自然界の法則について、なぜそうなっているのかと腹をたてても仕方ない。過去の優れた人はその法則を利用して、生活の質を向上する方法を見つけてくれた。ならば、心理の法則についても同じだろう。それの是非を問わず、ひたら利用方法を考えること。人が生きていられる時間は短いのだから、くだらないことには近寄らないことである。何か上手な利用方があったら教えてもらいたいものである。

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2009.02.08

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ステレオの力にあらためて気付く

 6年くらい前に特価品として購入したYAMAHAのサラウンドアンプが気に入って使っている。現品限りということで買ったのだけど、きちんと動作してくれている。オーディオマニアにはまったく話にならないアンプかもしれないけど、ぼくにはちょうどよい。聞いているとき、「いい曲だなぁ、いい音だなぁ」と思えるから。それが商品設計の目的で、それは十分達成できているのだから、よい製品ですよ、これ。
 5.1chとかいうものらしい。スピーカーは前に2セット後ろに1セット繋げてある。前に置いてあるスピーカーは年金生活に入った父親が趣味で作ってくれたものなのだけど、商品として売れるくらい出来が良い。ずっと機械旋盤を回していた人なのに、なんでこんなものが出来てしまうのだろうかと驚きに耐えない。一つのものに一生取り組むと、モノづくりへの取り組み方が獲得できてしまっているのかもしれない。

 ところが最近アンプの調子がおかしくなった。片側の音が電源投入後の少しの間レベルが小さいのだ。しばらくすると問題なくなる。
 一度アンプの音量を大きくするとすぐに問題なくなる。インターネットでその症状を検索すると、リレーの接触が悪くなっていることが原因だということだ。フタを上げて接点を掃除すればいいらしいが、どんな部品なのだろうかわらかない。まさが、機械スイッチのようなものが入っているとも思えないし、なんでリレーがアンプに必要なのかも分からないので、修理をしようという気になれないでいる。
 そんなこともあり、今は音を大きめに出している。するとどうだろう、これまであまり気付かなかったような「サラウンド感」にあふれる音になっている。うちはマンションの一室なため、あまり大きな音を出す気はしなかったのだが、こんなによい気持ちが味わえるのならば休日のお昼の時間帯くらいは少し大きめな音にしてみよう。幸いなことに、このマンションの防音性能はとてもよいことを知っているから、それを鑑みながらお隣の部屋に影響がでないよう調整すればいいでしょうな、たぶん。
 なるほどステレオというものは、実にいい音がでるものなんだ。そう思う。原音がCDであってもサラウンドの効果はあるものなのだ。そんな当たり前なことに、今ごろ気付とは情けない。6年目にしてやっと商品価値を理解できたわけである。YAMAHAの技術者さん、すみませんでした・・・。

 CDはボサノバ。ジョビンやジルベルトの曲のコンピレーションアルバムで、坂本龍一のセレクションである。非常にできがよいCDなのだが、なぜが今は絶版になっている。もったいない。このCDがきっかけでボサノバが好きになることも大いにあるはずなのに。ぼくはそういう一人だった。

 このCDを購入した当初は毎日聞いていた。その時期、初めてイタリアのフィレンツェに旅行へ行く前で、ガイドブックなどをしきりに読んでいた。旅行会社は通さず、ネットで飛行機やホテルの予約に挑戦していたのだ。日本語でホテルの予約ができるところは少なく、慣れない英語でFAXと電子メールでやりとりし、苦戦していた。そのかいあって、フィレンツェ旅行は今でもよく思い出す、とても楽しいものになった。ぼくが死ぬときに必ず回想したいと願っているほどである。
 音楽は記憶の鍵になっている。ぼくはこのCDを聞くたびに、その当時のことを思い出す。情報として思い出すのではない。感覚として思い出す。緊張感や不安やドキドキ。そして、現地での太陽の光と建築、絵画や彫刻、狭い路地。フィレンツェに5日いた。一ヶ所にとどまっていろいろ見て歩く旅行法をことのとき会得した。
 音楽一つで、いつでも感情を湧きおこす事ができるのはなんともうれしいことである。ステレオがちゃんと動作するので、良い音楽と良い記憶とが入り交じって、ずっと幸せな気分に使っていられる。こういう幸せをぼくは死守したいと思っている。

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2009.02.07

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お笑いというよりアートです

 キュートンという大道芸人集団がいる。実際に外で演じているのかは知らない。ぼくは『あらびき団』というテレビ番組で登場した演者として見てその演技に驚いた。他でどんなことをしているのか、ぼくは知らない。
 どんなことをするのか。お笑いではない。しゃべりでもない。ある種のダンスようなもの、としか表現できない。こういう分野に詳しくないのだけど、日本語としてより適切な言葉があるのかもしれない。
 どういうゆうところが凄いのか。それは実際の映像を見てもらうしかない。

LinkIconYouTube上の映像

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 一人一人の容姿は良くない、むしろ悪い。リーダー格の女性(鬼奴というらしいが)は綺麗な感じがするけれど、他のメンバは太ったオッサンばかりで、どちらかといえば見たいないだろう。
 一人一人の容姿は悪いのに、彼らが演じるパフォーマンスは引き込まれてしまう。呼吸を止めて見てしまうのだ。どうということない動きで、小学生でも練習なしでできそうなものである。
 なぜ、そのパフォーマンスに釘付けになるのだろうか。最初音楽とリーダーの女性に目が行っているからかと思った、しかし違うところを見てても楽しく、本心から美しさを感じてしまうのだ。人間というのは実にわからんものだ。自分がなぜ感動しているのかすら、言葉にできないのだ。ただ、キュートンのパフォーマンスは紛れもなくアートであると断定できるのみである。
 このパフォーマンスはおそらく世界性がある。番組内で「ロンドンで演ってほしい」とコメントされていたが、ぼくもそう思う。ロンドンでやれるんじゃないか、もちろんもうちょっと展開する必要はあるだろうけど。

 なぜ、こんなに熱く語ってしまうのだろうか。それは、キュートンのパフォーマンスが、「1+1=2ではない」という例だからだと思っている。一人一人が優れていなくても、ある方法をもとに集団で行動すると1+1=1024くらいになってしまうことがあるのだ、という実例になっている。一人一人の見た目が見るに耐えないものでも、その身体の動きが普通の人並でしかなくても、ぼくは感動できた。これはコンテンポラリー・アートだと思っている。だからこうしてブログに書かずにはいられない気分なのだ。
 こういうことをもっと多く発見したい。1+1=2なんて面白みのない世界なんぞ、くそ食らえだ。

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2009.02.06

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どんな本を読んでいるのか、人に言わない

 どんな本を読んでるの? そういう会話はほとんどしない。社会人になってから10回もないと思う。話題作についてや誰かの発言の引用のために特定の本の話をすることはある。が、「ご趣味はなんですか?」という問いの延長上の意味で本について尋ねることはない。「どんな本を?」という会話の意図は、その人の特徴について知りたいという気持ちにあるのだから。

 ぼくは一社会人として仕事をしている。とはいえ、同僚について深く興味を抱いたことはない。ぼくは高校卒業後に大学入試浪人して、大学入学後にも留年して、そのあと研究者として職を得て社会人になった。その間12年かかっている。なので同級生とは微妙な年齢差があり、親友を見つけようとは考えたことはなかった。就職先の同期はずっと年下ばかりで、話をしていてもなんだか合わない人ばかりだった。だから大学以後社会人になってからできた友人はいないといってよいだろう。普段の生活は嫁さんと一緒であれば気楽だし、あとは本を読んでテレビをみてチェロを練習していると時間が過ぎてしまう。そして、その生活を非常に気に入っている。変えるつもりは全くない。

 どんな本を読んでいるのかなどと問い合わせようという気になる人はこれまでいなかったし、これからもないだろうと思っている。現に今仕事として一緒に作業をしている人が数人いるが、その人たちにそんなことを聞いたこともない。彼らは優秀な人だろうけど、本を読んでいるようなタイプではないこともある。食事をするときの雑談で、本の話をする人もいない。ベストセラーでもミステリーでも古典でもビジネス書でも、好きなものを読んでいる人は「ぽろっと」と話題に出てしまうものだが、そういうことはない。むしろ、ぼくが本についての話題を降ってしまう事が多いが、そのときは感触はなしで終わるのが常である。

 こういう状態であっても、自分がどんな本を読んでいるのかについて、人から質問されたときの答えを常に用意しているから不思議である。ぼくはこんな本を読んでいるよ、といつでも説明できる。無意識そういう整理を頭のなかでしているのだ。
 おそらくだが、それは自分のことを他人に知ってもらいたがっているところがあるのかもしれない。自分をどういう人だと思っているのかについて、他人に知ってもえるよう僕の無意識が準備しているのだ。ある意味可愛らしくもあるが、あるい意味情けなくもある。無意味な事をしているなだと思うのけど、半分無意識でやっているのだから止めようがない。

 自分が欲していることは、それが許されることならば自由にやらせるべきだと思うこともうある。無意識に欲していることを意識側で押さえ込むと、それはストレスになる。それが原因で生きている日々がつまらくなるのはもったいない。だから、あれこれ考えることは、自由にさせてやっていいだろう。
 どんな本を読んでいるのか。それを忘れないないために、そして自分でそれを知るために今日も読書メモをつけている。これは自分のためである。

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2009.02.05

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塩野七生さんとの会話

 ここ10年来、お会いしてみたかった作家塩野七生さんにお会いすることができ、また、ぼくの長年の疑問について直接うかがうことができた。といっても、本の数分間の出来事なのだけど。
shiono.JPG サイン会に行ったのだ。100人限定のサイン会で、整理券を取るためには配布当日朝から並ぶ必要があった。人気アーティストでもないし、若い女性ファンが多いエンタメ作家でもないのだから整理券がもらえないとうことはないだろうけど、それでも1日でなくなるだろうから土曜日だったし朝から並ぶことができた。
 ぼくは新宿紀伊国屋でもらった。事前情報は紀伊国屋のウェッブにでていた。ところが紀伊国屋の翌日にあるはずの八重洲ブックセンターでのサイン会については知らなかった。こういうことは新潮のサイトで提示してしかるべきだと思うが、不思議なことにそういうことはしてくれなかった。
 サイン会は木曜日の夜。普通のサラリーマンだと来れない人も結構いるだろう。事実、ぼくが整理券をもらうため行列に並んでいたとき、「なんだ平日なのか。じゃ無理だな」といって去ったおじさんがいた。まぁ、それでも土日はどこか別の地域でやるのだろうから、その地域のおじさんにとっては有り難いはずだ。新潮のウェッブによれば、東京を皮切りに、仙台、横浜、大阪、福岡、高知など日本各地で連日サイン会があるようだ。塩野七生さんは相当タフなんだろう。身体がタフな人でなければ、あんなに凄みあるの文章は書けないのだろうけど。
 サイン会開始後30分くらいに会場に着いた。長い行列が書店内の階段をぐるぐると巻ながらつながっていた。おじさんも多いがOL風の人も結構いる。男女比、年齢構成などは結構ばらけている。幅広い読者層なんだと目で確認できる。
 塩野七生さんは一人一人丁寧に応対しながらサインをしていた。みんなファンだから褒めることばが多いのだけど、「そんなにお褒め頂き恐縮です」などと返答することもあった。この言葉を聞き、ぼくはあらためて塩野七生さんのファンになった。それは、誰に対しても丁寧語で応対していたからだ。過去、何人かの作家さんからサインを貰ったが、黙っているかありがとうか、あるいはぼくを学生扱いする人が多かった。そういう人たちと比べると、塩野七生さんはもう人生に余裕があり過ぎるほどなのだろう。
 サインをしてもらうときどんなことを皆さん話すのだろうか。そのパターンは多くないようだ。
 「私はずっと昔からファンです」とか「全部読んでいます」などと自分がコアのファンであることを伝える人びと。「過去にも一度サインをしていただいたことがあるんです。あのときは五木寛之さんとご一緒のでした」などというおじさんもいる。要するに自己顕示である。
 次のタイプは塩野七生さんへの感心。女性ならば「おきれいですね」から始まり、どういうことをしているのか、次の出版はなんあのか、今のイタリアはどうなのかなど。自己顕示欲が強くないけどこれと言って会話のきっかけを持っていない人はこうするのだろうと想像する。握手してくださいという人も同じ心境からだろう。
 意外に多いのは、緊張のあまりに何も言えない人である。おそらく相当のファンなのだろうが、緊張して何も言えないでいる。だから淡々とサインをしてもらい、それで一礼して帰っていく。ぼくは彼らにひどく同情するのだ。なんか言えたらもっと記憶に残るのになぁと。

本とサイン.JPG さてと、ぼくはどう対応しようかと考えた。確かにぼくはファンである。ファンであるという領域を越えて、塩野七生さんはぼくの心に師匠だと思っている。全著作を読破しているけれど「全部読まさせていただきました」という挨拶では面白くない。「ヨーロッパへ行く飛行機内では必ず先生の著作を読むことにしています」などと、自分の習慣を言うだけではひねりが足りない。あれこれ考えた末に、「そうだ、ここは一つローマ人を読んだときに疑問に思ったことを聞いてやろう」と思いついたのだ。
 とっさに浮かんだのは、「なぜ、ローマ人は石油を使うことに考えがいたらなかったのでしょうか?」である。うんこれでいい。工学を学んできたぼくにはふさわしい質問だろう。
 ということで、ぼくの番になった。挨拶をして席に座り、上下巻にサインをしていただいている最中に質問をしてみた。

生徒:
先生、なぜローマ人は石油を使うという考えに至らなかったのでしょうか。トラヤヌスの時代には、ユーフラテスの向こうに燃える水があるとローマ人は知っていたと先生の著書にありますよね。

先生:
当時の石油はとても使えるような代物ではありませんでした。精製という発想がなかったのです。当然、それを武器として使うことはできなかったらです。

生徒:
では、エネルギーという考えは無かったのですか?燃えるのだから、木を燃やすよりいいでしょう?

先生:
機械をエネルギーでうごかすという発想はアルキメデスのころからあります。ローマでも水車を利用するということはしています。

生徒:
武器で使えないと利用方法を工夫しようとは思わないのでしょうか?

先生:
かならずしもそうとは言えません。しかし、その動機は弱くなります。エネルギーを使って機械を動かそうという記録はいろいろ残っています。石油の利用についてもあります。
そういうことにご興味をお持ちなのですか?

生徒:
はい、とても興味があります。もし、ローマ人が石油を使いこなしたら、凄い事が起きていたのではないかと昔から疑問に思っていたんです。人力でも巨大な水道橋をつくる知恵者立ちが、石油をつかっていたら一体どんな世界ができていたのだろうかと考えるといろいろ考えてしまうし、ワクワクします。


とまぁ、こんな感じで1対1で対話ができたのであった。
もっとも最後は、

先生:
そうですね。まずは科学史の本をひも解くことが初められるとよいでしょう。

という当たり前のところに着地したのでした。
 まぁ、一人にそんなに構っていられないでしょうし、それでも、他の人よりも圧倒的に長い時間、塩野七生師匠とお話することができて、ぼくは、そりゃうれしかった。小さな机を一つはさんで、塩野七生さんは目の前で考えて応答してくれる。写真ではなんども見たことがあるし、テレビで声も聴いたことがあるあの塩野七生さんが、ぼくに話かけてくれているのです。しかも、古代ローマの話を。

 一方的で申し訳ないことですが、これで弟子入りが果たせたと勝手に思うことにした。古代ローマについては一生勉強を続けることにしよう。もちろん、学者でもないし、学術的なことには興味がないので、楽しいことだけやるのだけど。

 なにはともあれ、ぼくは早速古代ローマ・ギリシャの技術に関する本を購入して、読みはじめた。

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2009.02.04

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新聞に代わるものを探している

 ウェッブでニュース記事を確認するとき、よく考察された記事なのだと勘違いしてはならない。そういうものを求めてもいけない。大手新聞社の記事であっても、実にくだらない視点から書かれているのばかり。その質の悪さは、ウェッブではなく新聞紙を買ってくれという表明なのかもしれないが、単に現在の記者の実力がぼろぼろになっていることの現れなのかもしれない。どの業界でも同じよなものだろう。新聞社だって例外ではないはずだ。
 ぼくは外国語をストレスなく読むことはできない。だから日常の情報は日本語で書かれたものに頼らざるを得ない。ニュースもそうだ。だけど、それが信用できないのだからどうしたらいいんだろ、と思ってきた。

 結論からいえば、どうにもならない。もう、読まないのが一番だろう。人によっては、何紙も取って、その背後にある情報を推定するようなことを勧めているが、そんなことに時間もお金もかけたくない。ならば一番いいのは、読まないことではないか。なまじ大衆操作を目的とした新聞情報でやられるくらいなら、起きたことだけを記憶していくほうがずっとよい。事実を繋ぐストーリは自分で考えればいい。もちろん、知らない事ばかりになるが、そもそも普通の人が生きていくときにニュースを多く知る必要はないはずだ。

 グーグルの新聞見出しのページを眺めても、ほんとにどうしようもない情報があふれている。事件などはとくにそうで、それって結局社会の人にどうしてほしいのさ、という感想を持ってしまうものばかりだ。
 ニュースに代わるもの。情報源は自分でさがし、RSSで更新を検知するよりないのではないか。

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2009.02.03

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頼まれないでもやっていること

 頼まれないのにやっていることを持っているかどうか。頼まれないのにやっていることあるかどうかは趣味を持ちましょうとかいうレベルの話ではない、その人の生きかに直結する大切なことである。

 気がつくとやっている。それは趣味の意味で語られる。そうではない。例えば、家の前を掃除することや、電車内で空き缶が転がっていたら拾ってゴミ箱に捨てることについての話である。こういうと、何だ道徳のことかと勘違いされるかもしれないが、そうではない。
 仕事は頼まれ事なのだけど、上司に言われたとか同僚に頼まれたというわけではない作業も頼まれないのにやっていることに入る。プリンターが紙づまりしてピーピーいっていたらそれを直すとか、トイレの水道の蛇口がしまりきっていなかったから閉めるとか、そいうことである。こういうことはあらかじめ定義でない。

 もう一つある。例えばこうしてぼくはブログをつけているが、これは誰に頼まれたのでもない。好きだからやっているのでもないし、役に立ちそうだという打算で動いているわけでもない。ただ、なんだか知らないが、やった方がいいとぼくが考えているからやっているのである。合理的な説明などできないことである。
 どうしてですかと聞かれる。聞いた人は合理的な説明を求めている。これこれこういう理由でやっているのです。このときの「これこれ」に、損得勘定といった経済的な見積もりがあると、質問した人は大いに満足する。
 しかし、質問者がその理由を聞いて納得するようなものが本心からのものだとしたら、行動している人は幸せではないと思う。

 プリンターが紙づまりしていたらフタを開けて紙を取り出してあげる。そういうことを何の疑問も持たずに身体が動くかどうか。道徳云々とはもはや関係のないレベルで、その人がどれだけ幸せななのかを示す指数なのだと思っている。

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2009.02.02

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語ることの効用について

 ブログを書く。だれが読むわけでもないのに、なぜ面倒なことをするのか。
 これまでは、文章力を上達たせるための一人練習だと考えてきた。実際そうだったし、その成果も僅かならあると思っている。もっとも、その効果は絶大的とは言えないうえ、要する時間も数年レベルでかかってしまう。効率的な方法ではないのでとても人にお勧めはできないのだけど。

 ところが文章の上達以外にも効果があることに最近気が付いた。それは一人がたりの効用ちうものだろう。ブログを書くことは、自分に語りかけているようなもの。自分が今何を考えているのか、何をよいと思っているのが、何が腹立たしいのか、ブログを書くときに「発見」する。
 「考え」といったものは言葉を介在することで伝わるもの。だとすれば、自分自身に対しても言葉で伝える必要があるかもしれない。というのは、自分で考えているからといって、その内容を100%自分で理解できているかどうか怪しいだろうから。人の頭の中では多数の考えが同時並行的に進行している。ある事を言いかけたとき、別のことがひらめいたという経験は誰しもがあるだろう。何かを言おうとしたとき、うまく話を切り出せないでいたら、何を言おうとしたのか忘れてしまったということもあるだろう。こんな感じで、考えていることすべてを自分の意識が把握できているわけではない。だから、言葉にする場をそれぞれの考えに与えることで、自分が把握しきれていない自分を知ることができるようになるかもしれない。

 同じようなことは、自分の感覚についても言える。自分の身体が感じていることを無意識が抑え込んでしまって、意識できないでいる。例えば、知るとショックを受けるだろうと予想していることは、心理的に知ろうとしない。それは、あまりに大きな精神的なケアが必要になる状態まで落ちることを無意識が避けているから。
 自分でよくわからないけど、結論が先に分かってしまうことを直観で知るという。無意識が事実の受け入れを拒否するという心理は、小説などではときたま見かけることがある。あるいは、三脈を取るということが昔から危険察知によいと言われている。そこまでいかなくとも、あの店の前は通りたくないと思ってしまうのはなぜだか説明できないといったような、直観の気付きはどんな人でも経験があるだろう。
 感情は直接感じてしまう。何か理由画あるのかもしれないが、その過程は分からないということはよくある。それでも最終的な状態への予測を頭の中で感情という形で直接感じてしまう。感情は直観で知ることそのものである。
 感情で感じた理由を意識は直接扱えない。なぜだから分からないと言っているのは意識である。無意識側では話が終了しているのに対し、意識側では未解決である。だから言葉にすることで一度意識側にあげて、よく考える時間を持つことが必要なのだろう。
 こう考えると、ブログを書くは都合がよい。なにか都合の悪い事などあるのだろうかと思ってしまう。書く事で自分を把握できるのだ。書く事で、ある種の治療をしているのだともいえるだろう。


LinkIcon内田樹さんのブログに日本についてのエントリーが最近あった。日本人の識字率の高さは江戸時代のころら世界平均からずば抜けて高く、そのおかげで日本語で出版される本は多く、多くの本が日本語に翻訳されている。なにも英語で読む必要などない、と言う状況で自由に生きていけるのは、イギリス、アメリカ、そして日本くらいのものである。日本語が読める人間が一億人いるのだから。
 読む人は書く人にもなる。書く人は必ずしも作家を目指しているわけではない。いや、作家を目指す目指さないと文章を書くこととは、日本においては余り関係がないだろう。なにせほぼ全員読めるのだから。
 普通の人が書くブログは、面白くないとかつまらないとか、間違っているとか指摘する人がいるけど、ブログについては何でもありだろう。出版するわけではないのだし、嫌ならアクセスしなければいいし、よまなきゃいい。そもそも、今はブログの数がありすぎて、話題になるブログなんてのは例外中の例外なのだから、自分のブログについて気にする必要などない。

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2009.02.01

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面倒な人

 どんな人でもその心の奥底に自分こそは本当は偉いのだと思っている。若いうちはそれを包み隠さず隙あらば顕示しようとするほどそれを確信している人もいるし、明確に口にせずともお前よりはおれのがすごいよと目で表現する人もいる。歳を取ってくるとそういう人の意図がが見えてくる。見えてくるからうざったくなる。最近どういうわけか面倒な人が多くなってきたなと思うようになる。そういう人とはなるべく離れていようと努力するが、必ずしも成功するとは限らない。

 どういうわけか嫌なことほど憶えている。自己顕示的な人とのやり取りなどもそれに含まれる。思い出すだけならばたいした事ないではないかというと、そうでもない。少なくとも時間を使ってしまうし、ストレスも発生する。嫌な場面を思い出すことは何一つよいところがない。
 とくに嫌な人と会った後などには、何もしないときなど頭がヒマになると嫌なことを思い出してしまう。よりによって嫌な事を思い出す事はないだろうと思うのだが、「おれは偉いのだ」と暗に主張している人とのやり取りを思い出されるにつけ、嫌な思いを再度味わうことになる。こういうのって、本当に人生のムダ。そういうことを考えても、何一ついい事がないと分かっていても、自分の気持ちはどうにもならない。

 これまで読んできた本をもとにいろいろ考えるに、嫌なことを一人で考えてることはいかなる意味でも「よいこと」はない。とうことは、それが日々の生活で顔を接する機会が多い人についてであってもなんら変わりがない。要するに、嫌な人のことを考えることは、いかなる意味でも人生のムダであり、そういう気持ちになる人にも会わないに越したことはない。時間は有限なのだから、そんなことに使う時間はない。
 職場が同じ人には、じゃぁどうすりゃいいんだろうか。もうずっと考えているのだけど、結論はない。そんな便利な方法があるのならば教えてもらいたいものである。ただひたすら、嫌なことは考えてもムダであり、すぐに止めた方がいいと自分に言い聞かせるのみである。

絵・ブータン:海岸.jpg 本当にそれしか方法はないのでしょうかと問われると、実はぼくなりのかなり正解に近い方法はもっているのだと答えることはできる。それはブリジストン美術館へ行くこと。年間パスポートが2000円で購入でき、一級の絵画があるわりにいつも混んでいない。ここで、ブータンの海岸の絵を見ると人の話し声、それをかき消す波の押し寄せる音、そして潮風を感じることができる。時間も場所も越えて絵の中に、つまり、一瞬だけれども永遠に続く世界に入り込めるのだ。少なくともその間は世の中のことはどうでもよいと思える。

絵・ルオー:ピエロ.tiff ブータンの後でルオーのピエロの絵を見る。時間が止まる感がある。長く時間をかけてその絵を見れば見るほど、その効果は見終わったあとしばらく持続する。すでに嫌なことは頭にない。他人のことを考えて嫌な思いをしていたことのなど忘れ、そんなことが原因で嫌な気分がしていたことなど不思議に思ってしまうくらいの効果がある。
 この方法は別に絵が好きだとかは関係がない。静寂の中で良い絵を見る。これにまさる方法はない。名画の展覧会などでは、うるさくて、混んでいて、おばちゃん達が世間話をしに来ているだけだから、行かない方が言い。ぼくが勧められるのはブリジストン美術館だけである。

 面倒な人からは離れているに越したことはない。露骨に嫌な顔をするなど敵意を表現するする必要はない。そもそも、相手は敵意を持っているのではなく、おれは凄いと主張しているだけなのだから、離れていれば被害を受けないのである。不幸にして、嫌な気持ちになってしまったならば、自分なりに「傷をいやす」工夫をすればよい。
 どんな人とでも仲良くやっていける人って、その人もおかしな人なんだろうと思う。どんな人とでも仲良くなっていける人は、おそらくだが、自分以外は全部バカだと思っているのだろう。世の中の人はバカばっかりであり、それは仕方のない事だと信じているからこそ、どんな人とでも仲良く接する事ができるのだろう。とすれば、そういう人からはもっとも遠くの位置に場所を見つけることである。

 おそらくだが、歳を取ることの長所はそういう立ち振る舞いが上手になることなのだろう。