2009.01.31

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腐ってもソニーなんだな

 うちには壊れたソニー・トリニトロンのPCモニターとこれまた壊れたソニーの液晶モニタがあった。粗大ゴミを捨てるのは有料だし、いまは家電法とやらで懲罰的な税金が取られてしまう。捨てるに捨てられないままほったらかしにしてあった。
 うちの部屋は広くない。これまで部屋の端っこに壊れたモニターなどを置いていたが、ここのところ本が増えて増えて書棚が足りなくなり、入らないものは捨てて本を置くスペースを作ることが課題だった。それでも、モニター類を捨てるは面倒だからそのままにしてあった。
 今日のお昼のことである。ご飯を食べに出掛けようと部屋をでたところ、目の前を家電廃品回収の車が巡回していた。パソコンだのコンポだのテレビだのを無料で引き取ってくれる業者さんの軽トラックである。マンションから道に出たタイミングでちょうどぼくの目の前を車が通った。そして、運転手さんと目があった。
 それならばと思い、「あのー、コンピュータのモニターなんですけど引き取ってくれませんか?」と聞いた。液晶じゃないと500円かかりますと言われた。そのくらいならいいだろうと思い、即座にお願いすることにした。ついでに、「壊れたファックス、プリンター、あと液晶モニターもあるんですけど」と言ったところ、全部まとめても500円でいいということだった。やった、これで部屋にあった粗大ごみが一気に解決するぞ。 
 最初のモニターをおじさんに渡したところ、すっごくにっこりして「ソニー製ですね」と一言。そして他のものと一緒に液晶モニターを渡したところ「これもソニー製か」とにっこりし、白い歯まで見せてくれた。
 確かにモニター類はソニー製ですけど、こわれているんですよ。いや、実際のところ、内部のコンデンサかヒューズかリレーかがおかしいだけだから、分かっている人ならば格安で修理できちゃうだろうけど。

 これで数年来の過大だった粗大ごみが片づき、家の中はさっぱりしたわけである。
 ここであのおじさんの笑顔と「これものソニーか」という独り言が心に浮かんでくる。ソニー製品は死んでもソニー製品なんだな。モノを作る人の立場から言わせてもらえば、こんなにうれしいというか、誇り高い思いを感じさせてくれる状況もないだろうよ。だって、ゴミになっても喜ばれる商品があるなんて。
 腐っても鯛。この言葉って、ある種の皮肉のようなニュアンスがあるのかと思っていた。だけど、実に素朴は感想を表現しているのかもしれない。壊れたものであってもソニー製ならば喜んで持っていってくれる。そういう意味でもぱっちり使えるだろう。

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2009.01.29

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句読点の位置について

 ぼくが小学校のときの話である。風邪で学校を休んだ。1,2日のことだと思うが、再び学校へ行き国語の授業を受けたとき、とても違和感を感じた。教科書を全員で音読しただけなのだが、全員で読んでいる途中に足で床を踏み鳴らすのだ。あるときは一回、あるときは二回という具合に鳴らす。僕はわけがわからなかった。ところが他の生徒も先生もびっくりするくらい息があっている。ぼくはなぜ鳴らすのか、どういうタイミングで鳴らすのか、結局は詳しく説明されなった。そういう形で音読したのは、ぼくの記憶ではその日だけだったと思う。だから忘れてしまってもよさそうなものだが、子供心にショックを受けたのだろう、よく憶えている。今にしてみれば、音読中に句点があれば一回、読点があれば二回床を踏み鳴らし、音読のスピードを調整していたのだろう。

 こんなつまらないことだが、たまに思い出す。これが原因だと自分では思っているのだが、文章を書くときに「いつ句点(、)入れるのか」いまだにはっきりしていない。一応は文法を知っているから、複文とか重文とかの構造の切れ目に入れるという基本理解はある。あとは、「〜は、」という場合、それと、形容詞などが連続して単語の区切りが不明瞭になった場合に句点を入れる。そういう、単純なルールでこれまでやってきた。高校、大学とでレポートを書くようになっても、悲しい事にこの単純なルールで通してきた。だからだろう、ぼくの文章は分かり難いとよく言われる。
 文章がわかりにくい原因の一つに、不適切な句点の入れ方があると思っている。最近までは論理的な切れめに句点を置いていた。読みやすさなどまったく考慮していなかった。プログラム言語における記号や演算子のような「論理な決まりをもとに」で句点を置いていたのである。読みさすさなどはなっから考慮していなかった。
 ここ最近、句点の置き方を変えてみた。文章を書くときに頭の中で一度音読し、自然に一呼吸入れる箇所に置くようにした。音読は文法チェックのためでなく、耳から言葉の流れや整合性を美感でチェックし、自然に止まるべき場所を探るのだ。なんといい加減なこかと言われるかもしれないが、ここ数年ブログをつけることで学んだ一つの知恵なのだ。日本語の分かりやすさの第一は、音読のしやすさにある。自然に一呼吸おくところに句点があると流れるように言葉を繋げることができる。そう、信じている。
 とはいえぼくにはそれができないでいる。この句点の置き方に効果があるかは、一つの仮説に過ぎない段階である。

 文章の善し悪しは論理の整合性で決まる。そう考えていた時期もある。分かりやすい文章は、そもそもが論理的にシンプルな構造になっているはず。「論理思考」という題するビジネス書がやらた書店に並んだ時期、ぼくも影響されそう考えていた。
 ところがブログを書くようになると、論理の単純さが分かりやすさの原因なのだとは思えなくなった。というは、論理的におかしな話であっても、上手な作家が小説を書けば驚くほどすらすらと頭にしみ込んでくる日本語があるのだから。
 いろいろ考えた末にたどり着いた条件は、音読のしやすさがと思っている。現代では文章を黙読するのが普通ある。小学生やアナウンサーでないかぎり、文章を声に出して読む機会はない。『声に出して読む〜』という本が流行したので、音読の大切さがマスコミで騒がれたこともあるが、結局のところ文章は今でも音読しないのが普通である。
 黙読でも頭の中では音読している。ある種の速読をする場合、頭の中ですら音読をしないそうだが、ぼくにはそれができない。ということは、普通の人は頭の中での音読なしで黙読することはできないはずである。
 音読では言葉と言葉の切れめはどうすればよいのか。どうすれば言葉が明瞭になるのだろうか。この問題は日本語だけでなく英語の聞き取りにもいえる。単語と単語が切れないと何をいっているのかさっぱりわからない。いかに単語と単語を自然に切るかが、言語を瞬間的に理解するため必要になる。

 良い文章は耳できくとその良さが際立ってくる。その理由は、文章の構造が「間」によって明瞭になるからだと思う。一息で続けられる部分は頭の中で簡単に単語に分解できる。一繋がり意味は自然で無理のない。文法でいう単文・複文は、この意味で一繋がりが明瞭なのだ。
 実はもっと大切なことがあると遅まきながら気付いた。それはことばの音がもつ性質で、「詩」と呼ばれるものであろう。よい文章はその意味するところと同じくらい、言葉の響きが心地よい。
 詩の良さは誰でもわかる。一般には詩は難しいと敬遠されるかもしれない。ぼくも、詩の理解には感覚なり学問なりが必要だと思っていた。しかし特殊なものは必要ない。
 例えば高校生ぐらいで英語の歌が好きになることがある。ビートルズから始まる「洋楽」というジャンルはどんな人でも入っていける。ところがその歌詞をきちんと味わえる人は少ないだろう。日本に置ける英語の位置づけは、英語で書かれたものを理解するためのツールではなく、勉強する対象だからだ。それを使って何かするためのものではない。だから、英語の歌の歌詞を普通の人は理解できないはずである。しかしそれでも英語の言葉に良さを感じている。英語のラップなどは完璧にそうだ。音楽とも言葉ともいえない不思議な良さなのだ。その良さがわかるのだから、詩の良さは大抵のひとは分かるのである。
 文章をかくときに、音の良さを追求しはじめるとすぐに「間」が気になってくる。音読でいえば句点の位置である。ならば、音読をしながら文章を書けば、句点を打つべき位置は「間」としておのづから浮かんでくる。もちろん上手下手はある。上手な人はとことん上手である。それが芸術にまで高められると詩になる。

 どこに句点を置くべきか。これを文法を学ぶように規則として理解したらダメだろう。意味の切れ目にきちっと句点を置けるようになれるかもしれないが、それでは音読に耐えないものができてしまう。音読に耐えないものは黙読に耐えない。ということは、読みやすい文章からはほど遠い。
 不思議なことだが、論理的な整合性はととのっており論理も単純で視覚的にもその切れ目が見やすいものであっても、大変読み難い文章であることはよくあるのだ。
 現時点での句点に対する理解はこんなところである。誰から教わったわけでもない。間違っているかもしれない。しかし、当面はこの方法で句点を打ってみようと思う。
 今後のブログを書くときは、すべてこの方法で句点を置いてみる。うまくいくとよいのだが。

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2009.01.20

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メンテナンスがナンセンス

 よいものを手にしても、それをずっと使い続けるにはそれなりのセンスが必要になる。知識として言葉としては「当たり前」なことだが、これがそうかという事実をみて実感した。
 再び大江戸線飯田橋駅へ行くことがあった。前回この駅については感心したのだけどLinkIcon、今回はその印象は少し変わった。この駅を毎日使っている人たちのセンス、あるいはこの駅を頭の中でデザインしていく段階で考慮しきれなかった泥臭いことが、どのような形で目に見えるようになるのか。それを見てしまった感がある。
 最初に訪れたとき、このホームの天井の照明に目が行き、実にきれいなものを作るなとため息がでた。また、改札へ向かう廊下の蛍光灯の使い方を見たとき、うれしくなった。なんだか宇宙船や地下基地でも使えそうな不思議な照明をつくったものだと感心した。
 そういう「デザイン」の駅があることに驚き、そして東京都の粋に感心した。駅は毎日大勢の人が使う道具なんだということを建築家も了解してデザインしたはずだから、視覚的効果だけでなく機能やメンテナンスのしやすさまでも考え抜かれているに違いない。
 ところが現実は思った通りには運ばないようで、現在の飯田橋駅を注意してみるとおかしなところが目に付いてしまう。その多くは、デザインによる機能が理解されなかったせいであろうが、形状を維持するためのコストを放棄し、安易な補修を行った箇所で、正直に言えば「汚らしいところ」として現れている。

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 例えば、エスカレーターのところの照明。不思議な視覚効果をもった緑の線に蛍光灯が埋め込まれている。この中を移動すると、エスカレーターに吸い込まれるような、あるいは血管の中にいるような、あるいは植物の幹の管の中のような印象をうける。美しさというよりも不思議さ楽しさを感じさせてくれる仕組みの場所がある。
 ところがこの仕掛けについて、実際的な機能は駅員さんに理解さなかったようで、何かの関係で面倒なところが壊されており、そのまま修復されていない。この箇所に一度気付くと、場末の遊園地のボロい装置から受けるなるべく目を反らしたいような侘びしさを感じてしまう。バブルの後の気分になる。
 この仕掛けを全部取り外さないのならば、末端の処理を綺麗にしておけばいいのにと苛立ちも感じるのだけど。おそらくコストの問題でできないのだろう。きれいに保とうという駅員さんや利用客の暗黙の了解のようなものがないとこうなってしまう。

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 あるいはこの廊下。変な柱が道を塞ぎ、その上に工夫のない張り紙がしてある。不調和もいいところで、正直ぼくは破り捨てたい。しかし、気にならない人には全く気にならないのだろう。
 おそらく消防法によって防火扉の設置が義務づけられているのだろうけど、こういう解決方法は実にいい加減で、それが工夫の無さをアピールしてしまっている。
 これはぼくの想像だが、駅全体に対する工夫のレベルは外見に見合うほど高くないのかもしれない。単に視覚的効果が珍しかったために有名になっただけなのかもしれない。
 一方、清澄白河駅はまったく古びていない。駅の構造がシンプルだからかもしれないが、この駅はボロくならいないで数十年使えるデザインのよい駅になるだろうと期待している。

 どんなにきれいな駅を造っても、その駅が好きでなんとか維持しようという気分が使う側になければすぐに老いる。そして、老いた部分への補修にセンスがないと、醜悪な化粧となってしまう。これなら不通の駅のほうが良かったと言われてしまう。
 モノは完成した段階で終わりではない。使っている段階でも「作っている」という意識が必要なのだ。モノを大道具、小道具としてとらえ、人々は生活の中で演技する気分がないと、モノはすぐに崩れてしまう。
 そんなことをとりとめもなく考えながらこの駅を後にした。

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2009.01.18

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願わくば

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 願わくば花の下にて春死なん
   その如月の望月の頃
 ふっとこの句を思い出した。

 というのは、嫁さんから嫁さんの友人の家族の大往生について印象深い話を聞いたから。
 そのおばあちゃんは90歳を越えた元気な方だったそうだ。あるとき、その家のお嫁さんがいつものように作ったカレーを「おいしい、おいしい」と言って食べたそうだ。お嫁さんは洗濯だか何かのために食堂から離れ、おばあちゃんはテレビを見るために居間へ行ったそうである。
 お嫁さんが作業を終えて居間へ行くとおばあちゃんがリモコンを持ってソファーに座っているのが見えた。が、その姿勢のまま止まっているようで、おかしいなと思って近寄って見たら、テレビをつけようとした動作のまま亡くなっていたそうである。満足そうな顔をして。

 この話を聞いたときに、ぼくは冒頭の西行の句を思い出した。
 現代においては、ごく普通の人の一番安心できる生活の一場面は、おいしく昼ご飯を食べたあとにテレビを見ることなのかもしれない。それは平常な日々のまっただ中であり、昨日と同じ明日が保証されているような、「大船に乗った状態」のようなものだから。そういう時間の過ごし方、ぼくは嫌ではない。
 内田樹が「VIVA おれんち」とブログに書いていた。特別な場所ではなく、特別なイベントもない、そういう普通の日々を自分の家で過ごせるのが一番幸せなのだ。
 そんな趣旨だった。ぼくはその発言に心底納得した。それ以後、自分の家で普通に過ごすことを最優先させている。ルーティンとしての日々。でも、それが許される自分の立ち一につくづく感謝している。変化がない生活を嫌う作業は若い人に任せておこう。

 冒頭のおばあちゃんの話だが、自宅で亡くなったので警察官がやってきて検視をしたという。そのとき、幸せな亡くなりかたをされましたねと言ったそうである。

 願わくば 花の下にて 春死なん

 ぼくにもそういうゴールがあればいいな。

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2009.01.17

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いつのまにか時代は変わる

 賛否両論だった人がいつの間にか姿を消す。そして、これまた賛否両論の人が登場する。
 ブッシュさんのように、いろいろと世の中に迷惑をかけた人も任期が来れば辞めていなくなる。「誇りを持って去る」という見出しがついた新聞記事を見かけたとき、時代は変わっていくんだなと実感した。
 そういえばジョブズも卒業するみたいだ。PCが一般に普及したとき普通の人がつかうPCというビジョンを見せてくれた人だ。ジョブズにはいくらお礼をしてもしたりない。Appleに復帰したあとに成し遂げたことは実に凄かった。民間会社の業績というより、PCが普通の人のQolをどのように引き上げるかを実際見せてくれ、そして体感させてくれた。偉大な人がいなくなるかと思うと、時代は変わるのだなと納得させられた。

 物心ついた時にはすでにいた成長期が終わり、とはいえまだ老衰期へは時間がある中年期に入ったぼくの体調は、ここ10年くらい安定していたし、今後10年くらいはそのままでいてくれるだろうと予想しているし、そう願っている。
 身体の具合に変化を感じないと歳をとった気がしない。白髪も増え、シワも気になるようになったかもしれないが、自分としては鏡を見ても大きな変化はない。もちろん、10年前とは大分違うことは自覚しているが。
 だからだろう、意識は時代にも変化がないと勘違いしてしまう。自分はたいして変わっていないのに、社会は変わっていくことなんてありえるのか。そう、思ってしまう。
 当然だが周りの人も社会もいろいろ変わっていく。
 そのギャップに自分で驚いてしまい、こんなことを口にする。
 「時代は変わったのだな」

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2009.01.15

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よくある勘違い

 広告を見て思う。
 有名なアスリートや実業家が「なになにをしたおかげで成功しました」という見出しがある。あれは話の発端というか話の構造というか、広告と自分の関係のとっかかりからしておかしい。
 わたしはこの方法のおかげでずば抜けた技を身に付けました。わたしはこの商品を試したおかげで成功しました。
 そんなお誘いは、「あなたも同じ事をすれば私たちと同じように成功しますよ」というメッセージである。
 この広告に釣られる人は、意識的にしろ無意識的にしろ、つぎのようなことを考えているはずである。
 おれがこうしてパッとしないのは、何か重要なものが自分に欠けているからだ。それさえ手に入れば、ぼくだってこの人たちのように成功できるはずだ。
 しかし、本当にそうだろうか。
 成功を後押しするものは、知識や生活習慣や道具だと考える人がいる。そして、そららを商品として販売している会社がある。だからこの種の広告を目にする。

 何かが足りない。それさえ手に入れれば自分は成功する。

 この場合の本当の商品は「成功」なんじゃないか。実際の商品はネックレスだったり、運動機器だったり、あるいはサプリメントだったりするけれど、本当は「成功する人生」を商品としたいのだろう。売る方も買う方もそれを暗黙の了解としている。
 ほとんどの人は、このような釣り広告に胡散臭さを感じるはずだ。週刊誌の後ろの方でよく見かける「身に付けたら3日で彼女ができた」というキャッチコピーを真剣に受け止める人はあまりいないはずだ。
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 毎日いたるところで目にする。電車の中、新聞雑誌、ホームページのバナー広告、メールマガジンの挿入広告。とくに、インターネットに関する広告はこの手の広告が多い。
 Aさんが成功した理由はBという商品を手に入れたから。ならばあなたも。
 よくよく考えると、これはインチキ臭い商品に限らない。
 例えば進学塾の広告。有名大学合格率が何人あったから、あなたもここで学べばそうなるはずだ。
 例えば転職。スガシカオはアーティストに転職して成功した。だからあなたも転職すれば幸せになるはずだ。
 いろんな種類の広告を見かけるが、最終的には「商品」ではなく「成功」を売ろうとしている。

 ではなぜこのようなタイプの広告は無くならないのだろうか。
 正攻法の説明は「因果」と「相関」の誤解というものだろう。
 因果と相関は混同しやすい。広告をその視点から見てみると商品の効果説明を因果関係ではなく相関関係で謳っている。
 ぼやっとしていたら、どんなにその分野の知識を十分にもっていても、感情のレベルで反応してしまう。そんな状態では因果と相関との区別はつけられない。実際、相当難しい。普通の人にはできないんじゃないかと思う。
 だからこそ、広告というものが成り立っているのだろう。

 もうひとつの説明は、パスカルの賭けと同じ心理が働くから。
 パスカルの賭けとは、「神を信仰するとして、もし神様がいないならばとくに問題はないが、もしいたら大勝利になる」という信仰に関わる態度をさす言葉。
 要するに、もし幸せになれるという商品が「うそ」だったとしても損失はたかがしているが、本当だったら大当たりだ。ならば買おう。そういう心理が働くから、買う人は必ずそこそこいるので商売となってしまう。

 広告を作る人は、どちらも使っているのだろう。どっちにしても広告を見る上では心しておいた方がいい。
 ただ、大抵のものは人を焦らせて不安にして判断力を低下させるはずなので、自信がない場合は広告など見ないに越したことはないだろう。

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2009.01.12

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翻訳でもやるか

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 ブログをダシにして文章の練習を始めてから1年以上経った。そろそろ次のハードルを設定しようかと考えている。
 文章を書く事が目的でブログをつけているから、なにも文章を創作する必要はないだろう。日本語の文章を書く訓練ができればそれでいい。
 日記や旅行記や思索を毎日書き続けらるものではない。普通の人、しかもサラリーマンの生活など面白い事は少ないは普通だろうから、語る内容はすぐに尽きてしまう。後が続かない。
 そこで思いついた。翻訳はどうだろうか。
 仕事がら論文や教科書を英語で読む機会がある。文学は読まないけど技術書や技術論文は英文のものをそれなりに読んできた。
 有名なものをベタで書き続けると著作権など面倒な話に巻き込まれるかもしれない。合法に著作権を回避したい。なにせ、文章の練習がしたいだけなのだから。
 ならば「引用」にすればいい。本を一冊訳すのではなく、目に付いた箇所のみをクレジットを入れて日本語にするのならば問題はない。
 アフォリズムは難しい。そこまで量を読み込んでいないから。
 だから、これを機会に一日1時間くらい翻訳作業をしてみて、文章能力が向上するか確認してみよう。ちょっといい考えかもしれない。

 たとえ簡単なことでも、目標が定まるとちょっとうれしくなる。

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2009.01.07

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年賀状は減る一方

 毎年受け取る年賀状が減っている。
 ここ10年くらいはつきあいを広げることをしてない。だから友達の数は時間が経つほど減る。当然、年賀状も減り続ける。
 それでも続けてくれる人は続けてくれる。
 こちらは前年受け取った人全員に毎年出しているので、年賀状が途絶えるのは相手側の都合による。
 それはそれで問題はない。
 年賀状交換という関係でしかないのだから、音沙汰がなくなったからといって困ることはない。ある意味どうでもよいといえばそれまだ。
 とくに親しいわけでも、気が合うわけでもないのに年賀状を出し続けていた人もいる。そのケースでは年賀状の切れ目が縁の切れ目。
 ちょっと残念な気がする反面、さっぱりして肩が軽くなる。
 子供の頃、年賀状書きは面倒なだけのものだった。ないほうがよいと思っていた。
 しかし、書く側から貰う側になると考えがかわる。年賀状はあったほうがよい。
 そう思うところは誰でも同じだろう。おそらく誰でも年賀状評論家だろう。
 手を抜いた年賀状を貰うと、なんでこんなつまらないものを出すのだろうという気分になる。自分も手を抜いたことがあるのに。まったく勝手なと自分でも反省する。
 つまらない代表例は単なる子供の写真かペットの写真。小学生くらいまでの子供がいる家からはほぼ100%写真付き年賀状がくる。家族の集合写真あるいは子供の笑顔のアップ。どちらにしてもこれでもつまらないものはない。悪い意味ではなく、苦笑いするよりない。
 最悪なのは、嫌々なのが明々白々なもの。色もそっけも言葉もないもの。それなら出さなくてもいいのに。
 最近増えているものはディズニーキャラクターの年賀状。どうしてそうなるのだろうか。子供宛てならば意味があるが、オッサンに当ての年賀状にプーさんはいらない。やめてほしい。
 逆に、これはいいなと思うものは手紙になっているもの。基本は近況報告であってもある種のエッセイだと読みごたえがある。
 年賀状は手紙のはずなのに、イラストや写真ばかりで、何が言いたいのかさっぱりわkらない年賀状ばかりになってしまった。
 だからこそ、読む年賀状はうれしい。年賀状は手紙であり、手紙は言葉を送るものなのだ。
 ブログを通して文章の訓練をしているのだから、昔とちがってビジュアルに頼る必然はぼくにはなくなった。
 だから、次回は自分もそういうものを出したい。
 やっと小学校からのつづいていた段階を卒業できそうな気がする。

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2009.01.04

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どうして初参りの人が増えたのか

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 今年の正月は初参りの人が多かったような気がする。近所の名もしれない神社にやたら人がいたし、ちょっと名がしれているか七福神になっている神社にはわさわさと人がいてビックリした。深川七福神ではスタンプラリーみたいなものをやっているから、元旦から封筒を抱えてお参りし、ハンコを捺してもらっている人を何人も見かけた。神社に並ぶ人だけでなく、神社から神社へ移動する道筋にも人が点々と歩いていて、アリの行列のようなものができていた。ヘリコプターから眺めれば神社から神社へ移動する最短コースを一目ででわかるだろう。
 小学生の夏休みではあるまいし、スタンプラリーなどやる気はしない。ただ、四国88ヶ所巡りも同じようなものかもしれないから、日本人は好きなんだなと思う。好きというより、一種の宗教行為なんだろう。

 買い物途中に小さな神社がある。金毘羅様で、いつもは無人で寂しいのだが、正月三が日はきれいの掃除されて境内には提灯が灯されている。日本橋七福神には入っていないため、お参りしている人はない。この寂しさにはなんとも味わいがある。
 テニスコートの半分もない境内だけど、なんとなく鎮守が効いているような気がする。隣はマンションだが、住みやすいのではないかと思う。すぐ近くのスーパーの目の前にも神社があり、5分も歩けば水天宮である。

 いつもの正月と少し違うなと感じたのは、神社に人が多かったこと。水天宮も3日にしては混んでいたし、その近くの神社は七福神の一つなのだが、はとバスの団体さんが並んでいたりする。昨日の浅草寺といい、今年はどうしてこんなに初参りに人が多いのだろうか。
 不景気だからと母親は言うが、そんなことぐらいで増えるのだろうか。実家の近所にある牛島神社の元旦には、境内から人の行列がつづき、墨田公園内を横切り枕橋までつながっていたそうである。今年は丑年で12年に一度しか販売されない牛島神社グッズがあるらしいが、それ欲しさにおじさんおばさんが並ぶとは思えない。なにか初参りをしたくなる理由があるのだろう。

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2009.01.03

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混みすぎると閑古鳥がなく商店街

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 実家が浅草の近所にあるため、正月には浅草寺へお参りする。子供の頃は2年参りをしたり、元旦から初詣に行って破魔矢を買ったりしたが、最近は単にお参りするだけ。おさい銭も十円とか百円とかなので御利益を期待していないが、子供の頃からのクセなでついつい行ってしまう。

 例年1月3日ともなれば、浅草寺といへどもたいして並ばないでお参りできる。参道の仲見世は稼ぎ時。売るものは年中同じだが、せんべいやまんじゅうなどをある種の風景として買ってしまう。好きで買うのはあんこが入っていない人形焼き「ウズラ」だけ。実家でTVを見ながら食べるのが毎年の楽しみ。

 そう思って浅草寺に行ったはいいが、なぜか激込みなのでビックリした。今日は3日。3日にもかかわらず雷門からびっしりと参拝客が詰まっていたのでぎょっとした。いつもなら閑古鳥とまでは言わないが、らくらくでお参りできるはずなのだが。

 これだけ混んでいると、さぞかし仲見世の店は繁盛しているだろうと想像するが、実際にはそうではないかもしれない。参道に人が詰まりすぎると警察がロープを張って誘導しはじめる。すると雷門からおさい銭箱まで行列を作っている必要があり、お店で買い物ができない。満員電車状態だからどんな店があるのか見えないし、立ち寄りたい店にも立ち寄れない。それに、お参りをしたら別のルートに流されるので、仲見世には寄れない。だからほとんどの人は買い物できない。となると、これだけぎっしり人がいても商売としてはよろしくない状態になる。まったく逆説的なものだ。仲見世が最も儲かるのは、混みすぎず、かつ少なすぎずの状態なのだろう。

ただし人力車を除く

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 そんな状態なのでお参りはパスし、直接実家へ向かうことにした。雷門前の道路は当然歩行者天国で、人がごった返している。そして、毎年の事だがキリスト教の人たちが「悔い改めよ」系の看板をもっている。子供の頃は浅草寺の前でキリスト教勧誘というのはいかがなものかと思っていたが、さすがに何十年も見ていると一つの風景に見えてくる。ある種の賑やかさを提供する出し物のようなもので、ストリートアーティストと見えなくもなくもない。不思議なものである。

 最近浅草では、京都のマネだったのだろうけど、人力車が走るようになった。浅草や向島は小さい頃からの遊び場なので、人力車で巡って楽しいところなどあったのか疑問に思うけど、休日には何台もの人力車が人待ちしているので環境客相手のアイテムとして街から認められたのだろう。

 今日、歩道を歩いていたら「駐車禁止・ただし人力車を除く」という道路標識を見つけた。どんな人が人力車の元締めなのかわからないが、政治家や警察に影響力がある人なのかもしれない。あるいは、観光誘致目的で浅草の町内会・商店街が陳情したのかもしれない。人力車が走る理由などないし、歴史的必然もないはずなのなのだが「人力車はあって当たり前」の存在になった。不思議なものである。

 このあたりも少しは人が来るようになったのだけど、一体何が目的なんだろうか。浅草寺のお参りはそんなに魅力的ななのだろうか。もうちょっと観光用のアイテムを増やしてもいいかもね。

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2009.01.02

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明るくないとダメみたい

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 ページのテンプレートをBIND2にあるものにした。テンプレートをそのまま使うことに大いに抵抗を感じるが、BIND2のものは別格。ぼくには達成し得ない完成品で、手を加えても改悪にしかならない。デジタルステージの作品はどれもが異様にハイレベルで、このBIND2も例にもれず凄い。なので、しらばくブログの見た目はこれでいく。

 このページの色合いって、なんだか浮き浮きする。このページにあうような明るいことを書こうという気分になる。気分はデザインに影響を受けやすいんだと身を持って知った。閉塞感のある思索など、わざわざブログにのせるのはもう止めよう。

 このテンプレートでしみじみ感じたけれど、明るさって大切なんだ。自分の性格は明るくはないけど暗くもないと思っていたが、去年までのブログページの見映えを比較すると、ぼくってネクラなんだなと思い知らされる。一般に「自分について語ったこと」はあまり信用できないものだ。その人のことを知りたければ、自分自身の評価ではなく、その人が作り出したものを見る方がいいみたい。作品はその人を図らずとも反映してしまう。

お正月の空の青さ

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 正月はいつも通りの青空で、雲一つない。僅かながらだが部屋から覗く空の色は青に僅かな赤が混じった色のようで、是非とも写真に収めたい。実際デジカメで撮影しても思った色合いにならないものなんだけど。

 これまで見たもっともきれいな青空はギリシャパルテノン神殿でみた空で、真っ青を通りこして宇宙まで見えそうだった。まっすぐ上をみると、濃紺で星が見えるんじゃないかと思えるくらい。現代のギリシャは都市化の影響を受けているはずなのでそれなりに排気ガスで透明度はよくないのだろうけど、それでも大理石に反射した白と空の青で地中海世界を体験できた。

 冬の東京も空気の透明度はそうとう良くなる。正月は車の走行が減るし、空気も乾燥して水蒸気の影響もなくなるのでビルの輪郭がくっきりとする。いつも眺めている隅田川の光景も正月バージョンになる。青い空に橋やビルの輪郭がくっきりと浮かび上がる。びゅーびゅーと風が吹く清洲橋を歩いていると冬の東京も、なかなかどうしてきれいな絵になる。

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2009.01.01

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ブラウザで何を見る?

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 とくになにもすることがないときにブラウザを開くと、まずニュースのページへジャンプしてしまう。グーグル・ニュースのベージでもヤフーのページでも何分おきに内容が更新させれているから、ひょっとしたら面白いことがあるかもしれないなと思ってしまう。

 しかし、ニュースが好きと宣言する人はおおくないだろう。趣味はニュースを見ることですなんてのは聞いたことがない。だからニュースサイトへジャンプするのは単なるクセなんじゃないかと疑っている。自分でも今見る必要ないよなと思っていながらニュースのページを開いてしまう。新子情報を探しているわけでもないのに見てしまう。半ば無意識に、半ば情けない思いでニュースのページを開いている。これはやっぱりクセだろう。

 ニュースのページは頻繁に更新されているとはいえ、ビックリするような記事はそうそうお目にかかれない。世間は平和だから。となるとニュースのページの次は天気予報だったり、アマゾンだったり。会社でなければ2chだったりするのかもしれない。その人なりにいくつか見回りするサイトは存在すると思う。意味なくウェッブを眺めるのがクセになってしまえば、そういうページをいくつか持っていないとおかしい。きっとブラウザの見えるところにリンクが張ってあるはずだ。

更新されたページを見るクセ

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 どうして意味もないのにそのページへジャンプするんだろう。たぶん中毒なんだろう。ぼくは禁断症状まで感じないが、人によってはあるかもしれない。中毒なのかも。クリックすると面白いことを読める。1,2回あったかどうかのラッキーな経験がクセになってしまったとか。ボタンを押すとジュースがでてくるチンパンジーの実験装置と大差ないではないかも。ちょっと反省しないとまずい。

 ホームページを初めて作る人向けのガイド本には、なるべく頻繁に更新しようというアドバイスが載っている。ページの内容は作る人の事情によって様々だろうから、だれにも当てはまるアドバイスとしては頻繁な更新を呼びかけるのは正しい。ガイド本を読んだときはそういう事情を想像してそう理解したが、もっと深い理由があるのかもしれない。つまり、ページの内容には関係なく、更新されつづけているページには人が集まるのかもしれない。ニュースページが見たいわけでもないのにグーグル・ニュースのページについついジャンプしてしまう自分のクセを反省するに、じつは人間の深いところを見通してのアドバイスなんじゃないかと思ってしまう。瀕死の昆虫をつっついて「あ、まだ生きている生きている」と確認して喜ぶような残酷な子供心のようなものが見え隠れしていたりして。

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