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個人の限界

 春には新緑だった通勤路沿いにある公園の木々が立ち枯れしている。みずみずしい緑色から乾燥した茶色へ。そんな風景を見ていると、一人でなんでもできるものではないな、と独り言を言ってしまう。
 なんでもわかるものではない。限界がある。当然だが、そう観念した。はぁ、とため息をつく。不屈の意志や楽天的な発想。そんなもんは現実を見てないから言えるのだろう。
 歳をとってくると自分で想定したほど「自分はできない」ことがわかってくる。現実を受け止めよという重苦しい場面が何度となくおとずれる。歳だ、ということではなく、まぁこんなもんなんだろうな、という諦めである。社会にいる圧倒的多数の人は普通の人であり、自分もその一部なんだ。そう、自然と認められるようになる。
 自分は劣っていると認めることは、だからといって何かを放り出すことではない。老人の諦観を礼賛するわけでもない。単に、おれってこんなもんだなということを理解し、今後はそこを基準としてこの先どこまで挑戦できるのか、その機会が自分にあるのだろうかとドキドキしながら過ごしていく。そんな提案である。
 毎日毎日いろいろな場面で「これはおれには無理だな」と思う瞬間がある。ぼくの場合は計算機相手が多い。ところが数時間格闘すればたいていなんとかなる。そういう経験は数えられないくらいある。だから、ある瞬間に「自分では無理だ」と思った事でも、格闘し続けているとなんとかなるものだと経験的に知っている。もちろん能力限界はどこかにあるが、それがどのような形で現れるのか、それがいつ現れるのか事前に知り得ない。もっというと、自分の限界など、そもそも自分には知り得ないし、予測できないだろう。バカの壁は自分にとっては透明なのだ。
 バカの壁は存在している。しかそ、それがいつも一定の場所にあるわけではないだろうし、モノによって存在する場所は変わるはずだ。それに、バカの壁に突き当たったなと思ったら、すこし別の方向にいけばいい。それだけでバカの壁はずっと遠くになる可能がある。だから、うまくいかなくてもため息をつく必要などない。そう、自分では理解してきたが、果たしてどこまでそういうものなんだろうか。

 年末になると今年一年を振り返る機会が多い。ブログをちゃんと付けようかなと思ったのは今年からだ。振り返って見ても、なかかなうまく立ち回れなかった。しかし、以前では出来なかった事が出来るようになったこともある。
 たとえば原稿用紙10枚程度のブログがかけるようになった。高校くらいから「レポート用紙10枚」という宿題はあったろうが、自発的に書いた文章が10枚を越えることはなかったと思う。宿題やら論文やらでは当然長いものはあるが、それは長い時間をかけているから可能なのであって、ブログのように力を抜いて書くもので長いものは無理だった。
 原稿用紙10枚という目標は斎藤孝の文章についての本にあったものだ。まず、原稿用紙10枚書くこと。そういう勧めがあった。そのときはピンとこなかった。これまではレポート用紙何枚という数えかたで横書きが普通だったし、文字数も行間や文字の大きさでどうにでもなってしまい文章の分量について感覚を持っていなかった。だから、ブログで書きつけても読書メモをつけても、キーボードからぱちぱちと入力しででき上がった画面を見たときにこんなものかなと分量を知る程度だった。同時に、文章の長さがわからないため、まとまったものを不得意だった。
 ところが、この問題は原稿用紙縦書きという技で解決してしまった。400百字詰め原稿用紙に書きつける感覚で入力できるEGWORDのおかげである。この道具のおかげで原稿用紙10枚が書けるようになった。この調子でいつかは100枚くらい書きたい。そのときは「すらすらと読めるような文章でありたい。もちろん絶対的な限界はあるのだが、僕の壁が何処にあるのか現時点では決定してないので工夫の余地はあるだろう。
 もうひとつ壁の場所について。今年はなにかと電子回路基板をいじる機会を意図的に多くした。回路図作成ソフト、パターン作成ソフト、FPGAのためのHDLコンパイラ、ソフトコアCPUの取り扱いなどに結構な時間をかけた。そのかいあって、それなりに頭も身体もなじんだ感がある。もちろん、まだまだではあるが、こうして半年くらい取り組まなければ不可能であったはずのことができるようになっているのは事実だ。電気は「壁」だった。が、自分が壁だと思っていたところに壁はなかった。
 こんなことが成功体験になる。不可能だと思っていることでも、時間をかけて取り組んだら壁はなかったのだと気付くかもしれない。まずやってみるか。そう考える「根拠」が成功体験になる。できるかどうかわからないけどやってみる。そんな気分の根拠になる。こんな経験が複数あれば、その人は愉快に人生をすごせるだろう。
 成功体験には落とし穴がある。成功体験が一つしかないと、とにかく「成功したときと同じふうにやろう」として、周りを見なくなってしまうと大抵失敗する。成功したときと何が同じで何が違うのか。そこのまで考えが至らないと成功体験に引っ張られすぎて失敗する。「壁」に対して成功体験で学んだ「アプローチ方法」は適用してみる価値はあるが、同時に成功体験はそれだけでは持っていても危ないだけである。
 もうひとつ「壁」の例。まだ気がついて一月程度なのだが、数年来いい加減であったチェロについて、飛躍を見込めるようになったのだ。どうして今になって結果がでてきたのか。グループレッスンから個人レッスンに変えたことだ。数人でレッスンすると下手くそでも影にかくれることができる。先生も全員に注意することはできないから仕方ない。ところが個人レッスンにしたら、まずもって練習していくことが前提となった。練習できてない状態では先生は教えようがない。そもそも、そんな状態で練習に行っても非常に気まずい。だから練習する。弾きたいという感情ではなく、先生との人間関係が理由で練習してしまうのだ。そのうちまずいところを反省し、練習を自ら工夫をするようになる。なにせレッスンは自分一人のためにあるのだから、きちんとやらないでどうするのだ、という想いが自然と湧いてくる。

 今年一年で出来るようになったことは結構ある。まだやり足りない事はあれとあれで、というリストも浮かぶ。と、ここでまた暗い気分になる。というのは、それなりにできるようになったことは多いが、そのクオリティーは問われると返答が難しい。いろなことができるようになっても、納得のゆく作品が作れるわけではない。できない間は見えなかった品質が見えてしまった感がある。この段階になって、個人限界という壁が見えたような気がするのである。
 個人の限界は、自分が立っている領域を囲むよう巡らされている。古代都市国家の城壁のようなもので、中心に立てば数キロ離れたところをぐるっと囲んでいるのが見えるような気がする。あるいは、京都市内からみた山々のようなもの。何をやってもそこからはでられない。
 自分の壁について考えてきたが、それに立ち向かう良い方法は、当たり前だが独力よりも師匠につくことであろう。学校教育のように、先生一人が大勢に一斉に同じ事を教える方法は、教える側の効率はよいが、教えられる側にとっては幸せではない。ある意味自明のことであるし、先生も学校も全員そんなことは分かっているだろう。それができないのは、リソースがないことだ。お金、設備、人材、時間といったリソースが有限な状態であの解は、学校方式なのだろう。仕方ないのでやっているのだから、もっと勉強したい人は別の方法を自分で探すよりない。
 だから学校教育の段階で「壁」がどうこういうのは的外れなのだろう。その人の能力の限界線が、学校教育の段階でわかるはずがない。自分の状態を高いところから観察できる「師匠」のもとで活動した結果浮かび上がった「限界」には意味があるだろうが、小学校から大学までの機関で、一体何がいえるのだろうか。「壁」のあるなしはリソースの有無によるのであって、その人の能力は二次的なものなのかもしれない。だから、普通の人が感じる「壁」は、もてるものともてないものという人類の縛りが見えてしまっているだけだったりすりかもしれない。

 いろんな意味合いで、一人でやるしかないことがある。チームではなく、個人の能力で生きていくことが求められる場面がある。もちろん、仲間と一緒に何かをやればそれなりに結果を出せるかもしれない。例えば農業をする。これは仲間が必要である。漁業でもそうだ。最後は個人ではなくチーム力だと思うかもしれない。
 しかし、チームで何かをするときにも、個人の能力は問われる。個人が何かを分担するにしても、何かの能力に優れていないと居場所がなくなる。だれも能力がない集団は集団ごと消えてしまうのが現実だろう。どんなによいリーダがいても、構成員の能力によってチームの限界は決まるのである。
 こう考えると面白いことがわかる。個別の能力がなくてもいいのはリーダー格だけである。リーダーは個人での能力は問われない。人を束ねることが素晴らしいと勝算され、いつの世でもリーダーは求められ続けている。しかし、リーダーとなる人こそ個人では生き残れない。正確に言えば、リーダーは自分では何もしないで人にやらせる人である。そして、人に使われることが好きな人がリーダーに使われることでチームが生き生きとしてくるのである。
 個人の能力研磨を心がけるなら、人にやらせる人の下で働く人はいない。そういう人がリーダーを必要とするとすれば、それはある種の師匠である。自分よりも能力・技術で上であり、自分が学べる要素があると判断した人がリーダなのである。だから、「リーダー」そのものに憧れようがない。
 まぁまぁの技術しかもたない人でも組織されれば一人で全てをこなす人よりは絶対的な結果は大きくなる。だからチームでやる方がよい。もちろん、それにはカラクリはある。組織は何人もの個体を維持する必要がある。したがって、全体に行き渡るほどのリソースが十分にあるときに組織は強い。しかし、リソースが亡くなってきたら組織は弱くなる。組織の力はその成果が支えているのではなく、単にその世界にある全体のリソース量が保証してくれているのである。
 すると当然次のようなことが起きる。組織は組織をささえるためにリソースを求める。なにせ組織はなにもしなくても消費するリソースが大きい。そして、組織は組織が強みであることを知っているので、組織を拡大しようとする。とまぁ、ここから先はよくある話になる。
 物事の成り立ちを考察すれば、自分が目指すものとどの程度の距離があるかは分かるようになる。ダメになると分かっているものに、なぜ近く付く必要があるのだろうか。ダメになるのは時間の問題ならば、最初から離れているに限る。

 個人でどこまで自分も好きな世界を見渡せるようになるか、手をだせるようになるか。自分の身体は日々進化したり、弱ったりしながら、絶対的に老化している。そこまで考えれば、日々工夫することになる。もちろん、個人の限界は百も承知の上で、個人の技を磨くのである。
 若干悲観ぎみにみれば、これを書いててわかるのだが、ぼく個人は中世に入ったようだ。