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書く効用とは

 文章を書く効用は単に文章が上手になるだけではない。まずは考えをまとめること。もっというと考えを見えるようにすること。自分が思っているほど自分はものを考えていないんだということを知ることである。
 自分に対する評価はたいてい実際以上になってしまう。それは仕方のないことだ。一般的にもそういわれている。自分に対する評価は、自分が増長しているか、卑下しているかのどちらかであって、ちょうどよい評価ができる人はいない。
 そこから抜け出る簡単な方法は考えていることを書くこと。少なくとも自分で思っているほど自分はすごくないと気付けるはずである。大切なことを考えているよなと思うならば、それを一端文章にしてみればよい。驚くほど「短いもの」し、「標語」ばかりになる。そう、対して考えていないことがわかってしまう。
 なぜ、自分ではいろいろなことを考えていると思うのか。最近わかったのだが、それは同じ事を何度も何度も考えてしまうからだろう。思考力は時間と同時に集中力を必要とする。そして記憶力が大切になる。何かをしながら簡単にできるようなことではない。少なくとも、ぼくには。

 ある閃きやある考察が浮かんだとする。それを物思いに沈むかのように考えようとするとしよう。このときは「凄い事を一杯考えている」感を感じているはずである。言いたい事が論理だてて一繋がりに順を追って頭の中に思い浮かんでくるようだ。さぞかし凄いことを考えているのだろう。おれってばすげぇ。そんな気分がしているのである。そして、それらを思い浮かべていると時間が経つのが早い。だから、ずいぶんと長いこと考えてしまったと思う。となれば、考えた量は膨大になるだろう。こんなことが根拠となり、ぼくはいろいろ考えているのだと言いたくなるのだと思う。
 ところがこれは勘違いである。言葉にしないで考えている実感は、ある種の妄想のなかに遊んでいるのである。妄想を考察と勘違いしてしまうからくりは、考える時間が長かったとしても、それは同じ事を「繰り返し繰り返し」考えているからに過ぎないことである。
 妄想には自分オリジナルの発想も含まれいるかもしれないし、それは素晴らしものかもしれない。しかし、それは単なる閃きでしかない。そして、「いろいろ」と考えているのではなく、考えると「気分が高揚する」ような箇所だけを何度もなんども繰り返し考えているだだったりする。ちょうど大好きな曲のサビの部分を繰り返し繰り返し思い出しているようなものなのだ。
 そう気がついた。そして、なんとも残念な気分がした。なるほど、だからぼくはぱっとしない人生を過ごしているのか。現在のぼくの生活は満足できるものであるが、いわゆる「ぱっとする」ものではない。ぱっとしないのは、要するに普通の人だからだ。それは百も承知しているにも関わらず、自分では普通の人よりも「モノを考えている」と思っている。この認識の障害はなぜ自分のなかでしょじているのだろうか。その理由が知りたかった。そして、どうして自分が凄い事を考えているなんて想像したのだろうかと反省した。その理由が分かったのだ。なんてことはない、同じ事しか考えていないからだ、である。

 もしそれが正しいならば、自分を鍛える良い方法もわかったことになる。考えている事を文章にしてみればいい。一発解決に近い。自分が考えていることを言葉にする。やってみればすぐにわかるが、えらく大変である。やって見ないかぎり永久に分からないだろう。小学校以来、「考えていることをそのまま文章にすればいい」とうようなことを言われ続けてきたが、考えているときには物事をシリアルに追っていない。感じてるような状態がおおい。言葉や絵画あるいは料理の味を言葉にするのは絶望的な負け戦であるのと同じで、そんなことはできないのだ。考えた通りに言葉にせよ、なとどいう人は何も考えていないのだろう。そもそも、文章にする以前の言葉を選ぶことかれして難しい。
 言葉を当てはめること。これが易々とできる人は作家に近い人なのだろう。まずは訓練が必要で、文章が好きな人、得意な人は小学生あたりから知らず知らずにそれをやっている。しかし、圧倒的多数の子供はそんなことはしない。気分を感じたままではなく、言葉に当てはめる。これを瞬間的にやる。もう、無意識やれる。まずはその訓練が必要になる。自動車の運転だって、慣れる前はスピードメーターすら見る余裕がないものだが、なれればいろんな事が無意識だってできるようになる。そういう訓練がいるのだ。
 考えている。それを自分で観察する。そのとき、考えるとは「内容」ではなく「ある種の気分」であると気付く。あ、おれ考えている。それを追いかける。考えている気分(あるいは考えている状態を示すクオリア)があれば、実は何も考えていなくても「考えている」ことになってしまう。妄想に浸って寝ていているだけなのに、実に壮大なことを考えていたのだ勘違いしてしまう。だから、気分を言葉にする。単語から文をつくり、文をあつめて文章とする。そして、それを読んだときに感じることが考えていたことと一番ぴったりするものになるよう文章を変更していく。実に面倒だが、まずはそこから入る。
 この訓練で一番よいのはブログである。ぼくがこうしてブログを付けるのもそれが理由である。ブログを始めた当初は、文章が上手になりたいという動機が最初にあったし、今でもある。が、一方で自分が考えたことを表現し、自分でチェックする機会を意図的に作っているという理由も大きい。現在はそちらが主な理由だろう。ブログで公開する必要はないのだけど、ブログならばある種の緊張感があるのでより訓練としては好ましいだろう。
 ブログは自己満足なだけだという主張をたまに目にする。確かに、普通の人が書いたものがプロの物書きの作品と同レベルになることはない。しかし、だからといってブログをやめる必要はない。だれからも読まれないブログに意味がないわけではない。なぜなら、書いている人は頭を使っているはずで、その時点でその人の訓練は有効だから。書いてない人に訓練はない。ブログを否定する人は自分で書いていない。自分で書いていないのだから、他人にも書いて欲しくない。他人の行動を止めさせるよい口実として、くだらないことを書くなと主張しているだけなのだ。他人の行動を阻止する心理的な衝動とその行動は小学生と同じなのだ。このように、人の特性を自分の心の動きに照して考察し、きちんと納得しておくこと。そうすれば、他人の言葉ではなく、状況や文脈からその言葉を受け入れるかどうかかを判断することができるはず。とくに、他人がやめろやめろという言葉の裏側には注意しないと行けない。

 さて、こうして考えているぼくも、結構いろいろなことを考えたからまとめておこうと思い、キーボードを叩きはじめた。しかし、実際には対して重要なことを考えていなかったことが今の段階で分かってきた。そう、過去に同じような事を考えているから、進化がないのである。同じ事をぐるぐると巡ってきただけだった。これが現実なのである。
 作家は、もちろんいろいろなタイプがあるだろうけど、書こうとした内容を全部を考えてから書きはじめるというわけではないらしい。恩田陸は書きながら自分でワクワクするとエッセイで書いていたし、内田樹は頭で考えたことだけでは数枚で止まってしまうと言っている。頭より手が考えていると何かのエッセイで書いていた。実際そういういところがあるのだろう。しかし、普通の人がそれをマネしてもダメなんじゃないか。それこそ、書いているような気分を味わうだけで、結局何が言いたかったのか分からないものになる。
 素人は、おそらくだが、考えていることを言葉にしたほうがよい。書きはじめる前に考えていなかったことを書きはじめてもそれでは結果的に対した深さにも量にも発展しないだろう。慣れがないのだから仕方ない。
 それよりはむしろ、なるほどぼくはこんな程度なのか。ちょっとビックリしたと思えるようなことが書き終わった後に実感できればそれでいい。そして、もっと上手に書くにはどうしたらいいだろうかを考えればいい。なんだかんだいって、結局はよく考えることだなんだな、という結論に至るのでよい。そんな、しょうもないプロセスでいいから、考えた事を書き、自分が考えていないことを目の当たりにし、もっと考えようと思う。それを数をこなしてみる。自分がモノをよく見えるようになるため、文章の腕を上げるにはそれが一番手っ取り早いのだろうなと思う。

 書く効用は、自分の考えているレベルを把握することができるようになること。すなわち、自分のセルフイメージを他人にも自分にも分かってもらえることなのだと思う。そんなことしかいいことがないけれど、その人のに成長にとってはそれが需要なのだ。