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何がゴールなのだろうか

 このブログは何がゴールなのだろうか。
 素人のぼくが何を目的にウェッブに載せるためにせっせと書いているのか。どうせ誰も見ていないのに、なぜ書いているのか。いったい何がしたいのか。すこし言葉にしてみる。

 それは言葉が上手になりたいから。単純な理由だけど。
 日本人ならば日本語が上手だ、なんてことはない。友達とのふだんの会話を録音して聞いてみればすぐにわかる。上手下手以前に、日本語になっていないところがぽろぽろあるだろう。「は」と「が」が適切に使い分けができていないなど、ゆっくり考えてもまちがえるものを無意識で処理するには難しいにきまっている。

 何かを言いたいなぁと思って口を開こうとしたときと単語をいくつか口にしたときでは時間的な差は一秒ないにもかかわらず、頭の中にぼやっとあった「言おうと思っていた日本語」が変わってしまうことはないだろうか。ぼくはよく体験する。口にしてから「うぁ、動詞が違う」とか「適当な修飾語はなにか」など、大忙しで考えている自分をはらはらしながら見つめる経験をよくする。この歳になってもただしい日本語をすらすらと話せないのだ。
 言葉の上手下手は育ちによるものだとおもっている。「読む」よりも「聞く」ほうのが言語能力形成に強く影響を与えている。だから、どんな言葉を話す人に囲まれていたのかで覚える言葉がちがってしまう。
 自分の性格は自分でどうにかなるものでもない。だから、自分が使う言葉も自分で選べるものではない。これは致し方ない。自分の持ち味なのだから悲観することはない。
 ぼくの場合、ある程度言葉を使えるようになってからこれじゃいかんと思い直し、上手な日本語を話そうと考えた。しかし、何かを考える段階ですでに日本語を使っているのだから、その段階で日本語を変えようと努力すると困った事が起きる。考える事すら面倒なことになってしまったのだ。まったく不自由なものである。
 ならば別の方法はないか。話し言葉が難しいなら、書き言葉なら直せるかもしれない。最近は人との情報交換にメールを使う。だから一日に何度となく日本語を書く。しかし、きちんとした文章を書く機会はない。
 仕事の都合上、きちんとした文章であるはずの論文やあるいは技術メモを書く事もたまにはある。しかし、それらは内容をどうしても知りたい人(自分も含める)がわざわざ読むものである。文章の善し悪しなどは脇役であり、内容がよければ言葉の善し悪しは問われない。母国語でない人がかく英語論文のようなものである。
 言葉そのものが主体の文章をかく理由がぼくにはない。作家ではないのだから。普通の人はそうだろう。だから、文章の訓練などしない。そして、上手にならない。なんだか堂々巡りになってしまう。

 言葉を生み出す能力は、その人の七難を隠す。騙す意味ではない。その人の教養レベルは言葉を基準として推量されるから、そのときどきでどんな言葉を選択するかが大切になってくる。いつも丁寧語で話せばいいというわけではない。状況にあった言葉というものがあって、それを感知する表現するかが問われてしまう。
 そんな力をどう獲得すればいいのか。言葉づかいは育ちで左右されるとはいえ、オトナになってからそんなことを言い出しても意味がない。では、どういう方法が残されているのか。何事も数をこなすことだとは思うが、切り札はわからない。

 日本語の上手下手とは別に、考えている事を文章にすることには大いに意味がある。だから、上手でなくても文章を書いてウエブに貼り付けておくことには歓迎したほうがいいとぼくは思っている。
 友人の数は限られている。そして、そんな友人とですら話す機会は限られている。自分が話したいからといって会話が成立するわけではない。相手が必要だから。
 しかし、文章は自分次第のところがある。日記は自分のために書くものだし、日記の延長であるブログにいたっては読まれるかどうかさえ関係ない。
 電車の中で多くの人は黙っているけど、寝ている人をのぞければみんなそれぞれその人にとって大切なことを考えている。その考えている事を他人にも見えるようにしたものがブログだろう。電車内では乗客同士互いに無関心であるけれど、もしも何を考えているか見えたとしたら、意外に面白いことになるだろう。もちろん、面倒なことのほうが多いだろうが。
 ブログは仮想的に他人の考えを見えるようにしているのだ。その他人には未来の自分も含まれている。もちろん、過去の友人も含まれている。つまらないときにニュースを見るよりも、知り合いのブログを覗くのも一興かもしれない。もちろん、社会の情報を多く取り込んでおくのは大切かもしれないが、社会の出来事は切りがない。どうせ尽くす事が出来ない。

 まぁ、いろいろ考えても何がゴールなのかわからない。人のやる事は、そんなに合理的なことが動機になっているわけでもない。単純にブログをやれる環境にいるのだから、やればいいという結論もありえるだろう。