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読書メモがたまってこまる

 読んだ本の記録を付けている。それらの本について考えた事や学んだこと、感想などをメモとして残し、ウェッブ上に公開している。
 読んだ本全ての記録をつけることを目的として始めたが、途中から文章の練習もかね、エッセイとなるよう心がけている。もちろん、感想だけになってしまうことも結構あるのだけど、それはそれで仕方ない。

 最初は数行しか書けなかった。しかし、今では簡単なエッセイといえそうなものまで書けるようになった。自分では訓練のたまものであると思っている。
 もちろん、文才は努力でなんとかなるものではないだろう。読書メモが万人に読んでもらえるようなレベルにあるとは思っていない。それはそれで仕方ない。

 この頃、通勤電車で読める本の数が飽和しつつある。これ以上は増やせそうもない。現在は、新書ならば往復で一冊読める程度である。ただし、読書のスピートが向上したのが理由ではなく、つまらないものをスピードを上げて読みとばすズルができるようになったからである。途中でつまらなくなったものが、後半盛り上がることは、現在の小説や解説文では期待できない気がする。ドストエフスキーを読むならば別だけど。
 このところ毎日一冊読んでいる。それはいい事ではない。なぜなら、最近は面白い本を読んでいないとも言えるからで、残念なことなのだ。冊数を増やすことが目的の読書になったら、一端読書は止めようと思っている。手段が目的化したら、人生にムダにするだろうから。

 読書メモウェッブで公開する人は多い。ブログでも初めようかと思った人が最初にブチ上がる壁はコンテンツだからだ。
 コンテンツを作るのは想像以上に大変である。普通は文字入力だけで格好がつく日記やエッセイを書く。取っ掛かりとしていいような気がする。しかし、それは意外に難しい。
 テーマは自由である。自由であれば書けるだろうと思うのは、まだ書いた事がない人だろう。むしろ、何をしていいかわからなくなる。こういうときに、自分は普段何を指標に生きているのか、思い知らされるわけである。
 もちろん、一つ二つならば書けるかもしれない。しかし、すぐにネタが尽きてしまう。普段の生活でネタを探すようになる。この出来事はブログのネタになるのではないか、と思いながら生活するわけである。しかし、そもそもブログを付ける理由ってなんだったけかとあるとき気がついてしまう。
 このとき、誰もが思いつくのは、何かの評価である。マンガかもしれないし、音楽家もしれないし、テレビ番組かもしれないし、小説かもしれない。毎日探さなくても色々なものを味わっているので、自分でも一言言いたくなるような事があるだろう。それがブログの対象になる。もちろん、最初から趣味が明確な人は、こんな回り道をしないだろうけど、普通の人は意外にこういうことに悩むモノなのだ。はっきりした目的を持たずに生きていると言われてしまうのだろうけど。
 ぼくが本の感想を載せるようになったのは、こんな理由からである。他人のブログを見かけると、似たようなことを書いている人がいる。そんなに少数はではないだろう。
 いろんな人の読書メモブログを読んでいるとずいぶんと差があることに気付く。面白かった、良かった。そういう感想から、内容のサマリや作品著者の歴史や周辺情報などを教えてくれるもの、はては論文のような立派な論考もある。いろんな段階のものがあり、多彩で驚いてしまう。
 自分のメモを考えてみる。すると、自分のメモの貧弱さに目がいき、自信がなくなるものである。こんなことをやっていて何になるのだろうか。ある種の無意味さを確認することばかり考えるようになる。
 この疑問には明解な答えが準備されている。それは、そもそも無意味だと百も承知ではじめたんじゃなかったけか? 意味があるからやっているのではない。文章を書きたいから書いているだけだった。それでいいではないか。このことを忘れると、ブログを止めてしまうことになる。それこそが意味がないだろう。
 たしかに、自分は他人の作品の評価をしているのに、自分が評価されるのを避けているのはなんとも情けないことである。しかし、有料の作品を評価することと、自腹で自由に発言することとが同じ天秤に載せられ議論される必然はない。だから、ブログは好きに書けばいい。どうせ、素人のブログなど読む人はいないのだから。

 読書メモであっても、つまらない本に何を書こうか全く浮かばないことがある。あるいは、面白かったのに何を言えばいいのか困ることがある。逆に、良くても悪くても、言いたい事が浮かんでくる事がある。これは不思議なことである。
 その本が面白かったかつまらなかったという評価と、その本を読んで何かを考えたかどうかとは必ずしも一致しない。つまらない本でも色々考えてしまう本があるのは事実である。
 もし、ブログをつける動機がエッセイの練習にあるのなら、いろいろ考えてしまう本の方が「よい本」なのかもしれない。読書メモが長々と書かれていることこそが、その本の評価なのかもしれない。
 そう思いつつ、週末に読書メモを付ける作業がだんだんつらくなりつつある。本の冊数が増えると読書メモをつけるのがおっくうになる。
 ここで不思議な結論がでる。読書量を増やすと、それに比例して自分では何も考えなくなってしまうのではないか。それは、必ずしも自分の為ならずなのではないか。